日本は 「芸術立国」になれるか ──文化から社会を変える(後篇)|平田オリザ+東浩紀 司会=内野儀
初出:2015年06月15日刊行『ゲンロン通信 #16+17』
前篇はこちら文化資本とはなにか(承前)
内野 ちょっと議論を挟みますが、平田さんの世代が出てきたときに別役実さんが「持てる者の演劇」が出てきたと言われた。それまでは、さっきの恨みつらみじゃないけど、なんらかの飢餓感を抱えたひとが演劇をやっていた。それが平田さんの発想はかなり違うんですよね。
それこそ震災のとき、鈴木忠志さんは「演劇をやるのは変なひとたちだけなんだから、別に演劇をもって震災に関わる必要なんかなくて、それだったらひとりで行って復興を手伝えばいいんだ」というようなことを言っている。演劇はつねに周縁に位置づけられていてしかるべきだというのが、鈴木さんの考え方ですよね。そしてそれこそが一周回って公共だという考えがあるんだけど、平田さんの場合は、演劇家としてじつにまっとうな市民を目指している。
東 いまの平田さんのお話はすごくわかります。
ただそのうえで文化資本の話について言うと、しかし、その前提そのものが正しいのかなと思ってしまうんですね。というのも、こういう場所でぼくたちが議論していると、それこそ美術館に行くとかコンサートホールに行くとかが文化資本であり、それが当然将来の経済的な立場にも影響すると発想するわけです。けれども、本当にそうなのかというのが、いまの残酷な現実だと思うわけです。たとえば平田さんのお話のなかで、漫画は読めるけど本屋も図書館もない、そんな離島の話が出てくる。その島民は漫画にしかアクセスできない、これこそ文化資本の収奪だという話になるわけですが、きわめて現実的に考えると、漫画こそがいまもっとも金儲けの道だったりする。マンガとかアニメとかのほうにアクセスしているほうが、変に文化資本を身につけているよりもよほどお金持ちになる可能性があるのだとすれば、そのとき文化資本とはなんなんでしょう。
内野 いま東さんが言ったことは重要で、つまり、ヨーロッパ基準のハイカルチャーこそ文化資本で、それを持ってる人間が経済的なアドバンテージを持つという前提が取られているけど、それは本当かということですよね。
東 はい。ぼく自身、ヨーロッパ由来のハイカルチャーが好きだけれども、それによってまったく金が儲かってない感じがする(笑)。――は、ともかく、ぼくも文化資本の格差が問題だというのは同意見なんです。けれども、いまや演劇をやるよりも2ちゃんねるをずっと見てまとめサイト作ったりニコニコ動画でゲーム実況したりするほうが現実的に全然儲かるわけで、そういうリアリティは地方の中学生も知っている。で、そこで文化資本を教えるというとき、その根拠として、文化資本を持ってないと将来きついという主張はそのまんまでは通らないのかなと。
平田 うーん、そこはどうだろう。まあ、そういうサブカルチャーで成功するネットのひとたちとかも、やはり一部のエリートなのではないか。わたしはもっと中間層を豊かにしなければならないと考えている。そのために、全国に行って、実際に活動をしているわけで。
わたしはあちこちでワークショップをやってるんだけど、それは別に演劇自体がいいとか悪いとかいう話ではなくてね。演劇に参加してもらうと、やはりお客さんは増えるんです。要するに演劇は、もともとやったり見たりするものだった。日本の歌舞伎でさえも、むろん歌舞伎自体はやらないけれど、江戸の町人たちは長唄とか習ってて、そのうえで最高の技術を見に行くみたいなところがあって、そういう土壌がないと舞台芸術っていうのは成り立たない。それが近代に入って客席と舞台が切り離されてしまって、チケットを買って劇場に芝居を見に行くシステムが確立した。わたしはチケットを買って劇場に芝居を見に行くシステムは、いずれなくなるだろうと思っているので、そのなかで演劇を続けていくためには、演劇をやったり見たりするものに戻すということが第一段階としてある。
むろんその先もあります。本当にそれをやる側になったときのことですね。その場合には、そういう公的な制約のなかでもとんがったことができるかどうかっていうのは、最終的には表現者の才能の問題だと思うんです。そんなんでダメなやつは、もともとダメなんです。だから関係ないんです、税金使おうがなんだろうが。だって、演劇はなんらかのお金を使うんですから。それが政府から出るのか、自治体から出るのか、企業から出るのか、お客さんから出るのか。お客さんということは市場原理っていうことで、それも制約なんです。だからそれで表現の質を守れないひとは最初からダメなんで、そこはわたしは分けて考えてます。本当の創る側の世界は、才能のない人間はいてはいけない世界です。
現代口語演劇と声優のリアリティ
内野 話題を変えたいのですが、東さんは文芸評論家でもありますね。日本語の問題として、平田さんには「現代口語演劇」という実践があるわけだけど、そちらはどう考えていますか。
東 たいへん興味深いと思ってます。平田さんは現代口語演劇の着想を韓国で得たと書かれていますが、それを読んでぼくが連想したのは時枝誠記 の国語論なんですね[★1]。時枝誠記というのは、いわゆる「風呂敷」論という、日本語は欧米系の言語とは違って主語と述語があるのではなく、単語がどんどん連なっていって最後にくる動詞が風呂敷みたいにすべてを包むんだという独特の言語論を唱えたひとです。日本語論では有名なものなのですが、時枝がその言語論を思いついたのも、戦前のソウル大学(京城大学)での教育の現場でのことです。そこで彼は源氏物語を韓国人に教えたらしいんですが、そこでそういう日本語論を思いついている。これはおもしろい符合で、欧米の言語と接するより、近くの言語と接したほうがじつは自分たちの言語の構造がわかるのかなと。
平田 そうですね。『現代口語演劇』にはいくつかの要素があるんですけど、そのひとつは、いま東さんがおっしゃったように言語の問題です。
わたしがよく説明するのは、ある演劇の教科書に「その竿を立てろ」という例文があったとする。それで、「竿」を強調したいときは「竿」に力を入れろと。「立てろ」を強調したい、要するに、竿を寝かすのでも転がすのでもなく「立てろ」を強調したいときは「立てろ」に力を入れる、だから「その『竿』を立てろ」「その竿を『立てろ』」と言えと。それを繰り返すと、感情表現はうまくなりますよというふうに書いてある。
けれどわたしにはすごく違和感があって、というのも、日本語の一番大きな特徴は、とにかく語順が自由なことなんです。あとこれはあまり日本人は意識しないところですけど、単語の繰り返しをいとわない。そのふたつの要素があるので、わたしたちは、強調したいことは前に持ってきて繰り返す。つまり、「その『竿』を立てろ」とかは言わない。「竿竿竿、その竿、立てて」と言うわけです。あるいは「立てて、立てて、その竿」。これはすごく単純なことなんですけど、わたしは韓国に留学して、このことに思い至った。
要するに、西欧のスタニスラフスキーシステムは、台本をきちんと解釈し、どこを強調しどこを抑制するかを教えるんですけど、その解釈の根幹が欧米の言語と日本語では違ってくる。だからその理論自体に無理がある。
東 それで、ちょっと突飛な方向に議論を展開したいんですが、新劇においては、本当だったなら日本語はそうしないのに、欧米の語順に合わせた不自然な強調を入れているので独特の話し方が生まれたという理解でいいわけですよね。
平田 そうです。
東 だとするとね、ぼくはアニメをずっと見ていたんで、日本の声優の語りはなんでこんなに変なんだろうと、ずっと思っていたんです。おそらくそれも同じ原因なのかなと。
平田 ああ。
東 アニメの声優は、ぼくたちが日常で話す言葉とはまったく違う規則で文章を読み、発声をしている。そこにはなんのリアリティもない。でも、あのリアリティのない声を発明することで、日本のアニメは決定的な自由を獲得したわけです。じゃあなんでそんな変な発声が生まれたのかと言えば、おそらく、日本語の自然な言語感覚では書かれるはずのない感情的な強調が台本に込められてしまって、それをなんとか無理して発声する、みたいな結果の積み重ねで生まれたんじゃないかと思うんですよ。そしていまではクールジャパンと呼ばれるものにまで成長した。それはある意味で『現代口語演劇』の裏側にあたるんじゃないか。
平田 「自由を得た」とおっしゃったけれども、その分、アニメの声は市民社会から遠のいたわけですよね。まさに、わたしは演劇も同じだったと思ってるんです。だから日本の演劇は市民社会のなかに入っていけなかった。演劇は暑苦しかったりわざとらしかったりするものと思われてしまった。
それはわたし自身すごく悔しいところで、ヨーロッパで仕事しているとそういうふうには受け取られていない。
東 また先ほどの問題へ戻っていきますが、これはつまり、芸術は市民社会のなかにあるべきなのか、それとも市民社会から離脱してしまうものなのかという問題に繋がると思います。ヨーロッパというのは、やはりぼくのような野蛮なアジアの人間からすると(笑)、異常なまでに市民社会の包摂性が高いように感じます。彼らにとっては、宗教表現を唯一の例外として、現実社会とまったく関係をもたない芸術というのはほとんど想定されていない。その点アジアにおいては、別にマンガやアニメに限らず、純粋に記号だけで組み立てられた表現もたくさんある。それがいいか悪いかっていうのは、最終的にはよくわからないですけど。
平田 良しあしは難しいですね。難しいんだけど、でもね、こう思うんです。小林秀雄が西田幾多郎について「日本語のようで日本語でない奇怪なシステム」と評したことがあります[★2]。これは現代口語演劇の着想の元にもなっているのだけど、その批判には、「カントにおけるドイツ国民、パスカルにおけるフランス国民の不在」という表現が続いているんです。つまり、西田幾多郎の言葉は誰に向かっているのかと問いかけているんですね。やっぱり、ヨーロッパの演劇は、それは仮想かもしれないし鼻につくようなものかもしれないけれども、ある種の市民社会を想定してそこに向かって投げかけている。でもね、日本の演劇は誰に向かって作ってるのかわからない。
内野 また言葉を挟むけど、市民社会というものはあるんですかね。想定できるのか、ってことですけど。想定できないから、現代演劇は想定されている観客別というか、中小規模でしかない無数の観客共同体に分断されているというのがわたしの理解なんですけどね。で、それは必ずしも悪いことでもない。それはともかく、かりに普通の「サラリーマン」が作っている中間層みたいなものがあったとして、それに向かって作っているという前提の演劇が出てきたとして、それは公共的なんですかね。さきほどから話題になっているのは、むしろそここそが分断されていて、その内部での格差がものすごい広がっているという話だと思うんだけれど。
平田 そうですね。『現代口語演劇』にはいくつかの要素があるんですけど、そのひとつは、いま東さんがおっしゃったように言語の問題です。
わたしがよく説明するのは、ある演劇の教科書に「その竿を立てろ」という例文があったとする。それで、「竿」を強調したいときは「竿」に力を入れろと。「立てろ」を強調したい、要するに、竿を寝かすのでも転がすのでもなく「立てろ」を強調したいときは「立てろ」に力を入れる、だから「その『竿』を立てろ」「その竿を『立てろ』」と言えと。それを繰り返すと、感情表現はうまくなりますよというふうに書いてある。
けれどわたしにはすごく違和感があって、というのも、日本語の一番大きな特徴は、とにかく語順が自由なことなんです。あとこれはあまり日本人は意識しないところですけど、単語の繰り返しをいとわない。そのふたつの要素があるので、わたしたちは、強調したいことは前に持ってきて繰り返す。つまり、「その『竿』を立てろ」とかは言わない。「竿竿竿、その竿、立てて」と言うわけです。あるいは「立てて、立てて、その竿」。これはすごく単純なことなんですけど、わたしは韓国に留学して、このことに思い至った。
要するに、西欧のスタニスラフスキーシステムは、台本をきちんと解釈し、どこを強調しどこを抑制するかを教えるんですけど、その解釈の根幹が欧米の言語と日本語では違ってくる。だからその理論自体に無理がある。
東 それで、ちょっと突飛な方向に議論を展開したいんですが、新劇においては、本当だったなら日本語はそうしないのに、欧米の語順に合わせた不自然な強調を入れているので独特の話し方が生まれたという理解でいいわけですよね。
平田 そうです。
東 だとするとね、ぼくはアニメをずっと見ていたんで、日本の声優の語りはなんでこんなに変なんだろうと、ずっと思っていたんです。おそらくそれも同じ原因なのかなと。
平田 ああ。
東 アニメの声優は、ぼくたちが日常で話す言葉とはまったく違う規則で文章を読み、発声をしている。そこにはなんのリアリティもない。でも、あのリアリティのない声を発明することで、日本のアニメは決定的な自由を獲得したわけです。じゃあなんでそんな変な発声が生まれたのかと言えば、おそらく、日本語の自然な言語感覚では書かれるはずのない感情的な強調が台本に込められてしまって、それをなんとか無理して発声する、みたいな結果の積み重ねで生まれたんじゃないかと思うんですよ。そしていまではクールジャパンと呼ばれるものにまで成長した。それはある意味で『現代口語演劇』の裏側にあたるんじゃないか。
平田 「自由を得た」とおっしゃったけれども、その分、アニメの声は市民社会から遠のいたわけですよね。まさに、わたしは演劇も同じだったと思ってるんです。だから日本の演劇は市民社会のなかに入っていけなかった。演劇は暑苦しかったりわざとらしかったりするものと思われてしまった。
それはわたし自身すごく悔しいところで、ヨーロッパで仕事しているとそういうふうには受け取られていない。
東 また先ほどの問題へ戻っていきますが、これはつまり、芸術は市民社会のなかにあるべきなのか、それとも市民社会から離脱してしまうものなのかという問題に繋がると思います。ヨーロッパというのは、やはりぼくのような野蛮なアジアの人間からすると(笑)、異常なまでに市民社会の包摂性が高いように感じます。彼らにとっては、宗教表現を唯一の例外として、現実社会とまったく関係をもたない芸術というのはほとんど想定されていない。その点アジアにおいては、別にマンガやアニメに限らず、純粋に記号だけで組み立てられた表現もたくさんある。それがいいか悪いかっていうのは、最終的にはよくわからないですけど。
平田 良しあしは難しいですね。難しいんだけど、でもね、こう思うんです。小林秀雄が西田幾多郎について「日本語のようで日本語でない奇怪なシステム」と評したことがあります[★2]。これは現代口語演劇の着想の元にもなっているのだけど、その批判には、「カントにおけるドイツ国民、パスカルにおけるフランス国民の不在」という表現が続いているんです。つまり、西田幾多郎の言葉は誰に向かっているのかと問いかけているんですね。やっぱり、ヨーロッパの演劇は、それは仮想かもしれないし鼻につくようなものかもしれないけれども、ある種の市民社会を想定してそこに向かって投げかけている。でもね、日本の演劇は誰に向かって作ってるのかわからない。
内野 また言葉を挟むけど、市民社会というものはあるんですかね。想定できるのか、ってことですけど。想定できないから、現代演劇は想定されている観客別というか、中小規模でしかない無数の観客共同体に分断されているというのがわたしの理解なんですけどね。で、それは必ずしも悪いことでもない。それはともかく、かりに普通の「サラリーマン」が作っている中間層みたいなものがあったとして、それに向かって作っているという前提の演劇が出てきたとして、それは公共的なんですかね。さきほどから話題になっているのは、むしろそここそが分断されていて、その内部での格差がものすごい広がっているという話だと思うんだけれど。
『幕が上がる』の日本語
東 平田さんご自身は、いまの日本語はどう捉えてますか。現代口語演劇は「話す」日本語だけれど、実際にはしゃべる言葉だけが日本語ではないですよね。たとえば、いまこのニコ生の画面にはコメントがだらだらと流れているわけですが、変な記号がいっぱい出てきて発話できそうにないんだけど、純粋な書き言葉かというとそうではない。実際、いまの中学生たちは、このニコ生コメントのような言葉を現実に発話したりもしている。こういうネットの言葉に比べると、『幕が上がる』の日本語はぼくにはじつにきれいなように感じられたのですけど、そこらへんどう思われているのか。
平田 ちょうどいま、20年前に書いた『転校生』という作品が、ほとんど脚本を変えずに豊橋市で上演されています[★3]。口語と言っても、ただのしゃべり言葉はすぐ古くなっちゃうんです。いまたとえば「チョベリバ」とか入ってたらものすごくダサいでしょう。でも、本当にそこをリアルにしようとしたら、そういう言葉を入れていかなきゃいけないんだけど、わたしはそういうことにあまり関心もない・長く上演できるものを書きたいという意識が強い。この言葉は2、30年は残るだろうなっていう感覚で書いてます。
東 もちろんぼくは「いまの流行語とか取り入れたほうがいいんじゃないですか」と言いたいわけではないんです。ぼくはむしろ、ぼくたちがいましゃべってる日本語はすごく長い言文一致の過渡期にあると思っているんですね。
たとえばぼくたちはいま書き言葉では「だ・である体」を使ってるけれども、一世紀後くらいにはなくなっているかもしれない。実際、新書なんかはどんどん「ですます調」が強くなっている。ブログも「ですます調」ばかりですね。そういう現象はみなあまり注目していないんだけど、ぼくは、ぼくたちはいますごく長い言文一致のプロセスの最終的な段階にいると思っていて、ネットとかライトノベルの文体もすべてその「新しい言文一致」の一例なんじゃないかと思うんです。
平田 その点では、ただ言文一致が進めばいいというものではなくて、やはり重要なのは対話の可能性でしょう。
これはわたしがよく挙げる例なんだけれども、パスカルの手紙に「ここから先はちょっと込み入った哲学の話になるんでラテン語で書きます」というのがある。要するに一七世紀にはフランス語では哲学の話ができなかった。それが150年から200年くらいかけていまの形になっていくんだけど、日本語、あるいはドイツ語もそういうところがあるんだと思うんですが、急速に近代国家の言語にしたために取りこぼしが多いんじゃないか。その一番大きな取りこぼしが「対話の言語を作ってこなかった」ことだと思う。そこをどうやってこれから構築していくかというのは、この国で言論に関わる人間のひとつの責任だと思うんですね。だから、いまが東さんのおっしゃるとおり、新しい言文一致の過程だったとしても、そこで文学者や演劇人の果たすべき役割が多少あるんじゃないか。
先ほどの内野さんの見解に関して言えば、市民社会も民主主義も「実態」ではありません。それらのあくまで仮想の目指すべき概念です。しかし、わたしたちは、その概念を目指して進んでいかなければならない。カントだってパスカルだって、実態に向かってしゃべっているわけではない。あくまで、そういった概念を仮想して論理を構築している。
東 しかし対話ってなんでしょうかね。対話は基本的にふたりでやるものですね。けれど現実的に考えると、人間ってふたりだけでいると絶対対話しないと思うんですよ。むしろ対話は観客がいるところで生まれる。
ぼくは『一般意志2.0』という本で、すべての政治的な議論は密室ではなくてニコ生コメントを見ながらやるべきだと主張したことがあります。これは「公開が大事だ」とか「市民参加が大事だ」とかいう主張だと受け取られたんだけど、本当はそうじゃなくて、対話を生み出すために観客をつくれという主張だったんですね。
そしてこれは、決して日本の特殊な環境においてではなく、ヨーロッパでも基本的には同じはずだと思っています。ヨーロッパの哲学の出発点はソクラテスです。そしてソクラテスの「対話編」と言われているものは、実際には、代表作の『饗宴』のタイトルが示すようにいわゆる飲み会であって、次から次へとアテネ市民が現れて適当なことを言っては去っていく、それにソクラテスがなんとなく頭のよさそうな応答を返すというかたちにすぎないわけです。意見の異なるふたりがじっくり対話し、最終的にひとつの結論に到達するというようなものでは決してない。
平田 それはおっしゃるとおりです。わたしが国語教育の現場でよく先生方に言うのは、日本の子どもたちは、自然状態では絶対に対話なんかしないんです。だからこそフィクションの力が必要になる。つまり、どうしても対話せざるを得ないような状況を作ってあげないといけないんです。そこで演劇教育が重要になる。それから、東さんもおっしゃっているとおり、対話は、単に一対一で喋ることではない。三人以上のひとがいるときでも、議論は個対個で行うのが対話の原則です。
芸術の二重戦略
東 じつはこのイベントの始まる前に、いま開催中の横浜トリエンナーレ[★4]を覗いてきました。高山明さんの「横浜コミューン」という、演劇というかインスタレーションを観に行った。舞台は横浜市中区の寿町です。近くにはかつて黄金町という有名な売春街があった。
高山さんのインスタレーション自体もおもしろかったんですが、なぜいまその話を始めたかというと、その黄金町のほうも、トリエンナーレと連動して「黄金町バザール」というアートフェアをやっているんですね。いわゆるアートによる町おこしというか、売春街を浄化し再生する事業なんですが、そこでは、かつて売春宿が軒を連ねていた路地が透明感のあるきれいなギャラリーに置き換えられている。そしてその街路を、美大系女子というか、ふんわりした木綿の服を着たエコで無害な感じのトイカメラを下げた人々がずらずら歩いているわけです。そこではつまり、アートが社会のセキュリティ化の道具になっているんですね。黄金町というのはかつて、売春婦と日雇い労働者の集まるすごく「汚い」町だった。それを行政がきれいにする。そのときにアートが便利な道具として使われる。むろんそれは単純に批判はできない。黄金町はそれで復活しているのかもしれないし、実際家族連れもカップルもきている。でも黄金町の歴史は忘れ去られていくわけです。
それで、ここまで話をうかがってきて、ぼくはやっぱり、先ほどからの平田さんのお話は、演劇の黄金町バザール化というか、社会的浄化の道具として演劇が使われていく可能性に対して、あまりに楽観的なようには思いました。『幕が上がる』は本当に前向きな子ばかりの小説で、それはそれでよいのだけど、その子たちの活躍が、結果として彼女たちには見えないひとたちをもっと見えなくするようなものになってしまうのではないかと、そんなことを思うんです。むろん、ぼくはそれが平田さんの意図ではないことは理解しているのですが、そんなことを言えば、もちろん黄金町のアートバザールだって別に目的が悪いわけではないわけで、でも結果的にそういう構造は作られてしまいます。だからぼくとしては、演劇もアートに続いてそういう道具になってしまうのではないかと、一抹の危惧を覚えてしまうのですがいかがでしょうか。
平田 もちろんご指摘のとおりです。そして、そういうものも出てくるんです。ただね、演劇というのは振れ幅の激しい表現で、歌舞伎も何度も江戸処払いをされてもまた戻ってくる。そういうところがつねにあって、ヨーロッパでも、王侯貴族のそばに道化がいて、普段は腰巾着で取り入ってるように見えるけど、ほかの側近が言えないようなことを言うのも道化の役割。それで、言い過ぎたら首をちょんって切られる。演劇人は、あくまで道化であるべきで、その覚悟がなければ演劇っていうのはやっちゃいけない。それが道化の、なんていうかな、まあ、心意気というかね。一種のゲリラ戦だから。わたしは、逆に表面的に毒っぽく見えるもののほうをあんまり信用してないので、そこのところは時間をかけて見てほしいなと思います。美しさを装っているもののなかに毒があり、逆に毒だと思われるものが、たいしたことはなかったりする。そこが芸術の面白いところでしょう。
東 平田さんご自身の戦略についてはまったく疑っていません。けれども、固有名を持ったアーティストならばそういう二重三重に複雑な戦略を取れるかもしれないけれど、実際に芸術への公的支援がシステムとして動きだしていったときにどうなるかは……。これから東京にはオリンピックがくるわけで、文化的手段を用いた社会の浄化への圧力はどんどん強くなる。
平田 まったくその通りです。東京オリンピックに向けてはロンドンの文化プログラムをたぶんそのまま真似ようとするでしょうし、ロンドンではまさにおっしゃられた通りのことが起こった。ただね、そこも難しくて、そうは言っても、そのロンドンでも救われたマイノリティもいないわけではない。だから、そこは本当に難しいことではあると思うんですけど、でもそのような葛藤が2020年に向けて増幅することは間違いない。その自覚は必要だ。
いずれにせよ、芸術がどうあるべきか、ひとによっていろんな理想があると思うんですけど、演劇っていうのは本当に長い間反体制でマイノリティであったのが、いま急に助成金とかが出るようになっている。そして一方で、20代30代の演劇人たちはそれを自明にして活動し始めている。旧世代にも新世代にも、問題意識や自覚は薄い。たとえば、芸術家たちが、大学などできちんと公共文化政策のあり方を習ってくるかっていうとそういうものもない。当然お金が急に出てくると、そこになびくひともいるでしょう。ただ、繰り返しになるけれど、公的な資金が出ることによって堕落したり萎縮したりするっていうのは、それはやはりそのひとに才能がないということなんですよ。それだけのことなんです。それが演劇人としてのわたしの矜持です。
内野 あまり介入できませんでしたが、要するに、いまの現代演劇をめぐる状況というのは、一方で、「反体制派」が以前通り続けられるという「身ぶり」だけの守旧派わたしは「演劇好き」な人々と称しています――と、平田さんが切り開いたリアル・ポリティクスを巻き込んだ未完の、確立までの制度設計の圧力と渡り合う力量が必要とされる演劇実践のあいだにある、というのがわたしの認識です。ただあくまでもメインストリームは、平田さんも言及されたように、市場原理が圧倒的に支配しているのが現実で、そのことを忘れてはならないと思います。演劇の場合、停滞する経済とネオリベ的圧力で、市場原理は、名目的な「公共」にすっかり入り込んで、いわゆるプライバティゼーションが徹底して進んでいるわけですから。一方、オリンピックに向けて、おそるべき額の予算が国および都のレベルですでに設定されはじめており、「そして誰もいなくなった」となることはほぼ自明だと思っています。ただ、そこからこぼれ落ちるもの、そこからはみ出したものを、どのように言説的にフォローしていき、あるいは、制度設計へと返していき、「公共」という概念の再定義へとつなげていけるのか、といったようなことを、今日のお二人のお話をうかがっていて、わたしは考えなければならないと思いました。本日はどうも長い間ありがとうございました。
2014年11月3日 東京、ゲンロンカフェ
構成・撮影=編集部
★1 言語学者の時枝誠記(1900-1967)は、言語を「もの」と捉えるソシュールの言語学を批判し、発話主体の思想を表現・理解する過程そのものが言語であるとする言語過程説を唱えた。文の構成要素を、事物を客体化して表す「詞」と、主体の直接的な陳述の「辞」に分け、日本語ではつねに辞が詞を包み込むとする。平田は理論書『現代口語演劇のために』(晩聲社)でこの理論を挙げ、発言主体がつねに明確に存在する戯曲においては、「辞」が「詞」よりも重要視されるべきだとしている。
★2 小林秀雄は1939年の論考「学者と官僚」のなかで、西田幾多郎の日本語を、「日本語では書かれて居らず、勿論外国語でも書かれてはいないという奇怪なシステム」と評している。
★3 『転校生』の初演は1994年。平田自身が演出し、公募で選ばれた女子高生が出演した。高校生たちのたわいもないおしゃべりのなかで、生と死のテーマがじわじわと展開するこの作品は、平田の代表作のひとつで、さまざまな演出家により上演を重ねてきた。ここで言及されているのは、2014年11月の穂の国とよはし芸術劇場における上演のこと。演出は劇団「アマヤドリ」の広田淳一。
★4 3年に一度横浜で開催される現代美術の国際展覧会。2001年の第一回から第三回までは国際交流基金が主催団体のひとつとして事務局をつとめていたが、2011年の第四回から横浜市の管轄となり、横浜美術館を拠点とするようになった。2014年の第五回のアーティスティック・ディレクターは森村泰昌で、レイ・ブラッドベリの作品にちなんだ「華氏四五一の芸術」のタイトルのもと、65組79作家が参加した。
平田オリザ
1962年東京都生まれ。劇作家、演出家。こまばアゴラ劇場芸術総監督、劇団「青年団」主宰。城崎国際アートセンター芸術監督、大阪大学COデザインセンター特任教授、東京藝術大学 COI 研究推進機構特任教授、四国学院大学客員教授・学長特別補佐。2021年4月開学予定の兵庫県立の国際観光芸術専門職大学(仮称・開学設置構想中)学長候補。 1982年に劇団「青年団」結成。「現代口語演劇理論」を提唱し、1990年代以降の演劇に大きな影響を与える。近年はフランスを中心に各国との国際共同製作作品を多数上演している。 撮影:青木司
内野儀
1957年京都生れ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(米文学)。博士(学術)。岡山大学講師、明治大学助教授、東京大学教授を経て、2017年4月より学習院女子大学教授。専門は表象文化論(日米現代演劇)。著書に『メロドラマの逆襲——〈私演劇〉の80年代』(勁草書房、1996年)、『メロドラマからパフォーマンスへ——20世紀アメリカ演劇論』(東京大学出版会、2001年)、”Crucible Bodies: Postwar Japanese Performance from Brecht to the N
東浩紀
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。