方位/包囲の江戸絵画(1) 火事と悲恋と鬼門と女|春木晶子
初出:2022年2月25日刊行『ゲンロンβ70』
■ 首都化と周縁化
どうしてこんなに地震が多いのに日本に住んでいるのか。「生まれた国だから」「日本が好きだから、便利だし」。
2019年12月、オランダのライデンで、オープンしたばかりの自然史博物館を訪ねた。大規模な施設の一角に、日本の地震をテーマにした展示があった。地震を体験できるアトラクションの傍で、日本で撮影された若者への街頭インタビューの様子が流れていた。
今までここにいたから今もここにいるだけで、住んでいる場所に意思も意図もない、というのが本当のところだろう。しかし地震のない国の人にしてみたら、東日本大震災を経てもなおそこに住み続ける日本人は勇気ある者に、あるいはとんだ愚か者に映るのかもしれない。
そういえば2017年に上京したときも、直下型が危ないからやめた方がよいと言う人があった。それでなくとも、「地方創生」を推し進める国や時流に逆らっての上京ではあった。だが当時の東京はそんな時流などどこ吹く風だった。東京には人が来る。世界的な感染症の流行が長引くに及んでようやく、流入一辺倒だった状況に変化が見え始めたようだ。
進学のため。仕事のため。上京の理由は、経済的、実利的なものが多いだろう。江戸も同様だった。将軍のお膝元である江戸は第1に武士の町だった。旗本・御家人といった江戸幕府直属の家臣に加えて、全国各地に「お国」を持つ地方武士たちが単身赴任していた。
寺社町や町人町は、武士の暮らしを支えるいわば「インフラ」の役目を担い発展していった。例えば振売商人たちは、市場で野菜や魚など特定の商品を買って1日売り歩き、日々の糧を得ていた。商品やサービスが多様化するなか、己の才覚で生き抜ける好機が転がっていた。
江戸には人が来た。だからこそ、「江戸っ子」であることがステイタスになった。江戸の生まれを自慢にし、江戸への帰属意識を誇示するこの言葉が町人たちの間で生み出されたのは、18世紀後半のことだという。経済的な安定を獲得した江戸で、実利だけではない価値を孕む「文化」が醸成されたのがこの頃だった。「文化」が江戸を権威づけ、またそれが人を集め、さらなる「文化」を育んだ。そうして江戸は経済的にも文化的にも、自他ともに認める中央へと成り上がった。
ただし、あるものを高めることは、他のあるものを貶めることにもなる。
江戸の中央化は、ただ自らの価値を高める営みによってのみ、達成されたわけではない。中央である自らを浮き立たせるために、周縁を捏造することにも抜け目がなかった。
周縁というとただちに思い起こされるのは、別稿「北のセーフイメージ」(『ゲンロンβ』49号・50号・52号掲載)で取り上げた「蝦夷」のように、江戸から遠く隔たった辺境の事象である。
しかし、それだけではない。江戸の人々にとって身近であったもの、尊ばれたものさえもが、首都化/周縁化のメカニズムに巻き込まれていたことを、本稿では見ていく。
寺社町や町人町は、武士の暮らしを支えるいわば「インフラ」の役目を担い発展していった。例えば振売商人たちは、市場で野菜や魚など特定の商品を買って1日売り歩き、日々の糧を得ていた。商品やサービスが多様化するなか、己の才覚で生き抜ける好機が転がっていた。
江戸には人が来た。だからこそ、「江戸っ子」であることがステイタスになった。江戸の生まれを自慢にし、江戸への帰属意識を誇示するこの言葉が町人たちの間で生み出されたのは、18世紀後半のことだという。経済的な安定を獲得した江戸で、実利だけではない価値を孕む「文化」が醸成されたのがこの頃だった。「文化」が江戸を権威づけ、またそれが人を集め、さらなる「文化」を育んだ。そうして江戸は経済的にも文化的にも、自他ともに認める中央へと成り上がった。
ただし、あるものを高めることは、他のあるものを貶めることにもなる。
江戸の中央化は、ただ自らの価値を高める営みによってのみ、達成されたわけではない。中央である自らを浮き立たせるために、周縁を捏造することにも抜け目がなかった。
周縁というとただちに思い起こされるのは、別稿「北のセーフイメージ」(『ゲンロンβ』49号・50号・52号掲載)で取り上げた「蝦夷」のように、江戸から遠く隔たった辺境の事象である。
しかし、それだけではない。江戸の人々にとって身近であったもの、尊ばれたものさえもが、首都化/周縁化のメカニズムに巻き込まれていたことを、本稿では見ていく。
■ 火事と女は江戸の端
「火事と喧嘩は江戸の華」。そう言われるほど頻繁だった江戸の火事のなかで、最大の被害を出したのが「明暦の大火」だ。日本史上最大と言われるこの大火災に、「振袖火事」なる別称があることを、恥ずかしながら最近になって知った。
江戸幕府開府からおよそ半世紀を経た明暦三(1657)年1月18日の昼過ぎ、江戸の北、本郷丸山にあった日蓮宗本妙寺から出火。北西からの強風により舞い上がり燃え広がった火が、江戸の町を焼き尽くした。『元延実録』によれば、大火後に牛島新田(現在の墨田区両国)に葬られた死者は63430余人、加えて漂着した死体が4654あったという。
江戸城は西の丸をのぞき消失。160にのぼる大名屋敷をはじめ、旗本屋敷や町人町にも甚大な被害があり、江戸の市街地の6割ほどが焼亡したという。大火以前の桃山風の壮麗な大名屋敷は失われ、かわって災害からの復興では、質素倹約を旨とする建物が建ち並ぶようになる。
災害に強い街づくりがそこからはじまった。百万都市江戸の繁栄は、この火事を起点とするといっても過言ではない。
このため火をつけたのは江戸幕府ではないかという陰謀論も囁かれてきたようだ。だがそれよりもずっと広く長く、まことしやかに伝えられてきた話がある。それが「振袖火事」の由来だ。
話のあらましはこうだ。麻布の質屋の娘、17歳の梅野が本妙寺に参詣した折、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れする。恋の病のためか、日々衰弱していく梅野。小姓を探すが見つからず、両親はせめてもの慰めに彼が着ていたのと同じ柄の振袖を梅野に与えた。狂喜乱舞も束の間、やがて梅野は振袖をかき抱いたまま命を落とす。その振袖をかけられた棺が、本妙寺に納められた。
寺の者はその振袖を古着屋に売った。ところが翌年の梅野の命日に、上野の町娘・きの(17歳)の葬式があり、棺にあの振袖がかけられて同寺に納められた。再度売られた振袖はまた別の町娘・いく(17歳)の葬式で、3たび本妙寺に運び込まれた。
因縁を感じた住職は、振袖を寺で焼いて供養することを3人の娘の両親たちとともに決めた。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、北方から一陣の狂風が吹きおこり、舞い上がった火が延焼、江戸の街を焼き尽くす大火となった[★1]。
江戸時代最大の惨事の要因は、17歳の少女の恋に帰されてきた。
これとよく似た話がある。
春木晶子
1986年生まれ。江戸東京博物館学芸員。専門は日本美術史。 2010年から17年まで北海道博物館で勤務ののち、2017年より現職。 担当展覧会に「夷酋列像―蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界―」展(北海道博物館、国立歴史民俗博物館、国立民族学博物館、2015-2016)。共著に『北海道史事典』「アイヌを描いた絵」(2016)。主な論文に「《夷酋列像》と日月屏風」『美術史』186号(2019)、「曾我蕭白筆《群仙図屏風》の上巳・七夕」『美術史』187号(2020)ほか。株式会社ゲンロン批評再生塾第四期最優秀賞。