海を渡る船(2) 2つの引揚げから見る遺骨送還|撮影=中沢道明 編集・文=荒木佑介

興安丸 大沽新港に到着
【天津二十日発興安丸乗船記者団】大沽に一夜を明かした興安丸は二十日午前十時半大沽新港岸壁に着いた。岸壁には中国人殉難者八百七十六柱を迎える中国解放軍の兵士が集まり、おごそかに慰霊祭が行われた。代表団、遺骨奉持団、記者団は中国紅十字会に招かれ午後四時天津に着いた。紅十字会の話ではヴェトナムと中国邦人などまだ集結が終わらないので出港は約七日遅れ、二十九日ごろのもよう。(読売新聞 昭和29年11月21日 7面)




これらの写真は祖父、中沢道明の遺品の中から見つかったものです。祖父は昭和21年から昭和52年までの31年間、新聞記者として活動していました。社会部では遊軍勤務を主とし、見つかった写真はその時のものが大半を占めます。読売新聞社のデータベース部に問い合わせたところ、これらの写真は保存されていないとのことで、今現在、私が整理分類をし、いつどこで何を撮影したものなのかを照合しているところです。いわば、隠れた記録物が劣化し、消失してしまうのは惜しいと思ったわけですが、保存するだけではなく、表へ出す必要もあると考え、「ゲンロン観光地化メルマガ」という場をお借りすることになりました。
今回紹介する写真は、昭和29年11月の「中共とヴェトナム邦人引揚げ」を取材した時のものです。中国での引揚げは、在日中国人の帰国と、戦時中に日本で亡くなった中国人の遺骨送還も合わせて行われました。この時の写真は全部で18枚と少なく、邦人引揚げの様子はありませんでしたが、遺骨送還の様子をとらえた、とても興味深いものです。また、当時の天安門の写真が珍しいということもあり、少ないながらも見てもらいたいと思いました。
代表団きょう北京へ
【天津二十日中沢特派員発】引揚三団体代表と遺骨奉持団一行は二十日夕方大沽から天津に着き宿舎天津大飯店に落ち着いた。なお記者団はきょう二十一日代表団とともに北京に行く。(読売新聞 昭和29年11月21日 夕刊 3面)

後日談によると、記者団は「まだ国交のない中国の領海に入る赤十字船・興安丸への乗船・取材の承認を中国政府に求める工作を続けてきた」そうです。そのため、「引揚げ邦人を、興安丸船内で取材できればいい」と考えていたわけですが、引揚げ者が集結しつつある天津での取材が、大沽到着後に許可されます。中国紅十字会が用意したバスで天津へと向かい、取材を首尾良く行った記者団は、本来の目的である引揚げ者について、こう聞かされます。「中国は広く、まだ途中の列車の中です」
「うまく」北京までも取材 中国の邦人引き揚げ 元編集局参与 中沢道明
(前略)その夜、私が受けた連絡は、こうだった。
「引き揚げ者が集結するまで、まだ数日かかる。その間皆さんを北京にご招待したいが、ご承知ねがえまいか」
そして相手は、こう付け加えた。「もし相手が貴国を訪れて、横浜だけ見て帰ろうとしたら、首都の東京も見てから日本を語ってほしいと、あなた方は言うでしょう。私たちだって、同じ気持ちです」
記者団全員に相談して、ご返事を差しあげますと、もったいをつけて私は部屋に戻り、全員にこの旨を伝えた。その相談の席でただ一つ出た動議は、こうだった。
「せめて五分間は協議のまねをして、承諾の返事を」
北京へはコンパートメントの軟席の列車で行った。
北京では、西郊文教地区の各大学、市内の授産所、療養所、観光名所の万寿山、夜の観劇に招待された。そしてすべてが取材の対象となった。それが「北京の新路線」でもあったのだ。(後略)(読売新聞社報 昭和60年12月1日 24頁)





引揚げ者は徐々に集まり、大沽到着から5日目の11月25日に集結を終え、翌26日午後5時、帰国の途につきます。順調に航海を続ける興安丸は、玄界灘にて巡視船と落ち合い、船内で撮影した写真と次の原稿を託すことになります。その受け渡し方が凄い。
喜びの興安丸 船内から第一報 海中投下
ヴェトナム、中共地区からの帰国邦人六百四名を乗せた興安丸は、あすの上陸を目の前にして二十九日朝玄界灘を舞鶴に向け航海している。本社よみうり一〇一号機は暁の空をついて興安丸を出迎え、歓迎の花束を投下すれば船上の人々はハンカチや手をふってこれに答えた。同じ時刻ごろ博多から海上保安本部の巡視船〝おき〟(四五〇トン)も興安丸を迎えたが、このとき興安丸に同乗している本社中沢特派員は発煙筒をたいて船内で撮影した写真とつぎの原稿を海中に投下し〝おき〟に運ばれて紙面を飾ることができた。(読売新聞 昭和29年11月29日 夕刊 2面)
さながらボトルメールのようです。この様子は、昭和31年6月から7月にかけて行われた「第十三次中共引揚げ」の取材で残されていました。時間の流れが少しややこしくなりますが、見てみましょう。






昭和29年11月30日朝8時、興安丸は無事、舞鶴に帰港します。
海中投下の様子が撮影された「第十三次中共引揚げ」は、日本人戦犯の引揚げを取材したものです。日中双方の代表団がコミュニケに調印する様子や、天津、北京の風景、そして数百人単位の日本人戦犯が一同に介する写真などがありました。数も200枚以上と多かったのですが、どこで何を写したものなのか分からないものも多く、いまだ特定できないという状況です。
当時の新聞(昭和31年6月から8月)を見ると、戦犯引揚げが連日取り上げられていることが確認できます。その一方で、同じくらい目にしたのが遺骨収集の記事でした。昭和31年6月20日の夕刊では、興安丸と、ある一隻の船の出港が、同面で伝えられています。
5万の遺骨求めて 大成丸、南海へ船出
西部ニューギニア方面に眠る旧日本軍将兵の遺骨を集めて回る政府派遣の運輸省航海訓練所練習船大成丸(二、四三〇トン)は二十日午前十一時、四人の遺族、三人の宗教代表、政府代表ら派遣団員十六名と報道陣を乗せて東京港晴海桟橋を出港、西部ニューギニアのホーランジアを最初の寄港地に全行程八千二十九マイル、約六十日間の航海の途についた。(後略)
興安丸、門司を出港
【門司発】第十三次中共帰国船興安丸(七、〇七七トン、玉有勇船長)は二十日正午門司を出港、一路中共釈放戦犯三百五十三名の帰国同胞の待つ塘沽へ向かった。(後略)(読売新聞 昭和31年6月20日 夕刊 5面)
大成丸という船が、戦没者の遺骨を収集するためにニューギニアへと向かっています。興安丸の記事を探す一方で、大成丸の動きも追ってみたところ、大成丸収骨団は599柱の遺骨と遺留品を収集し、8月23日に帰港していたことが分かりました。(興安丸は中国人の遺骨送還を続けています。)
そこから更に今現在の状況を調べたところ、多くの土地に未送還遺骨が113万柱あり[★1]、遺骨の引き渡しが毎月行われていることを知りました[★2]。
死者を本来いたであろう場所に帰すということはどういうことなのか。中国人遺骨送還の写真を見つけた時、私は始めに思いました。戦後70年が経ち、日本の人口の8割が戦後生まれになった今も、戦没者の遺骨収集は続けられています。そのことを知っていたとしても、遺骨が毎月帰還していることを知る人は少ないでしょう。終戦から絶え間なく、海を渡ってくる死者を迎え続けているということを、心に留めておくのもいい。そう思った次第です。
(了)
[参考資料]読売新聞 全国版 昭和29年11月、昭和31年6月、7月、8月
★1 戦没者の遺骨収集帰還事業等を行うことにより、戦没者遺族を慰藉すること(施策番号VII-5) ※PDF資料 http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12601000-Seisakutoukatsukan-Sanjikanshitsu_Shakaihoshoutantou/0000055769.pdf
★2 厚生労働省 戦没者遺族等への援護分野のトピックス http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/topics.html/?tid=156077&pid=1158


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