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    創刊にあたって|東浩紀

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    初出:2015年12月1日刊行『ゲンロン1』
     批評誌『ゲンロン』の創刊号にあたる『ゲンロン1』に、編集長の東浩紀が寄せた巻頭言を公開いたします。時勢に即応するのではなく、一度現実から離れ、「まじめ」と「ふまじめ」の境界を揺らす批評・思想とはどんなものか?現代に批評誌を創刊する目的とは?ぜひお読みください。なお最新刊の『ゲンロン11』も好評発売中です。合わせてお楽しみください。
     またゲンロン友の会会報『ゲンロン通信 #16+17』に掲載された、『ゲンロン』本誌創刊に向けた東の文章も、下記リンクからお読みいただけます。(編集部)[sc_alphacard url="https://webgenron.com/articles/ge016017_01/"]
     
     批評誌『ゲンロン』の創刊号をお送りする。年3回の刊行予定で、とりあえずは3年間、9冊の出版を目指している。ぼくが倒れたり、ゲンロンが倒産したりしないかぎり、2018年の夏までは続けるつもりである。

     いま「批評誌」と記したが、本誌が目指すジャンルを正確にはなんと呼ぶべきか、じつはむずかしい。

     本誌には、いまここの現実をそのまま映し、働きかける言葉ではなく、現実からいちど距離をとって、さまざまな思考の鏡に反射させたうえで、ふたたび焦点を結ぶような言葉を掲載するつもりである。それは、現実と関係しているようで関係していない。あるいは、現実と関係していないようで関係している。たとえば今号の小特集「テロの時代の芸術」は、いまの日本の政治状況に関係しているようで関係していないし、関係していないようで関係している。本誌の現実との距離感はそのようなものである。

     アカデミズムの自閉を逃れ、かといってジャーナリズムになりきることもない、そのような両義的な言葉──ミハイル・バフチンであればポリフォニーと呼んだであろうもの──は、かつてこの国では「批評」と呼ばれていた。本誌は、その歴史のうえに創刊され、その継承の意図は今号掲載の共同討議でも説明されている。

     けれども、現実には、「批評」という言葉はもはやそのようには使われていない。だから2015年の現在、本誌を「批評誌」と名づけることは誤解を生むかもしれない。「批評」という言葉を聞き、いまの若い読者が思い浮かべるのは、おそらくは、ネットで呟かれ、「いいね!」を稼ぎ、数日で消費される政治評論やコンテンツレビューのことだろう。

     かつて、この国には批評があった。いまは、なくなってしまった。本誌は、その復活を目的として創刊されている。時代錯誤な試みだと笑われるかもしれないが、少なくとも3年のあいだは復活させる。

     



     別の角度から記してみよう。本誌の読者(とりわけ、本誌が会報として送付されるゲンロン友の会の会員のみなさん)ならご存じのとおり、ぼくは最近、哲学は観光に似るべきだと主張している。

     哲学とは、なによりもまず好奇心(知への愛)の産物である。さまざまなひとに会い、さまざまなものに触れる。哲学はその素朴な喜びから生まれる。真とはなにか、善とはなにか、美とはなにかといった原理を考えるのは、そのあとのことだ。哲学のその「快楽主義」的な性格は、プラトンが書き残したソクラテスの言動を見ればあきらかである。

     5年ほどまえ、若い世代のあいだでサブカルチャー評論が流行したことがあった。それそのものは滑稽だと捉えたひとが多かっただろう。たしかに、アニメやアイドルについて語るだけで哲学ができるわけもない。けれども、アニメやアイドルを見る喜び、それを梃子に哲学に接近することそのものは、ある意味では哲学の正道だと言える。というのも、哲学とは、そもそもが、最初から哲学をやろうと考え、眉を寄せて取り組むようなものではないからである。哲学はむしろ、なにか別のことが楽しいと思って取り組み、そちらに近づいていったら、いつのまにか引き寄せられてしまう罠のようなものだ。「ふまじめ」なことを考えてしまっていたらいつのまにか「まじめ」なところに行き着いてしまう、あるいはその逆の迷子の経験、それこそが哲学の本質なのである。

     2010年代に入り、そんなサブカルチャー評論はあっけなく萎んでしまった。実際、日本はいま大きな政治的、社会的な危機にあり、アニメやアイドルを論じて迷子になっている暇はないのかもしれない。

     けれども、結果として、いまでは思想書を読むのはきまじめな学生ばかりになってしまった。世のなかをよくしたいとか、困ったひとを救いたいとか、民主主義を実現したいとか、そういうひとばかりになってしまった。そうでなければ、過去のテクストをできるだけきちんと読みたいという、一種のマニアになってしまった。

     しかし、思想書とはそういうものだっただろうか。思想書とは、本来は、もっと自由で、いいかげんなものではなかっただろうか。それは、多様な人々が、それぞれの関心に基づいて多様な場所に赴くための知のターミナル──ジャック・デリダ風に言えば「郵便局」──だったのではないだろうか。

     本誌は、そのような思いのもと、哲学と思想に、ふたたび好奇の喜びと迷子の経験をもたらすために創刊されたものである。言い換えれば、哲学と思想を「ふまじめ」にするために創刊されたものである。現実から離れ、目的を見失って惑う知の喜びの経験を、ぼくは「観光」という言葉で表現している。

    東浩紀

    1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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