フェイク VS. フィクション──『ドンバス』が描く寓話|本田晃子
初出:2022年7月31日刊行『ゲンロンβ75』
2月にロシア軍によるウクライナ侵攻が開始されてから、日本でもロシア側によって作成されたと思しきフェイク・ニュース動画が話題になった。同じ人物が全く違うシチュエーションの動画に複数回登場したり、背後に映りこんでいる風景が明らかにウクライナでなかったりなど、その雑な造りがしばしば間違い探し大会を引き起こしたことは記憶に新しい。セルゲイ・ロズニッツア監督の『ドンバス』(2018年)は、フィクションの親玉である映画の側から、そのような雑なフェイクの種明かしをしつつ、本気のフィクションがどれほどリアルに迫れるのかを突きつけてくる。
冒頭の場面はいきなりフェイク・ニュースの撮影風景から始まる。役者たちはトレーラー内で支度し、ディレクターの指示でウクライナのテロリストに怯える市民の役を演じ始める。そしてこれ以降のすべてのエピソードは、これらの人びとによって制作されたフェイク・ニュースという体裁をとる。なのでわれわれ観客も、フェイク・ニュースのあら探しをするように──たとえば同一人物が異なる役で何度も登場するのを見つけながら──物語を眺めることになる。いわばロズニッツアは、映画という虚構のなかでフェイク・ニュースの手管をこれ見よがしに用いることで、虚構であるにもかかわらず現実のようにふるまおうとするフェイクの詐術を暴露するのである。
もっともこの作品の射程は、単なるフェイクの告発に終始するものではない。というのも、ウクライナとロシアではソ連時代からそもそも虚構と現実は不可分の関係にあったからだ。
冒頭の場面はいきなりフェイク・ニュースの撮影風景から始まる。役者たちはトレーラー内で支度し、ディレクターの指示でウクライナのテロリストに怯える市民の役を演じ始める。そしてこれ以降のすべてのエピソードは、これらの人びとによって制作されたフェイク・ニュースという体裁をとる。なのでわれわれ観客も、フェイク・ニュースのあら探しをするように──たとえば同一人物が異なる役で何度も登場するのを見つけながら──物語を眺めることになる。いわばロズニッツアは、映画という虚構のなかでフェイク・ニュースの手管をこれ見よがしに用いることで、虚構であるにもかかわらず現実のようにふるまおうとするフェイクの詐術を暴露するのである。
もっともこの作品の射程は、単なるフェイクの告発に終始するものではない。というのも、ウクライナとロシアではソ連時代からそもそも虚構と現実は不可分の関係にあったからだ。
たとえばレーニン率いるボリシェヴィキがロシアの実権を握るきっかけとなった1917年の十月革命は、その10年後に映画監督セルゲイ・エイゼンシテインによって、実際に革命の舞台となったレニングラードの冬宮前広場で、本物の労働者や赤軍兵士を動員し、映画として再現された。エイゼンシテインの『十月』が描いたのは十月革命の正確な姿ではなく、理想化された「あるべき」革命の姿だったが、それでもそのイメージはソ連という国の誕生の瞬間として広く共有され、ソ連という国のアイデンティティの拠り所となった。
しかしスターリンの独裁体制下で、さらなる転倒が生じる。虚構が現実を模倣するのではなく、現実が虚構に倣うようになるのだ。1930年代に開催された「見世物裁判(show trial)」はその最たる例といえよう。そこで「見世物」となったのは、当時スターリンらが敵視していた古参の共産党党員や軍人、各種の専門家だった。彼らは突然逮捕され、脅迫や拷問によって「外国のスパイとして活動した」、「国家転覆を計画した」などの嘘の自白を強要され、さらに法廷に集まった無数の傍聴人=観客の前で自らの罪を告白させられた。そして彼らのパフォーマンスは、しばしばその死によって幕を閉じた。人びとのリアルな生を飲み込むことで、虚構は現実となったのである。
そのような見世物裁判のうちのひとつである産業党裁判の記録映像をもとに作られたのが、ロズニッツアの『粛清裁判』(2018年)だった。この裁判では、かつての貴族の館の私設劇場が法廷として使用され、壇上の裁判官や被告には撮影のためのスポットライトが照射され、まさにショーの様相を呈した。このような見世物裁判で「敵」を吊し上げる群衆には、『ドンバス』でウクライナ兵捕虜に喜々としてリンチを加える人びとの姿が先取りされているといえよう。
しかしスターリンの独裁体制下で、さらなる転倒が生じる。虚構が現実を模倣するのではなく、現実が虚構に倣うようになるのだ。1930年代に開催された「見世物裁判(show trial)」はその最たる例といえよう。そこで「見世物」となったのは、当時スターリンらが敵視していた古参の共産党党員や軍人、各種の専門家だった。彼らは突然逮捕され、脅迫や拷問によって「外国のスパイとして活動した」、「国家転覆を計画した」などの嘘の自白を強要され、さらに法廷に集まった無数の傍聴人=観客の前で自らの罪を告白させられた。そして彼らのパフォーマンスは、しばしばその死によって幕を閉じた。人びとのリアルな生を飲み込むことで、虚構は現実となったのである。
そのような見世物裁判のうちのひとつである産業党裁判の記録映像をもとに作られたのが、ロズニッツアの『粛清裁判』(2018年)だった。この裁判では、かつての貴族の館の私設劇場が法廷として使用され、壇上の裁判官や被告には撮影のためのスポットライトが照射され、まさにショーの様相を呈した。このような見世物裁判で「敵」を吊し上げる群衆には、『ドンバス』でウクライナ兵捕虜に喜々としてリンチを加える人びとの姿が先取りされているといえよう。
ただし『ドンバス』の優れた点は、現実にロシア軍占領地域で起きた事件を下敷きに、真に迫ったドンバスの日常を描きながらも、同時にそれがゴーゴリのグロテスクやハルムスの不条理の世界にも開かれているところにある。たとえば自動車を占領軍に盗まれた地元の男性セミョーンが、返還を求めて警察署を訪れる場面。署長に事情を説明するセミョーンの手前には同じように民間人から「接収」(つまりは略奪)された携帯電話の山ができている。そして必死で交渉するセミョーンをあざ笑うかのように、着信メロディが次から次へと鳴り響く。その滑稽なグロテスクさは、一見反リアリズム的(作為的)に映るが、同時に、抑圧的な体制の下では現実は時にフィクションよりもグロテスクになりうることを想起させもする。
『ドンバス』では、フェイク・ニュースの撮影に携わっていた人びとは、映画の最後に証拠隠滅のために殺害される。そして間もなくその虐殺の現場には新たなTVクルーと俳優が送り込まれ、彼らの死はテロによるものとして新たなフェイク・ニュースのネタとなり、世に送り出されていく。『ドンバス』という映画自体は、このフェイク・ニュースの撮影の終了とともに終わるが、それはまるでハルムスによるナンセンス短編「墜落する老婆たち」の、窓から落ちた老婆を見るために下をのぞき込んだ老婆が落下し、さらにそれを見るためにのぞき込んだ次の老婆が再び落下し……という反復を予期させる。このようにロズニッツアは、今もなお虚構が現実の血を吸うことによって繰り返し実体化され強化されていく状況を、自らの虚構性に自覚的な映画というメディアによって、一種の寓話として描き出すのである。
『ドンバス』では、フェイク・ニュースの撮影に携わっていた人びとは、映画の最後に証拠隠滅のために殺害される。そして間もなくその虐殺の現場には新たなTVクルーと俳優が送り込まれ、彼らの死はテロによるものとして新たなフェイク・ニュースのネタとなり、世に送り出されていく。『ドンバス』という映画自体は、このフェイク・ニュースの撮影の終了とともに終わるが、それはまるでハルムスによるナンセンス短編「墜落する老婆たち」の、窓から落ちた老婆を見るために下をのぞき込んだ老婆が落下し、さらにそれを見るためにのぞき込んだ次の老婆が再び落下し……という反復を予期させる。このようにロズニッツアは、今もなお虚構が現実の血を吸うことによって繰り返し実体化され強化されていく状況を、自らの虚構性に自覚的な映画というメディアによって、一種の寓話として描き出すのである。
『ドンバス』公式サイト:https://www.sunny-film.com/donbass
本田晃子
1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学社会文化科学研究科准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』、『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』(いずれも東京大学出版会)など。
1 コメント
- nankai4go2023/01/09 22:18
ドンバスを見た後に、本田さんの記事をみて理解が深まりました。 印象的だったのは、ウクライナの志願兵を新ロシア派住民が街頭でリンチをするシーンと、最後の味方を銃殺するシーンです。映画という虚構をみているはずなのに、まるでノンフィクションのような、現実にあった話のような感じがして奇妙でした。まさに本田さんの言うように、虚構と現実の区別のつかない世界を感じることができたということなのでしょうか。