「もうひとつの復興計画」四川大地震レポート(前篇)|浅子佳英

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初出:2012年2月20日刊行『ゲンロンエトセトラ #1』

 

 2011年3月11日、東北地方を突然襲った東日本大震災は、死者1万5000人超、行方不明者3000人超と国内では戦後最大の自然災害であり、今なお、福島第一原子力発電所の事故に伴う放射能の影響もあり、復興には程遠い。 

 一方、わずか3年前の2008年5月12日、隣国の中国でも四川大地震という極めて大きな地震が起こっている。中国国内では「汶川地震」と呼ばれ、震源は四川省阿壩・チベット族チアン族自治州汶川県。地震の規模を示すマグニチュードは8.0。死者は約7万人、負傷者は約37万4000人にも上り、約1万8000人がなおも行方不明となっている。断層直下型の地震であり、倒壊した建物も多く(家屋の倒壊は21万6000棟、損壊家屋は415万棟)、津波の被害はないことから、被害の質としては東日本大震災よりも阪神・淡路大震災に近い。ただ、地下では長さ250kmに及ぶ断層が動き、地表においても約7mの段差が現れていると分析されており、地震の破壊力は阪神・淡路大震災の30倍になるという。 

 

 



 四川大地震から3年たった今(取材時は2011年12月)、実は四川ではかなりの復興計画がすでに実現しているのだが、日本ではあまり報道されていない。そこで、昨年の12月、筆者は編集長の東浩紀と共にその状況を確認すべく成都に飛んだ。本来であれば、『思想地図β』vol.2(特集:震災以後)に掲載するべき内容ではあったのだが、あの時点では国内で手がいっぱいで実現することができなかった。ここではそのフォローアップ企画として、四川のレポートを行いたい。 

 

四川


 四川は三国志でいえば、主人公の劉備が治めた蜀にあたる。中国西南部に位置し、すぐ西側はチベットである。険しい山脈に囲われた巨大な盆地であり、その広大な平野部には、岷江、沱江、嘉陵江、烏江と4つの大きな川が流れ、四川という名前の由来にもなっている。気候は温暖で、肥沃な土地であり、古くから発達した地域でもある。 

 まず我々は、成都で通訳と運転をお願いするシエさんにホテルまで迎えに来てもらい、成都から北東へ約100kmの所にある北川地震遺址に向かった。成都は四川省の最も大きな都市であり、人口は約1400万人。これは重慶市、上海市、北京市に次いで中国で第4位の規模だ。建設中のビルも多く、市内はラッシュアワーのため激しく渋滞している。ようやく渋滞を抜け、高速道路を2時間ほど走ると、道中、片道3車線計6車線の綺麗に整備された道路があった。謝さんによると、この道路も「対口支援」といわれる復興計画の一部だという。対口支援とは、比較的経済の発達した省や直轄市が経済発展の遅れた地域の発展を一対一で支援する仕組みのことで、パートナー支援とも呼ばれる。この道路は遼寧省が支援してつくられたものとのことだった。

北川地震遺址


 北川地震遺址は、旧北川県城を震災が起こったままの状態で保存し、見学できるようにした震災記念公園である(県城とは県庁所在地のこと)。旧北川県城は250kmにも及ぶ断層の中間部に位置し、特に被害の大きかった地域のうちのひとつだ。実際の震災記念公園の中には、一度駐車場に車を止め、入場料を支払い専用のバスで向かう。バスは定期的にでているようで、車内で約10分ほど待った後出発した。まずは、検問を抜けると、切り立った山に挟まれた谷の中にはいっていく。ちょうど谷の上部から保存された街のほうへ徐々に降りていく形で道がつくられていて、土砂崩れの跡だろう、道の隣には巨大な岩がごろごろしている。旧北川県城は谷底にあるために車中からだと、見下ろす形になり、街が水没しているのが分かる。四川大地震では、地すべりによる土砂が川をせき止めて作った「せき止め湖」が広範囲に形成され、民家が水没したり、せき止め湖が決壊し、被害を大きくしているのだが、まさにここは谷底にあるためにそのような状態だった。 
  

【写真1】
 

浅子佳英

1972年神戸市生まれ。2007年タカバンスタジオ設立。東浩紀らと共に合同会社コンテクチュアズ設立(現ゲンロン)。2012年退社。商業空間を通した都市のリサーチとデザインで活躍。主な作品に〈Gray〉〈八戸市新美術館設計案〉(西澤徹夫との共同設計)。2009年、主な論考に「コムデ ギャルソンのインテリアデザイン」(『思想地図β』vol.1所収、コンテクチュアズ)、共著に『TOKYOインテリアツアー』など。 撮影:新津保建秀
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