非西洋にとっての芸術の可能性──『ゲンロン17』より|藤幡正樹

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webゲンロン 2024年10月18日配信

 

 かつてのサンフランシスコには、ヒッピーイズムを生んだような自由な精神や実験的な精神があったように記憶している。そうした志向性のなかでは、禅に対する理解や、山水画に対する興味があったし、自由な発想でコンピュータの新しい使い方が模索されていたのだが、その後の商業的な成功とともに、シリコンバレーを中心とする新自由主義的な行動規範が、いろいろなものを破壊しているようだ。

 新しいアプリを開発して、アップルストアに登録しようとする時には、カテゴリーの登録を要請される。以下の27個のカテゴリーから、選ぶことになる。(1)ブック (2)ビジネス  (3)デベロッパツール(4)教育(5)エンターテインメント(6)ファイナンス(7)フード/ドリンク(8)ゲーム(9)グラフィック/デザイン(10)ヘルスケア/フィットネス(11)ライフスタイル(12)子ども向け(13)雑誌/新聞(14)メディカル(15)ミュージック(16)ナビゲーション(17)ニュース(18)写真/ビデオ(19)仕事効率化(20)辞書/辞典/その他(21)Safari Extension(22)ショッピング(23)ソーシャルネットワーキング(24)スポーツ(25)旅行(26)ユーティリティ(27)天気。だが驚くことに、なんとここには、「芸術」というカテゴリーがない。ヨーロッパでは笑いものである。

 また、サンフランシスコの現代美術館の評議員の中には、シリコンバレー関係の企業の重役も含まれているので、さぞかしメディア・アートにも理解があるのではないかと、内部にいる知り合いに事情を訊いたことがあるのだが、「彼らはメディア・アートには興味を示してくれない」とぼやいていた。「結局、モダンアートまでは理解を示して支援してくれるが、新しいものは難しい」というのである。

 最新の技術を大衆化することにかけては世界一の頭脳を結集させているこうした企業にとっては、自分たちの製品こそが、もっとも創造的なものであって、いわば「芸術的」なので、それ以外の創造性には興味がないということなのだろうか。あるいは、現在のアートや実験的な作品は、投資の対象にはならないから、そうしたアート作品には興味がないということなのだろうか。資本主義を推し進めようという純粋な思考にとっては、アートという批判精神は有害なのかもしれない。70年代から始まる西海岸のコンピュータ産業が次々と生んできたプロダクトが、いかに創造的で、それが激しく世界を変えてきたかについては議論の余地はないだろう。当時の僕らは、これこそが来たるべきアートの世界だと思っていたものだが、それは結局錯覚だった。

 こうした状況に対して、僕自身は今現在非常に大きな危惧を、複雑に捻れた状態で抱いている。僕にとってアートは、それまでにないものをこの世界に生み出すものであり、それは消費の対象ではなく、貨幣とは関係ないものであると考えてきた。それがアプリのカテゴリーに入らないことの理由であろう。だとすれば別に落胆する必要はないことになる。アートのアプリでは儲からないからである。また、マネ以降にはじまるモダンアートの展開は、1960年代のコンセプチュアル・アートで終わったと考える立場から見ると、これから先のアートというのは、過去とはまったく違ったものになっている可能性はある。こうした自分自身の反応のしかたを考えると、意外や自分自身も西欧中心の「アート」という概念に侵食されているのかもしれず、この状況を危惧したり、悲観的に考える必要は、むしろないのかもしれない。

 上記の考え方を裏返しにすると、ここでこれから扱う『芸術と宇宙技芸』という本で著者のユク・ホイが一貫して主張している、悲劇的な方法で対立を乗り越えるのではない、他の方法を探っていく場面としてのアートというのが、ここに見いだせるのかもしれない。もしも、見いだせるのであれば、それを可視化し、牽引するための思想が必要ではあるのであろうけれども……。

 こうした西欧と技術、芸術と東洋の間を逡巡し続けていた自分自身にとって、ユク・ホイと出会ったことは、未来に向けてなんらかの扉を開く重要な鍵になるのかもしれない。

ユク・ホイ『芸術と宇宙技芸』(伊勢康平訳、春秋社、2024年)

芸術・藝術・アート

 そこで、ユク・ホイの『芸術と宇宙技芸』の話になるわけだが、著者の立ち位置はあくまでも哲学である。それもユク・ホイは、ただ哲学を論じている人ではなく、哲学をしている人、つまり戦っている人であって、その戦っている相手も明確であるし、戦略に沿って、一冊ずつ前に進んでいる姿がまたスゴイ。西の土俵に東の話を持ち込んでいく、その訓練された身体は西で完全武装されているが、その物腰は柔らかく東である、とでも表現できようか。

 タイトルに上がっている「芸術(原著では art)」は、哲学の立場から見た芸術であって、美術業界の動向といった話ではない。哲学や科学と同列に置かれた芸術のことだ。まあ、まずこの「芸術」の定義のところで、多くの現代人(日本人)はつまずくことになるのだが。

 芸術というカテゴリーは、明治以降に西欧から持ち込まれたもので、われわれはその概念が作り出された背景となる歴史を直には体験していないために、学習する以外にそれを知ることができないままに、現在まで来てしまった。さまざまな恩恵を西欧文明から受けているのだが、その真髄はうまく身についてはいない。それがまずひとつ目の障害である。

 しかも、著者はさらに中国における概念的枠組みを西欧と対比させながら語る。これがまた隣の国であり、長くその影響の下にあったにも拘わらず、自分自身、かの国の芸術の歴史をなにも学習して来なかったことに啞然となった。20代までは、頭も心もアメリカを向いていたからである。西欧文化がわからない、中国文化がわからないというわけで、この二重苦の状態から、悲劇的な読書がスタートするのである。

 「芸術」という日本語は、明治期にドイツ語の Kunst の翻訳として、漢籍の中から選ばれたとされている。美術や音楽、建築や演劇の上位概念として選ばれた用語だ(本来の芸術の「芸」の文字は、「藝」で、この文字は人が屈んで土に木を植える姿を表しており、「藝える」で「うえる」と読むという。藝術にはまさに育てるという意味があったということだ)。ところが、最近は「芸術」ではなく、カタカナの「アート」が使われることが多くなった。これはどうも「芸術」ということばが、官製の用語で、西欧由来で、庶民には手の届かない「芸術(ハイアート)」に宛てて使われてきたことと関係がある。そこであえて「芸術」ということばを避けて、誰もがアクセスしやすい、市民に開かれた芸術鑑賞のスタイルとして「アート」という用語が好まれているということらしい。しかし、そうした活動の実質的な内容を見てみると、むしろ「文化活動」と呼んだ方が良さそうな場合も多いようだ。なぜこうも簡単に「芸術」あるいは「アート」という用語の意味が、時代とともに変わるのかといえば、それは「芸術」ということばが自分の中から出てきたものではなく、西洋由来のことばとして学ぶしかなかったため、学習が深化するとともに理解が変化してきたからではないだろうか。それにしても明治以来150年もこの状況が続いているのは長過ぎる。

 近代社会(モダン)の基盤は、科学、芸術、哲学、歴史、技術でできている。原因と結果を考え理由を知ること、論理的な思考を育むこと、感性を磨くこと、というわけだ。美術でいえば、ルネサンス時代が近代の始まりになる。この時代に美術という概念が煮詰められていった。現実をリアルに見る目、それも神の目線ではなく、人間、それも個人のまなざしとして世界を見ることを絵画が率先して開拓した。現実についての状況証拠を与え、絵画のモチーフに意味や背後の物語を語らせるようになったのだ。しかし、世界の九割以上の国は、ルネサンスを経験していないのだから、こうしたルネサンス絵画とそれに続く美術史に、われわれ東洋は振り回される必要はないのではないだろうか。しかし、強固に論理が組み立てられているこの世界にわれわれが対峙することは簡単ではない。

 ユクは、哲学の立場からみた芸術の意味を新たに更新しようとするのであるから、当然旧来の「芸術」についても言及している。こうした西欧で生まれた「芸術」の意味をおさらいする上でも、目を開かされるものがあり、読み応えがある。特に「悲劇」という概念をめぐる議論として始まる部分はとても重要で、これは主に序論で展開されるのだが、当初英語で読んだ時には歯が立たなかった。それは英語であるという壁に加えて、哲学の体系に詳しくないこと、さらに西欧文化のコアの話という三重苦ゆえである。今回出版された翻訳を読むことでやっと腑に落ちたというのが現実だ。

 ともかくユクは『芸術と宇宙技芸』を、多少唐突なのだが、「中国になぜ悲劇がないのか?」というアメリカの詩人バリー・シュワブスキーの問いかけからはじめている。悲劇がなんであるのかを知る以前に、なぜ中国に悲劇がないのかという問いかけにも「?」が立ってしまう自分がいるわけだが、まさに彼が同書で攻めようとしている問題がピンポイントで示されているのだ。単純な図式で書くと、悲劇からスタートしていない文化的世界があるとは思えないという立ち位置のシュワブスキーが、なぜ中国では悲劇が生まれなかったのかを憶測する事態に対して、ユクは悲劇による問題解決以外の方法を中国文化が取ってきたことを示し、残りのページを割いて、その深みへと降りていく。

 悲劇が問題の解消方法だとして、そもそもその問題とはなんだろうか?[……](『ゲンロン17』に続く)

好評発売中の『ゲンロン17』では、本記事の続きのほか、冒頭には東浩紀の最新論考「平和について」をはじめとする旧ユーゴ圏への取材をもとにした記事を計4本収録。ボスニア戦争に従軍した作家へのインタビュー等を通して、現在の戦争を考えるヒントを探ります。さらに暦本純一さん、清水亮さん、落合陽一さんによる座談会、『世界は五反田から始まった』の星野博美さんによるエッセイなどを掲載。戦争、AI、万博、絵本、チベット映画、左翼運動、アフリカ哲学ほか、多彩なテーマから社会を考えます。
 
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URL=https://webgenron.com/articles/news20241007_01

藤幡正樹

1956年生。メディアアーティスト。東京藝術大学名誉教授。1996年に作品《グローバル・インテリア・プロジェクト #2》でアルス・エレクトロニカのゴールデン・ニカ賞を受賞。著書に『アートとコンピュータ』(慶應義塾大学出版会)、『不完全な現実』(NTT出版)など。
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