繁殖力の文学、だがしかし──『百年の孤独』|古川日出男


ガブリエル・ガルシア=マルケス Gabriel García Márquez(1927-2014)
引用元=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Cien_a%C3%B1os_de_soledad_(book_cover,_1967).jpg
文学序説
これは怪物的巨篇である。そう断じる前にまずはどうしたら〝怪物〟が生じうるかを説きたい。このガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』というのは小説(虚構)なのだが、いったい完全な小説とはなんだと定義しうるか? 自分ならば3つの条件を挙げる。その1、作品内に垂直性がある。その2、と同時に水平性も具備される。その3、のみならず円を描いている。最後の円とは、円周とも円環とも言い換えられる。まずは、1、垂直について。これは〝時間〟を考えればよい。たとえば起点があって終点がある、それならば時間は流れているわけだから、そこには垂直性が生じる。過去が下のほうにあって未来が上のほうにある、でもいいし、未来が下のほうにあって過去はそこへと流れ落ちている、とイメージしてもかまわない。垂直性を有する小説とは何か? 「歴史が立ち上がる」小説である。では、2、水平に関して。これは〝空間〟を頭に置けばわかる。ある場所(点)があって、そこから横に広がる世界が存在している。たとえば主人公がいて、これは個人だが、父や母や妹がいる。つまり〝家族〟がいるから共同体の初期形態が見出されて、それは村になり都市になり国家になり、あるいは〝社会〟と言い換えられる。水平性を有する小説とは「その内側に社会が描かれている、感じられる」小説である。そして、3、円周とも円環とも言えるその円とは? その物語が誕生して、消滅する、そうした運動そのものだとパラフレーズできるだろう。すなわち「出発点には『何かが生まれる』があって、到達点に『何かが消える』がある」小説。その円環の、円周のフレーム(曲線)を触知もさせる物語。
これらが3つの条件である。
垂直、水平、そして円。
これらを満たせば完全な小説だ、と自分・古川は明確に規定でき、そしてガルシア=マルケスの『百年の孤独』は完全に満たす。完全な小説の条件を完全に満たすという〝完全〟の二乗性、それがあるから怪物的巨篇だ、とこの論考の冒頭に自分は断じた。
あなたは粗筋がほしいだろう
ここからは作品ガイドとして二つの手続きを踏む。著者ガブリエル・ガルシア=マルケスとは誰か? 南米コロンビア共和国の作家である。すでに故人である。コロンビアは南アメリカ大陸の北西の隅に位置していて、北ではカリブ海に面する。この程度の情報があれば、あとは本稿の読者の想像力次第だ。南米、コロンビア共和国、カリブ海もある、そういった情報を脳内で醗酵させれば、あなたなりのイメージが醸成される。じゅうぶんだ。ところで『百年の孤独』の粗筋は? そうか、そう来たか。粗筋がほしいか。では自分なりに要約しよう。まず超短縮版。
これは二人の人間が「豚のしっぽ」を恐れて、その恐怖が村を、町を生むという物語であり、その町は繁栄する、だがしかし凋落する、すると「豚のしっぽ」は最初の二人の末裔である一族に追いついた。以上。
少し固有名を入れて、いまの要約をパラフレーズしよう。
これはホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ・イグアランという〝いとこ〟の間柄の男女が「豚のしっぽ」を恐れて、その恐怖がマコンドという村を、町を生む物語であり、マコンドは繁栄する、しかし凋落する、すると「豚のしっぽ」はホセ・アルカディオとウルスラの生じさせた一族に追いついた。世界は消滅する。
やや解説も入れよう。
ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ・イグアランの二つの家系の血は近い、血は濃い。以前、それらの近親間の結婚から「豚のしっぽ」を持った子供が生まれていて、それへの恐怖が、ホセ・アルカディオとウルスラの結婚にも「豚のしっぽ」を持った子供の誕生(それは悲劇だ。悲惨で、悲運だ)をもたらすのではないか、と懸念させて二人は結局、結婚はするのだが故郷の村を逃れる。数人の若者たちといっしょに。山奥の集落から、山越えをして、どこへ? どこでもない場所へ。そこを開拓した。するとマコンドが創建された。ホセ・アルカディオとウルスラのあいだにも子供たちが生まれて、彼らには「豚のしっぽ」はない。ここにブエンディア一族の歴史が始まっている。その歴史は垂直に、マコンドのその誕生から発展、その繁栄の頂点、だが衰退、その衰退の頂点、と立つ。時間軸が垂直に立つ。衰退の頂点とはすなわち消滅である。明確な起源を持った共同体マコンドが、いまや消え失せる。が、このあいだにブエンディア一族のその数世代が描かれて、世代ごとの展開、それは空間的な拡張である。第二世代の三人やら第三世代の一九人やら。家族から村が、町が、国家が望める。一世代ごと、歴史の一層ごとに。ただ誕生したものが繁栄して、繁栄したものが衰退する、その曲線は〝円周〟だとは言えないか? しかも誕生したマコンドは消滅するマコンドとなる……なってしまうのだ。最終的に。この曲線は「閉じている円環」のシンボルだと言えないか? 円。そして、物語の粗筋として、見よ。ブエンディア一族の第七世代として「豚のしっぽ」はやってくる。おしまい。
なんという完全さ。
なんたる怪物。
あなたはまだ読んでいない
しかも自分が粗筋を書いてしまったからといって、その粗筋をあなたが読んでしまったからといって、あなたが『百年の孤独』を読んだに等しいとはならない。この小説(虚構)を実際に読んだ時、あなたはその全部を記憶するということができない。なぜか? この小説はまるで現実(史実等)のように「収まりきらない挿話」に満ちているから。どこに収まりきらないのか? たとえば歴史書の内側に、である。正史が一冊にまとめられるとして、その内部には、である。なのに収まりきらないそれらの挿話は実際には『百年の孤独』という巨篇の内部に収まっている。これはいったいどういうことか、とあなたはたぶん自問する。
作中、挿話は異常に繁茂する。登場人物の一覧表(邦訳であれば家系図)が手もとにないと読めない、とのある種の具体的な行動を大半の読者は強いられるだろうが、こうした事実が「この繁茂は小説(虚構)内においては異常だ」と証している。著者に描かれるエピソードというのは、読者に「憶えられてなんぼ」なのであって、しかし憶えきれないように挿話には装飾が施されつづけている。たとえば、アウレリャノ・ブエンディア大佐──一族の第二世代──が32回の叛乱を起こした、17人の女に17人の子供を産ませた、14回の暗殺(ただし未遂)に遭った、73回の伏兵攻撃(しかし死なない)に遭った、1回の銃殺刑の難からは免れた、さて。17回だったのは何か? 答え。ない。それから、たとえば、マコンドに4年と11カ月と2日、雨は降りつづいた。この記述をあなたが読んでから、30分後に自分はこう問う。しかも選択肢を3つ用意して、選ばせる。1、マコンドに雨は3年と2カ月と3日降りつづいた、2、雨はマコンドに4年と11カ月と7日降りつづいた、3、雨は4年と11カ月と3日マコンドに降りつづいた。正解はどれだ? 答え。ない。あなたは激怒する。あなたは激怒しない。「そんなもの、もともと憶えられないよ」という。
正解だ。それが現実世界で起きていることなのであって、あらゆる事象は憶えきれない数値を、データを伴う。これらを剪定し、あるフレームの内側に整理整頓、まとめることを「歴史(正史)を記録する」という。すなわち現実を記録する書物にはある完全なる操作がある。そちらの完全さは、小説の完全さの「三つの条件」に真っ向から逆らっているのだ、そう言ってもかまわないんじゃないか。つまり普段の自分たちが捉えている事実、現実、真実というのは、記憶しきれない。虚構であれば? 記憶しきれる。
歴史書は虚構である。
現実は歴史書ではない。
その「『歴史書』性」を排して、歴史そのものに連なり、垂直性を獲得した小説は?
どこかで真実になる。すなわち挿話のその一々を記憶できない。憶えさせない。
しかもガルシア=マルケスの『百年の孤独』には垂直性のみならず水平性も具わるのだ。マコンドには時間的な起源、空間的な起点があり、滅亡という名前の終点がある。しかも滅亡は〝時間〟の側面においても〝空間〟の側面においても行なわれるのだ(読めばわかる)。それは膨張して、収縮して、円形の軌跡を残すから、すなわち円なのである。
忘却が繁殖する
この巨篇がどうして怪物的な巨篇なのか、だいぶ言葉を費やした。
違う方向から自分はガルシア=マルケス『百年の孤独』を語ってみよう。未開の地にマコンドは建設された。小さな村が生じた。それは、ある意味では〝人類史〟の譬え話ではないか? 人類がその文明を現状のように発展させたのは、まずは一カ所に住む、集住するということをやったからである。そこから町が都市が国家が、やがてグローバルな「国家群」の意識が生まれた。俺たちって人類だなあ、という感慨だ。80億人ぶんの集合的な何かだ。2022年の11月半ばに世界の人口が80億人に達した、と発表したのは国連(国際連合、UN)だった。その、80億人に手が届いてしまう少し前に、新型コロナウイルスのパンデミックということがあったのだけれど、本稿を自分が綴っている2025年2月の段階で、周囲を見回すと「コロナ? パンデミック? ああ、あったね。必死に思い出すと、どうにか思い出せる」という顔を人びとはしている。そう、昔、パンデミックというものがあった。こうしたフレーズにまとめられるのだから、5年前の記憶は神話化している。さて、感染症はなぜ生じるのか? 人類が集住をスタートさせたから、である。集住すれば、排泄物がどこかに溜まり、ゴミも溜まる。家畜を飼えば、そこがウイルスの巣窟になる。だから「人類は、文明を発展させるために集住をスタートさせて、と同時に感染症を『開発』した」とも言えるわけで、そのパンデミックの記憶(2020年以降の)が5年後にはないとか、具体的には思い出せないとか、数字に関しては曖昧だとか(日本国内で新型コロナウイルスの緊急事態宣言は何度発出されて、それぞれの時期はいつといつといつといつで、それぞれ何日間続いたでしょう?)、それら一切合切が極めてリアルである。
リアルである、とは憶えられないということだ。
忘れるということだ。
繁茂・繁殖しすぎた挿話とデータ≒数値を、神話の域に押し込むということ。
繰り返すが、それを『百年の孤独』はできている。この点に関して完璧な達成を見せている。
象徴的な挿話。これは『百年の孤独』という物語のまだまだ序盤に登場するが、マコンドに不眠症が流行する。疫病だ。町ぜんたいがこれに冒される=侵される。この不眠症はブエンディア一族を筆頭とするマコンドの住人たちに、記憶を喪失させる。ほら。彼らは憶えられないのだ。そして、ほら。物には名札が付けられたりするのだ。机には〈机〉と、椅子には〈椅子〉と、時計には〈時計〉と、扉には〈扉〉と、壁には〈壁〉と、豚には〈豚〉……。こうした名札はどんどん増えて、しかし〈豚〉がなぜ飼われているのか、〈豚〉をどうするのか、どうしたいのか、それも忘れるのではないか? こうやって「忘れない」ための手段、その細部が増殖する。
という物語を、あなたは、自分は、完全に記憶しきれるのか、ということ。
この『百年の孤独』はパンデミック小説であり、2020年代、最重要の現代性を具えていて、しかしこうした要点は2025年のどこかで、それこそ今日明日にも忘却される。


古川日出男
1 コメント
- TM2025/08/04 19:20
世界は現在進行形で出来事に溢れ数値に還元してもその繁茂は人間の認知を越えている。『百年の孤独』にはその表現が収まっていて、読み手は確かに忘却を体験する。世界のそれがストンと収まっている。だからまた『百年の孤独』は読みたくなるのか。よくわかりました。




