犬とともに生きるということ──「なぜ犬は人を幸せにするのか」登壇後記|吉川浩満

初出:2021年12月24日刊行『ゲンロンβ68』
10月22日、ゲンロンカフェでイベント「なぜ犬は人を幸せにするのか」が開かれました。愛犬家代表としてご登壇いただいたのは、文筆家の吉川浩満さん、ノンフィクション作家の片野ゆかさん、アニメーション研究・評論家の土居伸彰さんの3人です。登壇者のひとりである吉川さんに、その4時間に及んだ充実のディスカッションについて原稿をお寄せいただきました。犬はなぜ愛されるのでしょうか。そして犬とわたしたちの暮らしは、これからどうなっていくのでしょうか。
イベントのアーカイブ動画は、シラスでご視聴いただけます。(編集部)
片野ゆか×土居伸彰×吉川浩満「なぜ犬は人を幸せにするのか?──番犬から家庭犬へ、そして猫の時代に考える犬」(URL=https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20211022)

イベントの前半は片野ゆかさんによるプレゼンテーション「私的エピソード含む日本における激動の犬現代史」である。激動の犬現代史とはちょっと大袈裟ではないかと感じるかもしれないが、そんなことはない。平成30年間を「犬目線」で追っていくと日本人の常識と社会の激変ぶりが浮かび上がる、というのが片野さんの見立てで、事実そのとおりと納得させられる力作プレゼンテーションであった。この部分だけでも十分に元が取れると思う。
犬を取材して四半世紀以上という片野さんだが、代表作は第12回小学館ノンフィクション大賞を受賞した『愛犬王 平岩米吉伝』(小学館)だろうか。この夏には、犬猫の保護活動に打ち込む若者たちを描いた『北里大学獣医学部 犬部!』(ポプラ文庫)を映画化した『犬部!』が公開され、雑誌『Shi-Ba』の歩みを追った『平成犬バカ編集部』も文庫化された(集英社文庫)。1998年に刊行した最初の犬本『旅する犬は知っている──26匹の犬が教える "極楽旅行の秘訣"』(KKベストセラーズ)は古書市場で高値で取引されている。
プレゼンを拝見してまず驚くのが片野さんの「犬キチ」ぶりである。帯に愛犬マドさんをあしらった和服姿で登場した片野さんが愛犬歴を紹介してくれた。グレイハウンドのアーサーさん、ミニチュアダックスフンドのダルマさん、そしてミックスのマドさん。文字どおり生まれたときから犬と暮らしてきたお方である。

プレゼンを拝見してまず驚くのが片野さんの「犬キチ」ぶりである。帯に愛犬マドさんをあしらった和服姿で登場した片野さんが愛犬歴を紹介してくれた。グレイハウンドのアーサーさん、ミニチュアダックスフンドのダルマさん、そしてミックスのマドさん。文字どおり生まれたときから犬と暮らしてきたお方である。

さて、平成の30年間で犬人関係に生じた変化とはなにか。片野さんはそれを「急接近」と表現した。これにはドッグトレーニングの普及が大きく寄与している。
昭和の時代、犬のしつけは訓練所に預けるだけのものだったが、平成に入ったころ、飼い主がリーダーを演じる軍隊式トレーニングがアメリカから導入された。犬は生来的にリーダーになりたがるので(アルファシンドローム)、飼い主はそれを抑えつけて自分こそが犬のリーダーであることを犬にわからせなければならない。そういう考え方である。
それが平成の後期になり、動物行動学を元にしたメソッドに置き換わる。体罰は厳禁とされ、飼い主は信頼される親になることが求められるようになった。しつけの目的も、犬を服従させることから、共同生活に困らないルールを教えるものに変わった。もはやアルファシンドロームは死語である。犬人関係が、犬だけが頑張るものから、犬と飼い主が一緒に頑張るものへと変化したのである。
「昭和の非常識」が「平成の常識」になった事例は数多い。たとえば犬に服を着せる行為である。平成初期までは、虐待であるとか人間の自己満足に過ぎないとか散々な言われようであった。それが近年ではむしろ推奨されるようになっている。健康・医療面で効果的であるだけでなく、人間社会に溶け込むうえでのメリットも大きいと指摘されているのだ。ほかにも、不幸な生命を減少させ病気の予防にもなる不妊去勢手術の普及、ペットの健康のためのエアコン使用、保護犬・成犬の譲渡と心身のケア、犬をともなった外出や旅行等々、ほとんど180度の転換と呼べるような変化が次々と起きている。
このように、犬にまつわる日本人の常識はこの30年間で大きく変わった。こうした犬と人との「急接近」と歩調を合わせるようにして、社会における犬の位置も大きく変わりつつある。片野さんはこの変化を「犬が社会の一員になる土台ができた」と評価する。
なかでも注目すべきは動物行政の変化である。2000年(平成12年)から施行された新しい動物愛護法は、保健所の仕事を殺処分から譲渡先を探す愛護の方向へとシフトさせる大きな改正であった。
実際、この法改正によって犬猫の殺処分数は大幅な減少を見せている。平成元年において犬が約70万、猫が約34万であった殺処分数が、令和元年においては犬5635、猫2.7万と激減した(残念ながら殺されてしまう犬猫はまだまだいるのだが)。
しかも、この動物愛護法には5年ごとに改正できるというルールが組み込まれている。今後も動物の福利や権利に関する人間の意識の変化に応じた改正がなされていくであろう。これは今日日めずらしいくらいの明るいニュースである。
その後、片野さんご夫妻が保健所出身の愛犬マドさんと歩いたタイの旅が披露された。犬と海外旅行へ行くには、なにをどのようにすればよいのか? これについては、あわせて片野さんのご著書『旅はワン連れ──ビビり犬・マドとタイを歩く』(ポプラ社)もぜひご覧いただきたい。さぞたいへんだったことと思うが、究極の犬旅・犬孝行であり、犬と暮らすうえでの実践的なアドヴァイスに満ちている。
昭和の時代、犬のしつけは訓練所に預けるだけのものだったが、平成に入ったころ、飼い主がリーダーを演じる軍隊式トレーニングがアメリカから導入された。犬は生来的にリーダーになりたがるので(アルファシンドローム)、飼い主はそれを抑えつけて自分こそが犬のリーダーであることを犬にわからせなければならない。そういう考え方である。
それが平成の後期になり、動物行動学を元にしたメソッドに置き換わる。体罰は厳禁とされ、飼い主は信頼される親になることが求められるようになった。しつけの目的も、犬を服従させることから、共同生活に困らないルールを教えるものに変わった。もはやアルファシンドロームは死語である。犬人関係が、犬だけが頑張るものから、犬と飼い主が一緒に頑張るものへと変化したのである。
「昭和の非常識」が「平成の常識」になった事例は数多い。たとえば犬に服を着せる行為である。平成初期までは、虐待であるとか人間の自己満足に過ぎないとか散々な言われようであった。それが近年ではむしろ推奨されるようになっている。健康・医療面で効果的であるだけでなく、人間社会に溶け込むうえでのメリットも大きいと指摘されているのだ。ほかにも、不幸な生命を減少させ病気の予防にもなる不妊去勢手術の普及、ペットの健康のためのエアコン使用、保護犬・成犬の譲渡と心身のケア、犬をともなった外出や旅行等々、ほとんど180度の転換と呼べるような変化が次々と起きている。
このように、犬にまつわる日本人の常識はこの30年間で大きく変わった。こうした犬と人との「急接近」と歩調を合わせるようにして、社会における犬の位置も大きく変わりつつある。片野さんはこの変化を「犬が社会の一員になる土台ができた」と評価する。
なかでも注目すべきは動物行政の変化である。2000年(平成12年)から施行された新しい動物愛護法は、保健所の仕事を殺処分から譲渡先を探す愛護の方向へとシフトさせる大きな改正であった。
実際、この法改正によって犬猫の殺処分数は大幅な減少を見せている。平成元年において犬が約70万、猫が約34万であった殺処分数が、令和元年においては犬5635、猫2.7万と激減した(残念ながら殺されてしまう犬猫はまだまだいるのだが)。
しかも、この動物愛護法には5年ごとに改正できるというルールが組み込まれている。今後も動物の福利や権利に関する人間の意識の変化に応じた改正がなされていくであろう。これは今日日めずらしいくらいの明るいニュースである。
その後、片野さんご夫妻が保健所出身の愛犬マドさんと歩いたタイの旅が披露された。犬と海外旅行へ行くには、なにをどのようにすればよいのか? これについては、あわせて片野さんのご著書『旅はワン連れ──ビビり犬・マドとタイを歩く』(ポプラ社)もぜひご覧いただきたい。さぞたいへんだったことと思うが、究極の犬旅・犬孝行であり、犬と暮らすうえでの実践的なアドヴァイスに満ちている。
さて、イベント後半では土居伸彰さんが「これから犬を飼う人は、何を読めばいいのか?」のプレゼンテーションを行った。愛犬アステさんを迎えるにあたって大量の犬本を渉猟した土居さんによる最新のブックガイドである。

先の片野さんのお話にもあったが、犬に関する近年の動物行動学の進展はいちじるしい。犬と人の関係史の長さを考えてみれば少し不思議なことではあるが、犬がどのような世界を生きているのかを人間が科学的な観点から理解しはじめたのは、つい最近になってからである。
そのなかでも今回の登壇者3人がそろって推薦書として挙げたのは、本年翻訳刊行されたクライブ・ウィン『イヌは愛である──「最良の友」の科学』(梅田智世訳、早川書房)であった。一見、奇をてらった邦題と感じるかもしれないが、原題そのものが「Dog is Love」である。内容に関してもまさにその名の通りのものになっている。
お返しにといってはなんだが、私も犬文学史の脇道・裏道の一端として3冊の本を紹介させていただいた。犬を扱った文献はそれこそ星の数ほどあるが、今回ご紹介したのは、あまりそれとして言及されることのない、知られざる犬文献である。
1冊目は幸田文『みそっかす』(岩波文庫)所収の随筆「なのはな」、2冊目はトルストイ『アンナ・カレーニナ』(新潮文庫ほか)、そして3冊目は大森荘蔵『知の構築とその呪縛』(ちくま学芸文庫)である。多くの人にとって意外な、しかしそのものズバリの犬描写が展開されているのではないかと思う。詳細については私のブログ記事(「犬描写、第三の大家」哲劇メモ、2005年7月30日[★1])を参照されたい。
そのなかでも今回の登壇者3人がそろって推薦書として挙げたのは、本年翻訳刊行されたクライブ・ウィン『イヌは愛である──「最良の友」の科学』(梅田智世訳、早川書房)であった。一見、奇をてらった邦題と感じるかもしれないが、原題そのものが「Dog is Love」である。内容に関してもまさにその名の通りのものになっている。
お返しにといってはなんだが、私も犬文学史の脇道・裏道の一端として3冊の本を紹介させていただいた。犬を扱った文献はそれこそ星の数ほどあるが、今回ご紹介したのは、あまりそれとして言及されることのない、知られざる犬文献である。
1冊目は幸田文『みそっかす』(岩波文庫)所収の随筆「なのはな」、2冊目はトルストイ『アンナ・カレーニナ』(新潮文庫ほか)、そして3冊目は大森荘蔵『知の構築とその呪縛』(ちくま学芸文庫)である。多くの人にとって意外な、しかしそのものズバリの犬描写が展開されているのではないかと思う。詳細については私のブログ記事(「犬描写、第三の大家」哲劇メモ、2005年7月30日[★1])を参照されたい。

以上、犬のことばかりを話した4時間であった。こんなに長時間にわたって絶え間なく犬について話したのは生まれて初めてかもしれない。このレポートに記載できたのは、そのうちのほんの一部である。ぜひ本編動画もご覧いただきたい。貴重な機会をくださった片野ゆかさん、土居伸彰さん、そしてゲンロンカフェの有上麻衣さんに感謝を申し上げる。
ところで、登壇依頼を受けるかどうか大いに迷ったと冒頭近くで書いたが、実際、危険な瞬間がないでもなかった。イベント前半が終了した休憩中、土居さんからマルティナの写真もスライドに用意していると聞き、急になにかがこみ上げてきてパニック状態に陥った。もし予告なしで映写されていたとしたら危なかった。とんだ放送事故になるところだった。イベント的にはその方が面白くなったかもしれないが、私的には予告していただいてたいへん助かった。お心遣いに感謝します。


吉川浩満
1972年生まれ。文筆業。国書刊行会、ヤフーを経て、現職。関心領域は哲学・科学・芸術、犬・猫・鳥、卓球、ロック、単車、デジタルガジェットなど。著書に『理不尽な進化』(朝日出版社)、『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(河出書房新社)、共著に『脳がわかれば心がわかるか』(太田出版)、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(筑摩書房)など。近刊に「ゲンロンβ」の連載を書籍化した山本貴光との共著『人文的、あまりに人文的』(本の雑誌社)。