本当の希望は絶望のあとにしか存在しない──『思想地図β』から『ゲンロン』へ|東浩紀
東浩紀の新刊『東浩紀巻頭言集Ⅰ 思想地図β篇』より、書き下ろしの序文を全文公開します。2011年に創刊された『思想地図β』とその後継誌『ゲンロン』。2018年まで、東は編集長として計14本の巻頭言を書き続けました。序文では、現在の視点からそれらの歩みを振り返ります。
『東浩紀巻頭言集』2巻本はKindle版を好評発売中! 2巻目の『ゲンロン篇』にも別の書き下ろし序文が加わっております。ぜひ2巻あわせてお買い求めください。(編集部)
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本書は、2010年代に記した巻頭言をまとめた、2巻本の論集の1巻目である。収録されている巻頭言はすべて、ぼくが自ら起業した出版社から刊行され、自ら編集した批評誌のために書かれた。
この巻には、2011年から2013年にかけて出版された『思想地図β』に寄せた5号分の巻頭言が収録されている。続く第2巻には、2015年から2018年にかけて出版された『ゲンロン』に寄せた9号分の巻頭言が収録されている。できれば併せて読んでいただきたい。
ぼくは2010年に小さな会社をつくった。創業当初は合同会社コンテクチュアズといい、のち改名して株式会社ゲンロンとなった。ゲンロンはいまも続いている。当初は出版がおもな事業だったが、いまはイベントスペースや動画配信プラットフォームの運営も行っている。ときおり誤解されるのだが、ゲンロンはぼくの個人事務所ではない。社員は15人近くいる。会員は3000人以上いる。
ぼくは1990年代に批評家としてデビューした。2000年代(ゼロ年代)にはマスコミで仕事をしていた。大学でも教えていた。けれども2010年代からはマスコミや大学と距離を取るようになった。かわりになにをしていたかといえば、それがこのゲンロンの経営だった。実業と批評の世界の隔たりはじつに大きく、たいへんな苦労をした。滑稽な失敗も経験した。その悪戦苦闘については、『ゲンロン戦記』(中央公論新社)という本にコンパクトにまとまっている。ジャーナリストの石戸諭さんがおもしろおかしく話を引き出してくれている。
そんなぼくは、いまの若い読者にはあまり文章を書かないひとだと思われているかもしれない。実際、会社をつくったあと、ぼくは文章の多くを自社媒体で発表するようになった。いきおい商業誌での露出は減った。2010年代半ばからは動画配信に重心を置くようにもなった。それも本好きの読者を遠ざけた。ぼくの名前は、最近は論壇や思想界であまり聞かなくなっている。
とはいえ、本人としては考えるのをやめたわけではない。むしろ本人の印象としては逆で、2010年代の10年はたいへん豊かな時期だった。実業の世界に飛び込み、新しい人々と接することで、ぼくは自己変革を迫られた。哲学とはなにか、言論人の役割とはなにかという問いを、切実に考えざるをえなくなった。論壇はコネとごまかしで乗り切れても、商売はそうはいかない。哲学でお金を稼ぐとは、哲学でまったくの他人に信用してもらうということであり、そのためにはアカデミアと根本的に異なる話し方を身につける必要があった。いまのぼくは、ゼロ年代までの自分の哲学は、2010年代になってはじめて「本物」となったと感じている。
この2巻本にまとめられた原稿は、そんな10年にわたる自己変革の生々しい記録でもある。『思想地図β』と『ゲンロン』を、ぼくは毎号毎号、こんな雑誌をだれが読むのだろうかと自問自答しながら編集していた。そしてその悩みを巻頭言にぶつけていた。そこには、哲学者としての、『ゲンロン戦記』に書かれたものとはまた異なった悪戦苦闘が刻まれている。
第1巻に集められた巻頭言は、最初の「創刊に寄せて」を除けば、ある意味ですべて失敗の記録である。
『思想地図β』は不幸な雑誌だった。創刊号だけは成功だった。3万部近くが売れ、反響も大きかった。けれども直後に東日本大震災が起き、世のなかの空気はがらりと変わった。ゲンロンも変わらねばならないと考え、『β2』は震災の特集号とし、『β3』は日本社会への提言を軸にした。
そこで考えていたことは、収録した巻頭言に美しく記されている。けれども、ぼくはもともとたいへん抽象的な哲学を相手にしていた人間で、大災害で現実に多くのひとが傷つき、逆に復興の名のもとに生々しいお金や欲望が動く世界に飛び込むには、あまりにも世間知らずだった。『β2』も『β3』も思うような反響を集めることができず、会社の経営は傾いた。起死回生のため渾身で立ち上げたのが続く2号を縦断する大型企画、チェルノブイリの取材と「福島第一原発観光地化計画」の提案だったのだが、そちらでも誤解にもとづく批判が広がった。そこらへんの経緯についても、さきほど紹介した『ゲンロン戦記』には赤裸々に書かれている。
だからそれらは失敗だった。なにも生み出さなかった。一方ではそのように結論づけざるをえない。
けれども異なる見方もできる。創刊号から「福島第一原発観光地化計画」まで、ぼくは言論の世界を変えようといろいろな提案をした。理想を語った。それらは空回りした。反響はなく、論壇も思想界も変わらなかった。読者も離れていった。だから確かに失敗ではある。
けれども、ぼくはかわりに自分を変える勇気を手に入れた。本当に言論の世界を変えたいのなら、理想を押し付けて他人に期待しても無意味で、自分から泥臭く変わらねばならないということに気がついた。「新しい連帯」を求めるのならば自分でつくらなければダメで、「観光地化」を訴えるのならば自分で世界を回らねばダメだと思い知った。ぼくの活動を追ってくれている読者であれば、この数年のぼくがまさにそれらの教訓を生かし、一般の「批評家」のイメージとはずいぶん異なった活動に足を踏み出しているのを理解してくれるだろう。
その意味では、『β2』から『β4-2』までの空回りは決して完全な空回りだったわけではない。そこに記された言葉は、いまは抽象的な理想論ではなく、ゲンロンという運動体を支える実践の指針となっている。そのように読んでもらえれば嬉しく思う。
最初の「創刊に寄せて」についてだけは、べつに記さねばならない。
この文章は、ぼくがいままで発表した無数の文章のなかでも、いささか特別の位置を占めている。それは、ぼくの文章にしてはめずらしく、とても明るく、そしてまっすぐに未来を見つめた文章である。6000字足らずの長さなのだが、公共性、正義、消費、資本主義、テクノロジー、そして快楽などについて、当時のぼくが抱いていたイメージが凝縮されている。幼かった娘のエピソードから始まっていることもあり、書いた本人にとっては独特の感傷と結びついた文章でもある。
この文章を書いたとき、ぼくはまだ30代で、いま振り返ればずいぶんと希望に満ちていた。世界は進歩しているし、生活はよくなっているし、新しい技術はつぎつぎに新しい表現を生み出している。だからその動向にキャッチアップさえすれば、新しい言論の領野はおのずと開けてくるし、ぼくもまたそこで重要な役割を果たせるだろう。そんなふうに信じていた。そもそもそのような楽観があったからこそ、ぼくはゲンロンを創業し、『思想地図β』を創刊したのである。
それに比べると、いまはずいぶんと「大人」になってしまった。ここまで記してきたように、2011年からこちら、会社経営でじつにいろいろな経験をした。日本も世界も大きく変わってしまった。いまのぼくは、かつてのような素直な希望を抱けなくなってしまった。
それは悲しいことだ。実際、ぼくはこの『β1』の巻頭言を読み返すたびに、胸が締めつけられるような喪失感に襲われる。あのころはよかった。楽しかった。幸せだった。そしてあの若さはもう二度と戻ってこない。
けれども、本当の希望は、絶望を潜り抜けたあとにしか存在しないとも言う。おそらくはこれからの、もう50代も半ばになってしまったぼくに求められているのは、この「創刊に寄せて」に記されたような若々しく、そのぶん脆弱で文学的だった希望を、あらためて鍛え直し、昇華し、変形し、脱構築し、老いとも共存できるような強靭なかたちで取り戻すことなのだろう。
実際には、そんなことができるのかどうか、そもそも自分にそんな能力があるのかどうか、さっぱりわからない。けれども、きっとそれこそがゲンロンのこの15年の活動を未来につなぐ鍵なのだろうと、いまはそんなことを考えている。
2024年11月9日
東浩紀
『東浩紀巻頭言集Ⅰ 思想地図β篇』目次(商品ページ:https://amzn.to/49vNdOh)
タイトル | 初出 | 初出誌Kindle版 |
はじめに | 書き下ろし | - |
創刊に寄せて | 『思想地図β1』、2011年1月 | なし |
震災でぼくたちはばらばらになってしまった | 『思想地図β2』、2011年9月 | なし |
新しい国、新しい星座 | 『思想地図β3』、2012年7月 | なし |
旅のはじめに | 『思想地図β4-1』、2013年7月 | あり |
福島第一原発観光地化計画とは | 『思想地図β4-2』、2013年11月 | あり |
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