遊び心と公共性──ゲンロン・セミナー第3回「遊びの場としての野外劇」事前レポート|住本賢一

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webゲンロン 2023年4月14日配信
 各分野の第一線で活躍する5人の先生方による連続講座「ゲンロン・セミナー」。聞き手はゲンロンで働く大学院生が務めています。来たる4月22日には、演劇研究者の梅山いつき先生をお招きし、「遊びの場としての野外劇──予期せぬ『ノイズ』を取り込む創造のエネルギー」を開催します。「webゲンロン」では、聞き手を務める住本賢一による「事前」レポートを、梅山先生のコメントとともにお届けします。
 
梅山いつき 聞き手=住本賢一「遊びの場としての野外劇──予期せぬ『ノイズ』を取り込む創造のエネルギー」(URL=https://genron-cafe.jp/event/20230422/
 こんにちは、ゲンロン編集部の住本です。

「遊び」をテーマに全5回の講義(+振り返りセッション)をお届けするゲンロン・セミナー。来たる4月22日(土)は第3回、いよいよ折り返しです。

 今回お迎えするのは、演劇研究者の梅山いつき先生です。講義にむけて、先生からめちゃくちゃ熱いメッセージ(必読!)をいただきました。なによりもまずこちらをお読みください。
【講師の梅山先生より】
 わたしは1960~1970年代にアングラ演劇と呼ばれた小劇場演劇やその集団について研究しています。アングラ演劇との出会いは一枚のポスターでした。当時、練馬にあった劇団黒テントの作業場に飾ってあった『ブランキ殺し上海の春』の巨大ポスターに圧倒されたのです。平野甲賀が手がけたオレンジ色の目を引くポスターには「演劇よ死ぬな!!われわれはお前が必要だ!!」と大きく書かれていました。この一言に単なる上演を超えた、ただならぬ“運動”の気配を感じ、一気に引き込まれました。その後、当時の黒テントの野外劇公演は、公園などの公有地の解放を目指す闘いだったこと、その中心人物だった佐藤まことが後に、そこでの経験を活かして世田谷パブリックシアターという公共劇場を築いたことを知り、カウンターカルチャーの一種とされたアングラ演劇が日本の劇場文化の公共性に深く関わっていることに気付かされました。
 
 のちに、わたしは実際に野外劇の制作にたずさわるようになり、表現における私性と公共性が激しくせめぎ合う現場を目の当たりにするようになりました。格式ばった言い方になってしまいましたが、実際はぐだぐだで、野外で芝居をやろうとすると想定していなかっためんどうごとに見舞われ、思い通りにことが進まない状態に陥ります。なぜ苦労してまで野外に一から仮設の劇場を建てるのか? 野外劇には、生きていく中で出くわす不都合な夾雑物を排除するのではなく、共に生きるすべを探る愚直な表現者たちの生き様が刻まれています。
 
 当日は、“公”と“私”を撹乱するものとしての遊びの場として野外劇やアングラ演劇を捉え、その魅力をみなさんに紹介いたします。写真や映像もできるだけ紹介しますので、演劇に詳しくない方もぜひご参加ください。お待ちしています。


 最高ですね。とくに「野外劇には、生きていく中で出くわす不都合な夾雑物を排除するのではなく、共に生きるすべを探る愚直な表現者の生き様が刻まれています」という文章には、演劇に携わったことがない自分でさえ、日々の生活や仕事で出くわすいろいろな面倒事を思い浮かべ、つい目頭が熱くなってしまいます。ゲンロン・セミナーも「人文よ死ぬな!!われわれはお前が必要だ!!」の精神でがんばっています!

アングラ演劇、そして野外劇とは


 このレポートでは、梅山先生が専門とする「アングラ演劇・野外劇」とはなんなのか、そしてそれが「遊び」とどう結びつくのか(結びつきそうなのか)、講義へのお誘いとしてごく簡単にご紹介します。 

 アングラ演劇とは、1960年代なかばに生まれた、多くは無名の若者たちが主導したいくつもの集団による演劇の総称です。当時は学生運動が盛んに行われた「政治の季節」でもありました。アングラ演劇はその流れと共鳴しながら、演劇における既存の常識を疑い、さまざまな実験を試みました。

 唐十郎の「劇団状況劇場」、寺山修司の「演劇実験室・天井桟敷」、鈴木忠志や別役実の「劇団早稲田小劇場」、そして梅山先生が衝撃を受けた劇団黒テントの前身、佐藤信らの「演劇センター68/71」などが代表とされています。

 とはいえ、本人たちが「俺たちがやってるのはアングラ演劇だ!」と名乗ったわけではなく、それぞれが独自の問題意識のもと表現を突き詰めていきました。ただ、それを強引にまとめると、「お行儀よくちゃんとした演劇の真逆」を志したことは共通点と言えるかもしれません。

 役者の肉体の存在感を全面に押し出す演技とともに吐き出される、前衛的で難解なセリフとストーリー。そして、通常のステージの枠にとらわれずさまざまな場所で上演を行なってしまう大胆さ。テントや路上空間を駆使し、舞台と観客席の関係が定まった既存の劇場とはちがう「野外」を志向するあり方は、その後もさまざまな劇団に引き継がれることになります。梅山先生が制作に携わっていらっしゃる「水族館劇場」も、そんな野外演劇集団のひとつです。

 もちろん、既存のやり方に従わないぶん、さまざまなトラブルも発生するのだと梅山先生は言います。しかし、そのような「ノイズ」を取り込むことでしか生まれない創造性があるのだ、と。

 講義では、写真や映像も交えながらその創作過程の魅力を存分に語っていただきます。

遊びの哲学と野外劇


 では、野外劇と「遊び」はどのように結びつくのでしょうか。

 第1回の古田徹也先生による講義「遊びを哲学する」では、ホイジンガによる遊びについての哲学的な議論が紹介されました。ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』はとても豊かな内容をもつ古典的名著で、端々から教養と知性が溢れ出ています。要はめちゃくちゃいい本です。その遊び観を無理やりまとめてしまえば、「遊びとは、日常生活から隔てられた時空間のなかで、ある決められたルールのもと行われる行為だ」ということになります。

 それに対して、遊びの哲学における近年の話題の書『プレイ・マターズ』の著者ミゲル・シカールは反論を繰り出します★1。こちらの主張も思いきってまとめてしまうならば、「ホイジンガの言うてる『ルールが決まった遊び』なんかより、日常生活をハックする『遊び心』のほうが遊びの本質やろ!」ってな感じです。シカールのいう遊びとは、遊びとそうでないものの境界を撹乱する「いたずらっ子の遊び」とでも言えるでしょう。

 野外劇やアングラ演劇は、既存のルールを疑って劇場の外に飛び出し、「”公”と”私”を撹乱するもの」だと、先生からのメッセージにもありました。言い方はちがえども、これってシカールの言う遊びの精神とけっこう似ているのかも……? イベントでは、そんな話題にも触れることができればと思っています。

 



 触れたいテーマは他にもあります。梅山先生のメッセージにある「ぐだぐだ」感と「共に生きるすべ」の関係です。

 じつはこの話は、古田先生の講義で紹介された「言語ゲーム論」や、東浩紀の論文「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」(『ゲンロン12』)と大いに関わってくるのではないか、と踏んでいます。

 どういうことか──詳しく説明したいのは山々なのですが、残念ながら字数制限もあるので、レポートはここで終わらせてもらいます! 気になる方はぜひ当日のイベントをご覧ください!(ふだん自分はどちらかというと同僚の大学院生スタッフに「字数守れや!」とうるさく言ったりもしているので、自分ばかりがルールをやぶる「いたずらっ子」にはなれないのでした。ちゃんちゃん)

 




★1 ミゲル・シカール『プレイ・マターズ』、松永伸司訳、フィルムアート社、2019年。なお、ここでのホイジンガとシカールの遊び観の対比という論点は、同書の訳者による以下の文章に全面的に負っています。松永伸司「まじめな遊び、ふざけた遊び」、『広告』417号、2023年、121-159頁。

1000分で「遊び」学 #3

遊びの場としての野外劇──予期せぬ「ノイズ」を取り込む創造のエネルギー
2023年4月22日
ゲンロン・セミナー第1期
遊びの場としての野外劇──予期せぬ「ノイズ」を取り込む創造のエネルギー
No.開催日登壇者講義テーマ
第1回2/11(土)古田徹也「遊びと哲学」
第2回3/26(日)山本真也「遊びと動物」
第3回4/22(土)梅山いつき「遊びと演劇」
第4回5/13(土)池上俊一「遊びと歴史」
第5回6/17(土)三宅陽一郎「遊びとAI」
第6回7/1(土)全講義をふり返るアフターセッション

※各回とも14時開始予定

「ゲンロン・セミナー」全体の情報は、こちらの特設ページをご覧ください!
https://webgenron.com/articles/genron-seminar-1st/

住本賢一

1992年生まれ。ゲンロン編集部所属。
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