【書評】「狙われた身体」という視点が可視化するもの──安井眞奈美『狙われた身体』評|小田原のどか
2021年10月から今年1月まで豊田市美術館で開催された「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」展は、100の妖怪が巨大な横長の矩形スクリーンに行き交う映像インスタレーション《百鬼夜行》(2021)を軸とした個展であった。ホー・ツーニェンは『ゲンロン12』の表紙に作品図像を提供した、シンガポール在住の現代美術家である。 『ゲンロン12』表紙に見られた虎をめぐる主題は、本展においてじつに複雑な展開を遂げた。《百鬼夜行》では、平安・鎌倉時代に盛んに制作された絵巻物の形式が引用されるのだが、右から左へと視線を移して鑑賞する絵巻物の定式は反転し、スクリーンに投影された妖怪たちは左から右へと進んでいく。時間軸が逆転した、近代からの遡行とでも言うべき映像絵巻である本作最大の要点は、登場する100の妖怪のモチーフに、実在の人物や出来事が設定されたことである。
それは例えば、第二次世界大戦中にマレーで暗躍した日本人男性たちだ。「マレーの虎」という異名を持つ山下奉文陸軍大将、華僑を襲う盗賊から日本軍の諜報員となった「怪傑ハリマオ(虎)」のモデル、谷豊(ムスリム名、モハマッド・アリー・ビン・アブドラー)。それら侵略戦争と深い関わりを持つ日本人が妖怪として描かれた一方で、「ぬりかべ」「ドラキュラ」「なまはげ」などのよく知られた妖怪たちに対しても、作家によって新たな来歴が創出された。ここにおいて100の妖怪は、人の世の欲を写す100の鏡として、観客の前に提示されたのだった。
さて、ツーニェンの想像力を刺激し、《百鬼夜行》をつくらせた妖怪は、そもそもが世相を如実に反映する存在であるとも言える。そのような人と妖怪の密接な関わりは、新型コロナウイルスの流行下で再発見されたアマビエの例からも窺える。一体、妖怪とはどのような存在なのか。妖怪として見出されるものは、実のところ何を示しているのか。こうした疑問と関心に応えてくれる好個の書物が刊行された。安井眞奈美『狙われた身体──病いと妖怪とジェンダー』(平凡社、2022年)である。
本書は、安井2冊目の単著『怪異と身体の民俗学──異界から出産と子育てを問い直す』(せりか書房、2014年)に続き、妖怪や怪異の伝承から人々の身体観を浮かび上がらせるものとして書き下ろされた。新型ウイルスとアマビエの流行から論述が始められる本書は、まさしくコロナ禍のなかで読むものとして上梓されたように思われるが、あとがきによれば2017年には構想が出来上がっていたという。しかしながら、新型コロナウイルスのパンデミック以前と以後では、本書の読まれ方は大きく異なったに違いない。いまや疫病は、まったく過去の出来事ではなくなったからだ。その意味で、時宜を得た刊行と言えるだろう。
さて、まずは本書の副題「妖怪とジェンダー」に注目したい。あるいはここから、次のような内容を想像する読者がいるかもしれない。ジェンダーというカタカナ表記の外来語が示す「近代的価値観」から、妖怪という現象の是非を断ずるものなのではないか、と。そのような懸念を、安井は本書の冒頭に京極夏彦の言を置くことによってしりぞける。京極は「過去の記述を近代的な『妖怪』観で読み解いてはならない」と述べた。なぜなら、「そうした行為は簡単に過去を改竄してしまうから」であり、「鬼は鬼として、怨霊は怨霊として捉えるべきものである」からだ。
とはいえ、社会の中のマイノリティとしての女性や子供が、怪異に狙われる立場の弱い存在として、また妖怪そのものとして伝承されてきたことは、多くの研究が指摘している。ゆえに安井は、「妖怪、怪異と身体の関係を考えるうえで、ジェンダーの問題は避けて通ることができない」としたうえで、本書の立場を「妖怪に『狙われた身体』の伝承を、身体に『不思議な現象』が生じたときの説明と対処の方法であると読み直」すことで、以下の点を明らかにするものだと説明した。
『狙われた身体』では上記の問いが、章を7つ尽くして分析される。各章はゆるやかにつながっているため、1章から順に読み進めていくのがいいだろう。
私は本書を読み進めながら、スーザン・ソンタグ『隠喩としての病い/エイズとその隠喩』(富山太佳夫訳、みすず書房、2012年)を想起した。『隠喩としての病い』でソンタグが取り上げたのは、結核、癌、そしてエイズである。ソンタグは、結核を19世紀的な病、癌を20世紀の病、エイズを21世紀的な病であると位置づけた。自身が癌を患った経験から、西洋文化がどのように「病」を捉えてきたのかを、ソンタグは文芸批評によって明らかにしていく。
他方、『狙われた身体』では、1章「「見えない敵」を可視化する」および2章「狙われる身体」において多数の「病」が取り上げられる。 1章では、疱瘡、麻疹、頭痛、腹痛が、いかに怪異として描かれ、伝承されてきたかを経て、西洋の「医学的なまなざし」の紹介とともに、男性と女性の身体が非対称なものとして認識されるようになった背景と、社会的な性差が強化されていく過程が紹介される。
そしてここでは、「可視化の限界」として「スペイン風邪」が挙げられる。甚大な死者を出したスペイン風邪は、顕微鏡の発明とはうらはらに、幾通りにも表象されたわけでも、盛んに研究が行われてきたわけでもないという。続く2章では、腹痛、頭痛に加え、肩こり、風邪にまつわる伝承や表象をいかに読むかが、議論の俎上に載せられる。
『狙われた身体』と『隠喩としての病い』は、分析の手つきこそ異なるが、共通するものがある。それは、怪異に狙われる身体という伝承の背後にある暴力を、そしてまた、暗喩としての病いという語りの集積をとりまく暴力の存在を、言説化によって明らかにしようとする態度である。ここでの暴力とは顔の明らかな為政者によるもの、構造が明確な権力が行使するものだけではない。より捉えづらく、しかし確かに人心に巣くうものである。
例えば、3章「蛇に狙われる女性」では、恋仲であった男性の性器を切り取った阿部定事件と、その同年に起きていた、蛇が女性器を襲う事件が扱われる。阿部定事件が世間の関心を集めたのに対し、後者は「民俗社会の語りの枠に落とし込まれ、全国各地で同様の伝承が広ま」り、そのような伝承を語り継いだのは男性たちであったことを安井は指摘する。ここでは、通底する性の非対称な認識が、狙われる身体にいかにまとわりついているかが明らかにされる。続く4章「妖怪とジェンダー」では同様に、小野小町にまつわる謡曲、伝説、絵画などを読み解きつつ、「男は老いて神となり、女は老いて妖怪になるという民間信仰における志向」がえぐり出される。
一方で暴力とは、単純な二項対立におさまるものではなない。5章「性と性器の表現」では、魔除けとしての性器と、両性具有の妖怪、トランスジェンダーの妖怪が紹介された。クィアな存在としての両性具有の妖怪たちは、両性具有が特殊なものであるという差別的まなざしを内包しつつも、性器ベースの男女二元論にとどまらない可能性を感じさせる存在だ。
続く6章「身体の放つ異界のパワー」、7章「胎児への関心」では、いずれも女性の身体を軸にして分析が行われる。臍の緒や胎盤が有する価値は周知され、現代においても欲されるが、これは生と死の境界を強く意識させるものでもある。そしてまた、胎児への関心は、妊娠した身体への関心と、これらへの欲望に等しい。
こうして最終章に至り、安井は「狙われた身体」という視点について、ガヤトリ・スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』(上村忠男訳、みすず書房、1998年)に示されたような、劣位に置かれた者としての女性の存在を不可視化する暴力を明らかにすることができると主張した。
また、「狙われた身体」をめぐる暴力を分析するにあたって、安井は田中正一と嶺崎寛子の研究を参照しつつ、「ジェンダー・オリエンタリズム」という罠に対して注意を喚起する。西洋と東洋を二項対立として捉えることで、他者化された東洋のなかに西洋世界にはない特殊性を見出すオリエンタリズムには、差別的な視線が内包されている。こうした西欧のオリエント言説における「虐げられたムスリム女性」の表象に見出される蔑視が、ジェンダー・オリエンタリズムだ。これについては私も大きな関心を寄せているが、残念ながら詳述するには紙幅が足りない。文末に紹介した嶺崎の論文を参照していただきたい。
さて、『狙われた身体』を、人が伝承してきたもの・描いてきたものをいかに読み直すかについての方法論として読むとき、その対象は「妖怪」という領域だけにはとどまらない。本書が扱う内容からは離れるが、通底する話題として、アイヌ民族が描かれた江戸絵画「アイヌ絵」をいかに見るかについての、五十嵐聡美の指摘を紹介したい。 「アイヌ絵は、美しい花や美人を描いた絵と同じにはなりません。アイヌ絵は、もっと複雑で奥深いのです。描かれているのは、和人から見たアイヌの姿です。アイヌを描いたつもりだけれども、和人が知っているアイヌの姿でしかない。アイヌのことを知りたいという和人のために、アイヌだとわかるようにわかりやすく描いたものです。そこには、現実のアイヌをありのままに描こうという意識はなかったのです」(五十嵐聡美「アイヌ絵の世界──誰が何のために描いたのか」)
他者化されたものは、誰によって語られてきたのか。「そのように見たい」という願望は、何に根ざしているのか。あるいは、安井が本書で指摘したような「可視化の限界」だ。そこに確かに描かれているにもかかわらず、言説が不在となってしまうことが起こりうるのだ。
それはまさに、日本におけるブラック・アート研究の先駆者である萩原弘子が明らかにした、桃山時代から江戸初期にかけて盛行した風俗画「南蛮屏風」に描かれた黒人図像の不可視化の問題に通じている。ここで荻原は、屏風絵に描かれた黒人の図像について、「明るく健康的で躍動感にあふれているように描いているからといって、黒人に対する偏見の無さを証しているとは限らない」と述べた。
南蛮屏風の視覚イメージは、「世界史から一元的に規定されているのではな」く、「その視覚イメージそのものが、世界史への関与である」と荻原は言う。その意味で妖怪の視覚イメージもまた、「見えない敵」への畏怖から一元的に規定されたものではない。『狙われた身体』は、その表象をジェンダーの視点とともに読み直すことを通じて、構造的に捉えがたい恐怖の心といかに対峙するか、顔のない暴力をいかに感じ取るかの知恵を与えてくれるだろう。
新型コロナウイルス感染症「第7波」のさなか、私は友人である医師・文筆家の大脇幸志郎さんらとともに、国立ハンセン病資料館を訪れた。同館で、癩菌による感染症であるハンセン病をめぐる国家的暴力とこれに抗い続けた当事者たちの運動を知り、新型コロナウイルスによる混乱の渦中にあるからこそ、ハンセン病政策の誤謬の歴史をひもとく必要があると強く感じることになった。見えない恐怖と対峙する心構えが、いま必要とされている。それは『狙われた身体』の主題に他ならない。
さて、私の専門から、書籍を離れて日本美術史に内在する事項にも話題が及んだが、いずれもインターネットで詳しい論考が読める内容ばかりだ。『狙われた身体』の射程は広い。本書とともに以下の参考文献をご一読いただき、本書のいっそうの咀嚼のしがいを感じられたい。
参考文献 嶺崎寛子「イスラームとジェンダーをめぐるアポリアの先へ」、『宗教研究』93巻2号、2019年。 URL=https://www.jstage.jst.go.jp/article/rsjars/93/2/93_191/_article/-char/ja/ 萩原弘子「南蛮屏風の黒人図像 : 視覚イメージの存在と研究言説における不在をめぐって」、『異文化研究』2巻、山口大学人文学部、2008年。 URL=http://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/10625 五十嵐聡美「アイヌ絵の世界──誰が何のために描いたのか」、公益財団法人アイヌ民族文化財団、2015年。 URL=https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/H27%E8%AC%9B%E6%BC%94%E4%BC%9A%E3%80%80%E8%AC%9B%E6%BC%94%E9%8C%B2%EF%BC%88%E9%95%B7%E9%87%8E%EF%BC%89%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%B5%90%E8%81%A1%E7%BE%8E.pdf.pdf
小田原のどか
1 コメント
- akius2022/10/03 21:08
高校時代に京極夏彦の小説にハマり、妖怪関連の本をよく読んでいたのを思い出しました。一方で妖怪にまつわる事象には今の観点では差別を内包したものも多く、扱いが難しいとも感じていました。病や性は、よくいえば神秘的、悪くいえば不気味なものとして、妖怪として表象されたのだろうなぁと思います。 そこに潜む暴力を『狙われた身体』を読むことで確認したいと思いました。