抵抗と弾圧のインドネシア・ポピュラー音楽史 ひろがりアジア(15)|金悠進

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webゲンロン 2025年10月22日配信

私と音楽と政治

大学院に入った当初、私はインドネシアの政治を研究するつもりであった。しかし博士課程一年目で挫折し、紆余曲折を経てインドネシアの音楽を研究するようになった(むしろ「道を踏み外した」と言ったほうが適切かもしれない)。しかも対象としたのは、ガムランなどの「伝統音楽」「民族音楽」ではなく、都市部の若者が日常的に聴いている現代的なポピュラー音楽であった。

音楽はもともと趣味の一つだった。ただし聴いていたのは日本やアメリカ、イギリスのロックやポップスばかりで、インドネシアの音楽には関心がなかった。インドネシアのロックやポップスを聴き始めたときも、特に新鮮な印象を抱いたわけではなく、J-POPUSUKロックと大差ないと思っていた。

ところが、音楽を聴く一方で政治史を学ぶうちに、インドネシアの音楽が政治と密接に結びついていることが見えてきた。当初まったく心に響かなかった曲が、その背景にある政治的文脈を知ることで突如として魅力を帯びてくる。そして、好きなアーティストだから、あるいは好きなジャンルだからという理由ではなく、その曲が置かれていた「文脈」ごと愛するようになった。本稿では、その文脈──すなわちインドネシア大衆音楽の政治史──について述べていこう。

ロック嫌い? スカルノ初代大統領の西洋文化排斥

 インドネシア音楽と政治を語るうえで欠かせないのが、スカルノ初代大統領だ。スカルノは、1959年の独立記念日の演説のなかでロックンロールを「ガギゴ(ngak-ngik-ngok)」と形容した。ロックは狂った(gila-gilaan)耳障りな騒音であり、西洋音楽は文化帝国主義だと非難したのである。実際、その2カ月後には、国営ラジオ局(RRI)がロックの放送を規制した。

 スカルノは生粋の民族主義者だった。独立後も「革命」を掲げ新植民地主義に対抗し、ナショナリズムを鼓舞することで国民統合を図った。1955年にバンドンでアジア・アフリカ会議を主催すると、中国共産党に接近し、国内ではインドネシア共産党の支持を得ながら左傾化を強めた。その延長として「指導される民主主義」を構想し、事実上の独裁体制を築いていった。そのなかでスカルノは、地方の伝統民族文化の保護と振興を訴える一方、西洋文化は若者に悪影響を与えるとして排除しようとした。

 こうしたスカルノ政権による西洋音楽に対する締め付けのなかで、2つのロックバンドが対照的な運命を辿ることになる。クス・プルス(Koes Plus)とダラ・プスピタ(Dara Puspita)だ。

 クス・プルスは、もともとクス兄弟(Koes Bersaudara)という名で活動していた実の兄弟によるバンドである。1960年代初頭にデビューすると、「ジャワのビートルズ」と言われた。その呼び名の通り、ビートルズなどイギリスのロックバンドの曲をレパートリーとしていた。

 クス・プルスが登場する以前、ラジオで流れていたロックといえば、エルヴィス・プレスリーなど欧米のロックスターばかりだった。1950年代末から1960年代初頭にかけてのエルヴィスとビートルズの衝撃は、日本のみならずインドネシアにも及んだ。若者たちはコピーバンドを組み、ロック人気が徐々に盛り上がっていく。そうしたなかで、クス・プルスはコピー曲だけでなく「スクールバス(Bis Sekolah)」(1963年頃)などビートルズの影響を感じさせつつインドネシア語のオリジナルポップスを追求し、ジャカルタや都市部の若者の間で支持を集めていた。

 しかし、1965年、上述したスカルノの「ガギゴ演説」がクス・プルスに直接的な影響を及ぼすことになる。ビートルズの曲を公の場で演奏した容疑でメンバー全員が逮捕され、楽器は没収され、刑務所に入れられたのだ。これは、インドネシア音楽史上最も有名な弾圧として今でもよく知られている。クス・プルスが活動を再開できたのは、後のスハルト体制に移行してからであった。

 一方、同じく1960年代に登場したダラ・プスピタは、インドネシア初の女性だけによるロックバンドとして知られる。東ジャワ州スラバヤ市で結成した彼女たちは、検閲を巧みにかいくぐり、クス・プルス事件の裏面史を体現した存在であった。

 1965年に制作したデビューアルバムには「マリマリ(Mari-Mari)」という曲が入っている。この曲のイントロを聴いてみてほしい。そう、ローリング・ストーンズの「サティスファクション」そのままだ。もちろん当時のインドネシアでは、エルヴィスやビートルズほどではないがストーンズも若者にとって憧れのロックスターだった。だが、なぜかダラ・プスピタはクス・プルスのように逮捕されることはなかった。この「ガギゴな」曲は許可されたのだ。

 裏話として、ダラ・プスピタが警察を「試した」という史実がある。あえてストーンズを引用することで警察を挑発したのである。警察は「洋楽といえばビートルズ」程度の認識しかなかった。西洋文化排斥とはいえ、その排斥と許容の政治的線引きは極めて曖昧なものだった(後述のジャズも同様)。

 さらに興味深いのは、同じアルバムに収められた「スラバヤ(Surabaja)」という曲である。これは民謡調の穏やかな曲で、スカルノの民族文化保護政策に合わせて「仕方なく」制作されたものであった。つまり彼女たちは、挑発的な「マリマリ」と、迎合的な「スラバヤ」を同居させ、面従腹背の姿勢を一枚のアルバムのなかに刻み込んだのである。皮肉にも、この半ば妥協的に作られた「スラバヤ」は、後に彼女たちを代表する曲となる★1]。

例外としてのジャズ

 このように、スカルノ政権期にロックを中心とする西洋文化が弾圧されたわけだが、その一方で、ロック以外の音楽はどうだったのだろうか。例えば、ジャズに関しては例外的に許容されていたという事実は注目に値する。インドネシア音楽研究者のムルヤディは著書のなかで以下のように記述している。

アメリカからのジャズは禁止されず、国営ラジオ局では毎晩放送されていた。ジャズの非禁止は、国内社会で論争を引き起こした。というのも、ジャズを、ロックの先輩とみなす側と、抑圧された黒人文化あるいは[筆者注:ロックと異なる]独自の音楽とみなす側があるからだ。このような議論があるにもかかわらず、英語詞のジャズの演奏は禁止されなかった。例えば、1960年6月2日にウィスマ・ヌサンタラで行われた「All About Music」のパフォーマンスだ。★2

 このことを踏まえると、スカルノはジャズをアメリカの退廃的なブルジョア白人文化としてではなく、インドネシアと同じく被抑圧者の表現として認識していた可能性がある。ただしこれは仮説にすぎない。当時のインドネシアで、ジャズはポップスやロック、ラテン音楽に比べて人気が低く、むしろ上流階級の一部が嗜む音楽にすぎなかった。つまり、禁止するほどの脅威ではなかったという解釈も可能である。

 もう一つ重要なのは、スカルノがジャズ・ミュージシャンをプロパガンダに利用したということだ。前述の通り、スカルノは地方の伝統的民族文化の保護を推進した。特に彼が好んだのはレンソと呼ばれるインドネシア東部アンボン島の民族舞踊だった。そこで1965年にリリースされたのが『イラマ・レンソで踊ろう(Mari Bersuka Ria dengan Irama Lenso)』というスカルノ肝入りのアルバムだ。興味深いことに、このアルバムの制作には、ジャズ・ギタリストのジャック・レスマナ(Jack Lesmana)とジャズ・ピアニストのブビ・チェン(Bubi Chen)が抜擢されている。なぜジャズ・ミュージシャンが起用されたのかは明確ではないが、ジャック・レスマナがスカルノと親交があったことや、ジャズ以外にもスンダ民謡の演奏にも通じていたことなどが要因として考えられる(例えばEtty Kusumah『Manuk Dadali』1963年)。

 アルバム・ジャケットの裏面には「アジア・アフリカ会議10周年記念」とスタンプが押され、「スカルノ、1965年4月14日」と大統領直筆サインが記されている。このアルバムが発表された4日後の1965年4月18日はジャカルタで記念式典が開催されており、この作品は反植民地主義的イデオロギーを体現した記念碑的なものだった。西洋文化排斥の文脈のなかで、ジャズ・ミュージシャンがその中心的役割を担ったというのは、またしても歴史の皮肉である。

スハルト権威主義体制と非政治的ロックの「自由化」

 スカルノは1950年代末に左傾化し、独裁色を強めるなかで欧米諸国と距離を取り、経済発展を後回しにして、自身のカリスマ性を活かした強権政治を進めた。一方、1967年にスカルノから実権を奪った第2代大統領スハルトは、外資を導入し「開発」を最優先課題に掲げ、経済発展という「実績」によって長期政権を築いた。

 その転換点となったのが、1965年の9月30日事件である。1965年10月1日未明、スカルノ大統領親衛部隊の兵士グループが7人の陸軍将校を襲撃し、そのうち6人を殺害した。この事件について、スハルトは共産党が黒幕であると喧伝し、軍や民兵、さらにはごろつきまでが動員され、50万人から100万人もの共産主義者が殺戮された。これがスハルト独裁の始まりである。

 それにもかかわらず、現在の音楽関係者の多くは「スカルノ時代に比べれば、スハルト時代のほうが自由だった」と語る。一般的にはスカルノよりもスハルトの方が独裁的・抑圧的なイメージが強いため、この評価は意外に感じられるかもしれない。

 しかし、スハルト権威主義体制期と呼ばれるこの時代には、スカルノ時代に禁じられていたロックなどの欧米ポピュラー音楽が息を吹き返し、むしろ黄金期を迎えることになる。

 スハルト時代の若者たちにとって幸運だったのは、スカルノという「障害」が消えたことだった。むしろこの時代、ロックを聴き、演奏し、楽しむという点では「自由」であった。その背景には、①スハルト自身がポップ音楽全般にあまり関心を持っていなかったこと、②スハルトの息子が大のロック好きで後にバンドを組んだこと、③冷戦下で反共を掲げ西側諸国に接近し、欧米文化の流入にも開かれていたこと、④血気盛んな若者、とりわけ学生がロックに熱中することで政治運動から遠ざかり、国民の非政治化・脱イデオロギー化を進めたい政権にとって都合が良かったこと、などが挙げられる。

 一般的に、当時のロックといえばカウンターカルチャーのイメージがある。とはいえ、スハルト体制期のロックに関して言えば、政治的な表現は皆無に等しかった。1965年9月30日事件後に、共産主義者とみなされたものは何十万人も殺された。スハルト権威主義体制は実質的に西側寄りの反共軍事独裁であり、共産党は非合法化され、反政府学生運動と左翼イデオロギーは徹底的に弾圧された。例えば、インドネシアのロック黄金期はベトナム戦争と時期が重なるが、反戦を訴えた曲はほとんど存在しなかった。仮にそのような表現をすれば、反資本主義的かつ容共的な姿勢とみなされ、「PKI(インドネシア共産党)」の烙印を押され、痛い目に遭うことは明白だ。1967年に創刊された若者向け娯楽雑誌『アクトゥイル(Aktuil)』も政治的な内容はNGだった★3。したがって、当時のロックはファズギターやシャウト、パンタロンといった「サウンド」「パフォーマンス」「ファッション」としての外面的要素に集中し、政治性やイデオロギー性といった内面的文脈は換骨奪胎された。いわば、反体制なきロックである。

 とはいえ、ロックが完全に脱政治化されていたわけではない。例えば先述のクス・プルスの1967年作『To The So Called "The Guilties"(罪人たち)』は極めて「政治的」であった。スカルノ時代に収監された経験を踏まえ、このアルバムでは自主規制の対象だった英語タイトルをあえて用い、2年前の体験を「罪人」という形で暗示している。これはスカルノ期の西洋文化排斥へのアンチテーゼであり、インドネシア初のプロテストアルバムとも評される。スハルトは政治的ロックを禁じたが、現実にはそれは自らへの批判や共産主義思想に限られた。スカルノ批判はむしろ許容されたのだ。脱スカルノ化による政権正当化のため、「スカルノ批判のロック」を禁じる理由はなかったのである。

音楽の政治的動員

 脱スカルノ化を推し進めるスハルト権威主義体制下において、クス・プルスはスカルノの束縛から解放され、自由にロックやポップを演奏できた。しかしその結果、スハルト政権のプロパガンダに利用されることになる。

 1975年の東ティモール軍事侵攻の際、クス・プルスは「芸術大使」として秘密裏に同地に派遣された。軍が「侵攻でも併合でもなく統合だ」と強調する中で、彼らは「友好的なインドネシアイメージ」の演出に協力させられた。

 さらにその後、1984年に公開された映画『インドネシア共産党の9月30日運動の裏切り(Pengkhianatan G30S PKI)』では、冒頭でクス・プルスの楽曲が使用された★4。本作は「残虐な共産党から国を守った軍」という公定史観を民衆に植え付けるために制作された国策反共プロパガンダ映画である。オープニングで使用されたのが冒頭で述べた「スクール・バス」で、まったく政治的な内容や歌詞は含まれていない「インドネシア版ビートルズ」といった趣の曲だ。画面には、この曲のレコードが回る様子が映し出される。しかし、共産党シンパと思われる者が、曲の途中で針を止め、ゴミのように積み上げられたビートルズのレコードの上に放り投げる。すると、それらは一気に燃やされ、タイトルが登場して本編が始まる。この非常にインパクトの強い演出によって、同映画は「ビートルズに熱狂した若者からロックを奪った悪しき共産党」というイメージを強烈に印象付けたのである。この映画が毎年9月30日に放送されることで、クス・プルスの知名度は上がる一方で、「共産党を退治した英雄国軍」という公定史観の形成にも、皮肉にも寄与してしまった★5

 さらに、同作では、共産党員が「ゲンジェル・ゲンジェル(Genjer-Genjer)」を狂ったように歌い踊る場面もある。この民謡風の曲はスカルノ時代に作られ、後に共産党のプロパガンダソングとされ、スハルト時代にタブーとされたものである。「狂気に満ちた」共産党員がこの曲を歌う場面をあえて盛り込むことに、政権の強い政治的意図が透けて見える。

なぜ感傷的ポップスは禁止されたのか?

 インドネシア音楽史の「七不思議」のひとつとされるのが、1980年代後半の「感傷的ポップソング禁止令」である。1987年の大ヒット曲「傷心」はミリオンセラーとなったが、なぜか放送禁止になった。歌詞には政権批判的な要素は皆無である。

 当時全国的に流行していたのは大衆音楽ダンドゥットと、もう一つが感傷的なポップであった。「傷心」は後者の代表的な作品で、雰囲気としては五輪真弓の「心の友」に近い。実際、この曲は1980年代半ばのインドネシアで偶発的に大ヒットした。ゆったりとした哀愁漂うバラードは庶民の琴線に触れる典型だった。

 1988年、インドネシア国営テレビ開局26周年記念の記者会見で、情報大臣ハルモコは、国営テレビ局TVRIで感傷的ポップを放送禁止にすると発表した。彼いわく、この種の感傷的ポップは、今日のインドネシアの「開発」の精神にそぐわず、「チェンゲン(cengeng)」だとレッテル貼りをした。すなわち、あまりにも「メランコリックで、メソメソしく、泣き虫で、哀しく暗い歌」だと非難したのである。

 こうした感傷的ポップ禁止令は一時的な処置であり1989年には放送も解禁されたが、実は歴史を遡ると同様の事例がスカルノ時代にもあった。1963年のヒット曲「失恋(Patah Hati)」は、共産党系文化団体から「革命の精神を弱めるチェンゲンな歌」だと批判された。つまり、スカルノもスハルトも、それぞれが掲げた「革命」や「開発」の妨げとなる音楽を「有害」とみなし、禁止したのである。興味深いのは、それが闘争心あふれるプロテストソングではなく、むしろ批判精神を欠いた失恋バラードであった点だ。純粋に商業目的で作られたポップスが、意図せざる形で体制にとっての脅威へと転化したのである。

 感傷的なバラードポップスが禁止された理由はわからない。とはいえ、1963年はスカルノ政権および共産党が、1988年はスハルト政権が、いずれも最も勢いを増していた時期である。前向きかつポジティブに、革命や開発といった最優先の目標へ向けて国民的な一体感を創出しようとした両政権にとって、悲哀に満ちたネガティブな音楽は、それが商業的に成功し圧倒的多数の庶民を魅了したという事実も含め、少なくとも不都合な存在だったのだろう。

民主化とラップの政治的価値転覆

 こうした歌と権力の緊張関係は、1998年の民主化を機に新しい局面を迎える。その典型がラップである。

 1995年、スハルト大統領の腹心で後に第三代大統領となるハビビは、ラップを次のように批判した。

「若い世代は我が国において好ましくない海外文化の奴隷になるべきではない。かの国[筆者注:アメリカ]ではもちろん、ましてやインドネシアでは相応しくない。私は賛成できない。我が国にとって、特に若い世代にとって何の役にも立たない」

 特にハビビは、ラップの歌詞の言葉遣いが粗野で下品だと嫌悪した。

 しかし、民主化後、ラップの価値は転覆した。2014年に大統領に就任した「メタル好き」のジョコウィは音楽好きの若者たちの支持を得るため、2016年に16歳で世界的にブレイクしたインドネシア人ラッパー、リッチ・ブライアンを2019年に大統領官邸に招待した。Fワードやスラングを多用するリッチ・ブライアンのラップは、かつてハビビが批判した「粗野で下品な歌詞」そのものであった。それでもジョコウィ大統領にとって、リッチ・ブライアンは「世界で活躍する若きインドネシア人」として政治的に利用価値の高い存在となっていたのである★6

 2020年以降現在に至るまで、ラップはインドネシアにおいて最も勢いのある音楽ジャンルの一つであり、パプアを含む各地方から大小さまざまなラッパーが多数登場している。その中には選挙キャンペーンの盛り上げ役を担う者もおり、30年前の「ラップ批判」とは隔世の感がある。

パンクの抵抗と弾圧

 民主化が音楽シーンにもたらしたインパクトといえば、表現の自由である。スハルト体制下では考えられなかったような権力批判が、1990年代半ば以降パンクロックなどアンダーグラウンド音楽を中心に堂々と表現されるようになった。

 しかし、民主化してから26年以上経た2025年2月20日、衝撃的な事件が起きる。男女2人組の覆面パンクバンド、スカタニ(Sukatani)の楽曲「カネを払え(Bayar Bayar Bayar)」が、警察の指令により音楽配信サービスから一斉削除されたのだ。多くのミュージシャンがこの事件に驚きと批判の声を上げた。もともとスカタニの大ファンであった私も衝撃を受けた。

「カネを払え」は、警察に対する露骨な批判を含んでいる。「ライブするなら警察にカネを払え、汚職するなら警察にカネを払え、家を立ち退かせたいなら警察にカネを払え、森を伐採したければ警察にカネを払え」。腐敗した警察に対して中指を突き立てる、極めて直截的なパンクロックである。あまりにも直接的かつ攻撃的な歌詞に対し、警察も黙ってはいなかった。

 楽曲規制は民主化以前からも存在していたが、今回のスカタニの例が特異なのは、それが民主主義時代に起きたということに加え、スカタニが覆面を外し、顔出し謝罪動画を公開させられた点にある(警察は強要を否定)。この動画がSNSで拡散され、警察に対する抗議の声が広がった。ちなみに、スカタニの女性ボーカルは、この騒動の後に小学校教師の職を解雇されたという。

 このスカタニ騒動にインドネシアのミュージシャンたちは怒りを露わにし、反権力闘争の意思を表明した。ソーシャルメディア上では、「#kamibersamasukatani(我々はスカタニとともに)」というハッシュタグが広く拡散された。ヒジャブメタルバンド、Voice of Baceprotもライブ中のスクリーンにこのハッシュタグを掲げ連帯と批判の意を示した★7。こうした批判声明はミュージシャンのみにとどまらなかった。反政府デモ現場でもデモ隊が大声で「カネを払え」を歌い、目の前にいる警察を批判したのである★8

 さらに驚くべきは、この騒動が過熱化し、KompasやTempoといった大手新聞メディアが連日大々的に報じると、警察はスカタニを「警察大使」に任命すると言い出したのである。曲の削除は批判封じではなく、むしろ「我々は批判を受け入れ改善する。だからスカタニを大使に」という論理を掲げたのだ。さすがに筋が通らない理屈だが、要するに「我々警察はオープンで寛容だ」とアピールしたいだけである。これはプロテストソングを逆手に取った警察のプロパガンダであった。当然、スカタニがその提案を受け入れるはずはなかった。

 以上は、冒頭で述べた「インドネシアの音楽が政治と密接に結びついていること」の、ほんの一断面にすぎない。その結びつき方は、時代、地域、階層など、さまざまな政治経済的条件によって可変的であり、かつ多層的である。だからこそ、音楽と政治の関係は複雑であり、容易に理解しがたい。すべてのミュージシャンが権力に抵抗するわけではなく、権力がすべての音楽表現を弾圧するわけでもない。そもそも民主化後のインドネシアにおいて、反体制的なミュージシャンは多数派ではないし、「政治的」でありながら軍や警察といった権力に擦り寄るロックスターすら存在する。議員に立候補したり、選挙キャンペーンを盛り上げたりすることで政治の表舞台に立つポップスターもいる。

 いずれにしても、何が「政治的」であるかは、その時代状況や社会的文脈によって規定される。ゆえに〈音楽と政治〉は、常に危うい緊張関係を保ちながら、さまざまな偶発的出来事を引き起こし、ときに意図せざる帰結をもたらす。何が起こるか予測できず、たとえ何かが生じても必ずしも理解できるとは限らない。そもそも、インドネシアを理解することなど、一生かかっても無理である。もちろん、インドネシアで流行っている最新のポップスを聴くことだけでもこの国を断片的には理解できるだろう。だが、〈音楽と政治〉の交錯する歴史的文脈を辿ると、インドネシア社会はより立体的に立ち現れ、私たちの前に新たな世界を開いてくれるのである。
 


★1 金悠進「スカルノ時代のロックと政治」『月刊インドネシア』2025年4月号、pp. 29-31.
★2 Muhammad Mulyadi. 2009. Industri Musik Indonesia: Suatu Sejarah. Bekasi: Koperasi Ilmu Pengetahuan Sosial. p. 16。ウィスマ・ヌランタラはジャカルタの目抜通りにあるオフィスビルである。引用によると1960年とのことだが、同ビルは1963年に着工しているため、検証が必要である。
★3 竹下愛「ひろがりアジア(9) 反転のユートピア──スハルト政権期インドネシアの「若者向け娯楽誌」と9.30事件の痕跡(後篇)」『webゲンロン』2022年1月26日
★4 映画製作には政府から80億ルピアが投じられたという(竹下、同上)。
★5 金悠進「スハルト時代のロックと政治」『月刊インドネシア』2025年5月号、pp. 28–31.
★6 金悠進「リッチ・ブライアンを超えろ」『辺境のラッパーたち─立ち上がる「声の民族誌」』青土社、2024年、pp. 461-488.
★7 西ジャワ州ガルットで2014年に女子高生3人で組んだバンド。イスラーム教徒の女性が着用する「ヒジャブ」を身に着けながら、激しいメタルを巧みな演奏テクニックで披露し、大きな話題を呼んだ。彼女たちの活動は国内外で称賛され、欧州ツアーやアメリカツアーを成功させ、2024年にはバンドのリーダーが「BBCが選ぶ100人の女性」に選ばれた。イスラーム的価値観の尊重と社会批判的な表現力を兼ね備え、男性支配的なメタルシーンに風穴を開けた、世界的に活躍する象徴的な存在である。さらに2025年には、初の来日公演を実現。ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文も「本当にかっこいいバンド」と称賛し、自身が主催するNANO-MUGENフェスに招待した。
★8 金悠進「民主主義時代のロックと政治」『月刊インドネシア』2025年6月号、pp. 34-37.

金悠進

1990年、大阪生まれ。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。現在、東京外国語大学・講師。専門はインドネシア地域研究、ポピュラー音楽研究、カルチュラル・スタディーズ。主な著作に『越境する〈発火点〉─インドネシア・ミュージシャンの表現世界』(風響社、2020年)、『ポピュラー音楽と現代政治―インドネシア 自立と依存の文化実践』(京都大学学術出版会、2023年、樫山純三賞学術書賞、音楽本大賞個人賞、地域研究コンソーシアム賞登竜賞)。

1 コメント

  • TM2025/11/12 19:17

    日本にいると政治と音楽が結びつくことはあまりピンとこない。まして政治が音楽表現に大々的に手を突っ込んでくるさまは遠い景色だ。政治と音楽で記憶を探ると宇多田ヒカルがちょっと昔、ちらっと政治的なこと(夫婦別姓)を盛り込んでいたのを思い出す。生まれた波は宇多田ヒカルをもってしてもさざ波程度だった。 やはり日本では音楽と政治は遠い。 日本において音楽は政治ではなく、生活のレイヤーから人間に干渉しているのではないか。 もちろんインドネシアでも歌は個人から生まれるわけでその個人の生活から立ち上がるはずだ。その生活という視点を加えると、インドネシアで音楽と政治がずっと近くにあるのは、生活と政治の距離が近いことを示しているのではないか。音楽が生活から立ち上がり他者の生活を揺らすとすぐ傍にある政治も揺れてしまう。だから政治と音楽が関係してしまう。 Spotifyで日本のデイリーチャートをみると1位は米津玄師『IRIS OUT』だった。セカイ系的関係の破壊を描いた『チェーンソーマン レゼ篇』の主題歌。一人称と二人称が作る円形に政治は一切存在しない。警察にカネを払えと訴えるのではなく、君だけ大正解と歌い上げる。それこそ今の日本と言えるのかもしれない。 音楽との距離感を通して人間と政治との関係が見えてくる。

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