村上春樹と「加害」の記憶──『ゲンロン10』より|東浩紀

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webゲンロン 2024年10月18日配信
以下に掲載するのは、2019年9月に刊行した『ゲンロン10』収録の東浩紀「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」より、村上春樹作品が論じられた箇所です。現在、期間限定で『ゲンロン10』をふくむ『ゲンロン』バックナンバーの電子書籍(Kindle)版半額セール中! ぜひお買い求めください。(編集部)
 
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 ぼくがここで取りあげるのは、村上春樹のもっとも成功した小説のひとつ、『ねじまき鳥クロニクル』である。村上は探偵小説の作家ではない。けれども、彼の小説はしばしば探偵小説に近い作風だと受けとられ、そのせいで商業的に成功もしてきたし、また批判もされてきた。

 『ねじまき鳥クロニクル』は、そんな村上がはじめて戦争の記憶を大きく扱った長編として知られている。同作は1994年から1995年にかけて、3冊に分けて出版された。それは終戦からちょうど半世紀後にあたる。

 村上の小説は一般に、展開やセリフが寓話的で、超自然的なできごともしばしば起こるため要約がむずかしい。『ねじまき鳥クロニクル』も例外ではないが、それでもあえて試みれば、この小説の表面的な──このただし書きの意味はすぐにわかる──物語は、とりあえずは、妻に逃げられた30代の主人公が、妻を探すなかで世界のさまざまな秘密に触れる話だと要約できる。

 小説の冒頭では、主人公は同世代の妻「クミコ」と平凡な結婚生活を送っている。ところがあたりで少しずつ奇妙な事件が起きはじめる。そして小説の三分の一が終わったところで、妻が突然失踪してしまう。理由を探るなかで、主人公は、彼女が兄「ノボル」と特殊な関係にあること(近親相姦に近いものが暗示されている)、その兄は特殊な(超自然的なものが暗示されている)力をもちいて政界に進出しようとしており、クミコはそんな彼の思惑に巻き込まれて「僕の側の世界から、綿谷ノボルの側の世界に移っ」てしまったのだということを知る[★1]。主人公はクミコを奪い返すため、ノボルに似た力をもつべつの人物、「ナツメグ」に近づいていく。そして最終的に、ノボルは主人公とクミコのある種の共同作業によって命を落とすことになり、主人公が法的に裁かれる彼女の帰還を待つ場面で小説は終わる。

 

 じつはぼくはハルビンに行くまえに、この小説を20年ぶりに読み返している。というのも、この長編には、いま要約したメインの物語とはべつに、戦中の満洲国を舞台にしたふたつの長いエピソードが含まれているからである。ひとつは、1939年に紛争が起こる前年のノモンハンを舞台にした物語で、もうひとつは、終戦直前の新京(長春)を舞台にした物語である。ともに戦争における悪や残酷さを主題にしており、前者では、ロシア人の命令のもとでモンゴル人が日本人諜報員の生皮を剥いで殺す場面が描かれ、後者では、若い日本兵が満洲国軍士官学校から脱走を図った中国人をバットで殴り殺す場面が描かれている。

 このふたつのエピソードとその後日談は、『ねじまき鳥クロニクル』のなかで、メインプロットから半ば独立した小説内小説になっている。さきほど紹介したように、本作の中心は主人公とクミコの物語で、その舞台は、刊行の10年ほどまえ、1980年代半ばの東京に設定されている。その物語といま紹介したふたつの物語がどのように因果的にかかわっているかは、作中でもあきらかになっていない。

 にもかかわらず、両者はなんらかのかたちでは関係している。そしてそのつながりの中心にあるのが、井戸のイメージである。

 ノモンハンの物語の語り手は、仲間が皮膚を剥がされ殺されたあと、同じロシア人によって荒野の井戸に落とされて放置される。だれも彼がそこにいるのを知らず、死は免れないと思われたが、神秘体験を経て奇跡的に救出される。他方でメインの物語の主人公は、枯れた井戸の近くに住んでいる。彼はしばしばそこに入って瞑想するのだが、そこで見た夢が主人公に特殊な力を与え、ナツメグとの協力関係を可能にする設定になっている。また新京の物語の語り手は、さきほども記したとおり、日本兵が中国人をバットで撲殺する場面を目撃している。他方で、メインの物語の主人公は、あるときバットを用いた襲撃事件に出会う。彼はそこで反撃して加害者のバットを奪いとり、その事件ののちはバットを抱えて井戸に入る。小説の最後では、逆にそのバットで自分のほうが加害者になり、ノボルを撲殺する夢を見る。そして目が覚めると、現実のノボルは脳溢血で倒れて意識不明になっており、クミコはその生命維持装置を止めて殺人を犯してしまうことになっている。

 ノモンハンの神秘体験と主人公の力、新京の撲殺と東京の襲撃、主人公の夢とノボルの死には、原因と結果のような明確な関係はない。けれども、小説ではなんらかの関係があるかのように描かれている。というよりも、村上はまさに、そのような関係を描くために小説という技法を用いている。村上は主人公につぎのように語らせている。「ものごとはまるで三次元のパズルのように複雑に入り組んでもつれている。そこでは真実が事実とは限らないし、事実が真実とは限らない」[★2]。『ねじまき鳥クロニクル』の井戸は、そのような「真実が事実とは限らないし、事実が真実とは限らない」関係を言語化する装置として導入されているのである。

 

 この構成は、村上が、現在と過去の関係について、あるいは歴史の語りかたや記憶のありかたについて、歴史家やジャーナリストとはかなり異なった考えをもっていることを示している。

 ここまでの紹介からわかるとおり、『ねじまき鳥クロニクル』の世界ははっきりとふたつにわかれている。一方に平和な現在の東京があり、他方に血塗られた過去の満洲がある。そしてこの作品は、後者の世界を導入したことで、村上が戦争の記憶にはじめて取り組んだものとして評価されている。

 けれども、村上はそこで戦争の記憶をけっして直接には描いていない。過去と現在、戦前と戦後はむろんつながっている。『ねじまき鳥クロニクル』の主題はたしかにその連続性にある。作中ではノボルがその連続性を象徴している。彼の残酷さや傲慢さは、ノモンハンと新京の凄惨な暴力を連想させる。

 にもかかわらず、その連続性を、事実にもとづいて、論理的な因果として、すなわち意味のある物語として再構成しようとすると、それは突然にむずかしくなる。それこそが主人公が直面した困難であり、村上がこの小説で主題的に描いている状況である。だから村上は彼を井戸へ送り込む。いいかえれば、夢と無意識の論理によって、つまりは文学の力によって、その連続性をべつのかたちで言語化しようと試みる。ぼくの考えでは、『ねじまき鳥クロニクル』のほんとうの重要性はむしろこちらにある。つまりは、この小説は、加害側が──加害者の文化の継承者と否応なくみなされてしまう位置にいる作家が──はじめて過去の悪へ遡ったから重要なのではない。そうではなく、加害側が過去の悪へと遡るのがいかにむずかしいか、そしてそのむずかしさのなかで文学になにができるのか、それを主題とした作品だからこそ、重要なのである。

 村上はこの小説を終戦から半世紀後に発表した。そしてその舞台を1980年代に設定した。森村誠一の『悪魔の飽食』は1981年に出版されている。1980年代は、かつての若い日本兵が還暦を迎え、ぽつぽつと真実を語り始めた時代だった。他方でそれはまた、帰国者の回想が急速に「なつかしき異国のふるさと」についての語りへと変わり、私小説化した時代でもあった。しばらくすると昭和天皇が死に、元号が変わり、日本人は本格的に加害の歴史を忘れ始める。1980年代、すなわち昭和最後の10年は、いま振り返れば、加害者が加害の記憶をどのように後世に伝えるか、ちょうど分水嶺になった時代だった。

 村上は、そのような時代を舞台にして、「事実とは限らない」「真実」を探る井戸の洞察=文学の力を訴えた。そのメッセージは、小説の刊行から四半世紀近くが経ったいまも変わらず重要であり続けているように、ぼくには思われる。

 

 そして、この重要性は、村上が『ねじまき鳥クロニクル』の刊行のとき日本でどのような作家だとみなされていたかを思い起こすと、本論にとってますます大きなものとなってくる。

 いまでは村上は、日本を代表する文学者として不動の評価を得ている。けれども『ねじまき鳥クロニクル』の刊行のころはそうではなかった。当時の彼はむしろ、ポストモダンな消費社会にどっぷりと浸かった、さきほどまでの言葉でいえば「大量生」の時代を代表する、いささか軽薄なベストセラー作家だとみなされていた。じっさいに少なからぬ批評家が彼の作風を批判していた。

 なかでもとくに影響力が大きく、本論との関係で見逃せないのは、柄谷行人が1989年に発表した「村上春樹の『風景』」である。[……](『ゲンロン10』に続く)

 


★1 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』、新潮社、1995年、440頁。引用にあたり強調を削除した。
★2 同書、334頁。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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