「もうひとつの復興計画」四川大地震レポート(後篇)|浅子佳英
劉氏は1956年生まれの四川で活躍する建築家。ただ、そのキャリアは少し変わっており、20年近く教職や評論活動を行った後、1999年に事務所を設立している。出身地である四川で地に足をつけて土着的に設計を行いながらも、 ヴェネツィア・ビエンナーレなどにも参加しており、 その質の高い空間から世界から注目されている建築家のひとりだ。日本でも『GA』、『a+u』などの建築雑誌でその作品は紹介されている。
劉氏へのインタビュー当日、ちょうど我々は前篇で紹介した北川地震遺祉や新北川に取材に行った帰りだったため、まずはそのふたつについて伺った。
「旧北川の街があった場所は地盤が悪く、下には断層があり、歴史的にもこれまで何度か地震が起こっています。本来は街を作るにはあまり適していない場所であり、今後も同じような災害が起こる可能性があるのです」
たしかに前篇で記したように旧北川の街は山の谷底にあるために土砂崩れが酷く、街の一部が土砂で埋まっている。そのことも指摘した上で、
「今回は別の場所に新しい街を作ることが必要だったと思います」
ということだった。そして、今後も地盤的に不安定な地域である旧北川に比べ、新北川は平地で地盤も良く、再建には向いた場所だとのこと。ただ驚いたのは中国では新たに街を作るよりも、古い街を再建するほうが難しいという。
「中国では、これまでにも古い街を捨て街ごと新しい場所に移転した前例が200近くあります。また、古い場所に比べ、新しい場所であれば、障害もなく思いのままに計画できるからです」
もちろん言われてみればその通りだが、この辺りの状況は日本とは違う。その辺りをもう少し聞いてみると、中国の社会体制とか指導思想が違うからだろうということだった。
「そもそも中国では土地が全て国の物です。そして、中央がなにかを決定すれば、基本的にはその通りに事が運びます。例えば、今回のように「新しい北川に移転しよう」と中央が決めればそのまま実現することはそれほど難しくありません。指示が出れば、用地の確保から元々の市との調整等々と事が運んでいくのです。
逆に日本だとみんなの意見を調整しないと実現できないという面があるかと思います。だからメリットとデメリットはどちらにもあるのでしょう」
今回の計画についてはどう思うかを聞いてみたが、劉氏はまだ新北川の新しい街はまだ見ていないのだという。近くにあるために不思議なのでその理由について聞いてみると、忙しいということもあるが、新北川の復興の計画には関わっていないことが大きいようだ。
前篇で書いたように、新北川は対口支援によって建設されており、担当の省は山東省である。この対口支援は担当する省の責任で行われるため、 新北川の建設や設計は山東省の建設会社や設計事務所が行っている。そのために山東省以外の設計事務所や建設会社は、例え地元であっても、復興のための建築注文を受ける機会は少ない。
ただ最後に劉氏は「見ていないので分からないが……」と前置きした上で、新北川に対してこう返答してくれた。
「新北川は現代的な街で表面に羌族のマークかなにかを貼りつけているだけではなく、中核にも伝統建築の元々あった様子を復旧させれば良いと思う。中国では「根を残す」という言い方をしますが、 できる限りその土地の文化を残すのです」
リバースブリック
リバースブリックは、劉氏が手がける、瓦礫に麦を混ぜてセメントで固めた再生レンガを作るプロジェクトである。このリバースブリックは地元の工場で作られている。レンガは国の検査を受けていて販売もされている。現在では、製品のバリエーションも増え、安く作られているとのこと。
そしてこの計画は三段階を経て進んだ。第一段階は被災地にある瓦礫を使用してその場で作る手作業の段階。二段階目は工場で制作し販売する機械化の段階。三段階目は環境保護を目的とした資源の再利用という段階である。たしかに環境保護という目的なら震災に興味を持たない人にも使用してもらえるので上手いやり方だ。また、このレンガはヴェネツィア・ビエンナーレでも発表され、さらには自分のプロジェクトにも使用しているとのこと。
実際に実物を見せてもらったが、瓦礫を中に入れているためにそれぞれ微妙に表情が異なり、独特の風合いがあった【写真1】。
少女のための記念館
胡慧姗記念館は四川大地震で亡くなったある少女のために作られた【写真2】。劉氏が廃墟になった被災地でこの少女の両親に出会い実現したものだ。費用は劉氏の寄付でまかなっている。
浅子佳英