ソ連から遠く離れて──廣瀬陽子×上田洋子「アゼルバイジャンから探る『ポストソ連』世界と戦争」イベントレポート

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webゲンロン 2023年8月15日配信
 コーカサス地域に位置する国、アゼルバイジャン。アゼルバイジャンとはどのような国であり、コーカサス地域とはどのような地域なのか。そこから「ポストソ連」世界や戦争はどう見えるのだろうか。 
 2023年5月18日のゲンロンカフェにて、なかなか実像を捉えにくいアゼルバイジャンやコーカサス地域に関して、4時間にわたって語り尽くす野心的なイベントが敢行された。長年に渡り旧ソ連地域を中心に研究してきた政治学者の廣瀬陽子を迎え、聞き手はロシア文学者でゲンロン代表の上田洋子が務めた。 
  
廣瀬陽子×上田洋子「アゼルバイジャンから探る『ポストソ連』世界と戦争──コーカサスの地域問題からナゴルノ=カラバフ紛争、ウクライナ戦争まで」 
URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20230518 ※昨今の情勢に鑑み、視聴期限を2024年5月18日まで延長し再公開しました。(2023.11.9更新)
「アゼルバイジャン」──その特徴的な名前こそ耳にしたことはあっても、明確なイメージを描くことは難しいかもしれない。多少なりとも知られるイメージといえば、「火の国・アゼルバイジャン」「風の町・バクー」、より漠然としたものとしては「旧ソ連の国」といったところだろうか★1。そのアゼルバイジャンが位置する「コーカサス」とは、北をロシア、南をイランやトルコ、東西をカスピ海と黒海に囲まれる地域であり、コーカサス山脈を境に南北に分類される★2。アジアとヨーロッパとが交差する十字路に位置し、そこでは数えきれない民族が生活を営み、様々な宗教を信仰し、独特で豊かな文化を育んできた。 

コーカサス地域の地図 URL= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Caucasus-political_ja.svg(CC BY 3.0) 作成=Jeroen
 

 イベントの案内人を務めたのは、昨今の各種メディアで見ない日はないといえるほど活躍中の廣瀬である。「ロシア・ウクライナ情勢に詳しい」専門家として紹介されることの多い廣瀬だが、本業はコーカサス地域をはじめとする旧ソ連地域での紛争の研究であり、最初の長期留学先もアゼルバイジャンであった。聞き手を務めた上田が適宜コメントや質問を挟みつつ、イベントは進んでいく。

アゼルバイジャンの基本情報


 まずはアゼルバイジャンの基本情報に触れておこう。地図を見ると、アゼルバイジャンはカスピ海に面しており、北はロシア、南はイランとトルコ、西はアルメニア・ジョージアと国境を接している★3。1991年までは旧ソ連の構成国の一つであり、同年中にソ連が解体していく過程で独立した。北海道よりやや大きい面積の土地に約1000万人が暮らしており、人口は順調に増加している。 

 
 

 民族分布はアゼルバイジャン系が9割以上を占めるが、数えきれないほど様々な民族が住んでいる★4。宗教に関してはイスラム教徒が大半を占め、統計的には7割がシーア派、3割がスンナ派とされる。とはいえ廣瀬いわく、ソ連時代から続く世俗化の影響もあり、宗教的実践には関心のない「なんちゃってイスラム」の人びとが大半なのだという。 

 公用語はアゼルバイジャン語である。全体的にトルコ語とかなり近い言語で、実際に片方の言語しか話さない人同士でも会話が成り立つという。特に注目すべきはその文字体系だ。複雑な歴史的経緯により、2001年に法的にアゼルバイジャン・ラテン文字が導入されるまでの100年間だけで、時期によってアラビア文字、アゼルバイジャン・ラテン文字、アゼルバイジャン・キリル文字が使われていた★5。 

 

共和制か権威主義か


 政治体制は公式的には「共和制」と謳われているが、廣瀬によれば「かなり独裁に近い権威主義」だという。選挙は行われるものの「民主的」とは言いづらく、特に言論の自由は厳しく制限されている。そのような様子を論文で「権威主義」と記したところ同国外務省から「怒られて」しまったという廣瀬のエピソードに、上田は「そこが権威主義ですよね」とツッコミを入れた。 

 現在の大統領はイルハム・アリエフ(1961-、以下「アリエフ」)で、「国父」的存在とされる第3代大統領ヘイダル・アリエフ(1923-2003)の息子である。現在4期目だが、再選制限の撤廃により事実上の終身大統領制が敷かれている。上田はロシアでも2020年に憲法改正が行われ、プーチンの2036年までの大統領続投が可能になったことに言及した。 

 
 

 他方で廣瀬の見方では、近年の生活水準の向上に満足している人がかなり多く、政府の強権的な統治に対する大きな反発は起きにくい。経済面では石油・天然ガスとその関連産業に依存する構造ができあがっており、堅調なオイルマネー収入により安定的な経済成長が実現されてきた。腐敗や汚職も根強く残っているが、それも以前と比べればマシになってきたという。全体的に「右肩上がり」の国なのだ。

最新現地レポート


 イベントの前半から、国際会議への参加のため現地へ渡航してきたばかりだという廣瀬の最新レポートが展開された。現地経験の豊富な廣瀬が強調してやまないのが、急速に変化していく社会の様子である。自身が留学していた2000年代前半と比べ、通りや建物をはじめ街全体が一変しており、思い出の地を訪ね歩くことすら難しいという。 

 そして早くもイベントの表題にあるナゴルノ=カラバフが話題に上がった。というのも、国際会議の開催地に同地域も含まれ、廣瀬は現地の最新の様子を目にしてきたのだ(詳細は後に触れる)。事実上の同地域奪還から2年半以上が経っても、政治エリートから一般市民まで「戦勝」の高揚感は健在で、大統領の「功績」が至る所で喧伝されているのだとか。 

 同会議では、アリエフ大統領が3時間半にわたって参加者の質問に答え続けたという。原稿なしで、それも英語で応答し続ける姿に、世襲大統領でありながらも、父に迫る存在感を持つまでに成長されたと実感し、廣瀬は衝撃を受けたと語る。また、参加者には『勝利のクロニクル』などの2冊の重厚な本まで配られたという★6。この訪問で得られた最新情報は、イベントの随所で紹介されることになる。 

 

したたかなアゼルバイジャン外交


「旧ソ連の国」と聞くと、アゼルバイジャンは今もロシアと「特別な関係」にあるのではないかと思われるかもしれない。しかし、ロシアとの関係では絶妙な距離が保たれている。廣瀬によれば、アゼルバイジャンは当初「欧米寄り・反ロシア」的な路線をとっていたが、経済が安定してからはバランス外交に徹している。EUとの間では、強権的な統治への批判を受けつつも、エネルギー輸出を中心に関係を深めている。 

 このバランス外交を象徴するのがトルコとの関係だ。前述の国際会議でも、アリエフはNATO加盟国であるトルコとの同盟関係を重視すると力説した。これによってロシアの反発を買う「NATO加盟」を否定しつつも、実質的にはNATOがもたらす抑止力の恩恵にあずかることができる。後述する第二次ナゴルノ=カラバフ戦争もトルコの全面支援の下で行われ、トルコ製ドローンが大活躍した(その活躍をウクライナも見て学んでいた)。 

 また、イスラエルとの関係も興味深い。アゼルバイジャンは軍事面を中心にイスラエルとの関係を重視しており、イスラエル側も、かつて各地で迫害を受けた中でもアゼルバイジャンではユダヤ人が平穏に暮らしていた歴史を評価しているのだとか。経済から安全保障まで、総じてアゼルバイジャンは巧みにバランス外交をこなしているといえよう。

ナゴルノ=カラバフ紛争


 アゼルバイジャンにとって最大の政治的課題が、隣国アルメニアとの係争地であるナゴルノ=カラバフの奪還であった。ナゴルノ=カラバフとは、アゼルバイジャン領内にある、アルメニア系住民が多数を占める地域であり、同地域での紛争は廣瀬がアゼルバイジャンに興味を持ったきっかけでもあった★7。 

 本格的な武力衝突は、両国がともにソ連の構成国だった1980年代末に発生した。第一次の戦争ではロシアとイランがアルメニアを強力に支援したため、アゼルバイジャンは1994年の停戦時に敗北を受け入れざるをえなかった。同地はアルメニアの実効支配下にある「未承認国家」(ナゴルノ=カラバフ共和国)となる★8。しかし時を経て、2016年の「4日間戦争」でわずかながらも領土を取り返したアゼルバイジャンは自信を深め、20年秋に敢行した大規模攻撃(第二次戦争)により大部分を奪還した(ロシアは参戦せず、停戦協議での仲介役にとどまった)。 

 経緯の詳細はここでは省くとして、特に興味深いのが訪問時に廣瀬が目にした現地の様子である。アゼルバイジャンとしては奪還した領土の復興をアピールしたいのだが、現実には地雷が多数埋まったままで、小規模な衝突も頻発しており、今も安心して住める状況ではないという。また、30年前には帰還を熱望していた元住人(避難民)たちも、今では移住先で新しい生活基盤を確立しており、帰還を望む人は少ないのが実情のようだ。 

 

アゼルバイジャンと石油・天然ガス


 石油と天然ガスは、「火の国・アゼルバイジャン」の源泉であり、経済や文化を中心に切っても切り離せない存在だ。それらは産業としての油田開発が始まる遥か前から知られていた。火おこしが困難だった時代には、地中のガスにより常に炎の燃え盛る場所が拝火教(ゾロアスター教)の信仰対象になった。 

 純度の高い油は「民間療法」としても様々に利用されてきた。上田はその中でも「石油風呂」に興味を示した。石油風呂とはその名の通り、原油で満たされた風呂に浸かる療法だ。廣瀬いわく、直接試したことこそないものの、臭いは強烈で入浴は1日10分まで、それ以上入ると「死ぬ」という。また、バクーの原油の純度をめぐっては、加工せずとも戦車に直接注入できたという伝説もあるほどで、独ソ戦でのソ連軍勝利に大きく貢献したと評価されている。 

 産業としての油田採掘は19世紀前半に始まり、欧米資本の参入により一大市場が形成された。ソ連時代までは技術的限界から内陸油田からの採掘のみだったが、独立後は欧米企業の技術によりカスピ海油田も盛んに掘られている。ロシア・ウクライナ戦争下では、欧米からロシアに代わる供給元としても期待されているという。 

 アゼルバイジャンのエネルギー輸送を支えるのがパイプラインだ。その主力の一つが、首都バクー(Baku)、ジョージアのトビリシ(Tbilisi)、トルコのジェイハン(Ceyhan)を結ぶ「BTCパイプライン」である。カスピ海から直接地中海に出すという条件と、イランとロシアを排除したいアメリカの意向を反映して建設された。他にもパイプラインは複数アゼルバイジャンから引かれており、そのルートには関係各国の思惑が様々に反映されている。 

緑で示されているのがBTCパイプライン URL= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Baku_pipelines.svg(CC BY-SA 3.0) 作成=Thomas Blomberg
 

 パイプラインの話の流れで、経済・貿易面におけるロシアの存在感の低下も言及された。廣瀬が参加した国際会議では、参加者が揃えて口にするのは中国・中央アジア・コーカサス・トルコ・ヨーロッパを結ぶ「中央回廊」への期待で、ロシアの名前は上がらないのだという。上田は悲しみを覚えつつも「仕方ない」と語り、中央アジアとコーカサスの地域間の関係の深化が、両地域の国々の自立意識を高め、ロシアの戦争から距離を取る姿勢を可能にしているのだろうと指摘した。

複雑な地域の理解への一歩として


 ここまで紹介してきたアゼルバイジャン自体の興味深さに加え、イベントの大きな魅力となっているのが、廣瀬の和やかで軽妙な語り口である。多くの人にとって馴染みの薄いアゼルバイジャンという国が、廣瀬と上田の笑いも交えたやり取りを通すことで、いつの間にか身近に迫ってくる。 

 廣瀬の「ビザ問題」や「略奪婚未遂事件」など、多岐にわたる現地でのエピソードは本レポートではとても書ききれなかった。アゼルバイジャンについて知るきっかけが欲しい方はもちろん、それなりの知識はあるという方にも大変魅力的な内容となっている。 

 最後にイベントの表題に引きつけて言えば、アゼルバイジャンは確かに「旧ソ連の国」ではあるのだが、独立から30年以上を経て、「ポストソ連」の先陣を切るどころか、もはやその「先」を走っているような印象を受ける。今後もダイナミックに変化し続けること疑いないアゼルバイジャンとコーカサス地域について知る/より深く知る、ための大きな一歩として、是非ともイベントのアーカイブ動画をご覧いただきたい。(平田拓海)

 


★1 バクーはカスピ海に面するアゼルバイジャンの首都。実際にカスピ海から吹く風は非常に強いが、「バクー」の語源がペルシア語の「風の町」だとする説に関しては議論が分かれる。廣瀬陽子編『アゼルバイジャンを知るための67章』(明石書店、2018年)第5章を参照(上田も言及するように、同書はアゼルバイジャン理解に欠かせない基本書)。 
★2 南にはアゼルバイジャン、アルメニア、ジョージアの3つの独立国があり、北にはチェチェンやダゲスタンといったロシア連邦内の共和国がある。かつて頻繁に使用された「カフカス」はロシア語に基づく表記。 
★3 トルコと国境を接しているのは本土外の「飛び地」であるナヒチェヴァン自治共和国で、国境線も極めて短い。 
★4 アゼルバイジャンと国境を接するイラン北部には、本国の約2倍の数の民族的「アゼルバイジャン人」が暮らしており、同国内の様々な領域で大きな影響力を持つ。 
★5 文字の変更は、1920年代のトルコの言語改革に影響された時期(アラビア→ラテン)、ソ連に編入された後(→アゼルバイジャン・キリル)、独立した後(→ラテン)に行われた。 
★6 表紙には題名がアゼルバイジャン語、英語、ロシア語で記されている。イベントでは当該本の写真や内容が詳しく紹介され、政府が国内外に何を伝えたいのかを知ることができる。 
★7 「ナゴルノ」はロシア語で「山の」「高地の」を意味する言葉で、「ナゴルノ=カラバフ」はロシア語に基づく呼称。ソ連時代はアゼルバイジャン共和国内の自治州と規定されていた。 
★8 「未承認国家」は廣瀬の研究の一大テーマでもあり、その著書『未承認国家と覇権なき世界』(NHK出版、2014年)の冒頭で「主権国家としての宣言をしつつも、国際的な国家承認を得ていない「国」」(p.4)と表現している。
廣瀬陽子×上田洋子「アゼルバイジャンから探る『ポストソ連』世界と戦争──コーカサスの地域問題からナゴルノ=カラバフ紛争、ウクライナ戦争まで」 
URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20230518

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