崩壊していく世界を語る小説──『響きと怒り』|中村隆之


ウィリアム・フォークナー William Faulkner(1897-1962)
引用元=https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Sound_and_the_Fury_(1929_1st_ed_dust_jacket).jpg
土地語りの発明者フォークナー
本誌特集の「一族の想像力」を家系をめぐる世代を超えた語りだと文字どおり受け取るならば、この括りにおいてやはり外せないのはウィリアム・フォークナーだ。20世紀アメリカ合衆国を代表するこの南部作家が何よりも発明したのは、自分の住んでいる土地をめぐる不断の語りだ。随筆や演説も含めると全二七巻におよぶ膨大な日本語訳が存在するフォークナーの物語世界は、彼が生まれ、長年住んできた合衆国深南部ミシシッピ州をモデルにする。ミシシッピ州のなかにヨクナパトーファ郡とその田舎町ジェファソンを創り出し、その土地に住まう登場人物に関するさまざまな物語を、フォークナーは生涯にわたって語り続けた。
その一族の語りによって本誌特集でも取り上げられるガルシア=マルケスや中上健次に深い影響を与え、土地語りという神話的スタイルを確立したこのノーベル文学賞作家には、『響きと怒り』(原著1929年)、『サンクチュアリ』(31年)や『八月の光』(32年)、『アブサロム、アブサロム!』(36年)といった代表作がある。文庫化されているので入手しやすいこれらの作品は、けれども、登場人物の関係や語りが錯綜していくため、日本のライトノベルやアメリカのハリウッド映画のように読者が物語世界のうちにすっと没入できるようなストーリーラインをとらない。なかでも本誌で紹介する『響きと怒り』は、空高く聳える峰を目指す登山家のように、海外文学ファンが幾度でも挑戦する最難関の部類だ。でも安心してほしい。研究の蓄積が長いフォークナーには優れた訳書がいくつも存在する。ここでは丁寧な訳注や付録をつけた岩波文庫版を用いながら、本書の読みどころを私なりの視点で提示してみたい。
どんな小説か
『響きと怒り』の舞台は田舎町ジェファソン。この町に代々住むコンプソン一族の第七世代に当たる子たちを中心とする物語である。コンプソン家は、アメリカ独立前に北米に移住した者にさかのぼるが、一族の繁栄を築いたのは、三代目のジェイソン・ライカーガスだ。この者がミシシッピ州のジェファソンの中心に位置する一平方マイルの土地を先住民チカソーから入手し、「コンプソン領地」とのちに呼ばれる屋敷、すなわち黒人奴隷を使役するプランテーションを建設した。この者の子孫たちは知事を務めたり将軍になったりしてジェファソンの有力者であったが、六代目のジェイソン・リッチモンド以降、コンプソン家は凋落の一途を辿る。
本書が描くのは、このジェイソン・リッチモンドの子息であるコンプソン家七世代に当たる長兄クエンティン、長女キャンダス(キャディ)、三男ジェイソン、四男ベンジャミン(ベンジー)の物語だ。小説は四章構成で、三人の息子たちの視点からそれぞれキャディを中心に物語られる。特に知的障がいをもつベンジーが語り手の第一章、妹への愛から近親相姦の妄想に囚われるクエンティンが語り手の第二章は場面転換が激しく、初読ですべてを理解するのは、まずもって不可能だ。「意識の流れ」と文学史のなかで呼ばれる実験的手法を用いた前半部に比べると、常識人の三男ジェイソンが語る第三章では語りは安定し、第四章ではこれまでの伏線がおよそ回収される仕組みをとっている。だからはじめての読者には、後半部でストーリーラインが明かされるのを待ちながら、前半部をなんとか「耐え忍ぶ」(フォークナー世界の重要な動詞だ)つもりで読むとよい、とよく言われることを繰り返したくなるけれども、私の観点では、実際の読みどころは、ストーリーラインとはさほど関係なく、フォークナーの問題意識とそこから派生する透徹した観察と描写とのうちにこそある。
世界は崩壊する
本書を読むにあたって最初に注目すべきは物語上の現在だ。長兄クエンティンの1910年6月2日の一日を描く第二章を除き、第一章から第四章は、1928年4月6日から8日までの三日間を順序を入れ替えて描いている。この本の出版は翌1929年。つまりフォークナーはこの小説をアメリカ合衆国南部で今起きていることとして描いている。
では何が起きているのか。端的に言おう。合衆国南部という一世界の崩壊である。
先ほどコンプソン家は六代目から凋落すると述べた。第七世代の子たちはコンプソン家が崩壊していく過程をそれぞれ体現している。あえて扇情的に述べれば、長兄は妄想に取り憑かれて自殺し、長女は性的放縦で南部の家族規範を破壊し、三男は兄妹のせいでケチくさく性悪になり、四男は30歳を越えてもまともに話せず口からよだれを垂らし続ける。このような一家の救いようのなさこそ、フォークナーが『響きと怒り』でまずもって描こうとしたものだ。
因習的な世界においては多くの場合、家族がすべてだ。子どもが生まれることは家系の存続を約束し、将来の繁栄を期待させる。けれどもフォークナーの世界の現在には、もはや家系に未来は残されていない。
私たちのコンプソン家の場合、長兄クエンティンは自殺し、三男ジェイソンも独身で、四男ベンジーもジェイソンによって去勢手術を施されたのちに精神科病院に入れられる。このように代々続いたコンプソン家は七代までで子孫を失い、消滅する運命にある。
この抗えない運命のなかでフォークナーは希望なき家族のあり方を徹頭徹尾リアルに描く。たとえば、ジェイソンが語る第三章。アルコール依存の父が死んだあと、細々と暮らすコンプソン家の主人となったジェイソンは、母親、黒人の召使ディルシー、家出したキャディの残した娘やベンジーに対して日々当たり散らしている。このコンプソン家の鬱々とした日常は、現代日本社会のなかでも十分にありそうではないか。召使や姉の娘との同居という設定を除けば、ジェイソンは高齢の母と知的障がいの弟と暮らしており、家長にもかかわらず無力で子孫を残せない最後のコンプソンだ。少子高齢化が構造的課題となった日本の家族問題を私たちはコンプソン家のうちに投影しうるのである。
フォークナーの世界観
このように本書のうちに日本の少子高齢化問題を読み取るならば、私たちは、コンプソン家の命運をバッドエンドとして避けることよりも、これこそが私たちの生きる世界のリアルだとして受け入れ、フォークナーが描こうとした世界を作者の視点を介してよく観察してみるべきだ。
実際フォークナーが描こうとしたのは、ある一族の消失の必然性にあった。これは一家族の例外的事例ではなく、社会構造それ自体の問題だ。フォークナーが愛着を抱いた合衆国南部の土地では、コンプソン家のような有力な名家が存在してきた。その家系と土地の繁栄を担ったのは、各人の武勇や商才であったとしても、プランテーションで働く黒人奴隷がそうした名家を影ながら支えてきたのだった。
この安定的な南部世界を揺るがしたのは、合衆国を二分した南北戦争だ。この戦争で敗れた南部は奴隷解放を迫られ、北部を経済的にも文化的にも優位とする秩序が形成された。この敗北が主要因となって南部世界の崩壊を導く。そして『響きと怒り』以降のフォークナーはこの世界崩壊の要因をさかのぼり、これがイギリスからの入植以降の土地との関係の築き方や奴隷制のなかに求められることを暗示していく。
フォークナーは安定的な南部世界の秩序が崩壊したあとに生まれた世代であり、落ちぶれた旧家こそみずからを自己投影できる対象だった。だからこそ、そんな消えゆく旧家の挽歌として本書を書いたのだとつい筆の勢いに乗りたくなるが、実際はそれだけでない。むしろ本書で示すフォークナーの底知れぬ才は、親しみ慣れた世界の喪失の過程を最後まで描き続ける証言者に徹したことにある。


中村隆之



