なまぬるい虚無からの出発──『悪霊』|松下隆志


フョードル・ドストエフスキー федор Достоевский(1821-81)
引用元=https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_first_edition_of_Dostoevsky%27s_novel_Demons_Petersburg_1873.JPG
ドストエフスキー最大の難解作
地獄への道は善意で舗装されているという。連合赤軍による山岳ベース事件、オウム真理教による地下鉄サリン事件、アルカイダによる9・11同時多発テロ……思想や宗教の名の下に起こされる凄惨な事件が世の中を震撼させるたび、人々は繰り返し『悪霊』に言及してきた。ドストエフスキーの後期の五大長編(『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』)のなかでも、悪の問題をここまで徹底的に掘り下げた作品はほかにない。
そんな『悪霊』にはモデルとなった事件がある。1869年、農奴解放令によって旧来の価値が崩壊したロシアで、「目的のためには手段を選ばず」を信条とする青年革命家ネチャーエフが架空の世界革命組織を名乗って秘密結社を組織し、内ゲバからメンバーの一人を殺害した。かつて自身も社会主義に共鳴して死刑宣告まで受けたものの、その後10年におよぶシベリア流刑と兵役を経て「土壌主義」と呼ばれるスラヴ派寄りの思想に転向していたドストエフスキーは、若いニヒリストたちの間に蔓延する無神論的革命思想を危惧し、ネチャーエフ事件を素材にした時事的な小説の執筆を思い立った。
とはいえ、ドストエフスキーのその他の大作同様、革命活動や内ゲバは物語全体の骨組みにすぎない。そこに、当時の知識人の世代間対立や、作家が以前から温めていた『偉大な罪人の生涯』という未完の大長編に原型を持つ主人公ニコライ・スタヴローギンをめぐる謎、彼に魅せられた女性たちの心の葛藤など、いくつもの要素が複雑に肉づけされた結果、『悪霊』は無数の象徴や暗示によって肥大化したキメラのような難解な作品となった。
「悪霊」に取り憑かれた一族の末路
ロシアのとある地方都市を中心に展開する『悪霊』の物語は、ステパン・ヴェルホヴェンスキーという自由主義思想家の伝記で幕を開ける。彼は美しい理想に酔い痴れる旧世代の知識人、いわゆる「四〇年代人」で、かつては進歩派の論客として名を馳せたが、現在は裕福な地主であるワルワーラ夫人の庇護の下で懶惰な生活を送っている。ネチャーエフが原型の革命家ピョートルはこのステパン氏の息子であり、ワルワーラ夫人の一人息子のニコライ(スタヴローギン)や、彼女の農奴の息子で、ピョートルのかつての仲間であるシャートフも若い頃にステパン氏から教育を受けている。西欧思想にかぶれた「四〇年代人」の無責任な理想主義こそが「悪霊」を生み出した元凶だ──そうドストエフスキーは言いたいかのようだ。
プーシキンをロシア文学の「父」、ゴーゴリを「母」と呼ぶことがあるように、19世紀ロシアの知識人たちは総じて孤高の存在ではなく、一つの大きな家族にも似た関係性のなかでそれぞれの思索を重ねていた。トゥルゲーネフ(『悪霊』には彼を戯画化したカルマジーノフという作家が登場する)は、新旧知識人の世代間対立を一足先に『父と子』(原題は『父たちと子たち』と複数形)という長編で描いているが、同じく親世代から子世代への思想の継承と変容を主題とする『悪霊』は、ドストエフスキー版の「父と子」と言ってもいいかもしれない。
さて、無能な「親」であるステパン氏の半生が語られた後、『悪霊』の物語はおもに二人の「子」を中心に展開する。一人目はスタヴローギンで、彼は一見すると非の打ちどころのない美男子だが、その顔には何やら「仮面」めいた不自然さがある。実際、裏では放蕩に耽り、脚の悪い娘マリヤとは──貴公子である自分がこんな最低な女と結婚する以上に醜悪なことはないという、ただそれだけの理由から──秘かに結婚しており、故郷の町では公衆の面前で有力者の鼻を引きずり回すなどの奇行に走る。その後、四年間におよぶヨーロッパ放浪を経て、彼は再び故郷に戻ってくる。その顔にもはや不自然さはなく、何やら「新しい思想」を秘めているようにすら見える。ピョートルは彼をロシア民話の英雄「イワン皇子」になぞらえ、自分たちが創る新世界の偶像に担ぎ上げようとするが、それが実現することはない。神がかったマリヤに「僭称者」だと見抜かれたスタヴローギンは、流刑囚フェージカに彼女の殺害を唆す。
二人目はピョートルで、スタヴローギンとともに帰還した彼は、労働者を扇動して町に騒動をもたらそうと企んでおり、新しく赴任した県知事の夫人に取り入る。そして夫人主催の慈善パーティーが行われた日の夜更け、郊外で何者かが放火し、火事の現場からマリヤとその兄、そして女中の斬殺死体が発見される。婚約者がいながらスタヴローギンに恋心を寄せる美しいリーザは、別荘で彼と一夜を過ごして幻滅を味わった後、火事の現場に駆けつけ、興奮した群衆に撲殺される。その翌日、ピョートルはシャートフを密告の恐れから手下の「五人組」に殺させ、あらかじめ自殺を決意していたキリーロフに殺人の罪を着せる。後日「五人組」は逮捕され、ピョートルは国外逃亡する。失意のステパン氏は旅に出るが、途中で熱病に罹って帰らぬ人となる。スタヴローギンは、かつてスイスで関係を持ち、彼の「看護婦」になることを望んでいるシャートフの妹ダーシャにスイス行きを仄めかすが、実行せず領地の屋敷の屋根裏で首を吊る。
『悪霊』のエピグラフには、プーシキンの同名の詩とともに、人から出た悪霊たちが豚の群れに入って溺れ死ぬという福音書の逸話が掲げられている。西欧からもたらされた無神論という「悪霊」に取り憑かれたロシアの知識人の一族は、まさに福音書の豚の群れさながらに、自ら破滅の道を突き進むのだ。
神なき世界の両極
『悪霊』の主要登場人物たちは実にその3分の1が他殺や自殺で命を落とす。いったい、これほどの犠牲を払ってまで革命家たちが実現したかったこととは何なのか。「五人組」の一人で、ピョートルが「フーリエ並みの天才」と呼ぶ理論家シガリョフは、独自に理想の社会形態を追求した結果、「無限の自由から出発しながら、無限の専制で終わる」という矛盾した結論に到達する。その世界では人類の一割だけが個人の自由とその他に対する無限の権利を享受し、残りの9割は個性を剥奪され、無垢で従順な家畜の群れと化す。家畜の群れの内部では平等が保たれる必要があるので、全体の教育や科学の水準は引き下げられ、高い能力を持つ者は排除され、社会の構成員は相互に監視・密告する義務を負う。
従来、シガリョフの理論はソ連のスターリニズムの予言として評価されてきたが、それだけに留まらず、現在その姿を現しつつある21世紀型階級社会の核心をも射貫いているのではないか。この新たな封建制の下では、シリコンバレーのテックオリガルヒや、かつてスターリンが「人間の魂の技師」と呼んだ作家や芸術家といったクリエイターが支配的地位に君臨し、その他の労働者は「農奴」として隷従を強いられる(ジョエル・コトキン『新しい封建制がやってくる』)。とはいえ、「農奴」の暮らしはそんなに悪くないかもしれない。メディアアーティストの落合陽一が描く幸福な全体主義のヴィジョンによれば、大衆はベーシックインカムによって衣食住を保証され、人工知能によって欲望を管理されながら適度に幸せな生活を送ることができる。まさに、シガリョフが言うところの「地上の楽園」だ。
ザミャーチンの『われら』やオーウェルの『一九八四年』と異なり、『悪霊』でこうした未来世界が具体的に描かれることはない。にもかかわらず、主人公たちの一部は、あたかもすでに現在ではなくこの未来の(反)ユートピアを生きているかのように思考し、行動する。なかでもひときわ異彩を放っているのが、建築技師のキリーロフだ。一見すると真面目で物静かな青年で、よその赤ん坊とボールで遊んでやり、健康維持のためには運動も欠かさず、頼まれたことは何でも──他人が犯した殺人の罪をかぶることすら──引き受ける。
とはいえそれは、あらゆる物事に対する氷のように冷たい無関心さの結果であって、キリーロフにとっては生も死も同じことなのだ。彼は言う──人間が不幸なのは自分が幸福なことを知らないからにすぎず、幸福という目的はすでに達せられているのだから、人間は出産をやめて自殺すべきであり、そのとき人間は神に代わる新たな存在、すなわち「人神」になるのだと。出産を否定し自殺を肯定するキリーロフは優れた反出生主義者であり、それと同時に、死の恐怖を克服した物理的に新たな人類の出現を予告する彼の人神思想は、人間後の人間の在り方を模索するトランスヒューマニズムの思想にも一脈通じている。
一方、そんな彼とは対照的なのが、裏切り者として「五人組」に始末されるシャートフだ。彼は一時期ピョートルの仲間に加わっていたが、後にスラヴ派的な思想に目覚めて離反する。彼によれば、いかなる民族も科学や理性の原理に基づいて打ち立てられたことはなく、その生命力は神にのみ由来する。偉大な民族には己の真理によって世界を救済する使命があり、その「神を体現する」唯一の民族こそロシア人にほかならないのだという。
情熱家のシャートフは、スタヴローギンに寝取られた妻マリーの帰還を受け入れ、彼女が産んだ赤ん坊の誕生を、それが自分の子ではないと知りつつ熱狂的に言祝ぐ。死の影に覆われた暗い物語の中で、この新たな命の誕生は一筋の光明に見えるが、赤子もその母親も後に死亡する。いったん社会主義に染まったシャートフもまた神なき時代の申し子であり(その名は「揺れ動く」という動詞に由来する)、彼のメシアニズム思想の根底にあるのは、純粋な信仰というよりむしろ、アトム化を運命づけられた世界でなお個人を超越した絶対的価値を見いだそうとする絶望的な情熱のように感じられる。そして、その情熱は今なお、民族や帝国に訴えて「大きな物語」の立て直しを図ろうとするロシアの一部の思想家たちを突き動かしている。
なまぬるい虚無からの出発
冷たいキリーロフの人神思想と、熱いシャートフのメシアニズム思想。驚くべきことに、このまったく相反する2つの思想は、スタヴローギンという一人の人間にその源流を持っている。スタヴローギンは「子」であると同時に、キリーロフとシャートフにとっては思想的な「親」なのだ。
もっとも、スタヴローギン自身はいかなる思想も信じてなどいない。善悪の規範を超越/喪失している彼は、まるで精神の暗い井戸の底を探るかのように犯罪的な行為を繰り返す。とりわけ醜悪なのは、彼が自ら書き記した「告白」に収められた、神様を信じるあどけない少女を陵辱して自殺へと導くエピソードだろう。その後、退屈まぎれに脚の悪いマリヤと結婚した彼は、まるで平成の日本で流行した「自分探し」の旅に出る若者のように、聖地を巡礼し、ドイツの大学で聴講し、はては遠いアイスランドで謎めいた学術探検に参加する。だが、宗教の啓示も、学問の叡智も、自然の神秘も、彼の空虚な心を満たすことはできない。作中で引用される黙示録の一節が暗示するように、熱くも冷たくもなれず、ひたすらなまぬるい人間であるスタヴローギンは、底なしの虚無に呑まれて自ら命を絶つ。
スタヴローギンの虚無は、神なき世界が必然的に孕んだ虚無だ。その出口のない絶望は、作品が書かれてから一世紀半を経た今、ますます抜き差しならないものとなっている。既存の価値の解体が際限なく進むこの世界では、誰もが正しいがゆえに誰もが間違っており、何でも信じられるがゆえに何も信じることができない。熱くも冷たくもなれない人間に残された道は、とうに活力を失い、延命装置に繋がれてどうにか生きながらえているこの老衰した世界を持続可能にすることだけであるかのようだ。ドストエフスキーはスタヴローギンを救わなかった。いや、救えなかったのかもしれない。たとえ行く手に待ち受けるのが破局だとしても、生まれながらに自由の刑に処されている私たちは、このなまぬるい虚無から出発するしかないのだ。


松下隆志




