【 #ゲンロン友の声|017 】良い翻訳とは何か?
webゲンロン 2021年5月11日配信
いつも興味深く、ゲンロンのコンテンツを拝見して、楽しませてもらっています。
さて、先日の「『風と共に去りぬ』とアメリカ」というイベントで、翻訳の奥深さを知ることが出来ました。バフチンのポリフォニー論も参照され、自由間接話法という文法的な技法が作品全体の位相を定める様を解きほぐす対話にしびれました。
そこで、「良い翻訳とは何か?」ということを、翻訳者である上田さん、福冨さん、批評・哲学をご専門とされる東さんにご質問したいです。
文法的に無理があっても読者の「感じ」を正確にトレース出来るような訳が良いのか、もしくは文法的な正しさに厳密な方が文学的価値を伝えることになるのか。
小説と哲学書で異なるのかもしれませんが、どちらかでも良いのでご見解を伺えると、素人が訳書を選ぶ際にとても参考になると思います(ドストエフスキーの作品などだいたい2、3訳がありどれを読むか迷います)。
どうぞよろしくお願いします。(福岡県・30代・男性・会員)
こちらのご質問への回答者は、翻訳に携わるゲンロンの上田洋子と福冨渉の2名とさせていただきます。なにとぞご了承ください。(編集部)
ご質問ありがとうございました。「いい翻訳とはなにか」という問いは、多くのひとが議論を続けながら、いまだに答えのでないやっかいなものです。「感じ」をとるか、「正確さ」をとるか。あえてこのふたつのどちらかを選ぶなら、そのテキストを読んだときの「感じ」を信じたほうが、読書体験としてはいいものになると思います。でもそれは「翻訳に正確さは必要ない」という意味ではありません。
そもそも翻訳されたテキストは、原文とはちがうものです。もちろんちがう言語で書かれているのだから同じわけはないのですが──つまり、翻訳というのは、ある言語で書かれたテキストに内在する本質的で一定の「内容」や「事実」を、さまざまな言語で正確に再現することではない、ということです。翻訳はむしろその「内容」そのものを変えてしまう行為です。
ひとつのテキスト=原文の「内容」は、著者の伝えようとしたことだけではなく、そのテキストが書かれた時代や社会の状況、そこで使われた言語のもつ条件や制約、文化的背景など、さまざまなものが絡まって成立しています。翻訳とは、この絡んだものをいちど解いたうえで、べつの時代・社会の状況、言語的制約、文化的背景のなかで再構成していくプロセスです。要は、どの言語で、だれが、いつ翻訳するかによって、テキストの内容も変化していきます。
ただこう書くと、翻訳者が自分たちの生きる時代や社会で、もとのテキストを好き勝手に書き換えていくように思えてしまいますね。ここできちんと付け加えておくべきなのは、翻訳とはあくまでふたつの異なる言語・時代・文化が接触し、混ざりあう空間のなかに生まれる、ということです。原文側の世界と翻訳側の世界が接触する領域で、両方の世界を行き来しつつ新しいテキストを創出するのが翻訳という行為なのだ、と言えるでしょう。
そう考えると、翻訳において「感じ」と「正確さ」は対立するものではないのかもしれません。同じテキストに対して何種類もの翻訳があるとしても、それはそれぞれのテキストがそれぞれの「正確さ」を追求しているだけのことだからです。だからこそ、そういうテキストたちを自分で読んだときにどう感じるか、というある種の「好き嫌い」も判断基準のひとつになりえます。翻訳されたテキストをどう読むかも、テキストを書き直し、これまでとはちがう世界に流通させて、新しい読者を得ていく翻訳のプロセスの一環なのです。
そのうえで、タイ語の翻訳をしている身としてすこし補足をしておきます。仮に「悪い翻訳」があるならば、それは、さきに書いたふたつの世界が接触する領域から明らかに逸脱しているもののことでしょう。異なる言語・文化が接触する領域には、つねにふたつの世界のあいだの権力格差が反映されます。その差を意識していない翻訳は、いい翻訳と呼ぶことはむずかしいのかもしれません。たとえばタイ語や東南アジアの言語から日本語に翻訳するときに、植民地支配の歴史や経済的な従属関係を考慮せずに、日本のわたしたちがアジアに対して感じる「エキゾチックさ」を無検討に反映させてしまったとする。そういう翻訳は、暴力や搾取としてすら働きかねません。その意味では、翻訳とは多分に政治的なものにもなりえます。
もちろんポイントはそこだけではないのですが、いちタイ語翻訳者としては、そんなことも考えながら仕事をしています。今後もいろいろなものを紹介していきたいなと思っていますので、読んでいただけたら嬉しいです。(福冨渉)
そもそも翻訳されたテキストは、原文とはちがうものです。もちろんちがう言語で書かれているのだから同じわけはないのですが──つまり、翻訳というのは、ある言語で書かれたテキストに内在する本質的で一定の「内容」や「事実」を、さまざまな言語で正確に再現することではない、ということです。翻訳はむしろその「内容」そのものを変えてしまう行為です。
ひとつのテキスト=原文の「内容」は、著者の伝えようとしたことだけではなく、そのテキストが書かれた時代や社会の状況、そこで使われた言語のもつ条件や制約、文化的背景など、さまざまなものが絡まって成立しています。翻訳とは、この絡んだものをいちど解いたうえで、べつの時代・社会の状況、言語的制約、文化的背景のなかで再構成していくプロセスです。要は、どの言語で、だれが、いつ翻訳するかによって、テキストの内容も変化していきます。
ただこう書くと、翻訳者が自分たちの生きる時代や社会で、もとのテキストを好き勝手に書き換えていくように思えてしまいますね。ここできちんと付け加えておくべきなのは、翻訳とはあくまでふたつの異なる言語・時代・文化が接触し、混ざりあう空間のなかに生まれる、ということです。原文側の世界と翻訳側の世界が接触する領域で、両方の世界を行き来しつつ新しいテキストを創出するのが翻訳という行為なのだ、と言えるでしょう。
そう考えると、翻訳において「感じ」と「正確さ」は対立するものではないのかもしれません。同じテキストに対して何種類もの翻訳があるとしても、それはそれぞれのテキストがそれぞれの「正確さ」を追求しているだけのことだからです。だからこそ、そういうテキストたちを自分で読んだときにどう感じるか、というある種の「好き嫌い」も判断基準のひとつになりえます。翻訳されたテキストをどう読むかも、テキストを書き直し、これまでとはちがう世界に流通させて、新しい読者を得ていく翻訳のプロセスの一環なのです。
そのうえで、タイ語の翻訳をしている身としてすこし補足をしておきます。仮に「悪い翻訳」があるならば、それは、さきに書いたふたつの世界が接触する領域から明らかに逸脱しているもののことでしょう。異なる言語・文化が接触する領域には、つねにふたつの世界のあいだの権力格差が反映されます。その差を意識していない翻訳は、いい翻訳と呼ぶことはむずかしいのかもしれません。たとえばタイ語や東南アジアの言語から日本語に翻訳するときに、植民地支配の歴史や経済的な従属関係を考慮せずに、日本のわたしたちがアジアに対して感じる「エキゾチックさ」を無検討に反映させてしまったとする。そういう翻訳は、暴力や搾取としてすら働きかねません。その意味では、翻訳とは多分に政治的なものにもなりえます。
もちろんポイントはそこだけではないのですが、いちタイ語翻訳者としては、そんなことも考えながら仕事をしています。今後もいろいろなものを紹介していきたいなと思っていますので、読んでいただけたら嬉しいです。(福冨渉)
福冨くんの回答が完璧で、何を書けばいいか迷っているうちにどんどん時間が過ぎてしまいました。遅くなってすみません。主旨は福冨くんとおなじですが、変化球で答えてみたいと思います。
子どもの頃、西洋的なものに憧れて、ひたすら児童文学を読んでいました。そんな中で、はじめて翻訳を意識したのはC.S.ルイスのナルニア国物語を読んだときでした。たしか、クリスマスプレゼントで岩波少年文庫の『ライオンと魔女』をもらったのではなかったかな。小学校4年生か5年生の頃です。サンタクロースからのクリスマスプレゼントとして、枕元に置いてあったのではなかろうか。あるいは図書館で出会ったのかもしれません。図書館はわたしにとって身近な非日常の場所だったから、わが家ではとくに祝祭感のなかったクリスマスと混乱してもおかしくないかもしれない。
さて、この『ライオンと魔女』の瀬田貞二さんによる訳者あとがきに、作中のキーアイテム「ターキッシュ・ディライト」の訳についての言及があります。ナルニア国物語の主人公はイギリスの4人の兄弟姉妹ですが、そのうちの弟のエドマンドの好物がターキッシュ・ディライトなんです。ターキッシュ・ディライトはトルコのお菓子で、お餅とゼリーを足して二で割って、一口サイズにしたようなもの。当時の日本ではまず見かけないお菓子でした。瀬田さんはこれを、「ターキッシュ・ディライト」では岩波少年文庫の読者には伝わらないだろうから、日本の子どもたちにポピュラーなおやつである「プリン」に変えた、と説明しています。
エドマンドはクライマックス近くに、このおやつをダシに魔女にたぶらかされ、兄弟や仲間を裏切ることになります。だから翻訳では、これが「子どもが夢中になるほど大好きなおやつ」であるというイメージをしっかり喚起できないと、読者の頭の中で物語が成立しない。じつは当時、子ども心に、プリンってそこまで好きなもの??と思った記憶がありますが、わたしにもイメージしやすかったからこそ、そんな疑問も抱くことができたのでしょう。
とにかく、「ターキッシュ・ディライト」に関する訳者あとがきの記述は、なぜか小学生のわたしの心に刻み込まれてしまったのです。ひとつの言葉が別の言葉に変わる、ということが、すでに魔法のように見える。さらに、世界には、キラキラした響きをしたよくわからない名前の、見たこともないお菓子がある、ということを知った。当時、デパートの地下に外国産キャンディの量り売りの丸いブースがあって、それがわたしの目には輝いて見えていたのだけれど、いつも通り過ぎるだけで、買ってもらえたのはほんの数回だけ。外国の香料の匂いがして、知らない味がした。「ターキッシュ・ディライト」に、子どものわたしはああいうものを重ねていたのかもしれません。
ターキッシュ・ディライトは、ロシア語では「ラハト・ルクム」というトルコ語由来の名前です。ロシアに通い始めて結構早い時期に、このラハト・ルクムをどこかのお菓子屋さんのショーウィンドーで見たのではないかと思います。うろ覚えですが、たぶん量り売りで、マルメラードという硬いゼリーみたいなのと一緒に、箱詰めされない状態で並んでいたのではないだろうか。ひょっとしたら完全に記憶違いで、Turkish Delightと英語で書かれた箱のやつだったかもしれません。いずれにせよ、わたしはロシアで、このターキッシュ・ディライトの本物と出会います。文字上の出会いから10年後か、15年後か。そのときには「あ、これが、あの、ナルニアの!!!」と、ひそかに感動した覚えがあります。
長くなってしまいました。翻訳は、正確である必要があると思います。けれども、「正確さ」にはいろいろあって、名前を文字通り伝えるのか、それとも、その名前が、なんらかの状況で果たしている役割を正確に伝えるのか。もちろん、本来の名前を名指し、かつ、役割も正確に伝えられればよいのですが、言葉は一対一の対応をしていないので、そういうことがいつもできるとは限りません。どちらかを選ばなければならなくなったとき、どうするのか。それが、翻訳者の力の見せ所です。子どもの頃に知った瀬田さんの翻訳における「ターキッシュ・ディライト」の処理、つまり、物語はスムーズに進行させつつ、魔法めいた外国語の異物の魅力もさりげなく伝えるやり方は、いまでもわたしの理想です。
他方、おなじく食べ物の名前でやはり忘れられないのが、同じ頃に読んだエリナー・ファージョン『ムギと王さま』に出てきた「ダンプリング」です。石井桃子さんの翻訳。ダンプリングは「プディング」と響きが似ていたからか、なにかすごく美味しいらしい謎の食べ物として心に残った。15年から20年後に東欧に行ったときに英語メニューを見ていて Dumpling を発見し、「ファージョンのあれ!!!」と興奮しました。注文してみたら、ソースをかけて食べるマフィンの柔らかいやつ、みたいな謎のものでした。もっとも、ファージョンの故郷・イギリスのダンプリングはまだ食べたことがないので、いまだに実態はわかりません。辞書的には「小麦粉の団子」とのことですが、カタカナで音が刻まれることによって謎が残され、読者に調査・探求が委ねられるのも素敵なあり方だと思います。(上田洋子)
子どもの頃、西洋的なものに憧れて、ひたすら児童文学を読んでいました。そんな中で、はじめて翻訳を意識したのはC.S.ルイスのナルニア国物語を読んだときでした。たしか、クリスマスプレゼントで岩波少年文庫の『ライオンと魔女』をもらったのではなかったかな。小学校4年生か5年生の頃です。サンタクロースからのクリスマスプレゼントとして、枕元に置いてあったのではなかろうか。あるいは図書館で出会ったのかもしれません。図書館はわたしにとって身近な非日常の場所だったから、わが家ではとくに祝祭感のなかったクリスマスと混乱してもおかしくないかもしれない。
さて、この『ライオンと魔女』の瀬田貞二さんによる訳者あとがきに、作中のキーアイテム「ターキッシュ・ディライト」の訳についての言及があります。ナルニア国物語の主人公はイギリスの4人の兄弟姉妹ですが、そのうちの弟のエドマンドの好物がターキッシュ・ディライトなんです。ターキッシュ・ディライトはトルコのお菓子で、お餅とゼリーを足して二で割って、一口サイズにしたようなもの。当時の日本ではまず見かけないお菓子でした。瀬田さんはこれを、「ターキッシュ・ディライト」では岩波少年文庫の読者には伝わらないだろうから、日本の子どもたちにポピュラーなおやつである「プリン」に変えた、と説明しています。
エドマンドはクライマックス近くに、このおやつをダシに魔女にたぶらかされ、兄弟や仲間を裏切ることになります。だから翻訳では、これが「子どもが夢中になるほど大好きなおやつ」であるというイメージをしっかり喚起できないと、読者の頭の中で物語が成立しない。じつは当時、子ども心に、プリンってそこまで好きなもの??と思った記憶がありますが、わたしにもイメージしやすかったからこそ、そんな疑問も抱くことができたのでしょう。
とにかく、「ターキッシュ・ディライト」に関する訳者あとがきの記述は、なぜか小学生のわたしの心に刻み込まれてしまったのです。ひとつの言葉が別の言葉に変わる、ということが、すでに魔法のように見える。さらに、世界には、キラキラした響きをしたよくわからない名前の、見たこともないお菓子がある、ということを知った。当時、デパートの地下に外国産キャンディの量り売りの丸いブースがあって、それがわたしの目には輝いて見えていたのだけれど、いつも通り過ぎるだけで、買ってもらえたのはほんの数回だけ。外国の香料の匂いがして、知らない味がした。「ターキッシュ・ディライト」に、子どものわたしはああいうものを重ねていたのかもしれません。
ターキッシュ・ディライトは、ロシア語では「ラハト・ルクム」というトルコ語由来の名前です。ロシアに通い始めて結構早い時期に、このラハト・ルクムをどこかのお菓子屋さんのショーウィンドーで見たのではないかと思います。うろ覚えですが、たぶん量り売りで、マルメラードという硬いゼリーみたいなのと一緒に、箱詰めされない状態で並んでいたのではないだろうか。ひょっとしたら完全に記憶違いで、Turkish Delightと英語で書かれた箱のやつだったかもしれません。いずれにせよ、わたしはロシアで、このターキッシュ・ディライトの本物と出会います。文字上の出会いから10年後か、15年後か。そのときには「あ、これが、あの、ナルニアの!!!」と、ひそかに感動した覚えがあります。
長くなってしまいました。翻訳は、正確である必要があると思います。けれども、「正確さ」にはいろいろあって、名前を文字通り伝えるのか、それとも、その名前が、なんらかの状況で果たしている役割を正確に伝えるのか。もちろん、本来の名前を名指し、かつ、役割も正確に伝えられればよいのですが、言葉は一対一の対応をしていないので、そういうことがいつもできるとは限りません。どちらかを選ばなければならなくなったとき、どうするのか。それが、翻訳者の力の見せ所です。子どもの頃に知った瀬田さんの翻訳における「ターキッシュ・ディライト」の処理、つまり、物語はスムーズに進行させつつ、魔法めいた外国語の異物の魅力もさりげなく伝えるやり方は、いまでもわたしの理想です。
他方、おなじく食べ物の名前でやはり忘れられないのが、同じ頃に読んだエリナー・ファージョン『ムギと王さま』に出てきた「ダンプリング」です。石井桃子さんの翻訳。ダンプリングは「プディング」と響きが似ていたからか、なにかすごく美味しいらしい謎の食べ物として心に残った。15年から20年後に東欧に行ったときに英語メニューを見ていて Dumpling を発見し、「ファージョンのあれ!!!」と興奮しました。注文してみたら、ソースをかけて食べるマフィンの柔らかいやつ、みたいな謎のものでした。もっとも、ファージョンの故郷・イギリスのダンプリングはまだ食べたことがないので、いまだに実態はわかりません。辞書的には「小麦粉の団子」とのことですが、カタカナで音が刻まれることによって謎が残され、読者に調査・探求が委ねられるのも素敵なあり方だと思います。(上田洋子)
上田洋子
1974年生まれ。ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。博士(文学)。ゲンロン代表。早稲田大学非常勤講師。2023年度日本ロシア文学会大賞受賞。著書に『ロシア宇宙主義』(共訳、河出書房新社、2024)、『プッシー・ライオットの革命』(監修、DU BOOKS、2018)、『歌舞伎と革命ロシア』(編著、森話社、2017)、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(調査・監修、ゲンロン、2013)、『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳、松籟社、2012)など。展示企画に「メイエルホリドの演劇と生涯:没後70年・復権55年」展(早稲田大学演劇博物館、2010)など。
福冨渉
1986年東京都生まれ。タイ語翻訳・通訳者、タイ文学研究。青山学院大学地球社会共生学部、神田外語大学外国語学部で非常勤講師。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー』(河出書房新社)、Prapt『The Miracle of Teddy Bear』(U-NEXT)など。 撮影=相馬ミナ
ゲンロンに寄せられた質問に東浩紀とスタッフがお答えしています。
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