北のセーフイメージ(1) 病と支配のアイヌ絵史|春木晶子

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初出:2020年05月25日刊行『ゲンロンβ49』

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安心のかたち


 日常を一変させた新型ウイルス。その「見えない恐怖」に怯える人が少なくない。しかし、いやむしろだからこそ、ウイルスの姿は毎日のように、「見える」。電子顕微鏡で撮影された拡大写真、CGによる3Dモデル、それらを簡略化したイラスト。見えないはずのそれをあらゆる方法で可視化したイメージが、新聞にテレビにインターネットに、感染をはるかに上回る規模で蔓延する。あの不気味な、突起に覆われた球体のイメージを、もはや誰もが思い描くことができよう。ウイルスだけではない。感染状況の推移を示す種々のグラフやマップ。江戸時代の瓦版に登場したという疫病除けの妖怪アマビエ。「見えない恐怖」を「見える安心」に変えるべく生み出されたイメージたちは、恐怖を可視化せずにはいられない、わたしたちの性をも、あらわにする。

 それは古代から通底する人間の性であろう。中国古代の辟邪(=邪悪をける)思想に言及した小林太市郎によれば、人間の吉凶禍福は皆、「神示と鬼物」の為すところと信ぜられたので、「人は神示を祀ってその福を享け、鬼物を除けてその害を除かねばならぬとされ」、「鬼物の形像を画図に現はすことが即ち之を辟くる所以と為された」★1。画像を描くことに期待されたこの呪術的(マジカル)な力は、「科学」に基づく知が急速に普及した江戸時代にあってなお、衰えるどころか、むしろ増大したと見え、高度な印刷技術と出版流通システムを背景に、疫病退散を祈る魔除けの絵画が大量に印刷されては消費された。

 今日のコロナイメージの氾濫とそれを消費する心性は、江戸時代の状況とよく似ている。江戸時代に魔除けの絵画を消費した人も、今日血眼になってグラフの変化に一喜一憂する人も、もとめるものは、科学的知識や正しい情報などでは決してなく、ただ一つ、「安心」であろう。安心できる説明を、それもわかりやすいイメージを、人はもとめてやまない。しかし今日、臆面もなく「安心」をもとめ、憚りなくその権利を主張する人は、その裡にある暴力に、それが、傷つけ、損なう、加害者の振る舞いにもなり得ることに、果たして気がついているだろうか。

「安心」は、支配の原理と、巧妙に結びついている。


生理学が身体奥処おくがの「深い」「らい」虚部について洞察を得られたのは、十八世紀地理学、人類学の、遠い「異」国をめぐり、遠い「な」習俗をめぐる議論を動かしていた支配的メタファー群の同様な、関連・比較のシステムによるところ大であった。★2


 バーバラ・M・スタフォードによれば、18世紀ヨーロッパで、大航海時代と帝国主義がもたらした地理的、人類学的関心は、身体内部にも向けられ、あらゆる未知を可視化しようとする欲望が夥しい数のイメージを産み、「知の視覚化」と呼ぶべき現象が興ったという。高山宏が着目するように、同じ現象は同じ時代に日本でも巻き起こっていた。
 そうした動向に沿いつつ、知識人や大衆の好奇と恐怖が入り混じる眼差しに晒されてきた存在に、「蝦夷」/「アイヌ」がある。「アイヌ」とはアイヌ語で「人」を意味し、今日では民族の名称に用いられている。その名が定着する前、北海道が蝦夷地あるいは蝦夷ヶ島と呼ばれた頃、そこに暮らし、「日本人」――この呼称も括弧付きのものだが――から「異人」と見なされた人々は、「蝦夷」と呼ばれた。本稿では、異人と眼差された蝦夷/アイヌを「アイヌ」、彼らを異人と眼差した「日本人」を(アイヌも「日本人」に同化されていくので)慣例に従い「和人」と称する。

 和人によるアイヌの造形を紐解くと、そこからは意外にも、病と支配の密接な関係が、ありありと浮かび上がってくる。どうやら蝦夷地支配のイメージは、疫病退散のイメージと分かち難く結びついていたようだ。アイヌは文字を書かず、絵を描くことをしなかったので、彼らは「セルフイメージ」を持ち得なかった。代わりに彼らが持ち得たのは、和人から押しつけられた「安心のかたち」、いわば「セーフイメージ」ばかりであった。

病は北から鬼門から


 川越宗一の『熱源』(2019)が直木賞を受賞したのは、国内が新型ウイルスの話題で持ちきりになる、ひと月ほど前のことだ。本書は19世紀後半から20世紀前半の樺太/サハリンを主軸に、日本やロシア/ソ連といった「国家」に翻弄され、故郷を喪失した、人種や民族や国籍の異なる人たちの交錯を描く長編歴史小説である。それが描き出すアイヌ民族ヤヨマネフクの前半生は、図らずも今日の感染症の流行を彷彿とさせる。ヤヨマネフクは、幕末に樺太に生まれ、明治になって北海道の対雁ついしかりに移住し、その村とともに成長し、結婚し、子を儲ける。しかし、コレラや痘瘡(疱瘡ほうそう)といった度重なる疫病が、同胞を、村を、そして最愛の妻をも、彼から奪い去る。のちに樺太に渡ったヤヨマネフクは、アイヌのための学校を建てようとする仲間のために尽力し、「衛生や伝染、免疫の知識があれば、あんなに人が死ななくてもよかったかもしれない」と、周囲を説得し、資金集めに奔走する。彼の亡き妻は、「病気の種を体に入れるなんて、気持ち悪い」と言い、種痘しゅとう)(ワクチン接種)を拒否していたのだった。

 疫病で命を落とした同胞を、来る日も来る日も焼いては運ぶ。『熱源』が描くその壮絶な光景によって、一幅の絵が思い出された。《種痘施行図》(1857年、縦70.4cm 横92.2cm、東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館所蔵)【図1】である★3

【図1】《種痘施行図》(東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館所蔵。掲載許諾取得済み)
 掛軸にしては大きなその画面には、90人近いアイヌと、十数名のかみしも姿の和人が描かれる。19世紀半ば、アイヌ集落に天然痘(疱瘡)が蔓延したのを憂いた箱館奉行・村垣範正は、幕府に医師の派遣を依頼し、安政四年(1857)、桑田立斎率いる医師団11名により、およそ6000人のアイヌへの集団種痘が実施された。本作はその、日本で初めての強制集団種痘の記録であり、行政史上、医学史上、貴重な史料とされる。

 種痘という内容こそ前例のない新規なものではあるが、本作の構造は、アイヌを描く絵の伝統にのっとり、支配非支配の関係を可視化する機能を備えている★4。江戸時代、北辺の異民族「蝦夷」は、古代大和朝廷に従わなかった「えみし」の系譜に連なるものと説かれた。「えみし」を描く絵は、古くは平安時代に制作された「聖徳太子絵伝」に確認でき、太子にひれふすその姿が知られる。為政者にひれふす夷狄いてきの姿は、為政者の支配が国のすみずみにまで行き届いていることを可視化するのに恰好のモチーフであった。18世紀になると辺境の異民族と認定された「蝦夷」は、知識人たちの関心の的となり、その姿や風俗を図説した書物が出版されはじめる。18世紀中頃には、「蝦夷」を独立した「画題」とする「夷画えぞえ」、今日「アイヌ絵」と呼ばれる絵画を専門に手がける絵師が登場する。

《種痘施行図》を描いたのは、その掉尾を飾る絵師、幕末の箱館で活動した平澤屏山びょうざん(1822-1876)である。屏山の描くアイヌには、アイヌ絵がおよそ100年かけて培ってきた「アイヌ的なもの」が、過剰に、誇張されたうえで、詰め込まれる。例えば男性のアイヌは、大きく突き出た鼻や頬、窪んだ眼窩にぎょろりとした目、浅黒い肌、豊かな髭、微細に描きこまれた濃い体毛を有し、海老のように腰を屈めて歩く。和人との容貌や慣習の違いを強調した「異容」を極めた人物を、これまた和人とは異なる衣装や器物とともに、数多く描き画面に横溢させるのが、この絵師の特徴だ。それは、アイヌを異民族と見なす人々のエキゾティズムを存分に満たしたようで、屏山の絵は、箱館に在留の外国人でその絵をもとめない者はいないと言われるほどの人気を獲得し、絵の多くは欧米に現存する。
 ただし《種痘施行図》は、それら土産物となった絵とは一線を画す。この絵の制作を企図したのは、箱館の有力商人杉浦嘉七で、彼は贔屓にしていた屏山に絵を描かせて、それを奉行の村垣に献上した。つまりこの絵は、村垣の善政を讃えるという目的のもとに制作された、政治的企みをはらんだ贈答品であった。

 和人とアイヌの対照は、ここでも明確に可視化される。描かれる場は、囲炉裏のある板敷の広間で、そこにアイヌの老若男女が集う。画面右上では衝立を背に奉行の村垣が中央に座し、その眼前で医師の桑田が種痘の指揮をとる。衝立の周囲には、陣羽織、奉書紙、漆器などの多様な器物が配され、それは種痘を受けたアイヌへの褒美の品と見られる。和人たちの、整えられ落ち着き払った身なりや佇まい、それを彩る豪華な器物に対し、アイヌはエキゾティズムを満たす衣装や装身具に身を包むか、あるいは肌を露出し、おそれや嘆き、好奇など多彩な表情や身振りを見せ、粗野な印象を与える。和人を画面の右上に、アイヌを画面の左下に配す対角の構図は、屏山が数多く手がけた熊送り儀礼を描く絵の構図を踏まえている。すなわち、礼拝対象である熊を祀る祭壇の位置に支配者を、礼拝者の位置に被支配者を配すことで、上下や優劣、支配非支配の対照が明確に示される。つまり、この絵が讃えた奉行村垣の善政とは、日本初の強制集団種痘という一つの記念的事業の実施以上に、それを通して果たされる、蝦夷の統治の強化であった。

 それだけではない。この絵は村垣に献上された後、更なる展開を見せる。種痘を施した医師の桑田立斎は、村垣から絵を借用し、自家のために模写を作成した。その模写本はさらに、浮世絵師の二代歌川國貞によって模写され、錦絵《公命蝦夷人種痘之図》となって、江戸の市中に出回った★5。いったいこの絵のどこに、江戸の人々の需要があったのか。さしずめそれは、新型コロナウイルスのワクチンが開発され、それを接種する他国のニュース映像を見るようなものだろう。件の錦絵が絵を見る人々に与えたのは、辺境の異民族が種痘を受けることにより、自らの感染の危機が少なくなるという「安心」に他ならない。一点物の掛軸から量産可能な錦絵へとメディアを変え、為政者の村垣から大衆へと鑑賞者を変えることで、蝦夷地の支配強化という村垣の善政を寿ぐ絵は、江戸の人々の「安心のかたち」へと、成り変わった。
 奈良時代には東大寺の大仏建造の契機となり、江戸時代には死因の第一位を占め、死を免れたとしても失明や痘痕といった後遺症がのこる可能性が極めて高かった疫病、天然痘(疱瘡)。この病こそは長らく、人々を脅かす見えない恐怖の代表であった。18世紀にイギリスの医師ジェンナーにより、牛の天然痘の膿を摂取して免疫を得る牛痘種痘法が開発され、今日では人類が唯一撲滅に成功した感染症となる(「ワクチン vaccine」の名はラテン語の「牛 vacca」に由来する)。しかし、日本でこの予防法が普及し定着するのは19世紀半ばを待たねばならなかった。それまで、最もメジャーなその対処法は、ひたすら祈願することであった。疱瘡の流行は疱瘡神の仕業と考えられ、それを除けるため、あるいは、かかったときの症状を軽くするために、人々は疱瘡神をもてなしてその機嫌をとるか、あるいは反対に、神仏や英雄にそれを退治してくれるよう頼んだ。幾多の行事や習わしがこのためにとり行われ、護符に絵画に郷土玩具といった疱瘡除けグッズが市中を賑わせた。神社仏閣や民間の年中行事に、その名残は今なお色濃くのこっている。

 疱瘡は、エミシ(蝦夷)やエビス(夷)の国からやってくるという考えがあったという★6。残念ながらこの流言の典拠は定かでない。しかし江戸時代、蝦夷地は北東/鬼門であるという観念があったこと★7を踏まえれば、「病は北から」という発想は、至極まっとうである。アイヌからすれば本州から持ち込まれた病であり、とんだ言いがかりであろう。だが、こうした思潮があったとすれば、件の蝦夷地での種痘は、国内初の集団種痘にとどまらない意義をもつ。種痘が疱瘡の出発地、ウイルスの発生源で行われたとすれば、それを描く絵を超える「安心のかたち」があるだろうか。

 蝦夷地/鬼門のおそれには、疫病のおそれが重ねられていたのではないか。そもそも蝦夷地を支配したいという欲望の背景に、疫病への不安があったのではないか。これは近世に限った問題ではなく、古代以来の「征夷」の観念を考えるうえでも、重要な観点である。考えてみれば当然とも思われるこの考えは、これまでまったく言及されてこなかった。それは、こうした思潮が、記録や文献にはっきりと明記されてこなかったためだろう。しかし、少なくともアイヌを描く絵は、支配の欲望と病へのおそれが表裏一体であったことを、うつしだす。

英雄たちの統治と痘治


 そうした支配と病の関係は、一見すると病とは無関係と見える絵にも見出すことができる。本項では、武者とアイヌを組み合わせた一連の絵に着目する。

 例えば、北海道南部の神社に奉納されたと伝えられる《アイヌ風俗絵馬》(縦80.0cm 横127.0cm、市立函館博物館所蔵)【図2】と名付けられた作者不明の絵馬がある★8

【図2】《アイヌ風俗絵馬》 撮影=著者(市立函館博物館所蔵。掲載許諾取得済み)


 画面には、北海道にのこる絵馬のなかでは比較的古い、安永四年(1775)の奉納年が記され、甲冑姿の武者と、五人のアイヌが描かれている。画題は「義経蝦夷渡伝説」――平泉で自刃したとされる源義経(1159-1189)は、そこで死なずに蝦夷地に渡り、その地を征服し大王と仰がれ、後に神として祀られた――であろう★9

 義経に向かってひざまずく三人は、儀礼の際に見られるアイヌの祈りのポーズ(掌を上にして指を軽く折り曲げる)をとり、義経に敬意を示す。先述のアイヌを描く絵の伝統にのっとり、支配と被支配の関係がここでも明確に可視化される。加えて、義経とアイヌのあいだには、三本の巻物と赤い鯛が描かれ、アイヌがこれらを義経に献上しているように見える。北海道に伝わる義経伝説のなかには、義経がアイヌから巻物を奪ったために、アイヌが魔法を使えなくなったとか、文字を書けなくなったといったものがあり、巻物はそうした伝承に基づくものであろう。問題は鯛のほうである。鯛は、絵画や工芸品に頻繁に用いられる縁起物であるが、ここではそれにとどまらない意味、すなわち、疱瘡除けの願いを負ったものと見たい。疱瘡には赤が効くという信仰がある。疱瘡除けの玩具には達磨をはじめ赤に縁あるものが多く、疱瘡絵はしばしば赤一色で印刷され、赤絵とも呼ばれた。赤い鯛も、疱瘡除けの玩具や疱瘡絵に頻繁に用いられたものである。加えて、この絵馬の奉納から100年以上のち、明治時代の奉納になるが、この絵馬の義経とひれふすアイヌをそっくり写したような絵馬【図3】が、やはり北海道南部の上ノ国かみのくに八幡宮にあり、その絵馬の裏には、病気平癒のためにこれを奉納するとの墨書きがある★10

【図3】上ノ国八幡宮の絵馬 撮影=著者(上ノ国八幡宮所蔵。掲載許諾取得済み)
 その病が疱瘡かどうかはわからない。しかし、義経とそれにひれふすアイヌの図が、病の治癒と関係していることを示唆することは見逃せない。

 いまひとつ、武者とアイヌを組み合わせた絵を見ていく。和人とアイヌの交易拠点であった余市よいち町の下ヨイチ運上家うんじょうやに今なお飾られる巨大なのぼり絵【図4】(縦550.0cm 横97.5cm)がある★11

【図4】下ヨイチ運上家の幟絵 余市町教育委員会提供


 その身なりや容貌、大弓の弦をアイヌに引かせるという内容から鑑みて、武者は源為朝(1139-1177)と見るのが適当だ。為朝は、巨大な体躯の持ち主で武勇に優れ、弓の名手として数々の武勲をのこしながらも、保元の乱で敗れて伊豆大島に流され、その地で自ら命を絶った。義経よろしく多くの伝説に彩られる不遇の英雄である。とりわけ、琉球や、鬼ヶ島などの架空の島々に渡り活躍したという島渡伝説が知られる。北の蝦夷地に渡った義経と、南の琉球に渡った為朝は、対照をなす。曲亭馬琴が著し、葛飾北斎の挿絵入りで刊行され大ヒットした『鎮西八郎為朝外伝椿説弓張月』(1807-1811年刊行)【図5】では、為朝の子孫が琉球の王となる。

【図5】『鎮西八郎為朝外伝椿説弓張月』の挿絵 国立国会図書館デジタルコレクション


 件の幟絵は、為朝の島渡りの折、島民に自身の大弓の弦をひかせるがそれがびくとも動かないという、為朝の剛力を知らしめるエピソード、通称「島の為朝」の画題を借用し、島民をアイヌに替えたパロディであろう。このパロディは幟というメディアと好相性であった。というのも為朝は、疱瘡絵や、それと同様の機能を有した幟に頻繁に登場した、疱瘡除けの英雄の代表だからである。先に述べたように、英雄が疱瘡神や悪鬼を退治する図が、疱瘡絵の一つの定型であった。また、男児の健やかな成長を願う5月5日の端午の節句では、武家を中心に大きな幟旗を立てる習慣があり、その巨大な画面には疱瘡除けの英雄たちが描かれ、街を彩った。金太郎や関羽、鍾馗しょうきといった和漢の英雄のなかでも為朝は、とりわけ人気の画題であった。

 例えば為朝を描く疱瘡絵に、歌川国芳の錦絵《為朝と疱瘡神》【図6】がある。

【図6】《為朝と疱瘡神》 都立中央図書館特別文庫室提供(トリミングのうえ、画像の左右を結合)


 為朝が老人の姿をした疱瘡神を平伏させ、手形を提出させている。周りを囲むのは、疱瘡を除ける、あるいは軽くするとして商品化された玩具や動物たちである。軽い張子の犬は病を軽くし、みみずくは大きな目で盲を防ぎ、達磨や兎の目の赤色は疱瘡除けに効くとされ、童子は赤い着物で赤い餅を食べる。月の輪熊は、その胆嚢からとれる薬の熊胆ゆうたんの暗示だろうか。その熊がもつ釣竿には赤い鯛が引っかかっている。背景は海。彼らが集うのは海浜であり、これもまた「島の為朝」を踏まえたパロディである。
 つまり件の余市町の絵は、その画題(島の為朝)とメディア(幟)から、江戸時代においてはただちに、疱瘡除けの絵画と見なされるものだった。そしてそこに描かれるアイヌは、「島の為朝」の島人や、疱瘡神と、容易に入れ替え可能な存在である。疱瘡神は、老人や童子、鬼の姿など、絵によってさまざまあり、それを退治し平伏させるものから、それをもてなし喜ばせるものまであった。鬼は異世界の住人であり、老人や童子は死後あるいは生前の、やはり異世界に近い存在である。こうした疱瘡神の姿は、疱瘡がここではない別の場所からもたらされるという観念を反映したものだ。「島の為朝」の島人もアイヌも、その絵の享受者たちからすれば、ここではない遠い辺境の異人に他ならない。先に述べた通り、疱瘡がエミシ(蝦夷)やエビス(夷)の国からやってくるという考えがあったのだとすれば、疱瘡神を造形するのに、アイヌほど恰好の存在はない。

 以上のことを踏まえると、「義経蝦夷渡伝説」の意義もまた、再考を迫られるだろう。この伝説は義経の死にまつわる逸話のうち最も流布したものとされ、とりわけ北海道では各地にバリエーションをのこすほどに定着し、幕府によるアイヌ民族の同化主義政策に積極的に利用されたとされる。その初出は寛文一〇年(1670)の『続本朝通鑑』で、寛文九年(1669)の蝦夷蜂起(シャクシャインの戦い)を知る人々に支持されて普及したという。だが、江戸時代はじめの蝦夷地の騒乱が、江戸時代を通して人々の共振を得たとは考えづらい。

 この伝説が明治に至るまで命脈を保ち続けた背景には、為朝伝説の興隆があろう。北の義経に対する南の為朝という存在を視野に入れたとき、すなわち義経を、疱瘡除けの英雄である為朝に比肩する者と捉え、その疱瘡が蝦夷ヶ島からもたらされると考えたとき、北の辺境の統治者たる義経は、蝦夷地/鬼門からの疫病の侵入を防ぐ守護者と成り変わり、和人たちの熱烈な支持を得るに至るだろう。また、疱瘡は和人のみならず、アイヌにとっても深刻な疫病であった。義経がアイヌの神になるほどの信仰を得たとすれば、その背景には、和人からの強制のみならず、病の治癒という魅惑的な力が働いたのではなかったか。

 英雄による蝦夷地の統治、すなわち、日本の統治が最果てにまで及ぶというイメージは、疫病退散のイメージと切り離せない仕方で、当の被支配者たちを含む「日本」に浸透していったと考える。

疫病神から守護神へ


 それではアイヌは、常に和人に対して劣位なもの、疱瘡とともに制圧されるべきものとしてのみ、描かれてきたのだろうか。
 そうではない。これまで見てきた絵とは一線を画し、アイヌを威厳ある高尚なものと讃えながら、結果的には支配の強化に絶大な貢献を果たすこととなる、記念碑的な作例がある。松前藩士蠣崎波響はきょう(1764-1826)によるアイヌの肖像画《夷酋列像いしゅうれつぞう》(1790年、絹本着色、十一面、仏ブザンソン美術考古博物館所蔵)である。波響は、神と鬼の反転可能な構造を利用して、実に巧妙な仕方で、アイヌ酋長たちを松前藩主の忠臣に、そして日本の守護神へと、転化せしめた。例えるならば少年漫画でしばしば目にする、凄まじく強い敵を味方につけたときのような、望外の喜びと心強さをもたらす展開を、一つの絵のなかで企てた。その試みは、時の光格天皇の賞賛を得るほどの大成功をおさめる。

 本稿の後半では、その波響の手の内を解き明かしていく。病へのおそれが、ここでも鍵となる。



★1 小林太市郎『大和絵史論』、全国書房、1946年、229頁。

★2 バーバラ・M・スタフォード『ボディ・クリティシズム――啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化』、高山宏訳、国書刊行会、2006年、52頁。

★3 本作については以下を参照した。濱田淑子「(研究資料紹介)平澤屏山筆「種痘施行図」」、『東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報』、2009年。松木明知「新出の平沢屏山のアイヌ種痘図に関する一考察 ――オムスク造形美術館所蔵の「種痘図」を巡って」、『日本醫史學雜誌』56巻3号、日本医師学会、2010年。新明英仁『「アイヌ風俗画」の研究――近世北海道におけるアイヌと美術』、中西出版、2011年、193-194頁。

★4 興味のある方は、春木晶子「アイヌを描いた絵」、北海道史研究協議会編『北海道史事典』、北海道出版企画センター、2016年、185-191頁をお読みいただきたい。

★5 本作は早稲田大学図書館古典籍総合データベースで公開されている。URL= http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi05/chi05_04217/index.html

★6 ハルトムート・ローターモンド 「江戸末期における疱瘡神と疱瘡絵の諸問題」、『第一五回日文研フォーラム』、国際日本文化研究センター、1993年、1頁。

★7 江戸時代の儒学者新井白石が著した『鬼門説』には、二代将軍徳川秀忠が、自らが治める天下はいよいよ一家のごとく統治されており、一家の鬼門は「蝦夷の地」の他にはないと述べたとある。

★8 本作については、春木晶子「市立函館博物館所蔵〈アイヌ風俗絵馬〉について 」、『市立函館博物館研究紀要』第25号、私立函館博物館、2015年、22-27頁で詳しく論じ、奉納者が出羽国本庄藩世嗣六郷政展(1751-1776)だと提示した。

★9 この伝説については、菊池勇夫『義経伝説の近世的展開 その批判的検討』、サッポロ堂書店、2016年を参照した。また、筆者はこの伝説を描いた作例18件を調査し、列挙、分類、分析し、その成果を、春木晶子「義経蝦夷渡伝説図をめぐって」、『北海道開拓記念館研究紀要』第43号、2015年、89-110頁にまとめた。

★10 本作については、前掲註8で詳しく論じた。

★11 本作については、春木晶子「余市町教育委員会所蔵の《アイヌ絵(武者のぼり下絵)》について――「島の為朝」図との関係」『北海道開拓記念館研究紀要』第41号、2013年、247-251頁で詳しく論じた。

春木晶子

1986年生まれ。江戸東京博物館学芸員。専門は日本美術史。 2010年から17年まで北海道博物館で勤務ののち、2017年より現職。 担当展覧会に「夷酋列像―蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界―」展(北海道博物館、国立歴史民俗博物館、国立民族学博物館、2015-2016)。共著に『北海道史事典』「アイヌを描いた絵」(2016)。主な論文に「《夷酋列像》と日月屏風」『美術史』186号(2019)、「曾我蕭白筆《群仙図屏風》の上巳・七夕」『美術史』187号(2020)ほか。株式会社ゲンロン批評再生塾第四期最優秀賞。
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