レーニン、収容所、ポストモダニズム──ロシア現代思想概観|オレグ・アロンソン+エレーナ・ペトロフスカヤ 聞き手=東浩紀 訳=上田洋子

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初出:2018年05月25日刊行『ゲンロン8』

 2017年12月、モスクワを訪れた。同地のロシア国立現代美術センターで開催されたシンポジウム「時代と意味──トラウマ、記憶、忘却、知識 Время и смыслы. Травма, память, забвение, знание」に参加するためである。このシンポジウムは、2015年から18年にかけて、同地で複数の美術館を会場に続けられている「人間の条件」プロジェクトの一部をなすもので、今回も同時に美術展「幽霊屋敷 Дом с привидениями」が開催されていた。幽霊や慰霊のテーマは、本誌と重なりあうものがある。
 モスクワ訪問は美術評論家のエレーナ・ペトロフスカヤの招きで実現した。本誌は『ゲンロン5』で共同討議「ユートピアと弁証法」を訳出している。ペトロフスカヤはその参加者で、また同討議のロシア語版を掲載した思想誌『青いソファ Синий диван』の編集長でもある。前出シンポジウムのコーディネーターを、彼女が務めていたのだ。
 ここに掲載するのは、そのペトロフスカヤと、同じく「ユートピアと弁証法」の参加者で、彼女とともに『青いソファ』誌を支えてきた思想家のオレグ・アロンソンにモスクワで行ったインタビューの記録である。彼らはヴァレリー・ポドロガら「余白の哲学」派の弟子の世代にあたる。その彼らの目に、いまのロシアの思想状況はどう見えているのか。短い時間ながらも、議論は最後、思弁的実在論やソルジェニーツィンの収容所文学にまで広がった。『ゲンロン6』『7』のロシア現代思想特集の補遺として、ぜひお読みいただきたい。(東浩紀)
東浩紀 『ゲンロン』ロシア現代思想特集の編集をするなかで、『青いソファ』という変わった名前の思想誌があることを知り、興味を抱きました。哲学者みずから編集し、毎号特集を組んでていねいに作っている点で、『ゲンロン』とスタンスが近い。今日はおふたりに話をうかがえるとのことで、たいへん光栄です。

 まずはなぜ『青いソファ』という名前なのか。その理由からうかがえますか。

エレーナ・ペトロフスカヤ いちおう画家のイリヤ・カバコフの作品にちなんでいるんです。とはいえ、ほんとうは偶然です。

 2002年に雑誌を創刊したときにはスポンサーがいました。通信社REGNUMを立ち上げたモデスト・コレロフという人物です。このひとがやや口出しをしてくるタイプで、新雑誌にはこれまで存在したどの雑誌とも重ならない名前をつけるようにと言われてしまった。『別のしかたで По-другому』などいろいろ考えたんですが、なかなか納得してもらえません。そんなとき、モスクワのある図書館で、調べ物をしながらソ連美術に関する本をめくっていて、イリヤ・カバコフの作品に「青いソファはどこ?」という言葉があるのを見つけました★1。もうこれでいいやと思い、コレロフに伝えたところ了承を得てしまった。これが由来です。もちろん、「これでほんとうにいいの?」と尋ねられはしましたけど(笑)。

 笑い話のようですが、意味については創刊されてから考え始めました。そして、ゲーテの『西東の長椅子 West-östlicher Divan』〔邦訳は『西東詩集』〕を思い出した。ソファを表すロシア語の диван 、ドイツ語の Divan はともにトルコ語由来です。ソファは東洋からヨーロッパに伝わった。まさに東西を結ぶものです。意味はあとづけですが、この雑誌名にしてよかったと思っています。

 どのていどの頻度で刊行しているのですか。

ペトロフスカヤ 創刊当初は年2回刊で、外国語の論考を原語で掲載したりもしていました。ただ、そうした贅沢はのちにむずかしくなったので、いまは言語はロシア語のみ、刊行頻度は年1回に落ち着いています。ロシア語で「アリマナフ альманах」と呼ぶ刊行形態です。

 この雑誌では、できるかぎり論理的な観点を提示することを心がけつつ、アクチュアルな問題も論じるようにしています。たとえそれが論じるには時間的に近すぎるとしても、やはりいまの出来事を対象に考えていきたい。たとえば2014年にはウクライナの事件を特集した号を出しました★2。クリミアや東部戦線が問題になっている最中に準備をし、刊行しています。2013年末に起こったキエフのマイダン運動に焦点を当て、ロシア、ウクライナ、アメリカの書き手に寄稿してもらいました。

ポストモダニズムとクトン的なもの


 いま、ロシアではどのような哲学者や哲学的問題に関心が寄せられているのでしょうか。

オレグ・アロンソン マスメディアにおいては、プラトン、カント、スピノザ、ヘーゲルといったヨーロッパ哲学の古典的な名前が「哲学」の同意語として扱われ、叡智の象徴とされています。ロシアの哲学者でこのようなメディア的人気に到達したひとはいません。唯一の例外はメラブ・ママルダシヴィリ★3でしょうか。あとはプーチン大統領が言及した、ニコライ・ベルジャーエフとイワン・イリイン★4

ペトロフスカヤ ベルジャーエフとイリインは、いまロシアでは下院議員のだれもが読んでいますね。

アロンソン 専門家のあいだではどうかというと、九割がたはマスメディアの風潮と変わりません。しかし、ごく少数、独立したひとたちがいる。重要な議論はそのひとたちのあいだで行われています。いわゆる「ポストモダニズム」もそのひとつです。ぼくたちはこの呼び名に抵抗があるのですけどね。

ペトロフスカヤ マスメディアでは、「ポストモダニズム」という言葉には極端に否定的な意味合いが負わされているんです。あらゆる悪いもの、失敗したものの代名詞とされています。

 日本も同じです。

アロンソン たとえば、なぜこんなに暮らし向きが悪いのかと問われた政治家が、すべてはポストモダニズムのせいだと答えたりする。

 それはすごい。
アロンソン 一方にはポストモダニズムは詐欺みたいなものだと考えているひとたちがいて、他方には、それがポストモダニズムか否かにかかわらず、哲学に現代社会の要請への応答を見ているひとたちがいる。どちらの陣営にも好感の持てるひとがいますが、両者は仲良くできない。

 ポストモダニズムの陣営の哲学者で、いまロシアで最も参照されているのはだれですか。

アロンソン ヨーロッパの哲学者だと、堕落と腐敗の象徴として名前が挙がるのがデリダです(笑)。ときにドゥルーズが同格としてそこに並びます。他方、フーコーはほとんど体制に組み込まれている。

 フーコーもラカンもデリダも多くの著作が翻訳されています。それらの翻訳は読まれているし、フーコーは教員の必読書に入っている。しかし、フーコーとロシアの標準的教員では思想的基盤があまりにもかけ離れているので、自己流の解釈が生まれます。その結果、ロシアでフーコーは過激さを失ってしまった。他方でデリダについては、黒いものを白い、白いものを黒いと呼んだひとといった、たいへんプリミティヴな解釈がなされている。よくても「ハイデガーの後継者」ていどの認識でしょうか。

ペトロフスカヤ モスクワ大学哲学科★5で教えられているデリダの思想は、カルチュラル・スタディーズ的な側面が強調されているようですね。

アロンソン せっかく授業でドゥルーズとガタリの哲学、たとえばスキゾ分析★6を学ぶ機会を得ても、そこで同時に否定的な考えを植えつけられてしまうわけです。ぼくはある会議で、「デリダはバカだ」というフレーズから始まる講演に遭遇したことすらあります。

 それは悲しいことですね。アガンベン、バディウ、ランシエールら、いまも生きて活躍している哲学者たちはどうでしょう。

ペトロフスカヤ ランシエールはロシアでも人気です。引用されることも多い。バディウはロシア人にはむずかしいようですが、知的な若い読者のあいだではかなり読まれています。アガンベンは別格ですね。彼は文筆家としてすぐれているのでファンも多い。まもなく新しい翻訳も出ます。『残りの時』(2000年、邦訳2005年)です。

アロンソン アガンベンは、現代のどの哲学者よりも人気があるかもしれません。彼には、複雑な哲学的問題を一般読者に届ける力がある。ときに意味を犠牲にしても、シンプルかつわかりやすく説いていく。これは悪いことではない。この意味でアガンベンは新しいメディア的哲学者なのかもしれません。ジジェク系ですね。とはいえ、いちばん人気はやはりジジェクかもしれない。

オレグ・アロンソン(左)、エレーナ・ペトロフスカヤ(右)


 ジジェクはスラヴ圏の出身ですが、彼のスタイルはとてもグローバルです。ぼくのような日本人にはジジェクにスラヴ的なものは感じられないのですが、おふたりから見るといかがですか。彼の哲学にはスラヴ的なものがあるのでしょうか。

アロンソン まずは訛りだね(笑)。

ペトロフスカヤ 「スラヴ的なもの」を論じることには意味がないと思います。わたし自身、スラヴ的なものなど感じなくなっている。むしろ「クトン的」〔хтоническое 大地を意味するギリシア語の χθών に由来〕な力について考えるべきです。英語にも chthonic という語がありますが、これは大地に由来するもの、大地の力に縛られているもののことです。

アロンソン 理性にも哲学的内省にも還元できないもののことですね。

ペトロフスカヤ 哲学では言語と理解は一致すると仮定されています。けれどクトン的なものはそのような言語に翻訳できない。だからクトン的なものは専門的な会話に適さない。要するに、問題なのはスラヴ的な特殊性やその有無ではなく、ひとを独自の恣意的な論理の枠から出られなくするある情動的な力なのです。

 ジジェクにこうした問題はありませんが、ロシアの思想家にはこのタイプのひとが多い。さきほど例に挙がったデリダの糾弾者などがそうです。この闇の力のようなものは、けっしてスラヴ的なものではなく、いわばアール・ブリュット的ななまのもの、まだ思想として練られていないものです。
アロンソン ジジェクにもクトン的なものを見ることができます。ただ、それはテクストではなく、彼の哲学的なふるまいかたにあらわれている。ジジェクはアカデミックな哲学には属していない空間を攻略しています。しかもそれを意識的かつ過激に行っている。だからこそ、ヘーゲルの3つの公式、フロイトの3つの公式、ラカンの3つの公式といったように、哲学の問題設定を意図的に狭めることができる。そのことで、これらの公式が一般大衆にも理解できるものになる。そしてときにはスタジアムが満員になるくらいの聴衆を集める。

 クトン的なものはときにきわめて生産的でありえます。たとえばドストエフスキーですが、彼にはロシア人の「全世界的共鳴 всемирная отзывчивость」という概念がある★7。これはデリダの「完全な歓待」にあたるもので、ドストエフスキーはそれをスラヴ派の用語で語っている。彼に言わせれば、ロシア人は最もすぐれている、なぜならほかのあらゆる民族に対して最大限の歓待を示すからです。ロシア人はほかの民族がやり遂げられなかったことを引き受け、彼らの代わりに計画をまっとうする能力を持つ。ドストエフスキーの考えでは、『ドン・キホーテ』が完全にスペイン的なものになるにはロシア語に翻訳されねばならなかった。ロシア人こそがそこに最終的な意味を付与できるからです★8

 このような過剰な信念がクトン的なものです。こうした過剰さはあらゆる民族が持っているはずですが──でも実際にはロシア人にばかり見られますね(笑)。

分析哲学と思弁的実在論


 思想の輸入状況についてお尋ねします。ロシア思想界ではどの言語の影響が強いですか。

アロンソン 市場で人気のあるものはふたつで、ひとつはアングロサクソン系の分析哲学、もうひとつは現代フランス哲学です。フランス哲学はデリダ、リオタール、ドゥルーズ、フーコー、ラカンと多くの翻訳が出版されています。

 分析哲学の影響はどのくらい強いですか。また、分析哲学派とポストモダニストの交流はありますか。たとえば、アメリカには分析美学があります。日本ではいま、ラトゥールやランシエールらの影響が強くありつつも、美術批評の若い世代は分析美学に惹かれ始めています。

ペトロフスカヤ 同じ状況です。わたしたちは分析哲学系とはとくに交流がないのですが、モスクワ大学では最近若いひとたちのグループが新しい雑誌を創刊しました。『ナツメのコンポート Финиковый компот』★9という、たいへん変わった名前の雑誌です。



アロンソン 『青いソファ』も顔負けのネーミングだよね(笑)。



ペトロフスカヤ 彼らはSNSを通じてかなり知名度を上げています。『ナツメのコンポート』はいまや人気雑誌と言ってもいいくらいです。この例からもわかるように、若い世代で分析哲学が人気という状況はロシアも同様です。ただ、その理由としては、フランス哲学が、たくさん翻訳されたわりにはあまり理解されていないことがあるかもしれません。

アロンソン いや、それよりも受容の文脈の問題じゃないかな。フランスの哲学は、ざっくり言えば自由の哲学です。抑制のない、過激さの哲学ですね。そうした哲学は、ソ連崩壊後の1990年代にはまさにぴったりだった。他方、分析哲学は官僚主義の哲学です。いま分析哲学が人気なのは、それが、「正しさ」、つまり科学的正確さや礼儀正しさなど、こんにちの官僚主義的価値観と合致しているからだと思います。

 日本でも通じる状況分析です。メイヤスーらの思弁的実在論はどうですか。
ペトロフスカヤ ロシアにも思弁的実在論が大好きなひとがいます。たとえばアンドレイ・ロージン★10という哲学者はメイヤスーの紹介者のひとりで、個人的にもメイヤスーと知り合いです。

アロンソン メイヤスーはウラルのペルミ市に来たことがあります。

ペトロフスカヤ 『青いソファ』でも、思弁的実在論の哲学者、フランソワ・ラリュエルを特集した「非哲学」号を出しています★11。わたしたちはセリジーで開催されたラリュエルのコロック★12にも参加しました。ラリュエル自身、わたしたちが所属する科学アカデミー哲学研究所の同僚、リュドミーラ・ゴゴチシヴィリと親交があって、いちどモスクワに来たことがあります。ゴゴチシヴィリはアレクセイ・ローセフの最後の秘書で、彼の賛名論 имеславие を継承している★13。とても才能のある人物です。『青いソファ』の特集では、ラリュエルとロシアにおける彼の哲学の解釈者との関係に焦点を当てました。

 このほかにも思いがけない不思議な交点があります。そのひとりにセルゲイ・ホルージー★14がいます。彼はラリュエルの紹介者であるとともにジョイスの翻訳者でもあり、しかも、シナジー人類学という、秘儀的な、まさにクトン的なことをやっているひとです。

アロンソン ぼくたちがメイヤスーではなくラリュエルを選んだのは偶然ではありません。メイヤスーの哲学は、内在性の哲学 имманентная философия から過激さを奪っている。しかしラリュエルは過激さを保ち続けています。メイヤスーは独自の弁証法の導入に思弁的実在論の可能性を見ている。彼は人気があるけれども、ぼくはカントをドゥルーズに接ぎ木するのは無理があると考えています。いまふたたびカントに帰っても実りはないでしょう。

 メイヤスーの哲学はあまりに思弁的で、論理としてはおもしろいけれども、政治的、社会的な含意がほとんどないように見えます。

アロンソン そのとおりです。メイヤスーは政治的な行動について思考するよりも、人間が存在しはじめるまえの世界のことを喜んで思考する。彼の哲学は条件については語っても、それが生み出したものについてはなにも語っていないし、マテリアルなものを伴っていません。まさに超越論です。

マルクス、レーニン、大衆文化


 ロシアの思想界で世代間の差異はどうなっていますか。

アロンソン さきほども述べたように、若い世代には分析哲学のほうを向いているひとたちが多くいます。ぼくたちはそことは接点がありません。彼らはさきほどぼくが官僚的と呼んだ読者層に属しているからで、ぼくたちはそれとは異なる読者層を相手にしているからです。

 ほかにアナーキスト的な若手もいます。彼らは別の哲学を志向している。マルクスやレーニン、それにフランスの左翼の哲学の読み替えをやっていますね。

ペトロフスカヤ じつは次号の『青いソファ』はレーニン特集です★15。こういう特集をロシアでやるのがむずかしいことは、察していただけると思います。そういうこともあり、この号には自信があります。メインとなっているのは行動の哲学です。いままさにロシアに足りていないものです。
 それは刺激的な特集ですね。レーニンやマルクスを読み直そうという若い世代は多いのですか。

ペトロフスカヤ 2010年代には、マルクスの『資本論』を新しく出版しなおそうという若手経済学者のグループが出てきました。新訳ではないけれど、あらたに注釈を加えた版です。その担い手は高等経済学院★16という新しい大学の20歳そこそこの学生たちでした。

 今回のレーニン特集にも若い書き手が参加しています。彼らはいわばレーニン抜きのレーニンに戻ろうとしています。レーニンのうえに積み重なっているもの、レーニン廟に象徴されるような、恐れ、批判、崇拝などは、われわれの世代にとっては地下資源のように蓄積している情動ですが、若い世代にとっては化石であり無効なものでしかないのです。

 彼らはレーニンのテクストそのものを読みなおそうとしているのですか?

ペトロフスカヤ そうです。驚いたことに、マルクスを読んだあとにレーニンを読み始める学生もいる。

アロンソン かつてソ連では、イデオロギー教育の一環として必ずマルクスとレーニンを読まされました。ぼくは大学では数学を専攻しましたが、やはりマルクスを読みました。むろん、マルクスやレーニンのイデオロギーに対して、ぼくたちは否定的な態度を取った。けれども、否定したり、笑いの対象にしたこととは別に、その一部はやはりぼくたちの世代の哲学的な基盤をなしています。

 そもそも当時はあらゆる西洋哲学が禁止されていて、高校で学ぶこと以上の知識を得るのは簡単ではなかった。だから、大学で教えられる凝縮されたマルクスの思想が、西洋哲学の合法的なガイドとして機能していた。ぼくたちはマルクスを通してヘーゲルを理解し、マルクスを通してスピノザを理解した。それはイリエンコフ★17のようなマルクス主義者のおかげです。マルクスは西洋哲学の伝統を理解するための条件でした。

ペトロフスカヤ とはいえ、それはアロンソンさんのような一部の専門家の話で、ふつうはマルクスのそんな深い受容はなかったですよ。

アロンソン 基本的には、あちこちで見かけるポスターのなかの髭のおじさん以上のものではなかった。

 『ゲンロン5』では『青いソファ』9号から「ユートピアと弁証法」の翻訳を掲載しました★18。そこでは、マルクスの解釈をめぐって西側とロシアのあいだですれちがいが起こっていました。いまならば、あのときの米露の知識人の出会いは少しちがったものになった可能性があると思われますか。

ペトロフスカヤ あの共同討議では、ヴァレリー・ポドロガが会話をリードしていました。彼はどちらかと言えばマルクス主義に否定的です。

アロンソン 重要な哲学者であるロシアのポドロガが、これまた重要な哲学者、アメリカのフレドリック・ジェイムソンと会う。あれは特殊な状況でした。彼らにはほとんど接点がありません。ポドロガは反弁証法主義者、ジェイムソンは弁証法主義者。ポドロガは現象学のひとで、しかもデリダへといたるタイプの現象学です。ポドロガはロシア文学に脱構築に近いような手術を施した。彼が最も大きな影響を受けたのはメルロ゠ポンティとロシア・フォルマリズムですが、ポドロガはロシアのデリダだと言っていい。ジェイムソンとはまったく文脈が異なります。

ペトロフスカヤ ポドロガは哲学の社会的な意味に対して懐疑的です。しかし、ジェイムソンはまさにそこに関心を持っている。

アロンソン ポドロガは大衆文化が嫌いですが、ジェイムソンは大好きですよね。ぼくたちはふたりともポドロガの弟子ですが、その点ではジェイムソンに近い。

『青いソファ』ウクライナ特集の19号(左)と、レーニン特集の22号(右)


 いまならば、ジェイムソンや彼と似たタイプの西側の哲学者とともに、ロシアでもマルクスの新しい解釈を生むことができるのでしょうか。

ペトロフスカヤ はい。可能だと思います。

 ポストモダニストはマルクス主義を高く評価していました。いまロシアで、ロシア革命やソ連崩壊の歴史を踏まえたうえでマルクス主義の再評価が出てきているのだとすれば、たいへん興味深いことです。

アロンソン とはいえ、新しいマルクス主義をめぐって交流を持つことは簡単ではありません。そもそもマルクスは19世紀の経済学者で、当時の社会を分析している。問題はマルクスのどこを扱い、どう読むかということではなく、彼が行った分析をいまほんとうに利用することができるかどうかにある。鍵となるのは、こんにちの経済、こんにちの社会の性質に照らしてマルクスのどこを「変える」かです。
 ところが「変える」というアプローチはたいへんむずかしいものです。マルクスが描いたプロレタリアートが、いまであればなにに相当するのかを考えることが、本来ならば重要です。マルクスが「資本」と呼んだものは、どこが基盤で、そのうえになにが打ち立てられているのか。

 マルクスの時代にはまったく発達していなかったけれども、いまは社会の基盤となっているもの、それは大衆文化です。マルクスと大衆文化は切っても切り離せない関係にある。大衆文化のイメージは、生産の問題として分析されなければならない。けれどもジェイムソンを別にすると、現代の大衆文化にマルクス主義の新しい解釈の可能性を見出そうと思考しているひとはごく少数です。

ペトロフスカヤ その流れがあまり展開されていないことについては賛成です。とはいえ、ギー・ドゥボールからジェイムソンを経て、いまも継承されていないわけではないと思いますよ。

 ボードリヤールはその流れに含まれますか? 消費社会についてはマルクーゼらフランクフルト学派でも論じられています。

ペトロフスカヤ そのとおりです。けれどもいま東さんが挙げた名前はすべて60年代に緊密に結びついている。ボードリヤールはいまも有効ですが、マルクーゼの理論は彼の時代に固有のものです。わたしは、もう少し若い世代として、「ユートピアと弁証法」にも参加していたアメリカのジョナサン・フラットリー★19を挙げておきたいと思います。彼はジェイムソンの弟子で、集団の情動を研究している。『青いソファ』のレーニン号にも「レーニンの情動理論」という論考を寄稿してもらっています。このようなジェイムソンの継承こそが、政治的な行動の哲学を可能にするはずなのです。

 共産党は大衆プロパガンダを活用しました。ロシア革命やアヴァンギャルド芸術を大衆文化やポピュリズムの源として考えることはできませんか。

アロンソン そのように言うことはできます。でも、大衆文化そのものはもう少し早く19世紀に始まっていた。ボリシェヴィキは、当時すでに存在していたけれどもまだ政治的なレベルに達していなかったものを利用したのです。

 大衆文化そのものは19世紀にさかのぼりますが、ボリシェヴィキとナチスドイツは、マスメディアを用いた大衆文化のコントロールという点では起源と言えると思います。そこで大衆はいちど管理される対象に押し込められますが、1970年代になると、コンピュータとインターネットが現れ、新しい大衆文化のスタイルが可能になります。そのような観点から、いまあらためてプロレタリアートの概念の読み直しなどができないでしょうか。

ペトロフスカヤ よい観点です。ソ連時代には、プロレタリアート自身の手で文化をつくるプロレトクリト運動★20なるものがありました。これは革命前から存在していました。

アロンソン 1910年代にゴーリキーとボグダーノフがこのアイデアを提唱し始めます。そして、スターリンに弾圧されるまで存在したのですね。

 プロレトクリトのような新しい理念はとても重要です。それによって哲学や芸術に対する人々の態度が変わったからです。プロレタリア芸術、あるいは大衆芸術はいかなるものであるべきかというのは、当時鍵となる問題でした。なによりもまず、それは質のよくないものでなければならなかった。良質な芸術は、必ずブルジョワ芸術になってしまうからです。

 なるほど。

ペトロフスカヤ よいものは貴族的になってしまうという論理があった。けれどもそこには、じつはプロレタリア芸術を作るひとこそアヴァンギャルドのアーティストだという逆説があったのですけどね。

アロンソン たしかにアヴァンギャルドの一部はプロレタリア芸術に関心を持っていた。けれども、彼ら自身はそれをやっていません。プロレタリア芸術の担い手は、基本的にははじめて民衆から芸術に参加したひとたちです。けれどもぼくたちは彼らを記憶していない。それは匿名の芸術だったからです。

記念碑は作り変えられる


アロンソン ところで、革命翌年の1918年に、レーニンはプロパガンダの一環として古い記念碑を新しいものと交換しはじめました。いわゆるモニュメント・プロパガンダです。1918年からの数年で、モスクワ、ペトログラード〔現サンクトペテルブルク〕、キエフをはじめ、主要都市に60以上の新しい銅像が建てられることになります★21。銘板などを含めると膨大な数になる。銅像のモデルはロシア人とはかぎりません。ロベスピエールやダントン、ゴーゴリ、サルティコフ゠シチェドリン……。これらの銅像はまったく残っていませんが、残された写真を見ると、どれだけひどい出来だったかがわかる。しかし、それこそがプロレタリア芸術なんです。つまり、時流に乗った芸術であり、政治的行動の芸術です。記念碑は、それが必要とされているあいだだけ存在すればいい。永遠のものではないのです。

 先日、ソ連の収容所を扱うグラーグ歴史博物館★22を訪れました。興味深いところもあったのですが、ラーゲリ、つまり収容所の記憶を博物館に収めるのはとてもむずかしいことなのだな、というのが正直な感想です。いまの若い世代、とくに哲学を学んでいるポストモダニストたちは、ソ連時代や収容所の記憶についてどのような議論をしているのでしょうか。

ペトロフスカヤ グラーグ歴史博物館にはわたしも違和感を持っています。あの博物館には、囚人たちがラーゲリで用いた日用品が、あたかも聖遺物であるかのように展示されている。観覧者はこの展示に対してどのような態度を取ればいいのでしょう。グラーグ歴史博物館では、それらを拝むことが求められている。しかし、それらは実際は人々の生き残りの痕跡です。苦しみの痕跡でもある。こうしたものを展示することで、歴史の記憶についての問題を解決できるとは思いません。

 そもそもグラーグ歴史博物館は国家の機関です。この博物館の建設と並行して、ロシア中の収容所で現実のバラックが破壊されたことを忘れてはなりません。囚人たちがまさにそこに暮らしていた現実の建物が、解体されたり、立ち入り禁止になったりした。博物館で展示されている囚人の手による手芸品よりも、そうしたバラックのほうが保存すべき対象であるはずなのに。ロシアは国家として、ソ連時代に対し、複雑で矛盾した態度を取っています。その態度には嘘も含まれます。

 若い世代は状況を理解していると思います。高等経済学院の「パブリック・ヒストリー」プロジェクト★23はその流れのなかで生まれました。パブリック・ヒストリーが主催する会議では、さまざまな立場のひとが招かれています。博物館の聖化された空間ではなく、そうした会議でこそ、ほんとうの記憶のイメージを形成することができると思います。

アロンソン 負の記憶に関しては、ペルミに「ペルミ36」という、現実のラーゲリが博物館として保存されている場所があります。ただ、この博物館は2012年に国立になったのですが、2016年にいちど閉鎖されたあと、最近、囚人ではなく収容所の職員の仕事を顕彰する博物館として再開館した。ありえない話です。

 ところでソ連のラーゲリの記憶に関しては、まさにポドロガが『以後の時代──アウシュヴィッツとグラーグ 完全な悪を思考する Время после. Освенцим и ГУЛАГ: мыслить абсолютное Зло』(2013年)という本を書いています。アドルノの「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」を踏まえたタイトルです。

 しかし、ポドロガのこの仕事には反論せざるをえない。ホロコーストの問題は、形而上学の限界を露呈させ、ヨーロッパ的思考の歴史に終焉をもたらすものです。だからこそ重要なのです。この問題に直面したリオタールは、そこではもはや善や悪が意味をなさなくなるような新しい言説の探求に向かいました。ところがポドロガは、グラーグの体験やホロコーストの体験を形而上学に転換しようとしている。ポドロガにとって、それは大文字の〈悪〉を再考する手段になってしまっています。
 アガンベンやデリダも、みなアウシュヴィッツについて議論をしています。彼らに影響を受けているなら、ホロコーストとグラーグの比較の議論は出てもおかしくない。そこはいかがですか。

ペトロフスカヤ ポドロガの『以後の時代』以外にも、つい最近、ポドロガの友人でもあるミハイル・ルイクリンの大著が刊行されました。『運命を負ったイカロス──家族史にみる〈赤い10月〉 Обреченный Икар. Красный Октябрь в семейной перспективе』(2017年)という、スターリン時代に弾圧された彼自身の家族についての本です。この本には両極端な反応が寄せられている。わたしはまだ読めていないのですが、ルイクリンがどのようにスターリン時代を物語り、それによっていまなにを言おうとしているのかが気になっています。

アロンソン グラーグのテーマが興味深いのは、それが思弁的な哲学を禁じるからです。内省はこのテーマにふさわしくない。

ペトロフスカヤ まさにリオタールですね。

アロンソン ここで最初の話題に戻りますが、ロシアでは、非内省的、脱主体的な哲学をめざしているひとはきわめて少ない。むしろだれもいない。そうしたテーマは哲学的でないとみなされている。哲学の対象とならないのです。

 じつはぼくの哲学者としてのキャリアは、ソルジェニーツィンに関する短いエッセイ★24から始まっています。そのころはまだ21歳で、若書きのラフな原稿でしたが、ぼくはそこでまさに、ラーゲリについての言説とアウシュヴィッツについての言説のあいだに存在している差異について語ろうとしました。たとえばデリダの言説は、アウシュヴィッツの持つある種の表象不可能性に終始している。それらはきわめて形而上学的です。ラーゲリの経験については、形而上学的な言説ではなく、むしろ経験的な言説に哲学の可能性があるのかもしれない。

ペトロフスカヤ グラーグについていかに形而上学を避けつつ語るかということは、考えていく必要がありそうです。最後に、ラーゲリについて形而上学を交えずに語った重要な本として、ヴァルラーム・シャラーモフの『コルィマ物語』(1954‐73年)★25を挙げておきたいと思います。シャラーモフは、アウシュヴィッツの文脈に当てはめるなら、『これが人間か』(1947年)のプリーモ・レーヴィのようなタイプの書き手です。

アロンソン ヒューム的、実証主義的な思想の持ち主ですね。しかしシャラーモフはソルジェニーツィンを批判している。

 ぼくもふたたびソルジェニーツィンという出発点に立ち返る必要があるのかもしれません。先日のシンポジウムでお話ししたダークツーリズムや「観光客の哲学」の問題は、ソルジェニーツィンやグラーグの問題と直結している。

 今日は、ロシアの最新思想状況だけでなく、多くの論点についてうかがうことができました。今後も議論を継続し、『青いソファ』と『ゲンロン』のあいだで持続的な提携関係を築くことができればと考えています。

ペトロフスカヤ すばらしいアイデアですね。ぜひ実現させましょう。

 本日はありがとうございました。


2017年12月5日、モスクワ市内某所
構成・注・撮影=編集部

★1 イリヤ・カバコフによる連作《Where Are They?》(1979年)のうちの一葉。《Where Are They?》は縦長の画面に余白を大きく残しつつロシア語のテクストとイラストが描かれた絵本のようなシリーズ。当該のページには画面の中央部にちいさなハエの絵が描かれ、「襟のあるコートはどこ?」「青いソファはどこ?」「ジーナのテーブルクロスはどこ?」「クローゼットはどこ?」「鹿の角はどこ?」「ない……」というテクストがキャプションのように入っている。ここで「ない」とされているものは、ソ連時代には駆逐されたことになっていたブルジョワの象徴である。
★2 Синий диван. № 19, 2014. この号が刊行された2014年はユーロマイダン運動とクリミア併合の年である。『青いソファ』のウクライナ特集は、ウクライナとロシアの関係が悪化するなか、イリーナ・ジェレプキナ、ヴィクトル・マラーホフら、ウクライナの哲学者を寄稿者に迎えて編まれた。
★3 メラブ・ママルダシヴィリ Мераб Мамардашвили(1930‐90年)はソ連の哲学者。民族的にはグルジア(ジョージア)人である。現象学や実存主義の流れをくむ思想家で、西欧哲学への造詣も深かった。書物よりも対話やレクチャーなどの伝達形式を好んだため著作は少ないが、没後は何冊もの講義録が出版されている。1980年にモスクワからグルジアのトビリシに移住。ポドロガ、ミハイル・ルイクリンら「余白の哲学」派と呼ばれる、ヨーロッパ現代思想をロシアに根づかせたポスト構造主義哲学者たちはママルダシヴィリの弟子にあたる。
★4 ニコライ・ベルジャーエフ Николай Бердяев(1874‐1948年)、イワン・イリイン Иван Ильин(1883‐1954年)はともに帝政末期から20世紀前半にかけて活躍したロシアの哲学者。どちらも革命に批判的で、1922年、レーニンによる知識人の国外追放の際に亡命した。  ベルジャーエフはドストエフスキーやヤーコプ・ベーメの影響のもと、神秘主義思想に傾倒。歴史や文化を神に対する人間の自由の問題として独自の歴史哲学を説いた。『ドストエフスキーの世界観』(1923年)『ロシア思想史』(1946年)ほか、いくつかの著作が数回にわたって邦訳されている。亡命後はパリを拠点に著述活動を続けた。  イリインは保守思想家。革命時には白軍を支持し、ベルリンへの亡命後は、白軍の亡命者による反ソ組織・ロシア全軍連合のイデオローグとなった。ソルジェニーツィンら、20世紀の保守思想家に大きな影響を与えている。主著にトルストイの非暴力を批判する『力による悪への抵抗 О сопротивлении злу силою』(1925年)、論集『われらの使命 Наши задачи』(1956年)など。  プーチン大統領は2013年にベルジャーエフ『不平等の哲学 Философия неравенства』(1923年、邦題『霊的終末論』)より保守主義の意味を論じた箇所を、また2014年にはイリイン『われらの使命』よりロシアの自由と自立の必要性を説く言葉を引用したことが知られている。
★5 モスクワ大学哲学科は保守的な傾向が強い。現在は分析哲学の教育と研究が盛んで、2006年には「モスクワ意識研究センター Московский центр исследования сознания」が設立されている。このセンターではダニエル・デネット、パトリシア・チャーチランド、デイヴィッド・チャーマーズら分析哲学の第一人者を招き、大規模なシンポジウムを複数回にわたって開催している。他方、アロンソンとペトロフスカヤ、および彼らの師であるポドロガが教鞭をとるロシア人文大学ではリベラルな政治的スタンスが強い傾向にあったが、ペトロフスカヤによると、最近ではその傾向が変わってきているという。
★6 スキゾ分析(分裂分析)は、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが『アンチ・オイディプス』(1972年)で提唱した精神分析の手法。彼らは「オイディプスの三角形」にもとづく従来のフロイト─ラカンの精神分析を、資本主義と結びついた「パラノイア」的なものだと批判する。そのうえで、精神分析が「欲望」を直接的に扱ったことについては評価し、オイディプスという表象に回収されないスキゾフレニックな精神分析の可能性を示す。資本主義や父権からの逃走を呼びかけるその思想は、近代から脱するための導きとして、ポストモダン思想を牽引した。
★7 「全世界的共鳴」は、ドストエフスキーが1880年6月にモスクワのプーシキン像の除幕式で行った演説において語った概念。「作家の日記」に収録されたこの演説で、ドストエフスキーはロシア文学の父とされる詩人アレクサンドル・プーシキンを世界的な文学者として位置づけた。この演説は、スラヴ派と西欧派という、同時代の思想的潮流の両陣営が等しく納得できる名演説として高い評価を受けた。たとえば次の箇所を参照。「いや私は断固として言おう、プーシキンのような全世界的に共鳴し得る詩人はいなかったと。いや、ここで問題なのは、共鳴し得るということだけではない。その驚嘆すべき深み、他国民の精神に自分の精神を化身させる能力が問題なのだ。その化身はほとんど完全であるがゆえに奇蹟的であり、それゆえに、世界中のどんな詩人にあっても、いかなるところでも、このような現象は繰り返して起こらなかったのである。[……]ここにこそ、彼の国民的ロシア的な力が最もよく表現されているからであり、まさに彼の詩の国民性、国民性の今後の発展、すでに現在のうちにひそんでいるわが未来の国民性が予言的に表現されているからである。なぜなら、その終局的な目標が全世界性・全人類性への志向でないとしたら、ロシア国民性の精神の力とは果して何なのかわからなくなるからだ」(『ドストエフスキー全集 19──作家の日記(Ⅲ)』川端香男里訳、新潮社、1980年、343頁)。
★8 アロンソンはここで、ドストエフスキーのプーシキン演説をベンヤミンの「翻訳者の使命」(邦訳『ボードレール 新編増補──ヴァルター・ベンヤミン著作集6』円子修平訳、晶文社、1975年所収)を用いて展開している。プーシキン演説にはアロンソンの言葉と完全に合致するような記述は見当たらないが、国民詩人プーシキンがシェイクスピアやセルバンテスら国外の大作家たちよりも深く世界文学の精神を体現していると論じている。たとえば以下を参照。「すべての世界的詩人の中で、ただプーシキン一人が、完全に他の国民性の中に化身し得る特質を有している。現に『ファウストの一場面』、『吝嗇の騎士』、バラード「かつて世に貧しき騎士ありき」などがいい例である。『ドン・ジュアン』〔『石の客』〕を読み返してみるがいい。もしプーシキンの署名がなかったら、作者はスペイン人ではないということなど、知りようがなかったであろう」(『ドストエフスキー全集19』、342頁)。
★9 Финиковый компот は2012年にモスクワ大学哲学科の学生イワン・フォミン、アンドレイ・メルツァロヴィイ、エヴゲーニー・ロギノフが創刊したウェブ雑誌。2014年から16年までは年2回刊。2015年からは認識論と形而上学の問題にテーマを特化しているという。最新号は2017年9月号で、特集は「神の存在証明」。公式サイトURL=http://datepalmcompote.blogspot.jp/ なお、同誌のブログで『ゲンロン6』が紹介されている。 Дебаты о России: современная русская мысль глазами японцев // Финиковый компот. 15 ноября 2017. URL=http://datepalmcompote.blogspot.jp/2017/11/blog-post_15.html
★10 アンドレイ・ロージン Андрей Родин は論理学者。ロシア科学アカデミー哲学研究所所属。著書に『プラトンとアリストテレスの哲学世界に見るユークリッド幾何学 Математика Еврипида в свете философии Платона и Аристотеля』(2003年)。
★11 Синий диван. № 18, 2013.
★12 2014年9月にスリジー国際文化センターで開催されたコロック La philosophie non-standard de François Laruelle のこと。ゴゴチシヴィリが実行委員に名を連ねており、アロンソン、ペトロフスカヤ、ホルージーほか、多くのロシア人が参加している。プログラムは以下を参照。URL=http://www.ccic-cerisy.asso.fr/laruelle14.html
★13 アレクセイ・ローセフ Алексей Лосев(1893‐1988年)は哲学者、古典古代文学者。パーヴェル・フロレンスキーの弟子にあたり、ウラジーミル・ソロヴィヨフやセルゲイ・ブルガーコフら象徴主義の宗教哲学を受け継ぐ。新プラトン主義の弁証法と近代ヨーロッパ型の構造分析や類型学を融合させ、独自の哲学システムを生み出し、哲学、美学、記号論、言語学などさまざまな領域に適用した。1920年代にはソロヴィヨフらとともに賛名論の思想サークルに参加。賛名論とは、神の名には不可視の神が存在すると考える神秘主義的宗教思想である。主著に『名の哲学 Философия имени』(1927年)、『古典古代の宇宙と現代科学 Античный космос и современная наука』(1927年)、『神話の弁証法 Диалектика мифа』(1930年、邦訳『神話学序説──表現・存在・生活をめぐる哲学』大須賀史和訳、成文社、2006年)。また、『古代ギリシア美学史 История античной эстетики』(1963‐94年)はローセフのライフワークで、ローマ、ルネサンス編を加えて10巻の大著となった。ローセフはまたアリストテレス、プラトン、ニコラウス・クザーヌスらの翻訳者としても高く評価されている。名の哲学については、貝澤哉「アレクセイ・ローセフ『名の哲学』(1927) における「意味」の造形──形相的なものの可視性と彫塑性──」(『スラヴ研究』61号、2014年)を参照。
★14 セルゲイ・ホルージー Сергей Хоружий は1941年生まれの物理学者、哲学者、神学者。ステクロフ数学研究所およびロシア科学アカデミー哲学研究所所属。神学の分野では静寂主義などの神秘主義の潮流をソ連時代から研究していた。著書に『幾何学的場の量子学入門 Введение в алгебраичесукю квантовую теорию поля』(1986年)、『中断のあとに──ロシア哲学の道 После перерыва. Путь русской философии』(1994年)、『哲学と禁欲主義 Философия и аскеза』(1999年)など。『ユリシーズ』をはじめとするジェイムズ・ジョイスの作品の翻訳者でもある。
★15 Синий диван. №22, 2018.


★16 高等経済学院 Высшая школа экономики はモスクワの国立大学。ソ連崩壊後の1992年、経済体制の変化に対応すべく創設された高等教育機関である。1996年から経済学部のほか、社会学部、法学部などを創設し、総合大学となった。哲学科は人文科学部に属している。
★17 エヴァリド・イリエンコフ Эвальд Ильенков(1924‐1979年)はソ連の哲学者、マルクス主義者。スピノザとヘーゲルの研究者であり、マルクス=レーニン主義の弁証法を、抽象的なものから具体的なものへと到達する認識の方法として解釈した。この問題を扱った主著『資本論の弁証法 Диалектика абстрактного и конкретного в «Капитале» Маркса』(1959年)は邦訳がある(花崎皋平訳、合同出版、1972年)。また、観念的なものを心理的なものと捉える考え方を批判した。そのほかの著作に、ロシア宇宙主義を意識しつつ、宇宙における人間の存在意義を論じた『精神のコスモロジー Космология духа』(1950年代半ばに執筆)などがある。
★18 ヴァレリー・ポドロガ、フレドリック・ジェイムソン他「ユートピアと弁証法」上田洋子訳、『ゲンロン5』、2017年、181‐209頁。
★19 ジョナサン・フラットリー Jonathan Flatley 1967年生まれ。ウェイン大学教授。アフロ・アメリカンを含むアメリカ文化とロシア文化を対象に、比較文化研究を行っている。ジェイムソンの弟子にあたり、彼とともに「ユートピアと弁証法」の共同討議に参加。著書に『情動地図 Affective Mapping: Melancholia and the Politics of Modernism』(2008年)、『アンディ・ウォーホルのごとく Like Andy Warhol』(2017年)など。現在はレーニンの思想が黒人の政治参加運動に与えた影響に関する著書を執筆中。
★20 プロレトクリトはプロレタリア文化あるいはプロレタリア文化・啓蒙組織の略称。アレクサンドル・ボグダーノフやアナトリー・ルナチャルスキーら社会民主労働党の知識人たちが、革命前の早い時期から取り組んでいた労働者の教育プログラムに端を発する。プロレトクリトの最初の実施の試みとして、1909年、当時イタリアのカプリ島にいたマクシム・ゴーリキーの別荘を会場に、ロシアの労働者を生徒に招いて行った教育プログラムが挙げられる。その後、1917年の2月革命後にこうした文化の啓蒙運動が盛んになり、10月革命の直前、労働者の芸術・文化推進組織としてのプロレトクリト発足が正式に宣言された。以後、数多くの芸術スタジオや労働者クラブが設立される。プロレトクリトには最も多いときで40万人のメンバーがいたという。のちに映画監督となるエイゼンシュテインは、1921年に発足したプロレトクリト第一労働劇場の設立メンバーである。社会主義リアリズムが国家の芸術方針として採択された1932年に解散。
★21 レーニンのモニュメント・プロパガンダについては、ロシア版ウィキペディアに各都市に建設された銅像についての詳細なリストが掲載されている。URL=https://ru.wikipedia.org/wiki/Ленинский_план_монументальной_пропаганды
★22 国立グラーグ歴史博物館は2001年設立、2004年から展示を開始した。国立博物館だがモスクワ市の管轄である。グラーグ ГУЛАГとは、おもに1930年代から50年代のソ連で、国家による弾圧の道具として用いられていた強制労働収容所・強制収容所のシステムのこと。博物館は2015年に現在の建物に移動し、広さは当初の4倍になった。初代館長は歴史家のアントン・アントーノフ=オフセエンコ。『独裁者の肖像 Портрет тирана』(1980年)など、数多くのスターリン批判の書の著者で、また彼自身が両親を粛清で失っており、5回の収容所経験を持つ。なお、ソ連崩壊後はラーゲリの真実を暴き、記録する動きが盛んだった。しかし、近年はソ連時代の負の記憶を明るみに出すための活動は政府によって制限される傾向にある。
★23 パブリック・ヒストリーは1970年代にアメリカで生まれた、公共空間における歴史の問題を扱う歴史研究の潮流。オーラルヒストリーやアーカイヴ、文化財保護やキュレーションなどもこの流れに含まれる。ロシアでパブリック・ヒストリーが学術的に用いられるようになったのは2010年代のことで、最も早い試みのひとつとして、高等経済学院サンクトペテルブルク校のプログラム「パブリック・インターディシプリナリー・ヒストリー Прикладная и междисциплинарная история」(2015年)がある。また、2016年には同じく高等経済学院メディア科の主催によりモスクワで国際会議「過去は別の国か? ロシアにおけるパブリック・ヒストリー Прошлое - чужая страна? Публичная история в России」が開催された。 URL=https://cmd.hse.ru/media/news/182699041.html
★24 東浩紀「ソルジェニーツィン試論」『郵便的不安たちβ──東浩紀アーカイブス1』、河出文庫、2011年所収。「ソルジェニーツィン試論」は東のデビュー作で、1993年『批評空間』誌に掲載された。掲載当時、東は21歳だった。
★25 『コルィマ物語 Колымские рассказы』はソ連の収容所生活を描いた文学作品で、詩人・作家のヴァルラーム・シャラーモフ(1907‐82年)の代表作。シャラーモフは2度の収容所経験があり、その2度目にあたる1937年から51年をシベリア極北のコルィマ地方の収容所で過ごした。『コルィマ物語』の名を冠しているのは、釈放後、1954年から73年のあいだに書かれた6つのシリーズで、収録されている短篇の数は150篇以上におよぶ。しかし、反体制文学であるがゆえに生前には書籍化されず、地下出版および国外出版のかたちで流通した。邦訳『極北 コルィマ物語』(高木美菜子訳、朝日新聞社、1999年)には、そのうち29篇が収録されている。『コルィマ物語』はソルジェニーツィンの諸著作と双璧をなすソ連収容所文学とされる。

オレグ・アロンソン

1964年生まれ。哲学者、映画批評家。ロシア科学アカデミー哲学研究所上級研究員。著書に『メタ映画』(2003年、ミロン・チェルネンコ賞)、『コミュニカティヴ・イメージ』(2007年、未邦訳)、『想像力の向こう側』(ペトロフスカヤとの共著、2008年)、『虚の力』(2017年、アレクサンドル・ピャチゴルスキー賞、未邦訳)、『映画と哲学』(2018年、未邦訳)など。

エレーナ・ペトロフスカヤ

1962年生まれ。哲学者、美術批評家。哲学・批評誌『青いソファ』編集長。ロシア科学アカデミー哲学研究所美学セクター長。著書に『反写真』(2003年、未邦訳)、『イメージ論』(2010年、アンドレイ・ベールイ賞受賞、未邦訳)、『名前のない共同体』(2012年、イノヴァーツィヤ・理論・批評・芸術学部門受賞、未邦訳)、『反写真2』(2015年、未邦訳)、『記号の憤慨』(2019年、未邦訳)など。
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