弱者男性論は誰のため?──氷河期世代から頂き女子りりちゃんまで|速水健朗+藤田直哉+山内萌

藤田直哉×速水健朗×山内萌 「弱者男性」と文化戦争──ジョーカー、頂き女子、とべとべ手巻き寿司
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藤田直哉×雨宮純×山内萌 「祭り」の終わりと就職氷河期世代──弱者男性は陰謀論を抜け出せるか?
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山内萌 こんにちは、メディア論・社会学者の山内萌です。今回の座談会では、いま話題の「弱者男性」とそれをめぐるSNSや論壇の状況について、ライター・編集者の速水健朗さんと、批評家の藤田直哉さんと一緒に考えていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
まず、おふたりが弱者男性をとりまく状況をどのような視点から見ているか、教えてください。
速水健朗 ぼくが最近気になっているものに、文化戦争があります。文化戦争とは、もとはアメリカ合衆国で生じているジェンダー平等や人種差別、歴史教育などをめぐる対立を指して、1980年代ごろから使われている言葉です。アメリカでは「戦争」と呼べるくらい、文化的・政治的な対立が激しくなっている。いま日本で弱者男性をめぐって生じている対立も、ぼくは文化戦争と言えるんじゃないかと感じていて、これがどのように生じて、どこへ向かうのか考えたいです。
藤田直哉 今日呼んでいただいたのは、2024年7月に『現代ネット政治=文化論』という本を出したからだと思います。そのなかでは、批評家の立場から、山上徹也をはじめ、弱者男性や陰謀論者、オタク文化などを分析しました。
じつは、ぼくはゼロアカ時代に東さんから「非モテ」認定をされたことがあって。「いや、彼女います」と答えたのですが、「彼女がいても、非モテなんだ」と東さんは仰っていたんですね。だから今日は東浩紀認定・非モテ男性として、その視点から弱者男性について話したいと思っています(笑)。
速水 山内さんは、普段、女性をとりまく状況について研究しているのですよね。
山内 そうです。私はちょうど今年(2024年)の9月に博士論文を提出しました。そこで取り上げたのが、性的な画像を自撮りしてネットにアップする女性たちのことです。後でも触れますが、女性たちに起きていることと男性たちに起きていることは、かなり結びついています。だから、今回の座談会では、弱者男性だけでなく、そのまわりにある社会全体の状況についても考えることができればと思っています。
弱者男性論の先駆けとなった2000年代論壇
山内 はじめに、弱者男性論が形成されてきた歴史的経緯を振り返っておきましょう。それには雑誌『現代思想』が2022年に組んだ「ロスジェネ特集」、なかでも伊藤昌亮さんという研究者が寄せた論考「『弱者男性論』の形成と変容」が参考になります[★1]。
伊藤さんが指摘する重要なポイントに、特に氷河期世代の男性たちに見られる、困難の経験という背景があります。かなりざっくりまとめると、当初はセルフケア的な側面があったメンズリブの運動が、しだいに「非モテ論壇」へと流れが変わり、そこから2ちゃんねるを中心にして、階級闘争としての性質をもつ「弱者男性論」があらわれてくる。
速水 元々、男性たちのなかに、自分たちの弱者性を認めていこうという運動があったんですよね。メンズリブ運動やダメ連などの流れがあって、「メンズリブ東京」のようなグループも結成されていた。これは1990年代に始まった運動です。反資本主義を掲げて消費や労働を拒否する社会運動をやっていて、それが2000年代半ばぐらいまで残っていた。
藤田 そうですね。資本主義社会の競争社会から降りた人たちにも居場所をつくる運動で、高円寺系の素人の乱やサウンドデモに繋がるものだった。それらは、2011年の震災前までは割とよくあった、「ダメな人間で緩く繋がりあって、お金がなくても生きていけるようなムードをつくろう」という、ロスジェネ運動やフリーターズフリー的な運動に随伴するものでした。
山内 1990年代にメンズリブ東京でオタク男性を組織化するような傾向が見られるようになり、さらに2000年代には「はてなブログ」などの出現が重なったことで、いわゆる「非モテ論壇」が形成されていきます。さらに、それとやや被りつつも分かれたところに、2ちゃんねるでの女性蔑視的な書き込みがあらわれてくる。それらを契機に男性たちの運動が階級闘争的になっていき、そして「弱者男性論」へと至る。伊藤さんはそんなふうに歴史をまとめています。
藤田 ぼくからは2000年代の重要な論者をふたり挙げます。一人は『電波男』(2005年)の著者である本田透さんです。彼は「二次元の嫁と結婚したい」と主張することで、恋愛資本主義を打倒するためのある種の階級闘争を提示しようとしました[★2]。
もう一人は、「『丸山眞男』をひっぱたきたい」(2007年)で朝日新聞社の『論座』にデビューした赤木智弘さん[★3]。彼は左派系の書き手ですが、自分はフリーターでもう未来に希望がない、しかし戦争でも起きてしまえば階級がひっくり返るから希望があるのだと言っていた。逆説的に、戦争を期待してしまうほど今の自分たちの状況はひどいのだと訴えかけていたわけですね。そのなかで、男女問題について、女性は「負け組女」と言われているけど、じつは男性よりも階級的に上なのではないかと指摘していました。これらの議論は、現在の非モテ・弱者男性論壇の先駆と見做されています。
速水 赤木さんは論壇誌の『論座』でデビューしたし、いわゆるロスジェネ論の皮切りになった人でもある。それに対して本田さんは、ポジションとしてはネット発のライターで、マルクス主義の革命理論みたいなものを使って「なんちゃって」でモテ/非モテ問題を書いているうちに大ベストセラーになった。それが、いま見ると本田さんが赤木さんと並ぶのが面白いですね。
藤田 本田さんは、当時は「ネタ」という側面が強く消費されていたと思います。そもそも、オタクがリア充になる『電車男』のパロディのタイトルですから、二次元の女の人と結婚するとか、恋愛資本主義を打倒する革命を起こすとか、そうやってモテ/非モテと資本主義を結びつけること自体に、自虐ネタを真顔で本気で展開しちゃうジョークみたいな側面があったと思います。そもそも社会でもあまり真面目に受け取られてなかったと思います。それが、いまやベタになっている。フィクトセクシャルは今では学術的に研究され、セクシャリティのひとつとされていますからね。2000年代にネタだった色々なものがベタになっていくのには驚かされます。
山内 いまにつなげて言うと、本田さんが言っていた「男から金を吸い上げた女性が、その金をさらにイケメンのホストに渡す」というお金の流れは、まさに「頂き女子りりちゃん」問題で生じていた構図です。
伊藤さんの論考に話を戻すと、もうひとつ面白い指摘があります。伊藤さんは、ネット上で形成された「俺たちは情報強者なんだ」という男性側のプライドが、彼らを階級闘争に向かわせたと言っている。お金はないかもしれない。恋愛にもあまり積極的になれてないかもしれない。でも情報に関しては強いというプライドがある。そこから新自由主義を内面化し、情報経済において勝利を目指そうとする。その過程で、堀江貴文さんや与沢翼さんのようなIT実業家の発言に触れ、それが彼らのプライドと結びついてさらに階級闘争に向かわせた。これもやはりいまの状況につながっていますよね。
速水 2000年代の本田さんたちの議論には先見の明があった。
山内 ここからは私の意見ですが、そういう土壌があるところに入ってきたのが「恋愛工学」だと考えています。恋愛工学とは、藤沢数希さんが「週刊金融日記」というメルマガで自分のナンパ術を紹介しているうちにウケて、しだいにメインコンテンツになったものです。進化生物学や心理学、行動経済学といったエビデンスにもとづいて恋愛を科学的に攻略しようとする試みでした。
ところで、藤沢さんは2015年に『ぼくは愛を証明しようと思う。』という本を出版していますが、これがなんと小説仕立てなんです[★4]。
速水 村上春樹の『ノルウェイの森』っぽいやつですね。『ノルウェイの森』には、主人公の渡辺の寮の先輩として、永沢という人物が出てくる。永沢は官僚になるようなエリートで、百発百中のナンパ男なんだけど、チャラい感じでは全くない。そんな人がどうやってナンパするかというと、相手と交渉するんです。とくに相手を褒めるとかじゃないんだけど、条件を出して、女性とうまく折り合いをつけていく。藤沢さんの本が小説仕立てなのは、それを元ネタにしているからでしょう。
藤田 藤沢さんは、人間の生物学的な特性を認識し、それをどう効率よくハッキングするかというゲームとして恋愛を定義している。ここには情報強者としてのプライドが透けて見えますよね。当時のインターネットに多かったのは、理系でコンピュータに強い、今でいうオタク的な人たちでした。共感脳よりもシステム脳が強いと言いますか。そんな男性たちがシステム的なやり方で女性を攻略していくという点で、恋愛工学と『ノルウェーの森』はつながっています。
山内 藤田さんの『現代ネット政治=文化論』の中で、Qアノンになった人にはゲーマーが多いという話がありました。ネット上で起きていることに裏があると考え、エビデンスを突き止めようとする。そういった推理能力とゲーム的な分析能力が結びついて、ゲーマーたちがQアノン化した。恋愛工学でも「攻略」という考え方が中心になっているように感じます。
「配信型」と「note型」の弱者男性インフルエンサー
山内 では、実際に弱者男性論を読んでみましょう。重要なインフルエンサーとして、白饅頭さんと小山晃弘さんを取り上げます。
まずは白饅頭さん。彼は御田寺圭という名前で本を書いていて、noteでは「白饅頭日誌」という月額マガジンを連載しています。私は今回課金して、有料記事を過去のものまで読んでみました[★5]。まず言えることは、彼は文章がとても上手い。
藤田 キャッチコピーを作るのがうまいですよね。「かわいそうランキング」とか。
山内 「かわいそうランキング」というのは、女性は可哀想と思ってもらいやすいからランキング上位、それに対して、男性はなかなかそうは思ってもらえないから下位の存在だよね、という意味の言葉です。このキャッチコピーを使って、白饅頭さんは、可哀想だと思われず支援の対象となってこなかった男性たちの問題を強調するわけです。
速水 ぼくは白饅頭さんのことは全然知らないのだけど、そんなに読まれているんですか?
藤田 白饅頭さんと小山さんが弱者男性インフルエンサーのトップ2でしょう。リベラルなマスメディアは取り上げない、この社会の不正を正してくれる救世主やカリスマとして、結構多くの人に支持されていますよね。
山内 暇空茜さんと似ていると指摘する声もあります。どちらもペンネームでキャラクターのアイコンを用いており、匿名化のやりかたも共通している。
藤田 ルサンチマンに訴えかける、ポピュリズム的なマネタイズであるという点でも同じです。ただ、暇空さんよりも白饅頭さんの方が社会が考えるべき論点を提示していると言えそうです。暇空さんは劇場型のパフォーマンスが得意で、「NPO団体が不正を行なっている」と言って攻撃して、お金を集めたり選挙に出たりする。こうしたパフォーマンスは、一線を超えてしまうと危ないことになりかねません。
山内 需要は多少かぶっているのかもしれませんが、白饅頭さんのほうは本を出して文筆家として活動しており、暇空さんみたいに、配信をやるとか、誰か有名な人と対決してそこでガンガン盛り上げていくみたいなやり方とは違いますよね。
とはいえ、読者の求めている言葉を打ち出すのが上手いということは危険な側面でもあります。「白饅頭日誌」を読んでいると、前半はきちんと考えていたはずが、後半になって急にマネタイズに走っていったりする。
速水 ところで、インフルエンサーにも2パターンいるんですね。「note型」と「配信型」と。
山内 それでいうと、もうひとり取り上げる小山晃弘さんも「note型」インフルエンサーです。月額のマガジンを持っていて、同時にTwitterでもいろいろ発信している。彼はもともと「メンヘラ.jp」というウェブサイトの運営をしており、そのときには「わかり手」という名前で活動していました。
藤田 彼は、精神疾患の人たちに関わるなかで、メンヘラや夜の世界の人たちといっぱい接して、世の中のリベラルやフェミニズムが想定している人間像と違うような人間がいるのだ、という点で批評性を発揮していて、そこは悪くないと思うんですよ。ときに重みのある発言、もあるし、鋭いんだけど、そこが弱点にもなっていて、女性に関して話すときに、経験からなのか、想定している女性像の問題なのか、バイアスが強くかかっているように思います。彼は、『ガンダム』の分析は鋭かったので、頭はいいんだと思うんですけど。
山内 今回、小山さんのマガジンも購読してみました[★6]。そこで小山さんは、彼なりの歴史観で、弱者男性論がどのように形成されてきたのかを論じています。
彼によれば、「弱者男性」は2021年ぐらいからメディアでも使われるようになったようです。それ以前には「KKO」(きもくて金のないおっさん)という言葉があった。これがツイッター上で流行したことをきっかけに、社会的弱者でありながら福祉やケアの網に包摂されない男性の困窮者たちが注目されて、より直接的な「弱者男性」という表現が出てくることになった。
その上で小山さんは、いまでは弱者男性という言葉の意味が変わってきていると指摘しています。本来の意味であった「弱者でありながら弱者として扱われない困窮者」という意味では、もはや使われてない。いまでは弱者男性は、「非モテ男性」や「恋愛弱者」、「きもい男」という意味の言葉であって、「困窮者」を指すものではなくなっている。だから弱者男性は、男性をおおっぴらに嘲笑し攻撃するために使われる差別用語なのだ、というわけです[★7]。
速水 弱者男性が、もともとは不可視化された男性困窮者を指していた、という点は大事な指摘ですね。もはや忘れ去られているような気がします。
エロティック・キャピタルは存在するか
山内 弱者男性側から女性に対してどのような主張が出てきているのかも見ておきたいと思います。ネット上では男性と女性の「奢り奢られ論争」が定期的に起こりますよね。男性は女性に奢るべきという立場と、自分のぶんは自分で支払うべきという立場の論争ですが、そのなかでたびたび男性側から批判の矛先が向けられているのが、「夜職女性」です。
たとえば最近炎上したツイートに、「女性のほうが美容代などが高いから、男性が女性に奢るのは当然だ」と主張するものがありました。それに対して小山さんは、いまでは若い男性たちは平等意識を内面化しているのに、女性のほうが男性に「男らしさ」を求めている。特定の性別にジェンダーロールを強いることを批判してきたのがフェミニズムであったはずなのに、「デートのために女性は美容にお金をかけているから男性が女性に奢るのは当然だ」と主張するのはおかしい、と言うのです[★8]。
ポイントは、これが夜職女性への批判になっているということです。「美容代にお金がかかる」というのは「夜職女性のロジック」だと小山さんは言います。見た目にお金をかけるのは見た目を商売にしている人たちの考え方であって、そういう女性がここ10年で発言権を持つようになってきたと小山さんは指摘しています[★9]。
藤田 これまでなら、夜職の人とそうではない人はふたつの世界に分かれていると世間では考えられていますよね。でも、最近はその境界が曖昧になっています。性的な行為まではしなくても、ご飯を一緒に食べるだけであれば、とお金をもらうハードルが下がっている。発言もたくさん見れるようになりましたからね。
小山さんは、女性の狡いところやダメなところ、だらしないところもいっぱい見てきているんだと思う。けれど、世間は夜職的な価値観の女性ばかりではないですからね。小山さんの議論にも分かる部分があって、職業の世界が平等になり、権力や金銭が平等になったら、エロティックキャピタルとか、恋愛・結婚・親密圏における力関係などにおける不平等とバランスが取れなくならないか、ということですよね。ミソジニーはさておいても、ここには耳を傾けるべき論点があると思います。
速水 アマチュアとプロの境界が曖昧になっていくことで、プロが割を食っているということもありますよね。たとえば、風俗やキャバクラに代わって、「港区女子」と言われるような、高級ラウンジなどで働いている女性たちが出てきた。いわゆる風営法の規制が曖昧にしか及んでいないところで高いお金をもらっている人たちがいる。その人たちをプロと一緒くたにして「夜職女性」と一括りにするのも問題含みだと思います。
藤田 そのあたりについては、女性が搾取されていると考えるフェミニズム的な立場や、女性は能動的に稼いで賢く生きているのだと考える立場など、いろいろな見方がありますし、いわゆる「普通」の主婦とも連続で見る立場もありますね。
山内 上野千鶴子さんとの往復書簡で、鈴木涼美さんが「エロス資本」というキーワードを提示し、女性の性的資本がある種の資源になりうると主張しています。それに対して、上野さんはエロス資本というものは存在するのかと疑問を呈する。資本となるはずの女性の性的価値はもっぱら男性に握られており、所有者がコントロールできない状況にある財を資本と呼ぶことは間違っているというのです[★10]。
このやり取りの背景には、2010年代にアメリカの社会学者キャサリン・ハキムが提唱した「エロティック・キャピタル」の議論があります。エロティック・キャピタルとは、美、セックスアピール、快活さ、着こなしのセンス、人を引きつける魅力、社交スキル、性的能力などが組み合わさった、ある人が持つ、見た目の魅力と人間的な魅力を総合した価値のことです。だから、ただ見た目が美しい姿に生まれるだけではなく、メイクや振る舞いでいかに自分を魅力的に見せるかという点で、エロティック・キャピタルは変わると、ハキムは主張します[★11]。
藤田 鈴木さんは、宮台真司さんの著作などを読んで、性的なものをお金にするということを自ら実践してきた人ですよね。そしてその経験は、被害者性として表象されるものではない。別のかたちで能動的にやってきたものなのだ、と上野さんに言った。でもそれに対して上野さんは、エロティック・キャピタルは蓄積できないから資本とは言わない、と応えた。
けれども、普通の資本とは違うとはいえ、エロティック・キャピタル的な概念が有効であることは間違いないとぼくは思います。見かけがいい人間が出世するということや、裁判で判決が軽くなるということは、実証的にも分かっているわけですから。美人がお金持ちと結婚したら、生活レベルとかも思いっきり上がるわけですしね。「資本」が駄目なら、別の言葉で概念化してもいいですけど。「公平」「平等」を考えるなら、ここにまで広げるべきではないか、というのは理屈では否定しにくいんですよね。
速水 あまりに生々しい表現なので言いにくいのだけど、女性の性的資本について、プロゲーマーのたぬかなさんは「穴モテ」の問題だと言っている。女性の性的な経年変化は、女性自身がよく分かっていて、変化後から主張するのはアンフェアでしょ、というのがたぬかなさんの主張です[★12]。たぬかなさんに比べると、鈴木さんや上野さんの議論はヌルいのではないかとぼくは感じてしまいます。
頂き女子りりちゃんは弱者男性論へのアンサーである
山内 エロティックキャピタルといえば、さきほど話題に上がった「頂き女子りりちゃん」は、これをフルで使っていました。りりちゃんのマニュアルはネット上で見られますが、「このマニュアルを読んでみんなに身につけてほしい力」として5つのことが挙げられています。
1つ目は、いま以上にお金を稼ぐ力。これによって自分の価値に気づいて自信に繋げてほしい。2つ目は、人の心を読み取る力。おじ、つまり「いただく」相手の側の男性が何を考えているかを瞬時に察知して行動していけるようになるといい──これはもう、たんに対人スキルのことですよね。3つ目は、優しいコミュニケーション適応力。おじと落ち着いて喋って信頼関係を構築すること、おじに心を開いてもらい、信じてもらってお金をいただけるようになること。そして4つ目が、自分を魅力的な、助けてあげたくなる女の子に見せる力。可愛くないしスペックの低い自分でも、おじから「俺にはこの子しかいない、この子のためなら人生詰んでもいい」と思われるように信頼関係を構築してきた、その結果、「高額いただき」につなげることができた、と彼女は言うんです。
速水 「高額いただき」! 用語化されているんだ(笑)
藤田 りりちゃんはそのためにすごい頑張っているんですよね。勘違いされているけど、いただきの対象を見つけるために性風俗で働いて身体を重ねてますからね。お金を巻き上げるときには精神を壊して具合悪くなっている。
山内 そう。だから身につけるべき最後の5つ目は、相手をガチ恋にさせる力です。「無害ガチ恋おじをたくさん作りましょう」と書いてある。りりちゃんが意識しているのは、まさしくエロティック・キャピタルそのものでしょう。
絶賛してるように受け止められるのは避けたいのですが、りりちゃんのマニュアルはすごくよくできています。だからこそ詐欺として機能してしまう。
藤田 そして弱者男性が騙される。被害者はまさに氷河期世代的な人たちです。これについては、頂き女子たちがどういうキャラを演じるべきかについて、りりちゃんが書いていることが興味深いんです。いわく、人とコミュニケーションがうまくできないとか、英語を頑張るためにお金を稼いでいるとか、ちょっと純朴でコミュニケーションができなくて可哀想で助けてあげたくなるような女を演じろ、とアドバイスしているのです。
こんなキャラどこかで見たな……と思って気がついたのですが、『ノルウェイの森』のヒロインの直子も、ちょっとコミュニケーションが苦手で助けてあげたくなる感じの女性だった。あとは、ゼロ年代の美少女ゲームのヒロインが典型的です。りりちゃんが演じていたのは、おじ世代が思春期に接したフィクションに出てくるヒロインたちなんです。
速水 それは面白いなあ。
山内 そういえば、りりちゃんのマニュアルに関連して、「パキちゃん」っていうアカウントはご存じですか?
藤田 ぼくはフォローしています。
山内 中の人は男性説もあるのですが、一応は風俗をやっている女の子の匿名アカウントという設定で、風俗とか夜職の実態を書いたり、女の子からの悩み相談にアドバイスしてあげたりする[★13]。めちゃくちゃフォロワーが多いので、若い子は割と知っていると思います。
その悩み相談に、あるとき「風俗嬢やパパ活女子がうらやましい」という男性からの匿名コメントがありました。「入社6年目の工場勤務で手取り15万、残業マックスまでやってやっと手取り20万超える。この給料を1日や数日で稼げてしまう風俗嬢やパパ活女子に嫉妬している」と。それに対してパキちゃんは、「1日で20万とかを稼ぐのは、性産業に所属してる人でも上澄みだ」と回答していました。そして男性にも、年に数億稼ぐホストも、ママ活している人もいるのに「なんで女だけを恨むんだ」と言っていて、「性別や顔を言い訳にしてる時点で、女に生まれてもいまと大して変わらない人生だよ」と指摘するんです[★14]。
藤田 夜職が出来る女性は、楽をして稼げるからいいな、ズルい、というのはネットで良く見る意見ですよね。……一番最下層の地獄のような世界を見てみるといいんじゃないの、とも思ったりもしますが。
山内 また別のツイートでは、「パキちゃん楽にお金稼げてそうでうらやましい」、「若さと体を売りにしてるけど、それらがなくなったらどうするの」というような質問に対して、パキちゃんは「パパ活や風俗って宗教なんだ。射精のその先を提供できれば、顔や年齢全然関係なく稼げるんだよ。パパや客のパワースポットになる」と答えています。
速水 宗教と言っているのが気になります。要は「信者ビジネス」だってことなんだけど、それを宗教として論じている時点で、なんか深みがある話に思えてくる。
藤田 要友紀子さんと水島希さんの『風俗嬢意識調査』でも、風俗嬢自身がアンケートで、自身の仕事に似ているものとして、看護師を一番に、福祉・介護を二位に上げてましたね[★15]。精神的ケアという意味で通じるのかな。
山内 パキちゃんのツイートは、要するに「あなたはこういう努力ができるんですか」と突きつけるものです。りりちゃんのマニュアルも努力の表明として読むことができる。男性たちがよく「女に生まれていれば」とか「女ってだけで」とか言うのに対して、女性側からは「ただ身体を出すだけでは売れないんだよ」というアンサーが提示されているわけです。
弱者男性に公的支援は必要か?
山内 ここまでは弱者男性論を整理しつつ、そこで批判されがちな女性の強者性について、女性たちの声も取り上げながら紹介してきました。ここからは藤田さんに、より弱者男性に近い立場からお話しいただきます。
藤田 山内さんも最初に指摘していましたが、弱者男性という言葉に確立した定義はありません。その結果として、たとえば行政による弱者男性問題への公的な対策もできていない。だから、いくつかの弱者男性の定義を比較してみて、そもそも「弱者男性」をどう定義すべきか考えたいと思います。
まずは、トイアンナさんの『弱者男性1500万人時代』。日本には最大で1504万人の弱者男性がいる、とトイアンナさんは言います。つまり、日本人男性の24%が弱者男性ということです[★16]。「弱者になる要素」をさまざまな調査から導き出し、そのような属性をもつ男性の人口を推定するとこうなる、と。
山内 驚きますよね。ただこの本の特徴は、なんとなく数字を出しているわけではなくて、統計データを分析したり、アンケート調査やインタビューを行なったりしているという点にあります。意外にも、ちゃんとしているんです。
藤田 そしてトイアンナさんの議論で重要なのは、公的な対策を考えようとしている点です。ネット上のインフルエンサーたちは、弱者男性論を煽っても、対策や支援についてはあまり言及しません。解決しちゃったら、彼らの商売が成り立ちませんからね。トイアンナさんは、そのような態度とはすこし違う。
速水 まったく想像がつかないのだけど、それはSFに出てくる「弱者男性救済法」のようなものですか。
山内 互助会的なケアの場をつくろうという提案がありましたよね。自助グループのような。
藤田 彼女は包括的な相談支援や社会参加の支援、地域づくり支援の3つを提案しています。たとえば男性が相談できる窓口は意外と少ないんです。具体的な対策はそれぞれの属性ごとに異なると思うのだけど、基本的には男性が自分の弱さを認めたり、助けを求めたり、他人と繋がりやすくなったりする環境を整えるための取り組みが提案されています。
速水 率直に言って、ぼくは弱者男性への公的な対策というのは、かなりヤバいものになるのではないかという懸念が拭えません。たとえばシンガポールだと、結婚したカップルに国がマンションをプレゼントするという支援が行われています。ただ、これはあくまで結婚へのインセンティブを与えるだけで、判断は各自に委ねられている。けれど、ここで言われているのはそれとは少し違いますよね。日本ではすでに国や地方自治体がマッチングアプリを作っていますが、これは男女や家庭の関係のなかに公的機関が入っていくということでもある。きわめて家父長的にみえます。
藤田 それをせざるを得ないような状況に来ているのだと思います。公的領域と私的領域を切り分けて、家庭は私的な問題として放っておくのが従来のリベラリズムですが、もはやそれでは上手くいかなくなっている。少子高齢化にせよ、弱者男性の孤独にせよ、新自由主義的な小さな政府とリバタリアニズムの自己責任論でやってきた氷河期世代たちの多くが、結局勝てなくて、家庭も持てず苦しんでいるのだとも言えます。どちらでもない新しい考え方、システムが必要な時期が来ているんだと思います。
速水 貧困対策と弱者男性対策が重なっているということですよね。でも、たとえばモテる/モテないという話は、それぞれの男性の見た目などのルッキズム的な問題が含まれていると思うんです。そこに国や地方自治体が介入するのは踏み込みすぎていると感じます。
山内 弱者男性の抱える問題をどれだけ公的な問題として扱えるのか。速水さんは、見た目とかモテの話を公的な話題に繋げるのは難しいと考えている。それに対して藤田さんは、弱者男性は氷河期世代が主で、日本の経済政策や政治状況のなかで割を食ってきた人たちなのだから、その部分は補填すべき、という意見ですね。
速水 モテる人とモテない人というのが世の中にいるというのを、職業の男女平等のように、社会制度をなにかしら変更することで解決していくというのは、やはりやり過ぎなのではないか。個人の問題と公的な問題は分けるべきでしょう。
藤田 でも、すでに行われていることではありますよね。たとえばフェミニズムはそのような運動です。家庭や恋愛関係という私的領域で起きていることを公的な問題にしてきた。だからこそ「個人的なことは政治的である」がスローガンになったわけです。そうであれば、同じことは当然男性の側にも起きるだろうし、論理的に、男性だから無視していいと言うのは難しいと思います。
速水 ぼくが危惧しているのは、公的な問題にしてしまったがゆえに生じる反発です。
たとえばトー横に集まる若者支援についてNPO団体のColaboが激しく攻撃されていますが、これはずっと民間で対策を行なってきた対策をいざ公的に支援しようとした際に大きな反発が巻き起こってしまった。そういうことが心配なんです。
なんだか、ぼくのほうがよっぽど左翼みたいになってきちゃった。今日は藤田さんが左翼で、ぼくが右翼だと思うんだけど(笑)。
アイデンティティ・ポリティクスと弱者男性論
藤田 弱者男性の定義に話を戻しましょう。もうひとり、ベンジャミン・クリッツァーさんの議論を見ておきたいと思います。彼は『モヤモヤする正義』のなかで、弱者男性と弱者男性論を区別して議論しています[★17]。
クリッツァーさんは、弱者男性とは、経済力の欠如と親密性の欠如の二重苦に苛まれている男性のことだと定義しています。そして、経済力だけでなく、親密性の欠如について公的支援を行うことが重要だと指摘します。金はあっても親密性が欠如していたらやっぱり精神的にキツい。親密性の欠如について公的支援をすることは政治哲学的な意味でも正義にかなうと、彼は結論づけています。
大事なのは、彼がネットの弱者男性論に怒っているということなんです。感情を煽って短期的な快楽を提供し収益化するインフルエンサー論客は、SNSでバズってお金にしているにすぎず、本当の解決を妨げているとクリッツァーさんは言います。インフルエンサーたちは、結局フェミニズムをミラーリングして、パロディにして、からかいに終始するしかない。彼が指摘する、本気で政策提言をするわけではない、つまり社会が改善することを期待しないシニシズムは、まさに僕が経験してきた氷河期世代、すなわち2ちゃんねる世代のメンタリティそのものでしょう。
山内 その2ちゃんねる文化は80年代のお笑い文化に影響を受けているとも、クリッツァーさんは分析していますね。
藤田 それらを踏まえてぼくが考えているのは、弱者男性はアイデンティティ・ポリティクスのなかで生まれた「政治的カテゴリー」とみなされるべきだということなんです。アイデンティティ・ポリティクスとは、女性や男性、LGBTや障害者といった属性で人をまとめて、その属性の集団的な利益で、人々を動員する技術のことです。2010年代はアイデンティティ・ポリティクスの時代だと言われます。「強い家父長制を内面化した男性によって女性は差別されている、だからあいつらは倒さないといけない」とか「自分たちの富を〇〇人が奪っている、だからあいつらは排除しなければいけない」とかいうふうに、ある集団を敵として名指し、その敵との戦いに人々を動員しようとする技術が社会に広まりました。
このような技術は、もともと弱者やマイノリティが使っていたものです。それが2010年代に転換し、男性や白人が「自分たちこそが弱者であり、被害者なのだ」と言い始めた。その転換の背景には、やはりフェミニズムへの反発と、ミラーリングやパロディ化があると思います。男性のほうが差別されているということは客観的にみればあり得ないわけですが、自分は不遇だと感じている人たちがどんどんアイデンティティ・ポリティクスの動員力によって吸収されていってしまう。そうして膨れ上がった先に、アメリカの議会襲撃などが生じてしまった。
山内 アイデンティティ・ポリティクス自体を壊してなくしてしまったほうが良いということはあるんでしょうか。
藤田 弱者やマイノリティの権利を拡大していくことは必要です。だから、アイデンティティ・ポリティクス自体が必要な場面もあるし、切実なものでもあるんです。でも、副作用がある。
アイデンティティ・ポリティクスが2010年代に流行した理由は、SNSと組み合わさったからです。SNSによって短文や映像による感情的なコミュニケーションが機能するようになり、単純化された物語が動員力を持つようになった。その力を通じて、世の中が自分たちのことを認めていないとか、自分たちの意見を思うように言えないと感じている人たちの不満が噴出した。だからこの問題は、友と敵を分断し、感情を煽って人々を動員するポピュリズムと、それに乗ってしまう大衆の心があるかぎり解決しないでしょう。
速水 アイデンティティ・ポリティクスがだめだということではなく、アテンション・エコノミーによって現実と対応していない数字の大きさで社会が動いてしまったり、ポピュリズム的な動員に人々が乗ってしまったりする状況にそろそろ反省が求められているということなのではないでしょうか。
山内 2020年代も後半に差し掛かって、弱者男性論はどうなっていくと思いますか。最後に今後の見通しを聞かせてください。
藤田 最初に山内さんが紹介されていた伊藤さんの論考でも指摘されていましたが、弱者男性論というのは、2ちゃんねる時代から現在まで、ずっと男女の問題について論じてきました。このジェンダー的な対立というか、アイデンティティの衝突と分断は、たぶん変わらず続くのではないでしょうか。実際、アメリカや韓国では、若い男性が保守化する一方で、女性たちはリベラル化して、ますます分断が進んでいます。日本も同じパターンになりつつあり、解決の糸口は見えません。アメリカみたいに内戦に近い状態になるんでしょうか。そうすると、反動もひどくなるでしょうし……。冷静な対話で、愛と協調と信頼を紡いでいくのが大事だと思います。その方がみんな幸せになれるんだから。
速水 ぼくは最初に文化戦争がキーワードになるんじゃないかと言いました。政治がもたらす友と敵の対立、そしてそれがもたらす社会や文化の分断は、ぼくも拡大していく一方だと思っています。ただ、その状況をきちんと捉えるには、弱者男性や弱者男性論のなかでも切り分けて考えないといけないレイヤーがいろいろある。今日の座談会を通じて、そのことがよく分かりました。
山内 今日のイベントでは、弱者男性論が登場するに至ったネット文化を振り返ることから始めました。そして現在の弱者男性論を取り巻くインフルエンサーたちの主張も紹介しつつ、ネットでは炎上しがちな話題を丁寧に議論することができたと思います。弱者男性、ひいては氷河期世代の問題とどう向き合っていくべきか。簡単には答えが出ない課題ですが、いろいろと論点や考えるべきところが整理されていく議論になったのではないかと思います。藤田さん、速水さん、今日はありがとうございました。
本記事は、2024年10月9日にゲンロンカフェで行われた公開座談会「「弱者男性」と文化戦争──ジョーカー、頂き女子、とべとべ手巻き寿司」を編集・改稿したものです。
訂正のお知らせとお詫び(2025年3月8日)
記事中、メンズリブ東京の年代に関する記述に不正確なところがありました。調査の上、より適切な表現に修正いたしました。謹んでお詫び申し上げます。(編集部)
2024年10月9日
東京、ゲンロンカフェ
構成=山内萌+編集部
注・撮影=編集部
★1 伊藤昌亮「「弱者男性論」の形成と変容──「2ちゃんねる」での動きを中心に」、『現代思想』50(16)、青土社、2022年、142-155頁。
★2 本田透『電波男』、三才ブックス、2005年。
★3 赤木智弘『若者を見殺しにする国──私を戦争に向かわせるものは何か』、双風社、2007年。
★4 藤沢数希『ぼくは愛を証明しようと思う』、幻冬舎、2015年。
★5 白饅頭「白饅頭日誌」、note。URL=https://note.com/terrakei07/m/mf9008e78083b
★6 小山(狂)「狂人note」、note。URL=https://note.com/wakari_te/m/ma189261f42a7
★7 小山(狂)「こうして弱者男性は「社会の敵」になった」、note、2023年8月18日。URL=https://note.com/wakari_te/n/n0d9a1e835aa4
★8 小山(狂)「男性に食事を奢らせるのはセクシャルハラスメントである」、note、2024年8月22日。URL=https://note.com/wakari_te/n/n9e2148661420
★9 同上。
★10 上野千鶴子、鈴木涼美『往復書簡 限界から始まる』、幻冬舎、2021年。
★11 キャサリン・ハキム『エロティック・キャピタル──すべてが手に入る自分磨き』田口未和訳、共同通信社、2012年。
★12 元はTwitchでの発言。YouTubeで「たぬかな」「穴モテ」と検索すると切り抜き動画が多数表示される。
★13 パキちゃん(@pkpk_pa)。URL=https://x.com/pkpk_pa
★14 2024年10月7日のツイートから。なお引用にあたって一部表現を変更した。URL=https://x.com/pkpk_pa/status/1843134146660704707
★15 要友紀子、水島希『風俗嬢意識調査──126人の職業意識』、スタジオポット、2005年。
★16 トイアンナ『弱者男性1500万人時代』、扶桑社新書、2024年。
★17 ベンジャミン・クリッツァー『モヤモヤする正義──感情と理性の公共哲学』、晶文社、2024年。
URL=https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20241009
