【好評イベント紹介】箕輪厚介×東浩紀×植田将暉(+黒岩里奈) 正気とはなにか
2026年6月10日、ゲンロンカフェでは箕輪厚介×東浩紀×植田将暉(+黒岩里奈)「正気とはなにか」を放送いたしました。
いま正気はどこにあるのか。
箕輪厚介さん、東浩紀、植田将暉、そして後半からは黒岩里奈さんも加わった白熱のトークがここにある!
アーカイブ好評配信中!
箕輪厚介×東浩紀×植田将暉(+黒岩里奈) 正気とはなにか
ご視聴はこちらから: https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20260610
※公開期間は2026年12月10日までを予定しています。
※視聴期限は予告なく変更となる場合があります。
※期限によらず、お早めのご視聴をおすすめします。
関連コンテンツ
チャッピーが観た、箕輪厚介×東浩紀×植田将暉(+黒岩里奈) 正気とはなにか【AIイベントレポート】
※※この記事は、ゲンロンカフェでのイベントを読み込んだAI(ChatGPT)が自動生成した実験的なレポートです。まちがいを含むことがあります。正確な内容はイベント動画本編をご確認ください。※※
編集者・箕輪厚介。幻冬舎で数々のベストセラーを手がけ、現在は出版、配信、飲食店経営まで越境する “編集と炎上” の人。批評家・東浩紀。哲学、出版、イベント、配信を横断しながら、いまなお社会の面倒くさい問いを引き受け続ける人。そしてゲンロンの編集者・植田将暉。若者の位置から、箕輪と東のあいだに落ちる火種を拾い、さらに燃やしていく役回り。途中から登壇した黒岩里奈は、編集者として、東浩紀という存在の孤独と魅力に真正面から切り込んでいった。
──2026年6月10日のゲンロンカフェは、単なるトークイベントではなかった。箕輪厚介、東浩紀、植田将暉、そして後半から黒岩里奈が加わったその夜は、酒と笑いと危険な本音が入り乱れる、ほとんど"令和の論壇プロレス"であり、"思想の異種格闘技戦"だった。
予定調和の対談ではない。評論家がきれいに整理し、編集者がうまく受け、観客が納得して帰るような、そんな安全な場ではまったくない。話はあちこちに飛び、脱線し、酔いが混ざり、笑いが起こる。しかしその底では、メディア、政治、出版、批評、世代、友情、裏切り、そして「いま言葉を信じるとはどういうことか」という、重い問いがずっと鳴っていた。
冒頭の火種は、ReHacQ的な配信と「正気のなさ」だった。
酔って、騒いで、キスして、炎上して、そして再生数が回る。そのノリはたしかに楽しい。箕輪自身も、その危うさと快楽をよく知っている。だが東は、そこで踏みとどまろうとする。問題は、ただバカをやっていることではない。政治家、政治記者、政治学者、インフルエンサーがその宴会芸の磁場に巻き込まれたとき、それは本当にただのバラエティなのか。それとも、政治そのものをエンタメの熱狂に溶かしてしまう、かなり危ない装置なのか。石丸伸二をめぐる恋愛リアリティショー的消費、政治と人格の混同、オウム真理教がテレビで面白がられていた時代の記憶、トランプ以後の世界。最初は笑い話に見えた話題の底から、メディアと民主主義のヤバさがじわじわせり上がってくる。
とはいえ、このイベントは東が箕輪を説教する場ではなかった。箕輪の存在そのものが、東の警戒心を壊し、議論をどんどん別の方向へ暴走させていく。箕輪は、テレビもネットも出版もサロンもラーメン屋も、すべてを「人を動かす場」として見ている。バズること、売れること、仲間が集まること、店が回ること、そこに熱が生まれること。その全部が箕輪にとっては編集なのだ。
それは、机の上で企画書を整える編集ではない。人間の欲望、承認、寂しさ、ノリ、金、怒り、友情をまるごと巻き込んで、現実に渦を作る編集である。
対して東は、ゲンロンカフェという小さな場を守り続ける意味を語る。大きなメディアに乗ること、テレビに出ること、バズることだけが公共性ではない。むしろ、限られた空間で、限られた人数と、長くて面倒くさい話をし続けることにしか生まれない公共性があるのではないか。さらに東は、思想や言論が富裕層だけの慰みになってはいけないこと、同時に、貧しさや不遇を単純に美化してもいけないことを語る。文系知識人は弱い。金もない。権力もない。だが、その弱さのなかでしか見えないものがある。箕輪の「人を動かす編集」と、東の「場を守る批評」は、似ているようで異なるところもある。そのズレこそが、この夜のエンジンだった。
中盤以降、話題はさらに広がる。ニコ論壇、震災後の空気、コンプライアンス、キャンセルカルチャー、テレビとネット、大学、批評家の生存戦略……。東は、2011年以後に論壇やネット空間の雰囲気が大きく変わったことを振り返る。かつては酒を飲みながら難しい話をし、男同士で悪ふざけをしても成立していた空気が、震災、デモ、フェミニズムの波を経て、まったく別のものになった。
しかしここ数年、その緊張にもまた反動が起きているのではないか。人びとは「本音」や「昭和ノリ」や「正気じゃなさ」にふたたび惹かれ始めている。その揺り戻しのなかで、メディアはどこへ行くのか。笑ってよいものと、笑ってはいけないものの線引きはどこにあるのか。
植田は、若い編集者として、その議論のなかにいる。東と箕輪は14歳差、さらにその14歳下に植田がいる。そのズレは、単なる年齢差ではない。ニコ生をリアルタイムで見た世代、震災を思想の転換点として経験した世代、ネット配信やSNSを最初から空気のように吸ってきた世代。それぞれが違う「危なさ」の感覚を持っている。植田は二人の暴走に巻き込まれながらも、自分が何を受け継ぎ、何を壊し、どこへ行くのかを探っているように見える。
そして途中から黒岩里奈が加わると、場の温度はもう一段変わる。黒岩は東浩紀を、単なる有名批評家としてではなく、傷つき、孤立し、それでも人を惹きつけてしまう奇妙な才能として見つめる。東に対する読者的な愛情と、編集者的な観察眼が同時にある。東は照れ、怒り、冗談を飛ばし、話題をさらに展開する。しかし黒岩の問いは、東の奥にある孤独や、ゲンロンという場の危うい魅力を引き出していく。ここでイベントは、メディア論や政治論を超えて、ほとんど人間論になっていく。
終盤、話題は受験、学校、専門性、哲学、ドストエフスキー、友情、裏切り、3.11以後の人生へとなだれ込む。何かを勉強するとはどういうことか。専門家になるとはどういうことか。思想とは誰のためにあるのか。世の中とうまくやれる人間ではなく、むしろうまくやれない人間にこそ、なぜ言葉が必要なのか。笑いながら、酔いながら、悪ふざけをしながら、しかしその問いだけは妙に真剣に残り続ける。
結局この夜に語られていたのは、メディア論であり、政治論であり、哲学論であり、そして「世の中とうまくやれない人間は、どうやって生き延びるのか」という問題だった。思想とは、きれいな正論ではない。安全な教養でもない。
炎上と酒と商売と孤独と友情と裏切りのなかで、それでもまだ言葉を信じるための、かなり正気ではない実践なのだ。ゲンロンカフェはその晩、論壇であり、飲み会であり、戦場であり、避難所でもあった。そこでは、正気を失うことと、正気を保つことが、ほとんど同じ意味を持っていたのである。(文=ChatGPT 5.5 Thinking)






