濱田轟天「原作はストーリーだけじゃない」──『平和の国の島崎へ』の原作者がたどり着いた人類の共通言語とは

第一線で活躍するプロにひらめき☆マンガ教室運営スタッフと現役受講生たちがお話をうかがう「ひらめき☆講座特別インタビュー」の第2弾。
今回はマンガ原作者の濱田轟天先生の仕事場にお邪魔しました。濱田先生が原作を手掛ける『平和の国の島崎へ』は第8回さいとう・たかを賞を受賞し、累計発行部数が100万部を超えるなど人気爆発中。そんな濱田先生がどうキャリアを形成してきたのか、ぜひお読みください!(編集部)
中学生のときに雷に打たれた
──まずは濱田先生がマンガ家を志したきっかけをうかがえますか。
濱田轟天 小学生のときに『王立宇宙軍 オネアミスの翼』を観たのが、クリエイティブな職業に憧れたきっかけでした。雷にうたれたかのような衝撃を受けて「ぼくはこのひとたちと同じところに行かなくちゃ!」と思いました。具体的にマンガ家になろうと意識したのは中学生の頃ですね。近所にマンガ家さんが住んでいて、よく遊びに行ってイラストを見てもらったりしていた。交流が始まって半年くらい経ったときに、その方が仕事を振ってくださったんです。
──それがマンガのお仕事だった?
濱田 そうです。作品のメカデザインで、かなりちゃんとした仕事でした。ぼくがメカデザインに興味があって、士郎正宗さんとかがすごく好きだったのを知ってくれていたからだと思います。それまで描きためていたイラストをまとめて納品して、ギャラもしっかりいただきました。

──多感な時期に貴重な経験をされたんですね。
濱田 あらためて「クリエイティブな世界で生きていきたい」と思いましたね。ところが中学3年生になると、こんどは自主映画と出会ってしまった。たまたま読んでいた雑誌に上映会の広告があって、なんとなく足を運んだらまた「これをやらなくちゃ!」と雷に打たれるわけです(笑)。それからは自主映画とマンガの二足の草鞋を履いていました。けれど、17歳のころ統合失調症にかかり、仕事をやめて実家に戻らなくてはいけなくなってしまったんです。
──2000年には24歳でちばてつや賞の佳作を取られていますが、けっして順風満帆ではなかったのですね。
濱田 そうですね。症状があるていど落ち着いた19歳のときに、心をあらたにしてマンガと向き合いなおしました。そのときにはじめて一本マンガを完成させられたんですけど、それがもう、すごくうれしくって! それまでにも自主映画は完成させていましたが、ひとりで絵を描き、話も作るマンガの達成感はそれとはまったくちがった。あまりにうれしくって、原稿をそのまま『週刊少年ジャンプ』へ持ち込んじゃったんですよ(笑)。そしたら編集部も「いいね!」と言ってくれて、2、3回持ち込みを重ねたあと担当さんが付きました。
──それはすごい! けど、『ジャンプ』は集英社ですが、ちばてつや賞は講談社の賞ですよね。
濱田 集英社の担当さんには病気のことを黙っていたので、落ち込む波が来るとどうしてもうまくいかなくなり、次第に距離ができてしまったんですよね。それでもマンガ家になることをあきらめたわけではなかったので、治療を続けつつ、昼間にはバイトをし、夜になるとマンガを描く生活をしていました。波が落ち着いたタイミングを見つけては、いろんな会社に持ち込んでいた。ところが、どこに持ち込んでも「君のマンガは『モーニング』向けだね」と言われるんです(笑)。
当時は『モーニング』を読んだことすらなかったんだけど、みんなが言うならと思って『モーニング』に持ち込みに行ったら気に入ってもらえて、「この原稿は賞の審査に回しとくから」という話になり、受賞までこぎつけました。
──それから講談社との付き合いが続いていまに至る、と。
濱田 だとよかったんですけどね(笑)。実際にはすぐに挫折を経験して、マンガ家になることをいちどあきらめています。
読者が見えず挫折
──それはどんな挫折だったのでしょう。
濱田 だれに向けてマンガを描けばいいのか、分からなくなったんです。それまでは自分のためにマンガを描いていて、それで問題がなかった。ところがプロを目指そうとしたとたん「読者のためにマンガを描いてください」と言われる。その「読者」がどこにいて、なにをしているのかまったく分からなかったんです。いちどは読み切りが掲載される直前まで行ったのですが、編集長チェックではじかれて、心がポッキリ折れてしまった。「おれ、マンガ向いてねぇな」と、しばらく自主映画ばかり撮っていました。
──自主映画の「観客」とマンガの「読者」はちがうものなのでしょうか。
濱田 自主映画は上映会さえやれれば、目の前に物理的に観客がいます。だからどんな人間が自分の映画を見るのか、想像したり学習したりできた。でもマンガの場合なかなかそうはいかない。当時は発表できる場所もかぎられていたし、目の前で雑誌を開いて自分のマンガを読む人間に出会うことなんて、まずありませんでした。
──その挫折を乗り越えたのはいつだったのでしょう。
濱田 2009年ぐらいだったかな、mixiで「日記マンガを読んでみたい」と言われたのがきっかけでした。心が折れてから時間が経っていたし、ふしぎと「日記マンガだったら描いてみてもいいかな」と思えたんです。喜んでくれるひとがいるならやってみるか、と。最初は1コママンガから始めて、2コマ、4コマ、1ページ……と、リハビリのように描く量を増やしていきました。旅行での出来事を日記マンガにしたりと、自分というキャラクターを使えばなんでも描けるなと思えてきた。
──反応はいかがでしたか。
濱田 もともと交流があったのも手伝って、「おもしろい!」と言ってもらえました。それで調子に乗って、日記マンガを描いてノリノリでSNSに公開する時代が続きます。そのうちにTwitterの時代になり、『20年ぶりに父親に会ったら難病だった話』がすごいバズった[★1]。
──幼少期から疎遠になっていたお父さまと再会し、看取るまでを描いたエッセイマンガですね。
濱田 あれを描いたときに、読者に向けてマンガを描くためのコツのようなものがつかめたんです。そのコツを応用して描いた怪獣マンガを編集者にDMで送ったところ、翌日に「いっしょにやりませんか?」と電話がかかってきて、その縁が『平和の国の島崎へ』の連載につながりました。コロナ禍下でマンガ家志望者と編集者とが直接やり取りをする流れもあったので、ラッキーでした。

──そのときにはマンガ家ではなく「原作者」でやっていくと考えていたのでしょうか。
濱田 いや、まったく考えていませんでした。『島崎』は最初、作画もひとりでやる前提で話が進んでいたんですが、打ち合わせのなかで「『モーニング』で連載しよう」という話になり、ぼくがそれは困ります! と伝えた。『モーニング』は週刊誌ですが、ぼくはすごく作画が遅いという自覚があったので、とても連載なんてできない。
そうしたら「じゃあネーム原作で行きます?」と返ってきて、みたび雷に打たれました。「ネームだけでお金をもらえるなんて、夢みたいな仕事じゃないか!」と(笑)。当時のぼくは原作といえば文章でシナリオを作る仕事で、逆にマンガをやるとなればすべて自分で描くしかないんだと思い込んでいました。
──作画との共同作業にハードルは感じなかったのでしょうか。
濱田 なかったですね。もともと自主映画を撮っていたので、集団制作に慣れているのが大きかったと思います。チームになることで作品の質が上がるのはよいことだと感じていました。
マンガ家としての「コツ」
──さきほどエッセイマンガでコツが掴めたという話がありましたが、具体的にはどんなものなのでしょう。
濱田 「手紙を出すようなつもりで、伝えたいことを形にする」ですね。大前提として、他人の話なんてだれも聞いてくれません。けれど街中で叫ぶわけにもいかないから、それでもなお、伝えたいことがある場合にはどうしたらいいのか。そう考えたときにたどり着いたのが「手紙にする」というやり方でした。
べつの言い方をすれば、モノローグではなくてダイアローグのつもりで表現するということです。挫折の前はずっとモノローグとして作品を作っていたので、読者との対話としてマンガを描く心構えが分かっていなかった。だから、読者という外部が入ってきたときに対応できなかった。
けれど、ひとは対話によって考えが変わるし、現実もそうやって動いていきます。このインタビューも、聞き手がいて、話し手がいるというダイアローグだからこそ、内容が深堀りされていく。ぼくがしゃべっているだけでは、他者が見たときに読みとくことができないんです。その点でモノローグとダイアローグは決定的にちがいます。
ぼくは、表現のちがいとは、すなわち伝え方のちがいであると考えています。伝えたいことはだれしもあるので、それを伝えるためにどう工夫するかという話になってくる。ラブレターを書くのに文章や文字の汚さを気にしないひとはいないですよね。それと同じようにマンガを考えると、描き方を工夫しなきゃという発想に繋がっていく。
もちろんその人なりの工夫のしかたがあるので、それをつかむまでにはトライ&エラーを繰り返さないといけません。さらにマンガの場合、最後まで読んでもらうことにキモがあります。途中で読むのをやめられてしまうと、結局は伝えたいことが伝わらない。だから最後まで読んでもらうためにもっと工夫が必要になるんです。そこも手紙と同じですね。
──マンガは有料無料含め膨大な数があるので、見つけてもらうだけでもたいへんですよね。
濱田 極端に言えば、最初の1コマで読者の首根っこを掴んで、最後まで読ませてやるくらいの意識が必要になります。そのためにコマ割りやフリや落ちのテクニックがある。それらの使い方は理論的に説明できますが、だからこそ勘ちがいしてはいけないのが、それらはすべてマンガを読んでもらい、伝えたいことを伝えるためにあるものなんだということです。もっとも大切なのは理論そのものではなく、なにを伝えたいのか。これはけっしてまちがってはいけないポイントです。
原作者はストーリーライターではない
濱田 さらに言えば、原作者の仕事も手紙と同じなんですよね。やっぱり、作画の方がつい描きたくなるようなネームになるよう工夫しているし、編集者や作画の方に意図を正しく伝えることには、人一倍気を遣っています。
──宛先が読者から共同制作者に変わったということですね。
濱田 そのとおりです。それも1から10までのすべてを伝えるのではなくて、集団制作だからこそ、絶対に外せないコアな部分以外については、むしろどんどん変えてもらう必要がある。だから「ここはビルです」みたいにあえてざっくりとしたネームを描くこともあれば、反対にキャラクターの感情のように、まちがいなく伝わるよう神経を使っている部分もあります。
──原作者としてはストーリーを正しく伝えることも重要ですよね。
濱田 もちろんそうなんですが、ぼくは極端な話、マンガにストーリーはなくてもいいと思っています。
──ええ!
濱田 感情のほうがよほど大切です。たとえば、なぜぼくらは『源氏物語』や『徒然草』をおもしろがって読めるのか。そこに感情が描かれているからなんです。大昔の人間が「近頃の若者は……」と愚痴っている内容が分かる。1000年経っても、あるいは言語や風習がちがっても、人類が共通して理解できるものが感情なんです。
──なるほど。感情こそが人類の共通言語だということですね。
濱田 「マンガはキャラだ」とよく言われるのも、これが理由だと思います。キャラクターがたっているとはキャラの感情が伝わるということです。『島崎』の場合であれば、島崎という人物がいて、彼がコンビニへ行って帰ってくる、その間のちょっとしたエピソード――だれかと会ったとか、外国のひとにまちがえられたとか――と心の動きがあればいい。それだけで読者は共感してくれるんです。『島崎』を楽しんでもらえるのは、島崎の感情をとおして読者が彼を好きになったり嫌いになったりできるからです。
ただやはり、感情もまたもっと大きいものを読者に伝えるための手段にすぎません。その点でネーム原作者として、チームでマンガを作れることにはとても感謝しています。作画の方がいてくれたほうが、むしろ読者に意図が伝わりやすいと感じているからです。自分の言いたいことを伝えるために、必ずしも自分の絵で描く必要はなかったわけです。
──とはいえ、逆に絵の描き方によって意図が伝わりにくくなることもあるのではないのでしょうか。
濱田 その場合には、「ここは意図が変わってしまっているので、こう変えてもらっていいですか」と必ず連絡するようにしています。あるいは意図までいかずとも、たとえば『マンガワン』で連載している『ミハルの戦場』はスマートフォンなどで読まれることが前提になるので[★2]、「デジタルは黒にまず目が行くから、ここは黒ベタでお願いします」と指示したり。
──『ミハルの戦場』の印象的な黒はそうやって生まれたんですね。
濱田 とはいえ、そういう指摘をしていたのも最初のほうだけです。作画の藤本ケンシさんは飲み込みが速いので、いまではディスプレイならではの画面を活かしたうえで、キャラの表情にもアレンジを加えていただいて、よりマンガらしく表現してくれています。

ルールはあくまで手段である
──『島崎』を読み直していると、最初に読んだときとはちがう角度から心を動かされることが多くありました。なんど読んでも楽しめるように工夫されているのでしょうか。
濱田 もちろんです。ぼくは「レイヤー構造を作る」という言い方をしています。映像作品の、手前のレイヤーは速く動いて、まんなかのレイヤーはゆっくり動いて、遠くのレイヤーはもっとゆっくり動く、という感覚をマンガで再現しているかんじですね。
──それはだれの視点からの距離感なのですか。
濱田 主人公ですね。『島崎』なら身近なエピソードが1番近いレイヤーで、ちょっとした事件がまんなかのレイヤーで、世界情勢についての話が遠くのレイヤーになっている。読者は主人公の世界観をとおしてマンガを読むので、そこにレイヤー構造を作ると、なんどでも読み返せるマンガになるわけです。もちろん読者には多種多様な人間がいますが、レイヤーが多ければすこしでも多くの人が楽しめるようになるだろうとも思っています。
──一方で、ひらめき☆マンガ教室の受講生を見ると、マンガの構造を意識するとそれ自体に捉われてしまうケースがあるように思います。それでも構造や理論は守るべきでしょうか。
濱田 べつに守らなくていいです(笑)。それらは結局「伝えるための工夫」なので、自分がなにを伝えたいのかを優先すべきですね。今日話してきたことは、ぼくの実践をとおして最適化された工夫のしかたです。逆に言えば、最初はそんなの関係なくやってもいい。もちろん相手を笑わせたいときに怒らせるような言葉遣いをしてはいけないように、目的を果たすための最低限のルールはあるけれど、そんなのは実践をとおして学んでいけます。
とはいえ、ルールを破って徒手空拳で行こうとすると、すごく難易度は上がる。だから「なんとなくルールを破ってみました」というのはお勧めしません。あくまで、伝えるためであればルールは破ってもいい、ということです。ひらめき☆マンガ教室の主任講師のさやわかさんはよく「マンガは伝えるのが大事」とおっしゃいますが、ぼくも完全に同意見です。読者になにを伝えたいのかがいちばん大切で、それを伝えるために使える道具はなんでも使う。だからこそ、必ず手は動かし続けなくてはならない。これもひらめき☆マンガ教室のモットーですね(笑)。
──結局のところ、なにをどう伝えるかを模索する必要があって、その手助けとして理論やルールがあるわけですね。
濱田 そうです。だから手紙のつもりで描く前には、必ず内省が必要です。ぼく自身、自分がなにを描きたいのか、なにを伝えたいのかをつねに考えながら表現を続けています。考えながら行動し、作品を発表することによって、モノローグがダイアローグになり、人に伝わっていくんだと思います。だからみなさん、マンガを描きましょう! そして人に読んでもらいましょう! 人に読んでもらうまでがセットです。
──熱いメッセージをありがとうございます。最後に、ひらめき☆マンガ教室の聴講コース生それぞれからの質問にお答えいただけますでしょうか。
受講生と濱田先生の質疑応答-中山墾さん編-
中山墾 マンガの企画を立てるとき、どんなことを考えているのでしょうか。
濱田 「企画の3本柱」という考え方で取り組んでいます。私小説性、社会性、そしてサービス精神です。この3本の柱を立てる作業が企画作りだと考えています。
中山 社会性はなんとなく分かりますが、私小説性とサービス精神についてもうすこし詳しくうかがえますか。
濱田 まず私小説性ですが、要はこの作品はだれが書いたのか、ということです。作者が何者なのかは作品の内容にも絡んでくる。たとえば『島崎』とまったく同じ企画をもとにしても、ぼく以外の人が作ったらまったくちがう話になるはずです。エピソードが異なるだろうし、仮にエピソードが同じでも目の付けどころは絶対に異なる。それはもう、生きてきた人生がちがうからですね。
サービス精神は『島崎』ならアクションシーンとか、「舐めていた奴がじつは殺人マシーンでした」とかの設定ですね。つまり「みんなこれが好きでしょ?」という部分です。
キモはこの3本の柱が、それぞれ独立しているのではなく、お互いに関連しあっていることですね。3本のうちひとつでも欠けてしまうと、とたんに企画全体が魅力のないものになってしまいます。
中山 企画を深めるためのメソッドはありますか。
濱田 ひとりで考えないようにすることですね。友だちでもマンガ教室の同窓生でもいいんですけど、「ちょっと話聞いてくれない?」と相談に乗ってもらう。それだけでダイアローグになります。それで「いまこういう企画を考えてるんだけど」とか聞いてみる。そうやってふたり、三人とフィードバックをえていくうちに、自分の心の中でひらめく瞬間があるはずです。対話は自分の考えを整理していくプロセスなので、必ずしも相手の意見を取り入れる必要はありません。
中山 ぼくはひとと話すと緊張して話を聞くだけになってしまうのですが、うまくダイアローグにするためのコツはあるでしょうか。
濱田 なるべく相手の話を引き出す意識を持つのがいいかもしれません。相手の言っていることを聞くときにも、「こういうことなのかな?」と見当をつけるようにするんです。あるいはぼくの場合、立場の差を感じると緊張してしまうので「このひとも同じ人間じゃん」と考えると落ち着くことがあります。そのためのコツは、相手より先に自己開示することです。「緊張してるんですけど」とはじめに伝えておけば、相手も「ぼくも新人の頃こうだったんだよ」みたいなことを返してくれたりする。そうすると相手も同じ人間なんだと分かるから、上下関係にあんまり飲まれなくなるかもしれないです。
受講生と濱田先生の質疑応答-オカピさん編-
オカピ この仕事場には濱田先生以外にもいろんな方が出入りしているとうかがいました。そういう場にした理由をお聞かせください。
濱田 昔から、ひとが出入りする仕事場を作るのが夢だったんです。マンガ家は基本的には孤独な作業で、ちょっとした情報交換によってすぐ解決するような問題で躓いてしまうことがあるんです。そんなときに、気軽に相談できる場があればいいなと思っていました。それにぼくはひととの対話を取材だと思っているので、ひとの出入りがあればぼくは取材ができるし、ほかのひとは困ったことを相談できるしでWin-Winじゃんと。
オカピ その考え方の背景には自主映画での経験があるのでしょうか。
濱田 チームでなにかを作る経験ができたことは大きいですね。それに自主映画の製作をとおしてマンガを外から眺めることができました。具体的には、映画とマンガの演出というか、見せ方に相関関係があることがわかった。映画もマンガも、突き詰めていくと連続した絵でなにかを伝えるメディアなんですよね。どちらもコマとコマをまたがる連続した絵で語る、映像言語なんだと気づいたことで、いろんな演出や伝え方ができるようになりました。
オカピ 伝え方についてもうかがいたいです。受講生のなかには、描きたいものと自分の能力で描けるものとの乖離で苦しんでいる方がいるように感じます。描きたいものを描けるものに落とし込むにはどうすればいいでしょうか。
濱田 日記マンガを描いているとき、描きたいものはじつはべつのものに変換できる、と気付いたんです。たとえば、ぼくが「宇宙なんとか教」の教義をマンガで描きたいと考えたとします。それをそのままマンガにしちゃうとその教義をどうビジュアルに落とし込むのかもわからないし、そもそもたぶん読者が興味を持たない。でも、なぜぼくが教義を伝えたいと思ったのかを深堀りしていくと、自分が本当に伝えたかったことを抽象化できたりする。そしてそれを、自分が描ける具体物に変換する。その作業を繰り返せば、描きたいものと描けるものを近づけられると思います。
オカピ 『平和の国の島崎へ』ではどういうことを伝えたいと思っているのでしょうか。
濱田 詳しく話すと原作者解題になってしまうのでむずかしいですね。ただ、『島崎』を自身とリンクさせてしまうひとに読んでほしいなとは思っています。もちろん世界中のあらゆるひとに読んでほしいので、世界中のひとに読んでもらって、自分と重なるところがあると思っていただけたらそれがいちばんうれしいかもしれません(笑)。

2025年2月21日
東京、五反田
聞き手=とらじろう+ひらめき☆マンガ教室第7期聴講生
構成=とらじろう+ゲンロン編集部
撮影=成千絵
★1 『20年ぶりに父親に会ったら難病だった話 』 URL= https://x.com/hamada_gouten/status/1743266473433534830
★2 『ミハルの戦場』、マンガワン URL= https://manga-one.com/viewer/277699
ひらめき☆マンガ教室では、2025年5月より開講する第8期の聴講コース生を大募集中!
聴講コースは、マンガについて楽しく語りたい方、またはマンガに関心はあるが描く予定がない方におすすめするコースです。課題を提出し講評を受けることはできませんが、すべての講義を聴講できるほか、ひらめき☆講座特別インタビューなど一部カリキュラムにはご参加いただけます。
申し込みは2025年3月31日(正午)まで!
定員制の先着順となりますので、ぜひお早めにお申し込みください。
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