ニコ生思想地図〈出張編〉──震災から文学へ|市川真人+高橋源一郎+東浩紀

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初出:2012年10月31日刊行『ゲンロンエトセトラ #5』

 3.11から1年余の4月14日。『日本2.0』の刊行が近づくなか、東京・新宿の紀伊國屋サザンシアターにて、「ニコ生思想地図」初の出張編が開催された。ゲストは『日本2.0』の寄稿者である市川真人、高橋源一郎の両名。混迷が深まるいまだからこそ、言葉を扱う「文学」には、果たさなければならない役割がある──。危機の時代に届く言葉について、3人の文学者が語った。
 
東浩紀 こんにちは、東浩紀です。本日はニコ生思想地図出張編「震災から文学へ」と題して、紀伊國屋サザンシアターよりお送りします。本日お招きしたおふたりは、僕の会社が手がけている「思想地図β」シリーズの次号『日本2.0』にともに原稿をお願いしています。高橋さんには小説、市川さんには新しい文学についてのマニフェストを依頼しました★1。で、本来であれば、今日はその原稿を踏まえたうえで議論させていただくはずだったのですが──。

高橋源一郎 ごめんなさい。

市川真人 ごめんなさい。

 といった次第で、無理でした(笑)。というわけで今日は、おふたりがその原稿でどのようなことを試みておられるのかうかがいつつも、3.11という大きな事件に対して、文学になにができたのか、なにをするべきだったのか、それぞれの経験も踏まえながら語っていただこうと思います。

 さて、まずはみなさんご存じかと思いますが、高橋さんは昨年の11月に『恋する原発』(講談社)という長編を発表されました。まず高橋さんから、なぜ震災を受けてこの長編を発表しようと思ったのか、またもう少し遡って、震災にあたってどのようなことを考えられたのか、お話しいただけないでしょうか。

バカバカしくてやってられない。


高橋 3月11日に震災が起こって2、3日後、僕や東さんに、『ニューヨーク・タイムズ』から依頼が来ました。それでまず、「どうしよう」と思いました。なにかを言わなきゃいけない。でも、なにか言わなきゃいけないのだけれど、まずいことを言うとあとで困る。正直に言うと、そう思いました。その時点では、まだ地震があり、津波が起こって、原発が爆発したということしかわかっていませんでした。これからなにが起こるのかと言われてもとてもわからない。ただ、『ニューヨーク・タイムズ』からの依頼は、震災について、戦後日本という時代背景を踏まえて、文化の面から書いてほしい、というものでした。それならば書けそうな気もしました。ほとんど準備はありませんでしたが、自分でも考えなければいけない、考えたいと思っているときに依頼があり、書かないとすごく悔いが残るだろうと思って引き受けました。

『恋する原発』を書いたのは夏のことですが、そのきっかけのひとつは、川上弘美さんの「神様2011」★2という短編です。ふつう職業作家は依頼されてから原稿を書くのですが、「神様2011」は持ち込みだったそうです。つまり、川上さんはベテラン作家で読者もたくさんいるのに、まるで新人みたいに「これを載せてほしい」と持っていった。読んでみるとわかりますが、作中に明確なメッセージが打ち出されているわけではなく、震災後のある種の混乱、というより川上さん自身の混乱が文章のかたちになっています。本人もなにが書けるかわからないままで書いている。それを見て、やはり小説でもやれることはあるのだと思ったんです。そのあとすぐ『恋する原発』に取りかかって、以前から構想があったこともあり、ここ10年くらいで一番早く、しかも一番集中して書けました。内容についてはあとで触れますが、作家は小説を書きながらものを考えるものなので、とにかく書かないと始まらない。そういう経緯で書かれたのが『恋する原発』です。

 僕個人の感想をお話しさせていただくと、僕はこの『恋する原発』を読んで、80年代の高橋さんが戻ってきたように感じました。『恋する原発』の前作の『「悪」と戦う』(河出書房新社)は、どちらかと言うと道徳的なメッセージが強い作品でした。ですから、震災や原発事故を受けて小説を書くとなれば、やはりメッセージ性の強い作品になるのかと予測していたんです。しかし実際にページを開いてみたら、震災チャリティーのためにアダルトビデオを撮るという「バカげた」話が、すごくハイテンションな言葉遊びで描かれ続ける。『ジョン・レノン対火星人』(講談社文芸文庫)のころの高橋さんが戻ってきた、と感じました。そして、そこに逆に僕は勇気づけられる感じがしたんですね。

高橋 ありがとうございます。どうしてそういう作品になったのかというと、震災以降のこの国は、戦後ずっとおかしなシステムを放置していたツケが来ていますよね。実感として、「もうバカバカしくてやってられない、ふざけんな!」という思いがありました。それを小説にするとなると、シリアスな顔をして抗議したり、呪詛の言葉を吐くというふうにはならなくて、自分で書いていてもバカバカしいと思えるような作品になった。登場人物にも「震災チャリティーAVはないだろう」と言わせているんですが、僕もそう思います(笑)。社会がゆがんでいる、間違っている、だからこういうふうに直しましょう、と建設的な提案をするのは、もちろん正しいことです。それによってこの国は少しよくなるかもしれない。それはとても喜ばしいことだと思うのですが、でもそれより先に、やってられない、もう本当にうんざりだ、と思ったこの気持ちを、まずなんとかしたかった。

市川 「うんざり」というのはなにに対する、あるいは誰に向けられた感情ですか?

高橋 政府の対応も、それを生んだこの国のシステムも、それを見逃してきた自分たちも含めて、このバカバカしさはなんだろうと。さらにその後、議論が硬直化していくバカバカしさ。あるいは、この国全体が自粛ムードに包まれていくバカバカしさ。そのうちひとつというわけではなく、ぶっちゃけどれも変だよね、と。もちろん、僕の作品がこの状況に対する正しい解答かというと、そうではないと思います。でも、いまこの時期に僕にできることは「もうバカバカしくてやってられない」と、誰に向かってというよりも、この空間に向かって、ひとこと言っておくことではないかと思ったんです。

 よくわかります。世間では、震災を機に人々はまじめになり、社会について襟を正して考えるようになったと言われます。けれども思い返すと、実は日本は90年代後半くらいから、妙にまじめで窮屈な社会になっていたと思うんですね。とくに文学や思想はそうで、バカバカしいことが許されていたのは80年代までですね。当時はポストモダニズムと呼ばれる文化運動が盛んだったのですが、90年代に入るとその反省から、思想も文学もとてもシリアスになった。私見では高橋さんの作品にもその変化は表れていて、90年代も後半以降は、『日本文学盛衰史』(講談社文庫)★3のように、日本文学の全体を引き受けるような大きな仕事をされるようになっている。──そこに巨大な震災が起きて、なにもかもバカバカしくなったという。それは重要です。危機と対峙するということは、すごく極端なこと、ときにバカバカしいことを考えることでもあるはずです。そういう「危機の思考」が、実は90年代からゼロ年代にこそ忘れ去られていて、震災によってもう一度帰ってきたとも言えるのではないか。ひとつが『恋する原発』なのではないか。

 日本人は震災の前から、社会をこうした方がいい、経済格差を解消しなくてはならない……と、ずっとまじめに議論してきました。しかし、今回それがすべて吹き飛んでしまった。もちろん、いまでも一生懸命まじめに考えている人たちを否定するつもりはない。ただ、いくらまじめに考えても、否応なくそれが吹き飛んでしまう瞬間というものがある。震災はそういうものとして現れた。

 ここまでの話を受けて、市川さんはどうですか。
市川 気がかりなのは、まじめさが吹き飛んでしまうときに人がどこに向かうのかということですね。「まじめに考える」というのは、ときに「議論のための議論」のような「なにかのためのなにか」になってしまうことがあります。しばしば悪く言われるけれどそれが一慨に悪いというのではなく、ある種の慎重さや、なにかをやりつつ同時にそのプラットホームについて考える、というのはそういうことだと思うんです。ただ、それは不可避的にだらだら感も出るから、そういう日常が続いてきたところに今回のような巨大なインパクトが来ると、議論のための議論なんて誰もしなくなって、極端に前衛化する人と、反動化・保守化する人が出てくる。

 3.11のあと真っ先に念頭に浮かんだのは、湾岸戦争のときの文学者たちの署名でした。当時、東さんや僕の世代は学生でしたが、その立場で見ると、はるか離れた日本で、日本語で文学者たちが署名することに意味があるのかどうか、よくわからなかった。続けて1995年には、阪神・淡路大震災が起きる。田中康夫さんが自転車に乗って神戸まで行ったときです。署名とは真逆の行動で、称賛されて彼はそのあとに政治の世界に行くわけですが、そこまで通して振り返ると、それが「文学者」の振る舞いなのかはわからない。結局、ひとりの個人としてなにかをすることは容易でも「文学者」としてなにかをするというのは実は難しくて、極端な言葉に走ってしまうか、逆にひどく凡庸な言葉に走るかになってしまう。理念としての「文学」と、実体としての「この私」が乖離する。──震災であれ戦災であれ、大きな出来事とはそういう経験なんだとあらためて思いますね。

 同意見です。僕はもともとジャック・デリダという哲学者を研究していて、大学の当時は「コンスタティブ」とか、「パフォーマティブ」とか、「誤配可能性」がどうこうという、ある意味で役に立たない、思考実験のような言語理論を研究していました。ところが、震災以降のツイッター上のコミュニケーションを見ていると、まさにデリダ的意味での「誤配」だらけなんです。科学者が「安心してください」と言えば言うほど、そのメッセージがまったく正反対の「危険だ」という意味に受け取られ流通していく。これはまさに、デリダをはじめとする哲学者たちが、高度な理論のもとに予測していた事態そのものです。それを観察していて、やはり哲学や文学は本質的に危機の思考なんだな、と思いました。だから日常の平和な世界では、それがなんの役に立つのかよくわからない。

高橋 震災の直後、作家たちはみんな「書きにくい」という話をしていました。なぜ書きにくいのかというと、自分の書いたものが読めないんです。日常生活の底に潜む危機とか夫婦の不安とか、存在の不安とか、バカバカしくて書けないし、読めない。つまり、いままでの書きかたでは危機に対応できない。ただ、これは震災以降に始まったことでもないという気がします。どういうことかというと、ちょうど1週間前に、同じ会場で古井由吉さんの作品集の刊行を記念してトークイベントがありました。僕も登壇したのですが、そこでおもしろいなと思ったのは、古井さんはいま75歳で、震災以降も書き続けていて、日本文学の王道を行くような人にもかかわらず、自分では全然そう思っていないと言ったんです。僕はその理由を聞いてびっくりしたんですが、自分より若い作家たちは文章がきれいすぎると。彼はいわゆる「内向の世代」に属する作家ですが、彼ら以前の作家たちは、そもそも文法的に誤りがあったり、てにをはが間違っていたりと、文章がめちゃくちゃだった。それに比べて若い作家たちはなぜ、みんなきちんとした日本語を書いているのだろう、と疑問に思ったと言うんです。すごく繊細に、細かな違いを描き出そうとしているのだけれど、その前にもっと考えるべきことがあるだろうと。たしかに古井さんの小説は、いま読んでも日本語が変なところがある。

 なにを言いたいのかというと、僕はやはり3月以降、ほとんどの小説が読めなくなりました。自分のなかで言葉に対する感覚がものすごく鋭くなっていて、まさに危機対応の状態なので、ほとんどの小説が読めなかった。たとえば和合亮一さんの詩も、すごくまじめに書かれているのだけれど、だからこそ読めない。一方で、古井さんの文章は読めたんですよ。なぜかと言えば、いろいろなものが間違っているから。つまりどういうことかと言うと、きちんと書けるということは、文章のことしか見ていないということでもあるのではないでしょうか。この世界についてもっと知りたい、それを書きたいと思うと、言葉がおかしくなるはずです。もちろん、小説家は技術によって言葉を整えるのだけれど、そういう、言葉しか見ていない作家の文章は読めなくなってしまった。僕は3.11以降とくに顕著になったのだけれど、本当はいつでもそうでなきゃいけないのかもしれない。震災が起こったからといっていきなり、「ああそうだ、言葉の奥にある危機を、真理を見つけなきゃ」と思うのも変ですよね。『恋する原発』はもともと9.11のあとに書きたいと思っていて、一度失敗した小説なんです。だから、危機に対して作家が、というよりも自分がどう言葉に接するかということについては、ずっと考えてきたつもりです。さっき東さんが、80年代に戻ったと言ってくださいましたが、僕も思い出したという感じです。30年前にデビューしたとき、僕は、世界がこんなに大変なことになっているのに、なんでみんなまじめな顔をして小説書いてるんだと思っていました。当時は別に震災も起こっていないし、日本は右肩上がりのさらに頂点へ向かっていて、世のなかも明るかったにもかかわらずです。それから10年、20年と努力はしてきたものの、なかなかうまくいかなかったところもあります。

言葉の機能と教育の失敗


 高橋さんはいま、現実をそのまま描写する言葉はたんなる言葉にしか見えなくなり、読めなくなってしまったと言われました。僕も同じような感覚がありました。たとえば震災直後、ツイッターでなにをつぶやけばいいのか。僕はジャーナリストでもなく、政治家でもなく、社会学者でもないので、決定的に無力です。だからそこで、別につぶやかなくてもいいという選択肢はあるんですね。しかしつぶやかなければつぶやかないで、それもまたひとつのメッセージになってしまう。

 そういう無力感を経て思ったのは、僕はやはり文学者であり、そのジレンマを脱するためには文学とはなにかを考えなければならないのだ、ということでした。ここで文学者というのは、小説家というだけではなく、哲学や思想に関わるような広い意味の「文学者」です。だから、震災のあとは、むしろ文学とはなにかについて考えこむようになりました。しかし、だからといって文芸誌を読むかといえば、そうはならない。そういう精神状態がずっと続いています。

市川 その感じはよくわかります。言葉には、象徴的ななにかを目の前に落としこんでくる力がありますよね。高橋さんが古井さんについてのくだりで言われた、ある言葉が文法的に的確に過不足ない状態というのは、要は「言葉が世界をうまく整理し象徴できている状態」ということですよね。でも、福島第一原発の事故を見ると、そうやすやすとは象徴化できない。恐れすぎているのか軽んじすぎているのかは人によってそれぞれでも、不可視の変数がなくならない状況では「出来事が、過不足なく言葉と一致する」ことはありえないわけです。そのことが、言葉の困難をあらためて浮上させますよね。だからこそ、原発事故については過不足のある、収まらない言葉で語っていくしかないと思う。けれど、ちょうど昨日(4月13日)、「安全性を確認しました」★4という、あまりに過不足ない言葉=なにも意味していない言葉で原発の安全が確認されたことに、ちょっとびっくりしています。「愛しています」という言葉が本質的にはなにも言っていないにもかかわらず、だからこそ概念としての「愛」を構築できる……といった概念上の話とは違うから、「安全です」と口で言うことにはなんの意味もない。意味を与えるには、これまで用いられてきた「安全」という言葉とは違った概念の「安全」が生まれることを許容しないといけないわけで、これは本質的には文学の問題なんです。そのことを、僕たち文学者は許していいのか。いま東さんが、文学について考え込んでいるというのも、結局はこういうことなのではないかしら。

 僕は原発事故については、本当に問題なのは原子力の技術そのものの安全性ではなく、ガバナンスの安全性だと思っています。今回はガバナンスの失敗が露呈した事故なんです。

 そして、ガバナンスというのはつまり、日本人同士の内部コミュニケーションの問題です。事故後の処理の問題も含め、日本人は、同じ日本語をしゃべっているおかげでなんとなくコミュニケーションが取れているつもりになっていただけで、実は全然コミュニケーションが取れていないことが露呈してしまった。それが3.11の衝撃です。政府と一般市民のあいだでもそうですし、科学者とそれ以外でも同じです。

 だから、僕たちはいまこそ言葉の機能について考え直さなければならない。そして、話が通じないときに、それに気づく感性だとか、話をすり合わせていく技術とか、発言が誤解されたときに、そもそも誤解自体が言葉の機能のひとつだと理解し鷹揚に構えるとか、そういうことはすべて文学の問題なんですよね。文学が教えなければ誰も教えない。ところが今回の事件では、行政官もエンジニアも「私は正しいことを言いました」「誤解しているみなさんがバカです」と言うばかり。文学的素養がなさすぎる。文学なんて役立たないと人は言いがちですが、僕は逆に、一連の騒動を見ていて、日本人はいまかなり実利的に文学を必要とする局面に来ているのではないかと思いました。
高橋 東さんが言ったように、文学というと、小説や詩といったフィクションを鑑賞する局面だけがイメージされてしまうのですが、本当はものすごく実利的で実学的な側面があって、実は役に立つものだと思います。コミュニケーションについて考えてみても、たんなるコミュニケーションのための言葉ではなく、文学の言葉のほうが、遠くまで確実に、間違えずに伝わる。ただしそれを使いこなすには、やはり文学の素養が必要です。たとえば3.11のあと、菅首相が退陣する時期に、何人かの民主党の議員が、『文藝春秋』に立候補演説のようなものを寄せていました。これを読むと、もうひどいということを通り越している。意味はわかりやすいんです。震災があって大変な目に遭った、日本国民はこれから復活しなければならない、原発は事故が起きて問題になっているけれど、かといって経済的な観点からするとないがしろにはできない──。こういう常識的な見解が、全員同じ文章で、それこそきれいな日本語で過不足なく書かれている。でもそれは、震災があって、多くの人が大変な恐怖を感じたり、驚いたり、いままでの生きかたや感じかたに疑問を持ったことについては、0.1%も答えていない。それを疑問にも思っていないんですよね。僕たちと政治家のあいだには、ものすごく深いコミュニケーションギャップがある。しかし、向こうはそのギャップを認識してもいない。

 昔から政治家は他人の話を聞いていないとよく言いますが、科学技術者でも、経済関係の人間でも、そういうコミュニケーションギャップはたくさんある。彼らはルーティン化された思考回路があって、そこから一切出てこない。安冨歩さんが『原発危機と「東大話法」』(明石書店)で、「俺はこう思っていて、これは正しい。なにか質問は?」という形式の話法は、東大出身の官僚だけでなく、ある時期から日本に広く浸透していると指摘されています。そういう言葉が主流になっているなかで、言葉遣いに対して違和感を持ちながら、不安だけが増している。そこで僕たちになにができるのか。いままでの読者も言葉を失っていて、従来の小説を出しても読んでくれない。でも、読者は言葉を必要としている。政治家のようにコミュニケーションを無視しようとしているわけではなく、やはりなにかしらコミュニケーションを欲しているはずだし、この世界の意味を知りたいと思っている。そういう読者に向けて僕はあえてバカバカしいことをするというやりかたを取りましたが、それだけではなくもう少しポジティブな意味で違ったものを書かなければいけないとは思っています。

市川 言語を介したわれわれのコミュニケーションは、本質的に常にギャップを抱えていて、伝わっていないのに伝わったつもりになってしまう。ただ、日本的な文脈下では、それがよく弥縫されすぎてしまうんですよね。「KY」という言葉が流行ったことに象徴的なように、「相手のことを慮って理解する」能力が、この国ですごく麗しいものとされてきた。そのことと、一方向的な権力構造が共存すると、先ほど高橋さんが言われたように「権力者の言葉は、受け取り手が努力して理解し受容すべきだ」となってしまう。「善処します」とか「前向きに検討する所存でございます」とか、名前だけを連呼する選挙カーとかも同じなわけです。その名前に勝手にどんな期待を読み込むか、そして裏切られても自分のせいと思うか、が「選挙民」には求められている。これは実は、政治の話だけじゃなくて、メディアも教科書的な文学も同じなんですよね。ところが今回、受け取る側が、巨大なインパクトのせいで言葉をうまく受け取れなくなっている。そこで高橋さんは小説家として、そのトラブルを突き抜けて届く言葉を書きたいのだ、と言われているのではないですか。僕は僕で、東さんに約束したのにまだ7割くらいしかできていない原稿で、その強い言葉とはなんなのか、突き抜けて届く言葉とはなんなのかと、ちょうどいま詩について書いています。

 ただ、他方で「強いだけの言葉」もありますよね。いま言ったような環境下で政治家やメディアが逆にあざとい強い言葉を作ったとき、それが過剰に届いてしまうこともある。そういうものにどう立ち向かうか、実作者でもある東さん、高橋さんにぜひ聞いてみたい。
 
 突き抜けた言葉にはいいも悪いもなく、突き抜けたからにはいい言葉なんじゃないか。

市川 とにかく突き抜ければいいと?

 とりあえずはそうだと思います。まずはそのレベルのコミュニケーションが取れないと仕方がない。

 多くの人が、「情報」と「言葉」の区別がついていません。言葉というのは、効率よく情報を伝えることができる媒体ではない。効率よく情報を伝えたいならば、むしろ言葉を発しないほうがいい。というのも、言葉は必ず、情報に付随するプラスアルファのなにかをそこに入れ込んでしまうので、同じことをきちんと正しくしゃべれば伝わるということにならないからです。同じ内容でも、繰り返して伝えれば、繰り返すということ自体がメタメッセージを持ってしまったりする。裏返せば、言葉の技術は総合格闘技のようなものです。ただ強いやつが勝つ。それがあまりにもわかられていない。

 すごくいやらしい例を出せば、たとえば震災瓦礫をどう処理するかという問題がありますよね。石原都知事は知識人にあまり評判がよくないですが、彼が「瓦礫は受け入れるに決まっているだろう」と言って、とくに反対運動も過激化せずに通ってしまう。これは一体どういうことなのか。神奈川県や静岡県島田市など、大変な騒ぎになっている地域もたくさんありますね。それに比べて、石原さんはパターナリズムかも知れないけれど、そこでは世論のコントロールに成功している。これは、やはり石原さんの言葉遣いがうまいというほかない。常識的には彼は失言を繰り返しているように見えるのだけれど、それもまた政治生命を絶つようなクリティカルな失敗にはなっていないわけで、そこはうまいんですよ。

 これは極端な例ですが、本当は政治家というのはそういう意味で「言葉遣いがうまい」人でないといけないはずです。そういう意味で、やはり政治家や科学者は小説を読んだ方がいい。日本では、頭がよくて仕事ができる人は小説を読まないのが当たり前になってしまっている。

高橋 さっき東さんがおっしゃったように、強い言葉は善悪に関係なく届く。それがいいかどうかはわからないけれど、いまは強い言葉しか届かない時期ですよね。文学には強い言葉も弱い言葉も両方使えるし、弱い言葉にもよさはある。けれど、いまは強い言葉が持っている機能を最大限使うようにしたい。東さんがやってらっしゃることも同じように感じていて、すっかり文学の人になってしまったなあ、と思っています。

 いえいえ、憲法を作ったり、テレビのキャスターを務めたり、いろいろとやらされています(笑)。僕自身としてはもっと文学に力を入れていきたいんですけど。

高橋 いや、むしろ『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社)を書いていたころよりも、いまのほうがずっと文学者らしい活動のように見えます。これは震災前から続けられていますが、個人で出版社を立ち上げて、執筆者にきちんとした原稿料を払い、自分の足場を固めて雑誌を出す。これは一見、文学となんの関係もないように見えますが、僕はこの活動自体が、すごく文学的だと思うんです。普通、自分の思想とか考え方を楽に伝えようと思ったら、原稿を書いて出版してもらいますよね。で、それを読者に読んでもらう。反応があったら次を書く──というふうに完結してしまう。でも、もし本当に考えていることを書こうとすると、出版社に「こういうものを書いても売れない」とか、「こういうことは望まれていませんよ」と言われるかも知れない。自分で自由に書きたいことを書くためには、会社を立ち上げるしかない。先日亡くなられた吉本隆明さんは、1961年に『試行』という雑誌を創刊して、最初は300部や500部、最盛期で8000部出していました。自分の家を事務所にして、発送は家族が1部1部手作業で入れる。なぜそういうことをしたのかというと、自分の言論の場がないとなにも言えないと。つまり、書くために場所を作る。そういう活動は、一般的な意味では文学には含まれないけれど、僕はそうやって自分の書く場所を作ることも、「文学」に含まれると思う。だから、そういう活動を始めた東さんを見たときに、「ああ、やっぱりこの人は文学の方に来たな」と思ったんです。
 ありがとうございます。こういう現場主義的発言はあまり好きではないのですが、こと文学についてはこれしかないとも思うようになったんです。文芸誌はつまらないとか、芥川賞は中止するべきだとか外野で言っていても意味がないわけで、粛々と自分で場を作るしかない。だからこれから10年くらいで少しでも状況を変えることができたらいいな、と思っています。

 僕は将来的には、『文藝春秋』のような論壇誌は、ブログの集合体に還元され、ゆるやかに役割を終えていくのではないかと思っています。他方、文学はストックとして読まれるものなので、毎日無料で読めるように連載すればいいというものではない。だから文学や小説については、定期刊行物というかたちはある程度残るのではないかと予想しています。ですからゲンロンでも、いずれ文学や小説の雑誌を手がけるかもしれません。

 また、先ほどの話に戻るようですが、僕は人々がここまで文学から背を向けてしまうようになったのはなぜかが気になります。科学者や政治家やブロガーは、文学を全然尊敬していない。ここで「文学」とは、小説のことだけではなく、要は「噓をつく言葉」のことです。日本人は噓をつく言葉に対してあまりに免疫がない。噓は悪い、とんでもない、ということになってしまっている。しかし、噓をつく言葉に普段どれほどの頻度で触れているかは、その人間の言葉の能力を決定的に規定するのですね。そういう点で日本の国語教育は今後変えていくべきだし、また、文学なるものを、もう少し人々から尊敬されるものに変えていきたいとも思っています。

市川 僕も東さんも高橋さんも大学で教えていますが、日本の国語教育はその起源からして、すごく歪んだシステムですよね。明治以降、文学的なものや倫理的なもの、文法的なものをすべて一緒くたにして「国語」として教えてきた。それは近代の初期には必要なプロセスで、言文一致を実現し、近代人とはこういうものだと示さなくてはならなかった。そのプロセスを、明治とは違うかたちでもう一度やり直す必要を感じています。というのも、メールなりブログなりツイッターなり、一般の人でも言葉を使う頻度はものすごく上がっている。にもかかわらず、スキルがついていっていないので、端的に言葉のスキルを上げる必要がある。東さんが言ったような噓をつく言葉に慣れることと同時に、他方でレトリックの引き上げも図らないといけない。

 それに、大学で学生を教えていても、コンテンツはコンテンツそのものに価値があり、批評はその価値を正しく伝えるものだと思っている人が実に多い。でも、それは根本的に間違っています。コンテンツそのものに価値がなくても、批評によってその見かたを変えさせれば、すばらしい作品になる。これは当たり前で、あるコンテンツの価値は、コンテンツそのもののなかにあるのではなく、読者との心理的な相互作用によって決まるものなんです。だからコンテクストによっていくらでも変わる。

 原発事故についても同じことが言えて、ある対象が安全かどうかは、そのものだけでは決まらない。安全や安心といった感情は、心ともののあいだに生まれるわけです。だから、除染作業のような物理的な対応と同時に心理的なケアも行わないと、いつまでたっても安心感なんて生まれるはずがない。これはすごく当たり前のことですが、いまの日本ではその基礎的な認識が完全に欠落している感じがします。現実は物質的な現実と心理的な現実の相互作用で生まれるものなので、他者の心を操作することとか、あるいは自分自身の心が常に操作されていることには自覚的でないと、現実を動かすことはできない。

 こういう啓蒙は、本当は文学者の役割でした。震災で見えてきたのは、日本の文学者はいつの間にか、そういった役割から完全に撤退していたということです。
 
高橋 実際にはより悪化してますよね。3.11前にはもう少し余裕があって、生の現実とそれが切り結ぶ言葉のあいだに少しずれがあるということは感覚されていたかも知れないけれど、いまは余裕を失っている。「原発は怖い」、「震災瓦礫は危険だ」という言葉に、本当にダイレクトに反応する。これを機会に、言葉と現実は実は直接には結びついていないことに気づいてもらうチャンスだったのに、どんどん真逆の方向に進んでいっている気がします。

 加えて言うと、興味深いことに、放射能汚染への評価が文系と理系で見事なまでに分かれましたよね。僕の周りでも、たとえばミュージシャンやデザイナーといった人々は、みな震災瓦礫の受け入れに反対している。他方、行政官やエンジニアは安全だから問題ないと言う。

 この点、もしかして高橋さんや市川さんと考えかたが違うかもしれないのでお叱りを覚悟で言いますが、僕はこういうときは、僕たち文学者は、事態に対して距離を取るべきだと思っています。「原発は怖い」「再稼働反対!」と声高に叫ぶのではなく、そもそも危険であるとはどういうことなのか、それ自体が言葉で作られる現実なんだという認識の下で、ワンクッション置いたところから行動を起こすべきだと思います。

市川 その通りだと思います。原発事故という出来事がまずあって、それを人々がそれぞれに認識するときに、その認識の仕方の鍵を握っているのが実は言葉でありロジックなのだから、そこを捉え直すことが僕たちの仕事のひとつであり根幹でもある。ただ、言葉の機能について啓蒙しようとしたときにそれを伝えるのもまた言葉だから、正しいことを伝えるのは一番難しい。最初の方で「議論のための議論」に見えてしまうもののことを言いましたが、「ワンクッションを置く」ことを伝えるための言葉を作るところから始めなければならないなら──それが「危機のときの言葉」なのだと東さんはさっき言われて、僕もその通りだと思うのですが──、それを待てない人たちにどう伝えればいいのだろう、と思ってしまいます。

高橋 東さんが言ったように、反原発にしろ脱原発にせよ、なにかアクションをするときには、そこで様々な可能性を論じるようなことはあまりなく、とりあえず原発は止めよう、ということしか言わない。そういう状況下で、文学者なんだからそれに参加するのではなく、もう少しできることがあるだろうと言われると、それはその通りです。でも、僕は少し違うことを考えています。僕自身はデモをするとか、お金を払って意見広告を出すとか、そういうアクションに参加します。でも同時に、公開された民主主義の下で原発を選ぶというのであれば、それは支持すべきだとも言います。そう言うと、じゃあお前の立場はどちらなのかと詰め寄られるけれど、本当のところどちらでもないのです。この複雑な現実でどちらかひとつを選べと言われても困る。AとBというふたつの対立する意見がある場合、そのあいだには多様なグラデーションがあって、だいたい自分のなかでも意見がひとつではないから、ある程度幅を持った考えかたになるはずです。その幅をひとことで説明することはできないので、僕はあちこちに行って矛盾したことを言ってもいいと思います。どっちですかと言われても「どっちでもない」と答える。で、別のときには「どちらかというと反原発です。でも原発を扱う科学者がいないと廃棄処理のときに困るから、原子力の研究者は育成してほしい」と言う。かっこいい言いかたをすれば、文学の言葉には、どれかひとつを選ぶのではない多面性がある。かっこ悪い言いかたをすると、たんにアバウトですが(笑)。それでいいんじゃないかと僕は思います。

 これは難しい問題で、僕は基本的に脱原発の立場ですが、それとは別に、文学者はこういうときに、いろいろな人としゃべれることが役割であるべきだと思っているんです。だから、高橋さんのおっしゃっていることを僕なりに理解すると、たとえば、いまアクティビストは行政官とはまともに話ができなくなっている。けれども文学者ならばできるだろうと。「思想地図β」で震災特集号を組むときにも気をつけたのは、原発について危険だという人にも安全だという人にも声をかけて、場の多様性を確保することです。

 震災を機に、いままでもすでにばらばらになりつつあった日本に、かなり大きな亀裂が入ってしまった。そこで亀裂を埋めるのは言葉しかない、と僕は思う。僕たちはもう共通の伝統的意識とか、共通の国民としての誇りは持ち合わせていない。ではなにがあるのかと言えば、幸運なことに、日本語話者と日本人はほとんど一致している。いろいろな政治的立場や背景の人間がいても、日本語でコミュニケーションを取るしかない。それこそがこの国家の最大の強みで、この原理に立ち返ったときに、実は文学の役割はとても大きいものになる。だからこそ僕はいま、文学者はデモに行くことよりも、いろんな人をつなぐことこそが求められているのではないかと思っています。

文学者の本当の仕事


市川 文学者の役割ということで言うと、赤川次郎の投書が『朝日新聞』のオピニオン欄に掲載される、ということがありました★5。彼は橋下徹の文楽批判に対して否定的な内容を寄せているのですが、彼の作品が文学的かどうかとは関係なく、ベストセラー作家が──もちろん本当は出来レースかも知れませんが──新聞の投書欄に一市民として言葉を届ける行為自体は、シンボリックに文学的ですよね。そういうことを各自がやっていけばいいのではないかと思います。その積み重ねが、日本語を用いて人と人を結びつけるという、東さんが提起している問題ともつながっていくのではないでしょうか。

高橋 同感です。結局言葉を使っていく、ということでしかないでしょう。具体的にどういうことかと言うと、お膳立てされた文芸誌とかそのなかの小説を書くということだけではなくて、ツイッターでも、いままでに書いたことのない論壇誌でも、ものすごく商業的な雑誌でも、言葉を使える場所であればどこにでも出かけて行く。そういうところに、勝手に乗り込んででも言葉を使う。3.11以降、僕はどこでも発信すること、続けて発信することが大事だと思っていました。これはちょうど、「日本文学盛衰史戦後文学篇」を連載していて、偶然終戦直後の作家たちの言動を追っていて感じたことですが、やはり敗戦は作家だけではなくて日本国民全員にとって衝撃的な事件で、人々は呆然とさせられていた。そのときほとんどの作家たちはいまと同じように、どうしていいかわからなかった。そこでものすごくクールに見ながら行動していたのが太宰治と坂口安吾のふたりで、彼らのなにがすごいかと言えば、ずっと書き続けていたことです。年表を見ると終戦直後はこのふたりしか作家がいないのではないかというくらい書いています。新聞にも書くし、わけのわからない雑誌にも書く。小説も書くし評論も書くし、なんでも書く。それから1年、2年とたつとほかの作家たちも戻ってきて戦争について書くのだけれど、みんなが敗戦で言葉を失っているときに、太宰と安吾のふたりは、「俺はこう感じた」とか、「ここは変だよね」とか、「やっぱりまずは飯を食うことが大事だ」というように、ひとつひとつ適切なメッセージを言葉にして載せていた。変な言いかただけれど、これが社会学者にも科学者にもできない、一番有益で実用的な、文学者らしい仕事だと思うんですよね。

 危機で混乱しているときに言葉を発するのが大事だというのは、僕も実感しています。僕が震災後、一番初めに仕事で会ったのは、実はジャーナリストの津田大介さんでした。1週間後にある番組の収録があって、そこで顔を合わせたときに、たとえいま軽率に見られても、ここでなにか発言している人と黙ってしまう人では、将来決定的に評価が変わってしまうだろう、という話で意見の一致を見たんです。震災によって、それまでのルールがすべて新しいものに置き換わりつつある。たとえばツイッターでも、急速に新しく目立つ人が出始めていた。僕たちはこれからそのなかで仕事をしていなければならない──そう話しながら、ああ、津田さんとは同じ風景を見ているなと思いました。だから、いま高橋さんがおっしゃったことは個人的にもよくわかります。実際に歴史を振り返ってみても、太宰と安吾は文学史に刻み込まれている。

高橋 もともと文学の言葉は、正しいとか正しくないということと関係がない。だから、正しく言おうとする必要はありません。闇の向こうにあるなにかに向けて放り込む──評論の言葉とか経済の言葉であれば放り投げたら意味がなくなってしまうけれど、文学の言葉は闇に向かって投げれば、一瞬光ってくれるかもしれない。「向こうに闇がある」と示すこともできる。言葉の内容としてはときに矛盾するのだけれど、その中身はどうでもいいんだよね。
 いまの高橋さんの話はすごく重要ですね。話が戻るようですが、言葉というのは情報を伝えるためだけのものではない。そして、文学とは、実は言葉のそれら多様な機能の総体をまとめあげる技法としてある。震災では日本政府は、「正しい」情報を「正確に」伝えようとして情報公開を遅らせた結果、決定的に国民の信頼を失いました。そして政府が信頼を失った以上、結局はコミュニケーションのコストが上がっている。ああいうとき、文学的な直感が働く指導者がいなかったのはこの国の不幸です。

高橋 もっとシンプルに言うと、目の前で誰か川に落ちたとき、どうやって助けたらいいか会議を始めたりはしません。とりあえず飛び込んでしまう。結果的にうまくいかないかも知れないけれど、誰だって会議を始める人より、とりあえず飛び込む人を信頼する。それに、ツイッターの存在は大きかったですね。ご存じのようにツイッターには、小説を書くとか評論を書くのと別の機能があります。僕が好きなのは、人の文章を長々と引用して、みんながリツイートしていくと、誰の言葉だかわからなくなってしまうことです。最初は僕の引用だったはずが、そのうちそれもわからなくなり、ネットの海をさまよっていく。これは単純にいいな、と思いました。書いたものが印刷されて人々に伝わるのとは別に、電子の海のなかに流されて行って、それこそ誤配されて誰かのところに届く。そういう場所で書き、しゃべっていくということを大切にしていかないといけないと感じました。ただ震災以降、かつての牧歌的な感じが薄れて、刺々とげとげしくはなりましたけれど。

 よくわかります。インターネットの時代になったことで、むしろ言葉が持つ本来の多様性が見えるようになってきたとも言えます。ネットは文学的な言葉からすごく遠いものだと思われていますが、僕は決してそう思わない。ツイッターで日々起きているコミュニケーションの失敗、乱暴な要約、飛び交うデマといったものは、それぞれがとても文学的な事件です。言い換えれば、震災のタイミングでツイッターのようなツールを持っていたのは、むしろ文学的には「幸運」だったとも言える。多くの人が日々文学的な問題に取り囲まれるようになったのだから。

市川 太宰と安吾の話が出ましたが、彼らはまだ比較的楽だったと思うんです。闘う相手は軍部だったかもしれないし、社会だったかもしれないけれど、投げるボールは彼らのところにあった。ところが、今日、たとえば高橋さんであれ東さんであれ、言葉をインターネットに投げるときは、ワンオブゼムとして投げるしかないですよね。そのボールが光って流れていったとして、そのボールはもともと、高橋さんが投げたのか、東さんが投げたのかがわからない。そしてまたすぐに、次のボールを投げなくてはならない。そういう状況でボールを投げる強さが、これからの文学者には求められる。だからこそ、既存の職業作家や詩人ではない、新しい人がどんどん出てくればいいと思います。その新しいフォーマットとしての文学を、われわれはいま手にしようとしている。それは既存のシステムとは違ったかたちで出てくるのだろうと思うし、もうすでに出てきているのだろうという気がします。

 ところで、パネラーの紹介にはあまりに遅いタイミングですが(笑)、じつは市川さんは『早稲田文学』の編集チーフであり、『震災とフィクションの“距離”』★6という記録増刊をつい先日、早稲田文学会から出版されました。この本が画期的なのは多言語ですよね。英語のページが多く、中国語と韓国語の翻訳もある。こういった試みもいまの話と関係しているのではないかと思うのですが。

市川 そうですね。いま高橋さんが言った言葉がさまよっていくようなことを僕もやりたかったんです。英語や中国語、韓国語にもしてしまえば、もっと遠くまで行くんじゃないかと。でも、この局面で雑誌を編むのはしんどい作業ですね。やっぱり自分でボールを投げたくなるし、そちらの方が早いという気がする。僕は評論も書くので並行して作業するのだけれど、この1年間はすごく辛かった。

 なるほど。でも僕自身は、編集者で良かったと感じているところもあります。自分で媒体を持っているからこそ、いろいろなものを受け入れられる。先ほど高橋さんは和合さんの詩は読めないとおっしゃいましたが、『思想地図β』の震災特集号では、和合さんの詩を収録させてもらいました。でも僕自身の仕事が和合さんと交差するかといえば、それはまた違うわけで、こういうことも編集者だからこそできたわけです。
 ところで、少し和合さんの擁護になってしまいますが、彼は最近『ふるさとをあきらめない』(新潮社)という、福島在住の被災者25人の証言集をインタビューとしてまとめているんですね。僕はこれは非常にいい仕事だと思っています。和合さんは中原中也賞も受賞している、現代詩の本流の人です。そういう詩人が市井の人の声を、何時間もかけて聞き続け、活字にしている。インタビュアーが詩人なので、ジャーナリストのインタビューとはかなり趣が違っていて、被災された方がどういう行動を取ったのかという記録が入っている一方、その人の生活とか世界観も描かれている。なかには、これはあとから記憶が塗り替えられているな、という主観的な発言も結構あるんです。たとえば原発事故のとき、4kmくらい離れている地点で、前髪が揺れて爆風を感じたという証言があったりする。

高橋 間違いなく違うはずだよね。
 でもそれがあえて収録されている。僕は、それがとてもいいと思ったんです。ほかにも黒い雨が降ったという証言もある。これもおそらく事実ではなく、降っていたとしても放射能汚染とは別の要因でしょう。つまりある種の記憶改変なのですが、しかし発言者のなかではそれが真実なんですよね。そういう部分も含めて記録に残すのは、やはり文学者にしかできない仕事です。もしジャーナリストであれば、こういう「間違った」エピソードはカットしてしまうでしょう。実際に誤った情報だし、それを掲載することは、インタビューの受け手にも悪いはずだと考えてしまう。でも、それを切らないで残しておくことこそ、文学者の使命なのではないか。和合さんは、この震災をきっかけに現代詩の世界から外に足を踏み出した。そこには僕は共感しているところがあります。

高橋 すみません、ひとつだけ訂正します。僕たちが通常「読めない」というと、つまらないとか大したことがないという意味で言っているように聞こえるはずですが、ここで僕が言いたかったのは、文字通り、言葉が頭のなかに入らない状態になっているという意味です。それは作品の良し悪しとは関係がありません。──それで、話を戻すと、いまの話も共感するところがあります。文学にはもともといるべき場所なんてなかったのだけれど、いつの間にかそういう場所があるように錯覚しちゃっていた。

 その通りだと思います。先ほど文学作品の言葉がどれもきれいに整っているという話がありましたが、ネットを見ればひと目でわかるように、日本語がいまきれいになっているなんて現実はない。むしろ、狭い意味での文学、いわゆる「文芸誌の純文学」が、「きれいな」日本語以外の文章を排除するようになってしまったということでしかないと思います。しかし、文学は多様な言葉に開かれていなければ存在しえない。

市川 僕が言うのもなんですけれど(笑)、多くの読者の人たちは、文芸誌なんて基本的に読まなくていいと思うんです。というのも、本当にいい小説は文芸誌に載ったあと、単行本で広く読まれるから。実際、文芸誌の目次より、書店や図書館の棚の方が、当たり前だけれどはるかに多様で広いんですよね。そこで言葉に出会えばいいし、それを忘れて文芸誌の枠のためだけに書かれているものなんか、本当に必要がない。だからと言って「本当の文学」がどこか別の場所にある、というのでもないけれど、文芸誌だけでなくネット上の掲示板であれエンタメやライトノベルであれ、狭い場所で自足している言葉はぜんぶ、倒してしまえばいいんじゃないですか。

 僕としては、倒すというより、無条件に受け入れていくべきだと思うけれど。

市川 優しいね、なんか普段と役割が逆な気がします(笑)。

 いや、優しいのではなく、結局は受け入れることからしか、新しいものは生まれないと思っているんです。個人的な話になりますが、僕は中高生からずっと純文学とSFを読んできて、本格的にミステリを読んだのは実は20代も後半になってからなんですね。そのときに僕は海外ミステリと日本ミステリを同時に読み、そのあまりの豊穣さにびっくりした。それまで日本の小説はある程度読んでいるつもりだったのだけれど、ミステリといえば松本清張と西村京太郎くらいしか知らなかったわけで、実は全然わかってなかったんですよね。そういう自分の貧しさを、26、27歳くらいのときにまとめて発見する。そのときの驚きは記憶に残っていて、いまでもまだ、僕が気づいていない鉱脈がすぐ近くに眠っているのではないかと期待し続けているところがあるんです。そういう経験は、まずは身を開き、未知のものをどんどん受け入れていかないと出てこない。

市川 それはまったくその通りで、いま東さんはミステリの話をしたけれど、僕は去年、海外小説ばかり読んでいました。バルガス・リョサにしてもマーガレット・アトウッドにしても、今日の日本の状況を思わせたりそれに拮抗するものがあって、圧倒的に大きくて強いんです。日本の書き手たちは、ああいうものにもっと触れないといけないし、いろいろなジャンルにも触れるべきだと、自戒も含め、もちろん思います。だから、「倒す」というのは、そういう多様な作品におののいたうえで自分たちの言葉をどう構築するかを考えたいし、自分たち自身をも「倒す」のだということです。

 もちろんそうです。でも、まずは受け入れることが大事だと思う。高橋さんは先ほど、僕が自分の言葉を届けるために雑誌を作ったとおっしゃってくれました。半分はその通りだとしても、残りの半分はやはりそういう「わけのわからないもの」を受け入れるための場所なんです。いまはそういう出版社が減りました。

高橋 1960年代に一番元気だったころの現代詩はいろんな意味で無茶苦茶でした。マンガに接近し、映画にも接近し、評論にも接近し、なにがなんだかわけがわからないものがいろんな現代詩系の雑誌に載っていた。僕はそういう本を読んで作家になりました。だけどしばらくすると、詩はそういう、なにをどう書いてもいいという自由さを失って、すごく狭いところに入らざるをえなくなった。小説も常にそういう危険と隣り合わせで、いまやはりまた、現代詩と同じ道に進もうとしているので──震災を機会に、と言うと語弊があるけれど、これをいい機会にして──小説なんてもともと雑食的なジャンルなんだから、それこそアメーバのようにあらゆるところに進出していくものとして考えたいし、僕もそうしていきたい。そういうものを見たいし、そういうものがあるところには出かけていきたい。そしておふたりには、そういう場所を探していただきたい、と思っています。

 といったところで、残念ながら閉会時間も迫ってきたようです。今日は、震災後の文学の、そして文学者の役割をめぐり、たいへん刺激的な会話を交わすことができ、僕個人としても身が引き締まる思いがしました。今日は会場の制約で時間切れですが、ネットからは、時間が延長できるスタジオでぜひ2回目をやってほしいというコメントもたくさんいただいています。ぜひ、また、高橋さん、市川さんとは議論を交わしたいと思っております。

市川 ちゃんと原稿を書き終わって、ですね(笑)。

 そうですね。本日の議論を受けてますます深みを増した玉稿を賜り(笑)、『日本2.0』がぶじ刊行されたあとに、またお会いしてお話できたらと思います。今日は本当にありがとうございました。
 
2012年4月14日
東京、紀伊國屋サザンシアター
構成=編集部



★1 『日本2.0 思想地図βvol.3』(ゲンロン)は2012年7月8日に刊行された。原稿は本鼎談の収録後に無事入稿され、高橋の小説「なんでも政治的に受けとればいいというわけではない」、市川の文学論「文学2.0」がともに掲載されている。

★2 川上弘美「神様2011」、『群像』2011年6月号、講談社。原型となった1993年発表のデビュー作「神様」とともに掲載され、同年9月に単行本化された。「神様」は近所に引っ越してきた「くま」と「わたし」の交流を描く寓話的な作品だが、「神様2011」は「神様」の文章を一部改変する形式で、「あのこと」(作中では明示されないが、震災および原発事故を指す)が起きた世界での、「くま」と「わたし」の交流が描写されている。

★3 高橋源一郎『日本文学盛衰史』、講談社文庫、2004年。日本近代文学史上に名だたる文人たちが総動員され、田山花袋がアダルトビデオの監督を務める、石川啄木が援助交際を行うなど、フィクションを交えた各人のエピソードの積み重ねによって語りが進められる長編小説。続編「日本文学盛衰史 戦後文学篇」は『群像』2009年10月号から2012年6月号まで連載された。

★4 2012年4月13日、野田内閣は定期点検で停止中だったおお原発3、4号機について関係閣僚会合を行い、再稼働が妥当だとする判断を下した。それを受けて同日に枝野幸男経済産業大臣による会見が開かれ、3、4号機について安全性が確認され、また電力需要から見て再稼働は必要であるとの見解が表明された。これらの判断を受け、3号機は7月5日、4号機は7月17日から運転を再開している。

★5 『朝日新聞』2012年4月12日付のオピニオン欄「声」に、掲載された投書「橋下氏、価値観押しつけるな」のこと。「作家 赤川次郎(東京都港区 64)」による投稿で、橋下徹大阪市長の文化事業に対する理解不足や、卒業式における国歌斉唱の監視について批判する内容となっている。

★6 『早稲田文学 記録増刊 震災とフィクションの“距離”』、早稲田文学会、2012年。東日本大震災を受け、早稲田文学を中心に立ち上げられたチャリティ・プログラムに寄せられた短編小説および対談、座談会などを収めているほか、全16短編すべての英語訳や、一部作品の中国語・韓国語訳が併録されている。

市川真人

1971年生まれ。文芸評論家。早稲田大学文学学術院准教授。著書に『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』(幻冬舎新書)、『現代日本の批評 1975-2001』『現代日本の批評 2001-2016』(共著、講談社)など。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。

高橋源一郎

1951年生まれ。作家。1981年「さようなら、ギャングたち」で群像新人長編小説賞優秀作を受賞してデビュー。著書に『優雅で感傷的な日本野球』(1988年、三島由紀夫賞)、『日本文学盛衰史』(2001年、伊藤整文学賞)、『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』(2005年)、『さよならクリストファー・ロビン』(2012年、谷崎潤一郎賞)、『ゆっくりおやすみ、樹の下で』(2018年)、『今夜はひとりぼっちかい?』(2018年)ほか多数。
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