「もうひとつの復興計画」四川大地震レポート(後篇)|浅子佳英

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初出:2012年4月20日刊行『ゲンロンエトセトラ #2』

 

 2011年12月の中国取材では、四川大地震のあった地元四川で活躍する中国人建築家のリュウジャークン氏と、北京で活躍する日本人建築家の松原弘典氏にインタビューを行った。また、二人とも実際のプロジェクトを通して復興にも関わっており、そのプロジェクトとともに紹介する。なお、このふたつのインタビューは、劉家琨氏に対しては建築家の迫慶一郎さこけいいちろう氏、松原弘典氏に対してはふるまいよしこ氏と東福大輔とうふくだいすけ氏の協力によって実現した。この場を借りてお礼を申し上げたい。 

 劉氏は1956年生まれの四川で活躍する建築家。ただ、そのキャリアは少し変わっており、20年近く教職や評論活動を行った後、1999年に事務所を設立している。出身地である四川で地に足をつけて土着的に設計を行いながらも、 ヴェネツィア・ビエンナーレなどにも参加しており、 その質の高い空間から世界から注目されている建築家のひとりだ。日本でも『GA』、『a+u』などの建築雑誌でその作品は紹介されている。 

 劉氏へのインタビュー当日、ちょうど我々は前篇で紹介した北川地震遺祉や新北川に取材に行った帰りだったため、まずはそのふたつについて伺った。 

「旧北川の街があった場所は地盤が悪く、下には断層があり、歴史的にもこれまで何度か地震が起こっています。本来は街を作るにはあまり適していない場所であり、今後も同じような災害が起こる可能性があるのです」 

 たしかに前篇で記したように旧北川の街は山の谷底にあるために土砂崩れが酷く、街の一部が土砂で埋まっている。そのことも指摘した上で、 

「今回は別の場所に新しい街を作ることが必要だったと思います」 

 ということだった。そして、今後も地盤的に不安定な地域である旧北川に比べ、新北川は平地で地盤も良く、再建には向いた場所だとのこと。ただ驚いたのは中国では新たに街を作るよりも、古い街を再建するほうが難しいという。 

「中国では、これまでにも古い街を捨て街ごと新しい場所に移転した前例が200近くあります。また、古い場所に比べ、新しい場所であれば、障害もなく思いのままに計画できるからです」 

 もちろん言われてみればその通りだが、この辺りの状況は日本とは違う。その辺りをもう少し聞いてみると、中国の社会体制とか指導思想が違うからだろうということだった。 

「そもそも中国では土地が全て国の物です。そして、中央がなにかを決定すれば、基本的にはその通りに事が運びます。例えば、今回のように「新しい北川に移転しよう」と中央が決めればそのまま実現することはそれほど難しくありません。指示が出れば、用地の確保から元々の市との調整等々と事が運んでいくのです。 

 逆に日本だとみんなの意見を調整しないと実現できないという面があるかと思います。だからメリットとデメリットはどちらにもあるのでしょう」 

 今回の計画についてはどう思うかを聞いてみたが、劉氏はまだ新北川の新しい街はまだ見ていないのだという。近くにあるために不思議なのでその理由について聞いてみると、忙しいということもあるが、新北川の復興の計画には関わっていないことが大きいようだ。

 前篇で書いたように、新北川は対口支援によって建設されており、担当の省は山東省である。この対口支援は担当する省の責任で行われるため、 新北川の建設や設計は山東省の建設会社や設計事務所が行っている。そのために山東省以外の設計事務所や建設会社は、例え地元であっても、復興のための建築注文を受ける機会は少ない。 

 ただ最後に劉氏は「見ていないので分からないが……」と前置きした上で、新北川に対してこう返答してくれた。 

「新北川は現代的な街で表面にチアン族のマークかなにかを貼りつけているだけではなく、中核にも伝統建築の元々あった様子を復旧させれば良いと思う。中国では「根を残す」という言い方をしますが、 できる限りその土地の文化を残すのです」

リバースブリック

 リバースブリックは、劉氏が手がける、瓦礫に麦を混ぜてセメントで固めた再生レンガを作るプロジェクトである。このリバースブリックは地元の工場で作られている。レンガは国の検査を受けていて販売もされている。現在では、製品のバリエーションも増え、安く作られているとのこと。 

 そしてこの計画は三段階を経て進んだ。第一段階は被災地にある瓦礫を使用してその場で作る手作業の段階。二段階目は工場で制作し販売する機械化の段階。三段階目は環境保護を目的とした資源の再利用という段階である。たしかに環境保護という目的なら震災に興味を持たない人にも使用してもらえるので上手いやり方だ。また、このレンガはヴェネツィア・ビエンナーレでも発表され、さらには自分のプロジェクトにも使用しているとのこと。 

 実際に実物を見せてもらったが、瓦礫を中に入れているためにそれぞれ微妙に表情が異なり、独特の風合いがあった【写真1】。

【写真1】

少女のための記念館

 胡慧姗フーフゥイシャン記念館は四川大地震で亡くなったある少女のために作られた【写真2】。劉氏が廃墟になった被災地でこの少女の両親に出会い実現したものだ。費用は劉氏の寄付でまかなっている。

「今回の震災では私自身お金も寄付しました。ただし、彼らにはお金を寄付しても役には立たないでしょう。なぜならご両親は娘を亡くし、生きる希望も失っていたからです。そこで、自分は建築家であり建物を作るのは得意なので、娘のために記念館を作ろうと提案しました」

【写真2】

 この記念館は四川大邑安仁にある建川博物館の敷地の中に建っている。博物館の担当者が劉氏と知り合いだったために実現したとのこと。建築面積は19㎡と世界で最も小さな記念館のひとつであり、切妻屋根の形状は避難用の仮設テントと同じ形。内部はピンク色に塗装され少女の遺品が展示されている【写真3】。 

 小さいながらも美しく魅力的な建物なのだが、この記念館は建物は完成しているにも関わらず、政府の要請で公開することはできなかったのだという。今も博物館の敷地の中に現存しているが、観光客が中を見ることはできない。「残念ですね」と伝えたとき、人民政府の許可を得ずに個人で作っているので仕方ないとの返答の後、彼が言った言葉が心に残っている。 

「政府は全体的な援助はします。ただ具体的なある人、個人に対しては細かいケアを行うことが多くない。だから自分はそれをやろうと思いました。全体に対する記念碑を作るのではなく、一対一の支援をしたいのです」

【写真3】

成都市華林小学紙管仮設校舎

 松原弘典氏は1970年生まれで北京在住の日本人建築家。10年ほど前から中国で設計活動を行っている。 

 小誌編集長の東とは古くからの友人で、このインタビューも予定してあったものではなく、東福氏とふるまい氏の計らいによって実現したのだが、当初は単に夕食を共にするつもりだった。ところが、話を聞いてみると松原氏は建築家の坂茂ばんしげる氏とともに四川での復興支援プロジェクトを行った経験があるという。 

「慶應義塾大学SFCで一緒に教えている坂さんから、震災翌日の5月13日にメールがあり、10日後には一緒に成都に行き、被災地を見て回りました」 

 二人の行動力に驚かされるが、震災10日後の当時、すでに現地では中国全土からプレファブメーカーが大挙して集まっており、次々に仮設住宅を建設し始めていたという。地震後の復興ビジネスがすでに始まっていたということのようだ。 

 松原氏と坂氏はその後、どこかの被災地で建設してもらえないかと働きかけるため、成都にある西南交通大学の敷地内に紙管を用いた仮設住宅のプロトタイプを作り、同大学内でシンポジウムを行っている。しかし、この仮設住宅の建設を巡っては一悶着あったそうだ。 

「仮設住宅はSFCでモックアップを建設した後、現地に運ぶ手筈にしていたのですが、中国の港までは様々な方の協力によって無料で運べることになったにも関わらず、中国国内での輸送の見通しが立ちませんでした。中国国内の運送業者は表面上はどこも無料でお手伝いしたいと言ってくれるのだけれど、みな必ず「中国赤十字のレターが欲しい」と条件をつけるのです。後ほど分かったのは、赤十字のレターは通関上必要なだけではなく、赤十字が後ほど運送費を支払う手形のようなものになっているという仕組みでした。つまり中国ではタダというものはない、ということなんですね」 

 中国の国内流通産業はまだ未発達で、とくに震災あとの被災地への物資の送付には許可が必要だった。さらに聞けば、食糧や現金などの消耗するものは寄付もまだ容易だが、建材は固定資産に見なされて寄付として扱ってもらえないという困難もあったという。 

 その後、結局仮設住宅自体は作られなかったのだが、現地の小学校から仮設の校舎を建設してほしい、という依頼があり、日中のボランティアを組織して校舎を設計・建設する事になった。 
 

 この小学校は坂氏がこれまでも手がけてきた紙管を使用した建物で、セルフビルドで工事を行っている。建設には、SFCの学生と西南交通大学の学生に加え、夏休み中だった小学校の教員チームも参加したとのことだが、体育の先生を中心に組織された教員チームが最も馬力があり、日本の大学生チームがそれに次ぎ、中国の一人っ子大学生チームが一番たよりなかったそうである。それでも建物ができるころにはみな建設技術を向上させ、地震から4カ月の9月11日に3棟校舎500平米の建築が完成した。この校舎は写真で見ても分かるように明るく開放的な建物であり、施主からは大変喜ばれ、今も子供たちが学んでいるそうだ。 

 最後に、中国における建築を巡る事情は日本とはかなり異なる所が多いので、その辺りを簡単に記しておきたい。まず、中国ではつい最近まで民間の建築設計事務所というものはなく、そのほぼ全てを官営の設計事務所が担っていた。それは「設計院」と呼ばれ、今でも大組織としてたくさんの建設を実現している。実は劉氏も設計院出身でその後自身の民間事務所を開設した建築家であり、松原氏も一時期瀋陽の設計院で働いた経験がある。 

 また、中国では詳細な地図を入手することができない。我々も新北川の地図を購入しようといくつかの店を回ったのだが売っていなかった。たまたま見つけられなかっただけだろうと思っていたのだが、松原氏に聞くと、日本の住宅地図程度のものであっても、軍事的な理由から普通の書店などでは販売されていないとのこと。 

 都市計画地図は勘察院という役所で管理しており、その地図には、航空写真から正確に作成された測量図上に紅線で計画道路の情報が示されているという。開発業者が都市開発を行う際は、ここから測量情報・道路情報を入手し、それに従って開発が進められるそうだ。一元管理された地理情報が限られた形でしか出回っていない中国の現状は、さまざまな民間業者の分かりやすい都市地図が出回っている日本の状況とは大きく異なる。 
  

 さて、今回の四川大震災レポート、前篇では北川地震遺址、新北川県城、ジーナーチアンジャイの3つのプロジェクトを取り上げ、その計画のスピードと実行力を評価する記事になっていたが、奇しくも後篇では、その中央で全てを進めていくやり方の問題点を指摘する形になった。おそらく、通常時であればできる限り多くの人が納得するような形で、民主的に物事を進めるのが良いのだろう。多くの大規模な計画は、変化していく状況に対応することが難しく、少しずつ状況の変化に合わせてトライアンドエラーで進めていくことのほうが、上手くいく可能性が高いからだ。さらに言えば、安定した社会状況下では究極的には政府がなにもしないということがあまり問題にならない。 

 ただ、それも震災のような非常時は違ってくる。大量の人々が通常の生活を送ることができなくなり、深く傷ついた状況であれば、逆にどのような方法であれ、やらないよりはやったほうが良い可能性が高い。もちろん計画によって、結果は違ってくるだろう。しかし悩んでいる間にも非常時には状況は悪化してしまうのだ。 

 結局の所、劉氏も言っていたように、それぞれメリットとデメリットがあり、どちらが良いということではないのだろう。そう考えると、互いにそれぞれの状況を知り、学びあっていくことがより良い復興への道になるのではないかと思う。
写真提供=劉家琨

浅子佳英

1972年神戸市生まれ。2007年タカバンスタジオ設立。東浩紀らと共に合同会社コンテクチュアズ設立(現ゲンロン)。2012年退社。商業空間を通した都市のリサーチとデザインで活躍。主な作品に〈Gray〉〈八戸市新美術館設計案〉(西澤徹夫との共同設計)。2009年、主な論考に「コムデ ギャルソンのインテリアデザイン」(『思想地図β』vol.1所収、コンテクチュアズ)、共著に『TOKYOインテリアツアー』など。 撮影:新津保建秀
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