展評――尖端から末端をめぐって(6) 「オブジェを消す前に ―松澤宥 1950-60年代の知られざるドローイング」展によせて|梅津庸一

初出:2019年02月22日刊行『ゲンロンβ34』
はじめに
今回は神奈川・相模原のパープルームギャラリー[★1]で開催された日本概念派の始祖として知られる松澤宥の個展「オブジェを消す前に ―松澤宥 1950–60年代の知られざるドローイング」を取り上げる。これはわたしが企画した展覧会なので、本稿は展評というよりは、主に松澤宥の美術史の中での位置付けについての論考になる。戦後美術史のトリックスター松澤宥は極めて謎の多いアーティストだ。わたしは松澤について研究をしてきたわけではないし、展覧会も数回見た程度である。それでも本展を企画した理由には、以前から何故か松澤に惹かれるところがあったということのほかに、昨年から今年にかけ1960年代や1980年代を通史として総括する展覧会が美術館で相次いで催されたということが挙げられる。このタイミングで松澤のこれまで言及されてこなかった部分を取り上げ、美術史の複数性を展覧会と論考の両面から提示することがわたしの役割だと思ったのだ。まずは松澤宥とは一体何者なのか簡単に整理してみたい。
松澤宥は1922年2月2日午前2時に長野県の下諏訪に生まれた。松澤の自筆年表には「2」という数字が数霊的オブセッションを成していると記述されている。例えばイベントの開催日時を「2」がつく日にする、参加者を22人にするなど、松澤は「2」という数字に晩年に至るまで徹底的にこだわった。 1940年代、詩作から創作をスタートした松澤は、やがて言語というものに不備があると考えるようになる。そしてそれを打開すべく、言語を使わない記号詩に移行する。松澤は「世界中の人がわかるように」[★2]記号を用いているのだと言うが、実際は記号なので誰も読むことはできない。その象形文字のような記号はやがて「絵」に変わっていく。その後、美術家として絵画やオブジェを制作するようになるが、1964年6月1日深夜、「オブジェを消せ」という啓示を受けて、非物質である言葉を媒体に観念芸術を開始するのである。松澤はその作品の中で「人類よ消滅しよう」[★3]という終末論的な文言を繰り返し主張している。 以上がごく簡単な松澤の歩みである。 松澤はもの派、具体、ハイレッド・センターなどと比べても、あきらかにコンセプチュアルである。また、日本の戦後美術史の中でもとりわけオカルト色が強い。その作品は根源的であり、容易にアクセスすることを拒むようなブラックボックス的側面があると言えるだろう。松澤の作品は欧米のコンセプチュアル・アートと同時代性を帯びている。しかし、実際のところは理念的にどの程度重なるのか、関連文献を読み返してもわたしには理解できなかった。けれども、そんな松澤にわたしは妙に惹かれてしまうのだ。
松澤の故郷への遠足
去年の12月9日の朝、わたしたち(わたしとパープルーム予備校生の安藤裕美[★4]、吉田十七歳[★5]の3人)は八王子からあずさ9号に乗り込んだ。本展の作品を借り受けるため、松澤宥の《プサイの部屋》のある下諏訪に向かったのだった。駅のキヨスクで買ったボンタンアメは寒さのせいで硬くなっていた。車内で渡辺さん、窪寺さんと落ち合った。2人は美学校[★6]在籍時の松澤の元生徒であり宥学会[★7]のメンバーでもある。さながらパープルーム予備校と美学校という新旧の私塾合同の遠足のようであった。 車内では4人がけの対面席で松澤の資料を見せてもらいながら色々な話を伺った。しかし寝不足だったこともあり、しばらくするとわたしと安藤は乗り物酔いしてしまい、後ろの座席で横にならざるを得なかった。吉田が元気に話し続けているのを見届けてからちょっとだけ寝た。目がさめると下諏訪に到着していた。中央本線でこんなに遠くまで行くのははじめてだった。下諏訪はパープルームがある神奈川県相模原市よりずっとひんやりしていた。松澤旧邸に到着するとご遺族の春雄さんが迎えてくれた。美術書がたくさん並ぶ本棚がある応接間で一通り話をした後、2階にあるプサイの部屋[★8]を案内してもらった。松澤のアイコン的作品のひとつとも言えるプサイの部屋は、想像していたものとだいぶ印象が違っていた。2014年に横浜トリエンナーレで再現展示されたのを見た時は白くスカスカした印象だったのだが、実際のプサイの部屋は部屋全体がじっとりした祭壇のようだった。プサイの部屋は20年ほど空き家だったため建物の老朽化が進んでいた。以前はそこに常設展示されていた作品は、保護管理のため、大部分が一旦撤去され整理されていた。しかし、そんな完全とは言えない状態でも、松澤が何重にもマーキングしたかのような縄張りの中に足を踏み入れてしまったような背徳感を味わった。 この感覚は身に覚えがあった。わたしが主宰するパープルーム予備校は、まさに古き良き前衛美術家たちのアジトをイメージして、それをコスプレすることから始まったからである。 パープルームはアトリエと生活空間と展覧会場を重ねた場であり、私塾を拠点にした運動体である。全国から様々な出自を持つ者がパープルーム予備校生としてパープルーム予備校があるJR相模原駅の近くに移り住み、「芸術村」のようなかたちを成している。そんなパープルームの在り方は懐かしさすら覚えるような時代錯誤の営みと言えるかもしれない。

工藤哲巳、赤瀬川原平、中西夏之や数々の前衛作家たちが発表の場としていた読売アンデパンダン展は、回を重ねるごとに無秩序なカオス状態に陥り、トラブルも相次いだ。そして限界を迎えた運営側から1964年の1月、第16回展の開催直前に中止が告げられた。わたしはこの読売アンデパンダン展の中止が松澤の「オブジェを消せ」という啓示に少なからず影響を与えたのではないかと思っている。松澤は第4回から読売アンデパンダン展に参加していた。 松澤は読売アンデパンダン展の中止が告げられた数ヶ月後の6月1日に啓示を受けた。このことはつまり、松澤が物理的な表現の晴れ舞台をひとつ失ったことと、それ以前から感じていたであろう美術界の潮目の変化を踏まえ、表現の場と形式を柔軟に、そして意識的に切り替えたことを意味しているのではないか。自宅のプサイの部屋という密室でオブジェを愛でながら、外の美術界ではそれを封印し、言葉や行為や場や関係自体を作品のメディウムとした超越的で神秘的な振る舞いで立ち回る。松澤にはそんな二重性が見出せる。
松澤宥というキャラクター
松澤の「ヒロ星人との交感」[★9]や預言者のような発言などに見られるオカルト的想像力の論理的な破綻箇所を指摘することは容易だろう。しかし重要なのは、松澤を擁護する際に散見される「実は科学的にも論理的にも正当性がある」という類いの主張ではなく、わたしたちは松澤のどこに魅了され得るのかという点だろう。松澤の想像力の質は、彼が愛読していたというオカルト情報誌『月刊ムー』と類似性があるということは否定しがたい。今でいう厨二病であると言っても過言ではない。 しかしながらそのオカルト的フレーバーは、松澤のマジシャンのような出で立ちと相まってはじめて力を持つことも指摘されるべきだろう。松澤が未知や謎を纏おうとする態度や振る舞いが、誤解を恐れずにいえば、たまらなくセクシーなのだ。松澤は現代美術という特殊な競技を、他のライバルプレーヤーとは違う自前のルールで上書きしている。彼は自らのカリスマ性や美術界の中での政治的プレゼンス(煙たがられることも含め)にかなり自覚的であったし、それ自体が作品のメディウムとしてしっかり計上されていた。松澤はオブジェとしての作品も鑑賞者との相互理解が可能な理念も必要としなかった。彼にとっては、松澤宥という孤高の存在が一種の崇高さを帯びることのみが重要だったのだ。「松澤宥」というキャラクターのブランド力それ自体をある意味オブジェのように扱ったという点でも、コンセプチュアルな作家だったと言える。つまり松澤作品はオブジェがあろうとなかろうと、いわば全てが松澤のキャラクターグッズなのである。 1969年に松澤は「フリー・アートの予感」という手書きのチラシを作る。そこには「あらゆる規則禁制から無限に解放されたアート」、「作家名も作品名もなくなるアート」、「例えば誰が企画し誰が出品し何という展覧会でいつ始まりいつ終わるかわからない展覧会に出品される(展覧会とか出品とかがまだあるとすれば)ようなアート」などの文言が並び、アートという制度や慣習からことごとく距離を取ろうとする強い意志が感じられる。また、松澤は晩年、「人類全体に対しての普遍的な命題なので署名はしない」、「署名という従来の美術の在り方に疑問がある」[★10]という発言をしている。しかしながら、もし松澤の言葉が松澤というキャラと切り離されて現代詩手帖に掲載されたりTwitterで投稿されたとしても、作品は力を持たないのではないだろうか。原理的には松澤の発言、思想には矛盾はないのだが、わたしは若干違和感を覚えてしまう。やや捻れた言い方になってしまうが、わたしは松澤が、いや作家というものがいやおうなく持ってしまう権力と暴力性に、彼が微塵も配慮せずに振る舞えることに嫉妬に近い感情を抱く。いささか唐突な話になってしまうが、わたしが本展を企画しようと思った動機のひとつとして松澤とビジュアル系バンド「愛狂います。」[★11]との相関関係を直感したということがあげられる。ビジュアル系というジャンル自体がキャラ的な消費のされ方に非常に自覚的なのだが、愛狂います。と松澤の共通点はそれだけに止まらない。愛狂います。は2007年2月22日に本格始動し、2012年2月22日に解散した。つまり松澤にとって重要なテーゼである「2」をきれいに反復しているのだ。また、愛狂います。の初期の楽曲「シドロモドロ」(2008年)の歌詞では、「輪廻の果ての輪廻」、「色即是空の理」など、仏教用語が宇宙的な壮大なスケール、または分子レベルのマイクロなスケールで用いられ、「わたし」という一人称が「人」から「物質」、「神の視点」へと自由自在にメタモルフォーゼする。また「メルトダウン」(2009年)では食卓を舞台に「干からびたミイラ怪人」、「免疫の低下」、「チョコレート」など一見なんの関連もなさそうなワードを化学の状態変化と高感度な文学的感受性によって滑らかにつなぎ合わせている。松澤と愛狂います。は、作品の中で世界や人類の消滅を示唆することを好むという点でもよく似ている。形式ではなく内容の面で愛狂います。ほど松澤宥の後継者に相応しい存在は、わたしには他に思いつかない。こう言うと、いちビジュアル系ファンが美術的な読み解きを放棄して、たんに思いつきで接続してしまっただけのように見えるかもしれない。しかしながら隔世遺伝的なつながりの可能性の一例として、このことをあえて主張しておきたい。松澤は高尚なハイアートだけでなくサブカルチャーやユースカルチャーとも積極的に比較検討されるべきとわたしは思う。
松澤と「展覧会」について
近年、松澤作品の展示の機会は増えている。しかし作家の性質上、メールアートの葉書や展覧会のポスター、記録写真をはじめとする資料的なものが中心の、いわゆるアーカイブ展の形を取ることが多い。展覧会という「箱」の中で、松澤のキャラクターグッズ(作品、アー写、設定資料)は乾物のように陳列される。それぞれのグッズは額装されアクリルケースに収められるだけではなく、経年劣化による「ありがたみ」も付加される。そういう現状を踏まえ、「オブジェを消す前に ―松澤宥 1950-60年代の知られざるドローイング」展では、展示作品を初期のドローイングに絞った。 下諏訪の松澤邸の中庭の奥にある古い蔵の中に眠っていた凄まじい量のスケッチブックとドローイングの束を見て、わたしたちは心をときめかせた。それら未公開の大量のドローイングは、作者が誰であったとしても書き込まれた情報自体がとても興味深いものだったのだ。しかしほとんどの作品に署名はおろか制作年やタイトルの記述はなかった。 松澤は、自分は絵の具の扱いも未熟で無茶苦茶だったが、他の画家が海外由来の様式の造形、色彩、構成を競っていたのに比べ、自分は先に宇宙、世界、人類といった全体に興味があり、作品はそこから出てくる思念の固まりとしての図像[★12]であると語っている。これほどまとまった数の未発表の作品群を伏せたまま松澤の仕事を総括することは不自然である。 松澤の初期のドローイングはひとつの様式や形式で括れないほど多様だが、本展ではそのごく一部しか紹介できなかった。今回は展示することが叶わなかったが、松澤の最も初期段階の作例と思われる人物のクロッキーは、いわゆる基礎的な絵のレッスンという性質のものではなく、ピカビアやオスカー・シュレンマーを彷彿とさせるようなカリグラフィー風の線で描かれていた。他に、日本の洋画家たちが受容しながらも未消化に終わったキュビスム的な画面分割を試みている作例もあった。さらにアンフォルメル調の日の丸構図によるもの、記号詩と絵画の中間のようなものもあった。様々な様式の咀嚼具合には、阿部展也[★13]からの影響も指摘できるだろう。 松澤は他の作家からの影響については言葉では否定しているが、ドローイングではテキストや発言による印象操作ほどはうまくコントロールできていない。そこには、「キャラ」が完成する以前の「プレ松澤宥」が垣間見られてスリリングだ。初期の松澤は様々な様式を模倣はしてみても、しっくりくるものには出会えなかったように見えた。それゆえに、松澤の初期作品には、インディーズの新人ビジュアル系バンドが先輩たちの様々な様式を無我夢中で次々に憑依させながらも、実力や経験が不足していて難しいなと思ったらとりあえずデスボイスで乗りきってしまうような、未分化で未熟ゆえの勢いと魅力を感じた。 しかしながら松澤のドローイングの中には、これまで述べてきたような外枠だけでは捉えきれない要素が存在している。 具体的に作品を見てみよう。図をご参照いただきたい。
松澤は確かに64年以降、表向きにはオブジェを消したかもしれない。だが、松澤にとっては、言葉も行為も思念も歴史も人も物質もすべて がはじめからオブジェだったのだ。わたしには松澤が物質的オブジェと非物質的オブジェをしっかり見分けながらも、そのどちらもなるべく多く所有したいと願っていたように思える。 前衛芸術には本陣が設定されているはずである。松澤にとっての本陣は美術の主流や社会ではなく、自宅にあるプサイの部屋もしくはドローイングの中に生成された物質と物質の結合と断絶だったのではないだろうか。松澤は消えたオブジェと消えざるオブジェの二律背反の関係に世界を見ていたのではないだろうか。人類や世界に対するメッセージや予言がフィクションめいているのは、それが、本当の外部ではなく松澤の内なる世界で木霊していたからなのではないだろうか。
ともすると著名な作家は、没後雪だるま式にプレゼンスが上昇していき、通史としてのタイムラインに標本のように貼り付けられ固定されてしまう。本展はそんな状況へのささやかな抵抗でもある。本展には松澤を知らなかった多くの若い観客が訪れた。彼らはこれまでの体育会系的な規範に基いて編纂された鈍重な戦後日本美術史観[★15]にとらわれないかたちで松澤の花粉を受け取ったはずだ。もちろん本展は今後、わたしたちパープルームにとっても精神的支柱になっていくことだろう。

★1 筆者が主宰する美術の共同体パープルームが運営するギャラリー。もともとは段ボール製の移動式ギャラリーだったが、2018年にホワイトキューブのギャラリーとして生まれ変わった。 URL=http://parplume-gallery.com
★2 『機関13 松澤宥特集』(ユーコピア、1982年)所収、「対談 プサイの函の中で 松澤宥・菊畑茂久馬」の中での発言。
★3 「人類よ消滅しよう 行こう 行こう 」は1966年以降、松澤が用いてきた表明文。横断幕に書かれパフォーマンスに使われたりもした。
★4 パープルーム予備校1期生。ボナールに傾倒し、身近な出来事を絵画、漫画、アニメーションで表現する。古き良き画学生のお手本のような存在。1994年東京生まれ。
★5 パープルーム予備校5期生。菅井汲やオノサト・トシノブなど幾何学を用いたちょっと渋めの画家に強い関心を持つ。アイドル好きでもある。1998年三重生まれ。
★6 1969年から場所や体制を変えながら続く美術・音楽・メディア表現の学校。歴代講師は松澤の他に中村宏、会田誠、Chim↑Pomの卯城竜太ら、その時代を如実に反映した布陣になっている。
★7 美学校での松澤宥による講座「最終美術思考教場」。その再現を願い創設された継続態。最終年在籍生3名窪寺雄二、米谷栄一、渡辺彰が結成した。これまで開催された講座は57回を数える。
★8 プサイとはギリシャ文字のオメガの前の最後のひとつ手前であり、最後はもうすぐそこまできていることを暗示。サイコロジーの最初が「psy」であることにも由来する。
★9 「松澤宥との対話――21世紀への謎掛け、その答と理論を解け!!――」聞き手、構成=長澤章生、『美術手帖』、2002年2月号、美術出版社。「2」にちなみ誌上では緊急企画の一環として新作も発表された。
★10 ★9と同じ。
★11 「愛狂います。」と書いてアイクルと読む。1990年代のビジュアル系ブームの後、2000年代初頭に登場したオサレ系の影響下にあるコテオサ系に分類される。Vo.えみるの書く詩はヴィドールや初期の彩冷える。といったバンドの文学的な歌詞やオカルト要素を継承しているとされている。ゼロ年代のV系の要素を凝縮したような特徴を持つバンド。
★12 ★9と同じ。
★13 瀧口修造との共作による詩画集『妖精の距離』(春鳥会、1937年)で、若くして注目を集める。キュビスム、シュルレアリスム、アンフォルメル、幾何学的抽象と目まぐるしく作風を変化させた。1952年、松澤は阿部の推挙により美術文化協会員となるが1954年に退会している。
★14 株式会社トゥーマーカープロダクツが販売している国産のアルコールマーカーの定番。豊富なラインナップと色数でイラストレーターや絵師から愛されている画材。
★15 戦後日本美術史をリセットする以前に忘却しつつあるわたしたちは過去を振り返りながら再解釈し、ありえたかもしれない他の歴史を想像し場合によってはカスタマイズ・メンテナンスしていく必要があるのではないだろうか。個人的には美術史というもの自体をもっとしなやかに不純物や小さなものたちを取り込んでいけるような容れ物にできないだろうかと考えている。


梅津庸一
1982年山形生まれ。美術家、パープルーム主宰。美術、絵画が生起する地点に関心を抱く。日本の近代洋画の黎明期の作品を自らに憑依させた自画像、自身のパフォーマンスを記録した映像作品、自宅で20歳前後の生徒5名と共に制作/共同生活を営む私塾「パープルーム予備校」の運営、「パープルームギャラリー」の運営、展覧会の企画、テキストの執筆など活動は多岐にわたる。主な展覧会に『梅津庸一個展 ポリネーター』(2021年、ワタリウム美術館)、『未遂の花粉』(2017年、愛知県美術館)。作品論集に『ラムからマトン』(アートダイバー)。作品集『梅津庸一作品集 ポリネーター』(美術出版社)今春刊行予定。
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