貴族社会の恋と想像力──『失われた時を求めて』|鹿島茂


マルセル・プルースト Marcel Proust(1871-1922)
引用元=https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Proust _ 1913.jpg
イメージの蘇生
語り手である「私」は、ある眠れぬ一夜、祖父母の家のあったコンブレーとその近くにあって晩年に滞在したタンソンヴィルのことを思い出す。コンブレーでは一家の散歩コースとして「スワン家のほう」と「ゲルマント家のほう」の二つの方角があったが、このうち、「スワン家のほう」とはユダヤ系株式仲買人のシャルル・スワンが住んでいる家のある方角である。
スワンは、父が「私」の祖父と親友だった関係で「私」の家をよく訪ねてきたのだが、このスワンの訪問が幼い「私」に大きな悲しみをもたらしていたのだ。いつもは「私」におやすみのキスをしてくれる母がスワンの接待のため来てくれないからである。
悲しんだ「私」は廊下に出て母を待ち伏せて、おやすみのキスを強要するという「暴挙」に出る。父に叱られることを覚悟するが、意外にも父は怒らなかったばかりか、「この子といてやりなさい」と言って一人で寝室に行ってしまう。母と二人きりになった「私」は父の前では抑えていたすすり泣きを堪えることができなくなる。
その泣き声は、さながら昼間は街の騒音で聞こえない修道院の鐘の音が夜になると聞こえてくるように、大人になった「私」の耳にときとして聞こえてくるのだった。
このように、全編のストーリーは「長いこと私は早めに寝ることにしていた」で始まる冒頭の不眠の夜に回想される幼い日々や大人になってからの体験がイメージとして蘇ってくることから紡ぎだされるのだが、そのイメージの蘇生のきっかけとなったのが、ある冬の寒い一日に帰宅した「私」に母が差し出してくれた一杯の紅茶とマドレーヌ菓子だった。「お菓子のかけらの混じったひと匙が口蓋に触れたとたんに、私は身震いした」。
「私」は強い幸福感につつまれるが、その正体をつきとめることができない。しかし、しばらくすると、突然、すべてが記憶に蘇ってくる。それは、昔、叔母のくれた菩提樹のハーブティーに浸したマドレーヌの味だったのだ。と同時に、コンブレーの町全体がティーカップの中から出現してきたのである。
恋と階級
ところで、こうして想起されたコンブレーの町では、「私」の家族は決してスワン家を訪問しようとはしなかった。スワンはオデット・ド・クレシーという高級娼婦と身分違いの結婚をして、ジルベルトという娘をもうけたが、それが「私」の家族には階級規則違反として映じていたからだ。
スワンが高級娼婦オデットとあえて結婚したのには事情があった。それは第一編『スワン家のほうへ』の第二部「スワンの恋」で明かされる。スワンがヴェルデュラン夫人のサロンで出会ったときオデットは好みの女ではなかった。しかし、スワンはボッティチェルリの描くチッポラに似ていると感じたことからオデットに興味を持つようになる。さらに、いるはずのところにオデットがいなかったことから不在の想像力が刺激されて恋に落ち、オデットの嘘に悩まされ、恋の深みにはまりこんでいく。そして、ついにスワンは、オデットの嘘の裏に隠された「真実」を探求したいがためにオデットとあえて結婚したのである。
いっぽう、「私」は、いちど見かけただけのジルベルトに淡い恋心を抱き、第一編『スワン家のほうへ』第三部「土地の名─名」では、シャンゼリゼの公園で遊ぶ仲になるが、幼い恋はそこからは進まない。ジルベルトは「私」と疎遠になったあと、母親の階級上昇に伴い、貴族社会の中に入っていく。
第二編『花咲く乙女たちのかげに』で「私」は保養地バルベックで知り合った花咲く乙女たちの一人アルベルチーヌに夢中になる。ところで、「スワン家のほうへ」で示されたように「私」の家族はコンブレーではスワン家とは反対の方角にも散歩に出掛けたが、その終点にあったのはゲルマント公爵の屋敷であった。これは第三編のタイトルとなる。
ゲルマント公爵家は由緒正しい大貴族で、当主はゲルマント公爵バザン、妻は同じ一族出身のオリヤーヌである。「私」はゲルマント公爵夫人に憧れを抱いていたが、教会で実際に見た夫人の鼻のわきに小さなおできがあることを発見して幻滅する。しかし、その幻滅は、より強い想像力によって癒される。
ユダヤ人とセクシュアリテ
第三編『ゲルマントのほう』では、自分の両親の引っ越しにより、ゲルマント公爵夫妻と同じパリの高級アパルトマンに住むことになった「私」は夫人に再会する。彼女のサロンやオペラ座などに日参して貴族社会を観察するが、ここでもまた現実に見ているものに介入してくる想像力の力が詳しく分析される。
ゲルマント公爵には弟であるパラメード(シャルリュス男爵)と、妹マリー・エナール(マルサント伯爵夫人)がいた。
シャルリュス男爵はユイスマンスの『さかしま』の主人公デ・ゼッサントのモデルともなった耽美主義者ロベール・ド・モンテスキューから造形された。第四編『ソドムとゴモラ』ではシャルリュスのホモセクシュアリテが詳細に描かれる。
いっぽう、マルサント伯爵夫人にはロベール・ド・サン=ルー=パン=ブレー侯爵(通称ロベール・ド・サン=ルー)という息子がいて、「私」と友人になる。『ゲルマントのほう』では「私」がサン=ルーを駐屯地ドンシエールに訪ねるが、そこで詳述されるのは貴族社会での審美的な格差である。また、ドレーフュス事件に対するそれぞれ貴族たちの反応は階級とはかならずしも一致しないということが示される。
サン=ルーにはラシェルというユダヤ人の恋人がいたが、後にサン=ルーはジルベルト・スワンと結婚し、娘をもうける。第七編『見出された時』では、第一次世界大戦で戦死したサン=ルーもまたシャルリュスと同じくホモセクシュアルであったことが明かされる。
こうしたホモセクシュアルな世界が、レズビアニスムのそれとともに並行的に描かれるのが『ソドムとゴモラ』である。
「私」はゲルマント公爵のアパルトマンの建物の中庭で仕立て屋を営むジュピアンとシャルリュスがマルハナバチの雄雌のように求愛行動を繰り返すのを目撃し、ホモセクシュアリスムの深い世界を知る。次にアルベルチーヌにレズビアンの傾向があるのではと疑いだし、第四編『囚われの女』では、かつてスワンがオデットの浮気に苦しんだように、「私」はレズビアンの疑いのあるアルベルチーヌが一人の時間に浮気していたのではないかという疑念にとらえられ、スワンと同じように時間の病に苦しむ。
第六編『消え去ったアルベルチーヌ』では「私」の異常な嫉妬に嫌気がさして立ち去ったアルベルチーヌが乗馬事故で亡くなったという知らせが届き、悲しみに沈む「私」の心理が描かれる。さらにアルベルチーヌのレズビアニスムが事実だったらしいことが判明し、「私」はより深く傷つくが、その傷も久しぶりに再会したジルベルトとの会話で癒されていく。ジルベルトはいまや亡きスワンの財産を相続して、裕福な花嫁候補となり、サン=ルーと結婚するに至ったのだ。
結婚と階級上昇
だが、出自が卑しいはずのジルベルト・スワンがなぜ大貴族のサン=ルーと結婚できたのだろうか?
第七編『見出された時』では、それが母親オデットの階級上昇戦略によるものであることが明かされる。オデットはスワンの死によって一人娘ジルベルトが巨額の遺産相続者となると、これを自分と娘の階級上昇の踏み台として使うことを目論み、一歩一歩、駒を進めてゆく。すなわち、スワンの死後、昔、ヴェルデュラン夫人のサロンで知り合い、関係も結んだフォルシュヴィル伯爵と再婚し、ジルベルトをフォルシュヴィルの養女とする。こうして、表面上はジルベルトのユダヤ系出自を消すことに成功する。
ジルベルトはスワンからの莫大な財産を受け継ぐと同時に、オデットの結婚とフォルシュヴィルとの養子縁組で巨額の持参金付きの貴族の花嫁候補となり、大貴族のロベール・ド・サン=ルーと結婚することができたのである。
オデット自身はというと妻オリヤーヌと不仲のゲルマント公爵に近づき、その愛人に収まり、自らサロンを開いて上流社交界に進出してゆく。
同じように結婚によって階級上昇を遂げたのがスワンが日参していたサロンの主催者ヴェルデュラン夫人である。ヴェルデュラン氏の死後、夫人はデュラス公爵と再婚して貴族社会の一員となり、二度目の夫の死後、今度は、ゲルマント公爵のいとこでホモセクシュアルなゲルマント大公と結婚、貴族界隈でも最も有名なサロンの主催者として『見出された時』に描かれるような盛大なマチネを開催する。
長い療養生活で社交界から遠ざかっていた「私」は久しぶりに、ボワ大通りのゲルマント大公夫人邸で開かれたこのマチネに出席する。道すがら、落魄したシャルリュスがジュピアンに介護されながらも威厳を保とうとしている姿を目撃し、感慨に打たれる。第一次大戦中、ドイツ軍の爆撃下、ジュピアンが経営していた男娼ホテルで若い男に鞭打たせて快楽に呻吟していたあのシャルリュスが、いまでは、軽蔑していたサン=トルーベルト夫人に最敬礼しているではないか。これを見て「私」は時の残酷な経過を思い知る。
永劫回帰する一族の物語
ゲルマント大公邸の中庭に入っていこうとして、車を避けようとしたとき、「私」は不揃いの敷石につまずく。すると、紅茶に浸したマドレーヌを口にしたときと同じような幸福感に襲われ、自分の文学的才能への懐疑が消え去るのを感じる。
そして、アルベルチーヌの死後にヴェネチアを訪れたときにサンマルコ洗礼堂の不揃いな二枚のタイルを踏んだときに覚えた感覚を思い出し、この感覚から答を引きだしてやろうと決意してゲルマント大公邸のマチネ会場に入っていく。
会場にはジルベルトがいて、サン=ルーとの間に出来た16歳のサン=ルー嬢を紹介される。 「私」はサン=ルー嬢と出会うことで「ゲルマントのほう」への散歩道の記憶が「スワン家のほう」への散歩道の思い出とつながり、二つの一族へのイメージがジルベルトとサン=ルーの愛の結晶であるサン=ルー嬢において結合を遂げたことを確認する。
それは『見出された時』の前半で語られるタンソンヴィル滞在中にジルベルトから聞かされた、「スワン家のほう」と「ゲルマントのほう」という二つの散歩道がヴィヴォンヌ川の水源近くで連結しているという事実とも照応していたのである。
「私」はこうした確認のあと、構想していた『失われた時を求めて』の執筆を決意する。かくて、物語は冒頭の「長いこと私は早めに寝ることにしていた」に回帰し、長大な円環を描きながら永劫回帰的に反復されることになる。
理性と意志をいくら働かせても「失われた時」は戻ってこない。マドレーヌの味覚や不揃いの敷石の感覚によって無意識的に蘇った記憶を媒介として、「失われた時」を、言語の複雑な組み合わせというマジックによって「見出された時」に転移しえたときにのみ、人は自分の思い出を、いや一族の記憶を語り得るポジションに到達するのである。
さらにいえば、この「失われた時」から「見出された時」へのトランジションが可能になるのは、唯一、一人の人間が芸術家として成熟を遂げ、二つの相反する方向を自らの存在の中で統合させることに成功したときだけなのだ。ただし、この終わりは芸術創造という永遠に続く営為の一つの始まりにすぎないのである。


鹿島茂



