哲学は自由であるべきだ──『ゲンロン戦記』韓国語版出版記念インタビュー|東浩紀

質問1 私は先生の『動物化するポストモダン』の韓国語版が出版された時から先生のご著書を読んでおりました。それで専門の研究者ではございませんが、先生の出版におけるご活躍や「ゲンロンカフェ」の活動に関心を持って、それにつきましてもっと深く知りたいお気持ちで『ゲンロン戦記』を読み始めましたが、先生の会った経営面でのお困りには実に驚きの連続でございました。そのような過程を経て『観光客の哲学』 『訂正可能性の哲学』 という素晴らしい哲学書を生んでいただきました。これはこの本で話していただいた、「ゲンロン」という会社を経営しながら得た経験と無関係ではないのではないかと存じます。「ゲンロン」を経営すること自体が先生の「哲学のご実践」とおっしゃったことが印象的でしたが、そのようにお考えになさるご理由を話していただけますでしょうか。
東 ぼくが『観光客の哲学』『訂正可能性の哲学』の2冊で訴えているのは、ひとことで言えば、哲学や人文学はもっと自由であるべきだ──というよりも、自由であるしかないはずだということです。哲学や人文学はそもそも「誤配」なくしては維持できません。ところが、現在の哲学や人文知は、一方では「政治的正しさ」の感覚によって、他方では学問的な厳密さの感覚によって、あらゆる間違いが許されなくなり、とても狭い読者のなかに閉じこめられています。そのせいで生活者との生き生きした交流を失い、発展性を失っている。それは本来の哲学や人文知のすがたではありません。そこでぼくは、哲学や人文学の自由なありかたを、大学を離れ、ゲンロンという会社を経営し、自分のメディアやスペースをもつことで回復しようと試みてきました。それゆえ、ゲンロンの経営は哲学の実践ということになるのです。
質問2 先生のように、韓国にも出版を希望する研究者、小説家、評論家たちが時々出ております。しかし、自身の哲学と実践の間で道を迷って結局は経営上の問題で会社を畳んでしまうことも少なくはございません。ご自身の哲学を実践するひとつの方法として会社を経営するとしたら、哲学と実践のバランスを取るために忘れてはいけないことがあればご教示いただけますと幸いです。
東 「哲学と実践のバランス」という表現は、両者が対立することを前提としています。しかし本当にそうでしょうか。よい本を書いても売れない。ひとはそう言います。しかし、いくらよい本を書いても、だれにも届かず、忘れられては意味がありません。世の中を変えるためには、あるていどの数の読者を確保し、継続的に話を聞いてもらう環境をつくる必要があります。そしてそれは、結局のところあるていど売れるということです。確かに哲学者は100万人を動かす必要はありません。しかし100人にしか届かない言葉で満足していても、やはりだめなのです。適切な規模の読者共同体をつくり、維持することが、哲学の営みにとっても本質的に重要だと考えています。だから哲学と経営の実践はひとつのものです。
質問3 先生のご執筆のスタンスとゲンロンでのご活動の連関につきまして質問をさせていただきたく存じます。私はご著書『観光客の哲学』と『訂正可能性の哲学』を読んでおりましたが、私のような「平凡な読者」がこのような「哲学書」を読めることが不思議な感じでした。より易く読めるし、理解し易く本でしたので、そのことに驚きました。読んだ後には今まで学文的にはすこし辺境のように考えられた「観光客」の位置やスタンスに注目されて、また哲学のなかで「訂正」の可能性を新しく引き出した面で、新しい理論であることを私も実感いたしました。哲学書の読者ではない読者をための先生のご努力には頭が下げております。このような文体にゲンロンでのご活動が与えた影響などがございましたら、ご説明していただけますでしょうか。
東 大学教授は学生を指導し、同僚とともに研究する職業です。さまざまな苦労があると思いますが、まわりは基本的には自分と同じ関心をもち、似た言葉を話す人々です。けれども会社を起業し、経営するとなるとそうはいきません。借金をするなら銀行と話さねばなりません。トークを中継するなら技術スタッフと話さねばなりません。トラブルが起きたら弁護士と話さねばなりません。彼らは必ずしもぼくの本を読んでいるわけではありません。政治的な立場も異なることがあります。しかし話さなければビジネスは進みません。そういう経験を積み重ねるなかで、いつのまにか、ぼく自身の言葉も大きく変化していきました。それがご質問のような開かれた印象を与えているのだと思います。
質問4 メディアがYouTubeなどの動画中心で再編されるのは時代の流れかもしれません。それで、オフラインでトークへ参加して、改めてイベントを動画で見て、また、その内容をベースとした本を買うという好循環のような成果を見せている「ゲンロンカフェ」や「シラス」を今、注目する必要があるのではないかと存じます。オフライン、動画、活字メディアの好循環のためにするべきことがございましたら、先生のお考えを聞かせてくださいませ。
東 こちらの質問については、ぼくは業界の観察者ではなく、いまも現場で苦しんでいる実践者です。ゲンロンやシラスの活動を見ていただくのがいちばんかと思います。
質問5 様々なクリエイターが広告に依存されなくて、有料で動画を配信するフラットフォーム「シラス」が生まれたお話しも興味深いでした。「シラス」は初期から規模より「反スケール」を志向するとおっしゃいました。「小さな会社」であり続けることこそ、反資本主義的、反体制的、オルタナティブという「シラス」の理念がその運営のどのように影響を与えているのかご教示いただけますと幸いです。また、「シラス」のクリエイターやお客様はだいたいどのような方か、近況はどうかにつきまして簡略なお話しをしていただけますでしょうか。
東 会社というのは、理念がさきにあり、それが実現するという順番で作られるものではありません。実際は、現場でさまざまなことが起き、そのトラブルを解決するなかで生まれた暫定的なアイデアが、あとから振り返って理念として再発見されることのほうが多い。『訂正可能性の哲学』の言葉を借りるならば、「遡行的訂正」です。ですから、理念が運営に影響を与えたのではありません。むしろ運営が理念に影響を与えたのです。
二番目の質問については、つぎのような例を出すのがよいでしょう。ぼくがいまこの文章を書いているのは2025年4月2日ですが、10日ほどまえの3月22日に「ゲンロン総会」なるものが開かれました。ゲンロンとシラス(この両者は一体的に経営されています)が、年にいちど支援者向けに開催しているイベントです。著名人を呼んだトークショーが行われるだけでなく、支援者が参加する小さな即売会も開かれます。哲学や文学の同人誌だけでなく、電子工作や音楽CD、編み物やクッキーなども売られます。子ども向けのアート教室も開かれます。
ぼくのいまの読者、そしてシラスの視聴者はそういうひとたちです。彼らは決して哲学や文学の読者ではありません。でもゲンロンとシラスを応援してくれている。いまのぼくの活動は、さまざまな地方に住む、さまざまな職業のひとたちに支えられています。女性も多くいます。『ゲンロン戦記』に記したとおり、いまのゲンロンの代表は女性である上田洋子で、そのことも大きく影響しています。
質問6 今はコンテンツや人物のファンダムが出来て、そのファンダムがベースになっている「ファンダム経済」なようなものが重要視されている時代ではないかと存じます。ファンダムは先生のお言葉で言いますと「観客」ではなく、「信者」と言えるのではないかと存じます。ゲンロンがファンでも、サポーターでも、信者でもない「観客」を増えることに力を注ぐご理由を話していただけますでしょうか。
東 ぼくはファンダムを否定しません。ただし、それは新しい参入者につねに開かれたものでないといけないと思います。ぼくは「信者」という言葉で、閉鎖的で排他的な共同体を作るファンを指しています。「観客」という言葉は、そのような信者よりも「弱い」つながりをつくるファンを意味しています。だれか、あるいはなにかに関心はある。同じ関心をもつひととも集う。けれども対象についてすべてを知っているとは主張しない。自分と異なる意見や見方のひとが現れても、決して排除しない。むしろ歓迎する。それが、ぼくが考える「観客」のありかたです。そのようなファンが多くいることで、はじめてファンの共同体は外に開きます。
質問2への回答で示したように、ぼくは、そのような開かれた共同体を作り、維持することこそが、哲学の営みにとって本質的だと考えています。そして、実際にいまゲンロンの支援者はそのような共同体へと変化しつつあります。
質問7 先生は「誤配」こそがイノベーションやクリエイションの源だと思っているとおっしゃいました。『ゲンロン戦記』を通じて、ゲンロンカフェの成立やシラスの完成など、思いもよらなかったきっかけで始まった事業や良い結果があったことの例を読みながら、「誤配」が「ゲンロン」という会社に大きな影響を与えたことを実感いたしました。『ゲンロン戦記』の韓国語版の出版とともにご期待になさる「誤配」のようなことがございますか。もちろん予見が可能であれば、それはもはや「誤配」ではないかもしれませんが、韓国の読者の中に起こるかもしれないことなどご期待がございましたら、それにつきまして聞かせていただけますと幸いです。
東 ぼくの本は10冊以上が韓国語になっています。しかし、ぼくのイメージが韓国に正確に伝わっているとは感じていません。ここに記した回答でわかるとおり、ぼくは、韓国で紹介されている日本の同世代の哲学者や社会学者とはかなり異なった存在です。日本でも彼らの読者とぼくの読者は必ずしも重なっていません。この『ゲンロン戦記』の韓国語訳が出版されることで、誤解が正されることを期待しています。
しかし、逆説的ですが、誤解を正すことは、むしろ「誤配」のはじまりでもあります。ひとは、なにかを正しく理解したときにこそ、生産的にまちがうことができるからです。ぼくは韓国に何度も行ったことがありますが、いつも日本との類似と差異の混在に驚きます。韓国は、日本ととても似ていますが、他方でおそろしく異なった国でもあります。だから、この本も、僕の予想とはまったく異なったかたちで読まれるかもしれない。『ゲンロン戦記』が韓国の読者にどのように読まれ、どのような反応が来るのか、いまから楽しみです。
書名:지의 관객 만들기(「知の観客」をつくる)
出版社:메멘토 Memento Publishing Co.
訳者:지비원(池妃苑〔チ・ビオン, Biwon Ji〕)
刊行日:2025年4月30日
公式サイト:https://mementopub.tistory.com/181


東浩紀