異世界転生とマルチバースと未来のコンテンツ(抜粋)──『ゲンロン15』より|三宅陽一郎
1 はじめに
エンターテインメントに人々が何を求めるかには、時勢や一個人の状態が反映される。なぜなら、どうしても使い続けなければならない日用品と違って、エンターテインメントは嗜好品であって、我慢する必要がないからである。観たくなければ観なくても良い。途中で切り上げてもいいし、それについて気にする必要もない。そうであるから、ある一つの時代のエンターテインメントが特定の方向に舵が切られるということには、それに相応する強い背景があるはずである。本稿のねらいは日本における「異世界転生もの」と米国における「マルチバース」のブームの背景にある状況と作品の関係を探求するところにある。
たとえば『竹取物語』(平安時代、作者不詳)は月世界という異世界の御子が現生に転生する物語であった。物語の最後、「月の顔見るは、忌むこと」と言われつつ、月の光を浴びて次第に自分の過去を思い出し、かぐや姫は異世界へ帰っていく。しかし現代の「異世界転生もの」は、過去の記憶を持つわけでもなく、現生を捨てつつ、その記憶を持ちながらも異世界へ生まれ変わろうとする。
一方で、「マルチバース」は現生へ留まりつつ、細分化されたちぐはぐな世界たちの矛盾を一つの作品に内包しようとする。異世界転生は現生からの消滅と引き換えに異世界へ転生するが、一つの物語で転生は一度であり異世界も一つである。しかしマルチバースでは一つの物語の中に複数の宇宙が存在し、それらを行き来することで物語が展開する[図1]。
異世界転生ものとマルチバースにはどのような性質があり、何を反映しているのか。同時代に出現した二つの頂を見上げつつ、時代の根底にあるもの、多くの人々の心の諸相を考えてみたい。
2 「異世界転生もの」と「異世界冒険もの」の定義
この数年、日本では「異世界転生もの」と呼ばれるジャンルが台頭している。異世界転生ものは小説を原作とし、コミック、アニメとマルチメディア展開されるのが王道であるが、異世界転生ものの原作小説はこれまでに累計2000作以上が出版されている。異世界転生ものは2010-12年頃から始まり、2015年までに急増した。2017年から19年には年間200作品を大きく上回るまでになる。2020年の314作品をピークとして徐々に減少しつつあるが、それでも200作品を超えている[図2]。2023年(本年)は200作品前後であると予想される(2023年5月までで101作)。
異世界転生ものを特徴付けるのは、以下の四つである。
1.主人公が現実世界の生を終えて異世界に転生する
2.異世界は中世ヨーロッパ風のファンタジー世界である
3.現生における存在は消滅する
4.記憶と意識は継続する
ここから様々なバリエーションが生まれる。ただ異世界に行くということだけであれば、1980年代からアニメでは『聖戦士ダンバイン』(1983)、『天空戦記シュラト』(1989)、『魔神英雄伝ワタル』(1988-89)、小説では『黄金拍車』(1988)、コミックでは『源氏』(1988)などがあり、90年代には『魔法騎士レイアース』(1993)や『ふしぎ遊戯』(1992)がコミックからアニメ化(1994、95)され、『十二国記』(1992)が小説からアニメ化(2002)され、またアニメでは『天空のエスカフローネ』(1996)があった。また2000年代には『ゼロの使い魔』(2004)のように主人公がそのまま異世界へ召喚されるものもある。これらの作品群に共通するのは転生ではなく、現生の姿のままで異世界に行く、そして帰って来る、ということである。この時代の想定される読者・視聴者は10-20代であり、異世界への冒険はヒロイズムの一種であった。この頃は現実逃避かヒロイズムかで言えば、ヒロイズムの比重の方が高かった。だから、異世界で主人公はヒーローでありヒロインだった。
それは典型的な「行きて帰りし物語」の変奏曲の一つである。ここではこの物語の型を「異世界冒険もの」と呼ぶことにする。たとえば『神曲』(1304頃)、『ファウスト』(1808、1833)、『不思議の国のアリス』(1865)、『ナルニア国物語』(1950)、『トムは真夜中の庭で』(1958)もこれに属する[表1]。
「異世界冒険もの」と「異世界転生もの」の間に存在する作品群がある。それは異世界と現実がつながった世界観のもとに作られる作品群である。『ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』(2006)には、現生と異世界をつなぐゲートが存在しており、両方を行き来することができる。『DOG DAYS』(2011)は異世界へ行くが現生へ帰って来る物語である。『アウトブレイク・カンパニー』(2011)は現生とつながった異世界に行って「オタク文化を紹介する仕事」をするという内容である。だが時代は、この現実の方をそぎ落としていくのである。異世界転生ものに隣接する分野として、オンラインゲームを舞台にする小説があり、『ソードアート・オンライン』(2009)や『痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。』(2017)など多数存在する。これらは現生における生活が普通に継続しているが、ゲーム世界に没入できるVRMMO(仮想現実大規模多人数同時参加型オンラインゲーム)世界での冒険を描く物語である。
しかし現代の異世界転生ものでは、最初に現生における存在が消滅し、然る後に異世界で転生を果たす。別の存在として誕生する場合もあれば、現生の姿のままで転生する場合もある。多くの場合、記憶と意識は現生から異世界へと持続している。異世界転生ものを特徴付けるこの現生における存在の消滅は、二つの意味を持っている。一つ目は「現生の否定」である。つまり、行き詰まりや生きにくさを感じている現生を否定する、或いは放棄することが表現されている。それはすなわち、「現生に対してリセットボタンを押す」ことである。これはシリアスに描かれる場合もあれば、『この素晴らしい世界に祝福を!』(2013)や『異世界はスマートフォンとともに。』(2015)のようにコミカルに描かれる場合もある。二つ目は「新しい世界の希求」である。異世界は「やり直し」の世界であり、主人公は人生を一度リセットして新しい世界へログインするのだ。
3 転生に伴う能力の獲得
「異世界冒険もの」には、自分が生きている世界から逸脱して異世界へ行き、様々なことを経験して帰って来る(別な場所に着地する場合もある)、そして自分の生に新しい意味を見出す、という典型がある(もちろん例外はある)。「異世界転生もの」では、現生から消滅するため帰って来ない場合がほとんどである(『異世界おじさん』(2018)は異世界から帰ってきたところから始まり回想によって語られることが逆に新鮮であった)。この「行ったきりの物語」が物語として成立するのが異世界転生ものの新しいところであり、探求すべきところである。たとえば『Re: ゼロから始める異世界生活』(2014)では主人公が異世界に召喚されるが、その代償に「死に戻り」という自分が死んだ場合のみ時間を巻き戻すことができる能力を付与される。この能力によって主人公は度重なるヒロインの危機を回避し救うことになる。しかし、それによって現生において何かが変化する、ということはない。ただ主人公の成長譚であるだけだ。
この「転生に伴う新しい能力・地位の獲得」或いは、「現生から持ち込んだ能力・知識・機器(スマートフォンなど)」によって、転生先で主人公が成功を収める、というのは転生ものの多くに見られる設定である[表2]。たとえば『無職転生』(2014)の主人公は現生ではあまりぱっとしないが、転生先では圧倒的な魔法の才能を以て活躍する。『ナイツ&マジック』(2013)ではサラリーマンとしての実務経験と能力によって異世界で出世する。『転生したらスライムだった件』(2014)では土木建築の知識を応用して異世界で街づくりをし、さらには国造りのリーダーシップをとる。またその戦闘能力で自分の街の危機を救う。或いは、異世界転生での「初期における労苦と研鑽」によって圧倒的な力を持ち、その力によって主人公が成功を収める、というパターンもある。たとえば『盾の勇者の成り上がり』(2013)、『ありふれた職業で世界最強』(2015)、『この勇者が俺TUEEEくせに慎重すぎる』(2017)などである。しかし、やはりそれは現生において何かが変化する、ということではない。ただ、先述のように、主人公の成長譚ではある。
この異世界転生もので見られる「行ったきりの世界」「行ったきりの世界における成功」は、多数の読者やアニメの場合なら視聴者に違和感なく受け入れられる。それが「異世界転生もの」の一つ目の謎である。異世界冒険ものであれば現生へ帰還する方法を模索するが、異世界転生ものではそんなことは微塵も考えない。異世界でうまくやっていくことで、大きな、或いは小さな幸せを見つけて生きていくのである。
4 転生先のゲーム的世界
多くの場合、転生先の世界はゲーム的世界である。作品はゲームのUI(ユーザーインターフェース)を持ち、主人公の体力や能力が数値化されて見える。また魔法の習得、アイテムの獲得も、作品内のシステムから主人公に対してメッセージで通知される設定となっている。このようなロールプレイングゲームの設定を下敷きにすることによって、転生先のファンタジー世界の設定の説明を著しく縮約し読者に納得させることができる。しかし、なぜ転生先がファンタジー・ロールプレイングゲームの世界なのか、についての説明はまったくないのが普通である。当初は、『イクシオン サーガDT』(2012)のように「ゲーム世界に入り込んでしまった」という前振りがあったが、次第にその説明は省略されていった。
ファンタジー・ロールプレイングゲームは現代ではコンシューマーゲーム機から携帯機まで広く遊ぶことができ、またそのフォーマットも優れた形式に最適化されている。その世界設定を取り込むことで、最小限の描写だけで読者の了解を得ることができ、また読者も最初からそのような分野であるという前提のもとに読んだり視聴したりするようになる。このような世界の多くは「ナーロッパ」と呼ばれることがある。これは「なろう系」(異世界転生ものの別称にあたるスラング)と「ヨーロッパ」を合わせた言葉だ。舞台は多くの場合、時代考証がされていない、作者のイメージにもとづく中世の欧州がモデルであり、史実的裏付けの上にあるものではなく、長年のファンタジーの描写の中から抽出された架空の世界である。そもそも中世とはいつぐらいの年代を指すかと言われて、正確に答えられる人は少ないだろう。「ナーロッパ」はその意味で「約束事としての共有設定」である。
たとえば「現実はクソゲー」という言葉がある。それは、現実における努力は必ずしも報われるものでもないし、また現実世界は不条理であり、現実社会は理不尽である、という意味である。一方ゲーム世界では「レベル」が設定され、モンスターを倒せば必ず経験値が貯まってレベルアップし、アイテムを取得し、魔法を習得できる。ミッションは街などで伝えられ、それを順番にこなしていくことで、より大きな物語の中で自らの役割を獲得する。異世界転生もので想定されるのはそのように整えられた世界であり、紆余曲折はあるものの、主人公やそのパーティは特殊な能力や幸運で大きな役割を果たしていくのである。
このようなファンタジー・ロールプレイングゲームの表層的な使い方は、異世界という未知の世界をコミカルに描き出す効果を持っている。しかし、ここが重要なところであるが、転生した主人公は必ずしもゲーム世界にいるわけではない。異世界にいるのであって、現生のゲームとは関係ない。しかし多数の読者や視聴者はすんなりとこの設定を受け入れることができる。これが異世界転生ものの二つ目の謎である。(『ゲンロン15』へ続く)
三宅陽一郎