園芸とは超越の飼い慣らしである(抜粋)──『ゲンロン15』より|川原伸晃
好評発売中の『ゲンロン15』より、園芸家・川原伸晃さんの論考の一部を公開いたします。植物は人間の生を凌駕した「超越的生命」であると考える川原さん。そうした考察から、人と植物との新たな関係性を探ります。
『ゲンロン15』特設ページ:https://webgenron.com/articles/genron15
20世紀初頭に活躍したチェコの作家カレル・チャペックはSF文学『ロボット』などで有名だが、実は園芸業界からも多大なリスペクトを集めている。それはチャペックがライフワークとしていた園芸の日常を綴った1冊『園芸家の一年』の存在による。同書は多くの園芸家が抱く喜怒哀楽のすべてが軽妙洒脱に描かれた園芸エッセイの不朽の名作だ。出版から約1世紀が経つが、今もなお多くの園芸家から「聖典」として親しまれている。園芸では腰を曲げて行う中腰作業が多く、背中の痛みが作業の大きな障害になる。あまりに園芸を愛しているチャペックは「なんのために園芸家には背中があるのか」「なぜ園芸家は無脊椎動物に進化しなかったのか」というようなことを冗談交じりに述べている。園芸という営みは、「ロボット」という言葉を世に広め、約1世紀前にAI(人工知能)の到来を予測していた稀代のヴィジョナリーをも「骨抜き」にしていたようだ。
「園芸」という言葉を耳にしても、忙しい現代人は自分には関係がないと興味を閉ざしてしまうのではないか。時間にゆとりのある心の優しい人々が楽しむ牧歌的で平和な趣味──そんなイメージが先行するからだろうか。もちろんそのような一面もあるだろう。しかし本当の「園芸」はとても知的な営みで、人間社会を考える上での示唆に富んでいる。それは多くの現代人が興味を持つに値する文化なのだ。「culture」(文化)の語源が、ラテン語の「cultura」(栽培)であるように。
このエッセイでは、まず園芸家として日々商売を営むぼく自身の活動を紹介する。そして植物との関わりのなかで常々感じる「超越としての植物」に言及する。さらに園芸を「超越の飼い慣らし」と定義することで、人間がより良く生きるための植物との新しい関係の在り方を考えてみたい。
「プランツケア」の哲学
そもそも「園芸」とはなにか。最初に簡単に説明しておこう。
人間が栽培する植物はまず「農作物」と「園芸作物」に大別される。「農作物」は、米や麦などの主食になる植物がその大半を占め、飼料用や工業用の作物が脇を固める。そして「園芸作物」は、野菜・果樹・花卉の3つだ。花卉とは花や草木のことで、ぼくの専門は「花卉園芸」になる。花卉園芸(以下、園芸)は、ガーデニングからいけばなや盆栽まで、観賞を目的とした人間の植物との営み全般をさす。切花を花瓶に生けるのも鉢植えに水遣りをするのもすべて園芸だ。
ぼくは1919年創業の園芸店の4代目として生まれ育った。いけばなからガーデニングまで園芸全般のスキルを持ち、園芸家でありながら華道家やフラワーデザイナーとしても活動している。近年、特に意欲的に取り組んでいる対象のひとつが「観葉植物」だ。ぼくは2005年に観葉植物専門店「REN」をオープンした。このエッセイでも議論の中心となるのは「観葉植物」である。無数にある観賞用の植物のなかから、観葉植物に絞って専門店を作ったことには理由がある。それは観葉植物が人間の暮らしに最適化した、最も普遍的な植物だからだ。暑すぎもせず寒すぎもしない亜熱帯性の気候で自生する観葉植物[★1]は、一般家庭の室内で誰もが手軽に育てることが可能である。そして本来の生命力を発揮できるならば、ほとんどの観葉植物に決まった寿命はない。
観葉植物本来の持続可能性を引き出すために、2018年にRENが始めたサービスがある。それが、業界初の観葉植物ケアサービス「プランツケア」である。健康診断・出張・植え替え・一時預かり・引っ越し・下取り・再生・リサイクルなど、人間が植物を安心して育てるためのあらゆるサービスを手掛けているのだ。なんとなく植物を買ってはみたものの、変化や不調にどう対応したらいいのか分からない。そんな悩みを抱える人々に向けたものである。プランツケアは、他店で購入した植物にも対応している。
実はこれまでの園芸店には、観葉植物のアフターケアという考え方は存在していなかった。庭園であればケアのプロである庭師がいる。ではなぜ観葉植物には今までケアサービスがなかったのだろうか? それは、多くの園芸店が「植物を売るプロ」ではあっても、「植物をケアするプロ」ではなかったからだ。これはペット業界で例えるならば、ペットショップがあるのにペットクリニックがないというような異常な状況だ。救えたはずの命は数知れず。ぼくはこの歪な慣習へのカウンターとして「プランツケア」を始めた。正しくケアをすれば、観葉植物は人間よりも長く生きるのだ。
「プランツケア」という命名に至るには10年以上の歳月を要した。植物購入後のアフターサービスそれ自体は、2005年のREN開業と同時に開始している。売りっ放しを前提とする園芸業界に反旗を翻し、植物の永年サポート保証に取り組んだ。そして購入者の様々な悩みに応えているうちに、だんだん健康診断・出張・植え替え・一時預かり・引っ越しなどのサービスが誕生していった。しかしこのときにはまだ、これらの「植物ケアのサービス群」に名前はなかった。
リーマンショックから3.11を経て日本社会の見通しが急速に悪くなる一方、多くの人々が自然回帰を求めるようになった。そのなかで植物にも注目が集まるようになった。「ロハス」や「サステナブル」のブームに後押しされるように、植物ケアが社会現象になっていく兆しがあった。そしてぼくは、この「植物ケアのサービス群」に名前を付けることで、期待の受け皿としてより有効に機能するのではないかと考えるようになった。命名に悩み、参考になりそうな本を読み漁るぼくの心を捕らえたのはこの一節だった。
「ケアが世界に意味をあたえる」
これは哲学者の広井良典の言葉だ。広井は『ケアを問いなおす』(ちくま新書)のなかで、ハイデガーの『存在と時間』を引用してこう述べている。「ハイデガーによれば、人間が生きる世界を世界たらしめるものが、『気遣い』」である。「客観的な『世界』がまずあって『気遣い』があるのでなく、『気遣い』によってこそ世界は価値を与えられ『意味』をもったまとまりとして立ち現れる」。そしてこの「気遣い」は英語にすれば「care」(ケア)となるため、「ハイデガーは『ケアが世界に意味をあたえる』、『世界を世界たらしめるのは、ケアである』と言っている」というのだ[★2]。
ぼくはこの言葉の強度に一撃KOされた。観葉植物には人間によるケアが欠かせない。そして、人間が観葉植物をケアすることによって、人間が生きる世界に意味が与えられる。ぼくたちのサービスを名付けるのに、「プランツケア」以外の選択肢があり得るだろうか。こうして、2018年に正式に命名して今に至る。
超越としての植物
ぼくは、植物が人間の生を凌駕した「超越的生命」であると考えている。園芸の家系に生まれ育ち、植物のケアと向き合い続けた職業人生は20年を超えた。「人間が植物に生かされている」と感じた経験は幼い頃から枚挙にいとまがない。こんなことを真顔でいえば、一昔前なら「変わった人」枠に収められていたことだろう。しかし近年になってようやく時代が追いついた。喜ばしいことに、「人間が植物に生かされている」という主張を擁護する声は、今では少なくないようだ。(『ゲンロン15』へ続く)
★1 実は観葉植物には明確な定義はなく、ぼくは「亜熱帯性植物」と定義している。熱帯性植物や多肉植物や着生植物が含まれる場合もある。
★2 広井良典『ケアを問いなおす──「深層の時間」と高齢化社会』、ちくま新書、1997年、31-32頁。
川原伸晃