ゲンロンは2020年4月で創業10周年を迎えました。これを記念し、ゲンロン叢書006『
新対話篇』、ゲンロン叢書007『
哲学の誤配』を5月1日に発売しました。『新対話篇』は『ゲンロン』掲載のものを中心に、哲学と芸術の役割を主題とした対話を集めて編んだ本格的な対談集。『哲学の誤配』は東が韓国の読者に向けて語ったふたつのインタビューと、中国で行なった講演を収録した書籍です。『哲学の誤配』は日韓並行出版で、韓国では『哲学の態度』というタイトルで出版されました。
以下に『哲学の誤配』に安天氏がよせたエッセイを公開いたします。安氏はふたつのインタビューの聞き手であり、『
一般意志2.0』などの韓国語訳で知られる翻訳者です。本稿では、東浩紀の著作が韓国でいかに受け入れられたのか、その思想的・社会的な背景が著者自身の境遇と重なりつつ明快に解説されています。(編集部)
東浩紀という批評家がいることを知ったのはいまから18年前の2002年だった。場所は韓国のちょうど中央に位置する都市、清州市の近くにある空軍士官学校で、当時の私は兵役に服していた。軍に入隊したのは2000年。徴兵で軍人にされるのがとにかく嫌で、さしたる展望もなしに大学院の修士課程を終えるまで軍隊に行かずにズルズルねばっていた。
韓国の男性のほとんどは大学の一・二年生のときに入隊するので、大学院の修士課程まで軍隊に行かないのは相当無謀なことだったのだが、人生というものはわからないもので、思わぬ幸運に恵まれた。韓国では士官学校の教官職に人員が足りない場合は、当該分野の修士学位をもっている者が将校試験に合格すれば、その人を義務服務の間に教官職にあてる制度がある。空軍士官学校の日本語教官職がたまたま空いていたことを知った私は入隊を決め、結果的に空軍士官学校の教授部の第二外国語科に配属された。士官生徒に日本語を教える教官として兵役に服すことになったのである。
2002年の1月か2月だったと思う。同じ第二外国語科のフランス語教官(この人も私と同じく職業軍人ではなく徴兵で教官をしていた)が韓国のある季刊文芸誌を私に見せながら「ここに書かれている日本の批評家、すごく面白そうだから読んでみて」と興奮気味に勧めてきた。ロラン・バルトで修士論文を書いたそのフランス語教官は映画理論を専門としていて、戦後の日本文学・批評を専攻していた私とは現代思想を共通の話題として雑談を交わすことが多かったので、彼はそこに書かれている、今まで目にしたことのない名前の若い日本の批評家について私が興味をもつに違いないと思ったのだろう。そして、それは的中した。
その文章は東氏の『存在論的、郵便的』について触れていた。直接読みたくなり、すぐに韓国のネット書店を通して日本から取り寄せ、読み始めた。東氏の文章を目にしたはじめての瞬間だった。そして、2002年3月には、『存在論的、郵便的』に関する要約文(韓国語)の一部を、自分が運用するブログに掲載した。
『存在論的、郵便的』が日本で刊行されたのは1998年だから、私は刊行から四年後にそれを読んだことになる。当時の韓国の人文学界隈では、柄谷行人が並々ならぬ注目を浴びていた。1997年に『日本近代文学の起源』の韓国語版が刊行されたことで韓国に知られるようになった柄谷行人は、それからさまざまな著書が翻訳されるようになり、後にはゼロ年代に韓国の人文学界隈でもっとも話題になった外国の思想家二人のうち一人になるにいたった(もう一人はスラヴォイ・ジジェクである)
[★1]。韓国では昔から日本の本が多く翻訳されており、とくに小説の読者層は厚く、日本の小説は韓国の出版界において確固たる地位を築いている
[★2]。しかし、日本の思想家の本がここまで読まれたのは前代未聞のことで、柄谷行人以降、より積極的に日本の人文社会学系書籍が韓国に紹介されるようになる(柄谷行人の著作はそのほとんどが韓国語に翻訳されており、再翻訳されたものも含め、翻訳本は現在少なくとも31冊にのぼる)。こういった動きが始まった時期に、その季刊文芸誌で柄谷行人に続く日本の若手批評家の一人として東氏を取り上げていたわけだ。では、当時の韓国の思想界が置かれていた状況を理解するために、現代の韓国における思想の軌跡を大まかに確認しておこう。
★1 これについてはゲンロン友の会(当時はコンテクチュアズ友の会)の会報『しそちず! #7』(2011年)の拙コラム「柄谷行人はいかにして韓国の知的スターになったか」で詳しく論じている。また、柄谷行人の韓国文学界隈での存在感を理解するには、2019年に日本で刊行されたジョ・ヨンイルの『柄谷行人と韓国文学』(高井修訳、インスクリプト)が大変参考になる。
★2 これについては『ゲンロン2』(2016年)の拙コラム「日本の本を読み続けてきた韓国」で詳しく論じている。
日本の場合、1960年の安保闘争から1960年代後半の全共闘を経て1970年代の連合赤軍事件にいたるまでの時代を、社会運動と思想が連動していた時代、すなわち思想の影響力が強い時代だったということができる。
他方、同じ1960年代から70年代の韓国は、思想にとって暗黒の時代だった。1950年から53年にかけての朝鮮戦争により冷戦対立の抑圧的側面がもっとも強力に作動する国と化した韓国では、その後社会の変革を試みる考え方をもった人々は一掃され、思想は完全に根絶やしにされた。1971年に軍事独裁を法的に正当化する「維新憲法」が公布されてからは、形式的民主主義を要求することすら許されず、不穏視された。日本でほぼ無制限といえる思想の自由を背景に左翼の分裂と内紛が続いていた時期に、韓国では左翼自体がそもそも存在しない状況が続いていた。
大きな転換点になったのは、1980年である。20年弱のあいだ韓国の最高権力者として君臨していた
朴正煕大統領が1979年10月に暗殺され、同年の12月にクーデターを起こした
全斗煥が新たな軍事政権(「新軍部」と呼ばれる)を樹立する。朴正煕氏が暗殺された時期の社会的な背景として、民主化を求める声が強くなっていたことが挙げられる。新軍部が権力を掌握してからは民主化を求める動きがますます強くなり、1980年5月には「ソウルの春」と呼ばれる全国的な民主化運動が起きた。
これに対し、同月18日に新軍部は軍隊を投入しての徹底的な弾圧で応じ、日本では「光州事件」と呼ばれる事態にいたる。韓国での正式名は「五一八光州民主化運動」だがたんに「五一八」と呼ばれることが多く、また政治的立場などにより呼び方が複数あり、右寄りの人たちは「光州事態」、左寄りの人たちは「光州民衆抗争」「光州虐殺」などと呼んだりもする。ちなみに、この事件を描いた映画『タクシー運転手』(監督:
張薫)は日本でも2018年に公開された。
軍隊に発砲命令を出し数多くの市民を殺害した新軍部は、光州の民主化運動を北朝鮮のスパイが起こした暴動に見せかけ、事実の隠蔽を図った。実際に、この隠蔽工作はかなり効果があり、ほとんどの韓国の人たちは光州で五月にどんなことが起きたのか知らないままでいた。しかし、事実を知る人たちは少しずつ増えるようになり、とくに大学生のあいだで真相は広まっていく。自分の国で国軍が市民に対し無差別発砲をしたことを知った80年代の学生たちの一部は徐々に急進化し、約30年間韓国社会で封印されていた左寄りの思想が自然発生的に登場することになる。映画『タクシー運転手』に描かれているような外信記者たちの取材を含む貴重な証拠が、にわかには信じがたい自国の凄絶な事実を直視するきっかけになった。この事実が広く知れ渡るようになるのは87年の民主化実現以降である。
1970年代の学生運動の衰退を経た日本では、80年代になるとマルクス主義はもう古いという認識が広まり、ポストモダニズムをはじめとした新しい考え方が受け入れられ、ニューアカデミズム旋風が巻き起こる。他方、韓国では80年代になってはじめて、マルクス主義が本格的な関心の対象になった。戦後、韓国と日本がたどった思想をめぐる歴史的変遷はあまりにも異なる。この大前提は何度でも強調しておきたい。
韓国では80年代を通じて民主化運動の勢いが増していったものの、それがただちに思想の多様性の拡張につながったわけではない。なぜなら、民主化が最優先課題という共通認識が強かったため、逆にいえば、格差・性差別・環境などをめぐるほかの問題は後回しにされたのである。たしかに、80年代になって民主化運動が広がりを見せるようになるにつれて、これらを含むさまざまな社会的な問題が議論できるようにはなった。その前の時代は社会的な問題について声を大きくして取り組むこと自体が難しかっただけに、これが大きな変化であったことは間違いない。たとえば、いまは歴史認識問題とされる慰安婦問題が韓国内で問題として浮上したのも、民主化運動が活発になり、それまで封じられていたさまざまな社会的・歴史的問題についての問題提起が可能になったこの時期である。しかし、あくまで最優先課題は民主化の実現であり、ほかの問題については発言権は与えられてはいたものの、本格的な取り組みは後回しにされた。
1987年6月、ついに韓国の民主化運動は実を結び、民主化という「大きな物語」が一応の大団円を迎える。この民主化の実現は、その後の韓国において全社会的な規模の「成功体験」として機能する。韓国は一度アメリカから配給された民主主義をクーデターにより失ってしまった。しかし、不当な権力に対抗して血を流しながら戦いつづけ、ついには民主主義を勝ち取った。この「主体的に民主化を勝ち取った体験」は、いまの韓国社会のアイデンティティを構成する欠かせない要素となっている。少し異なる言葉で表現すると、民主化以前の韓国と以後の韓国は根本的に異なる、というのが韓国社会の自己認識である。
1987年に民主化という共通の目標が達成されると、民主化運動を担っていたさまざまな勢力は各々が重視する社会問題や未来像を掲げるようになり、運動勢力は少しずつ分裂していくようになる。民主主義とは、社会的な合意形成の方法であり、いわばコミュニケーションのプラットフォームの一種である。民主化運動は、社会的な優先事項を決めるプラットフォームとして民主主義を導入することを目指す運動であり、厳密にはどの問題を優先的に解決すべきかについては答えをもっていない。だからこそ、民主化運動は大規模な大衆運動になりえた。その意味で、民主化が実現してからは、各々が優先的に取り組む問題ごとに運動勢力が分裂していくのは避けられない。そこで、90年代の韓国は思想的に見て「大きな物語」の衰退と「小さな物語」の勃興を絵に描いたような展開を見せる。いわば、ポストモダニズムと親和的な社会状況になり、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダなどの現代思想を代表する思想家の著作が次々と翻訳された。
しかし、ポスト構造主義やポストモダニズムは西洋の自己反省を基軸とする思想である。アジアの後発国であった韓国が民主化と経済発展を成し遂げ、自らを振り返る参照項として彼らの考え方を取り入れるには、整合しない要素がいくつもあった。韓国の民主化と経済発展は西洋をモデルにしたものであるから、抽象的な方向性としてはポスト構造主義やポストモダニズムといった現代思想を理解することはできる。しかしながら、実際の歴史的な経緯は西洋の近代化とは大きく異なる。このような状態にあった90年代後半の韓国に紹介されたのが、柄谷行人の『日本近代文学の起源』だった。この本は、非西洋である日本の近代化を、ポスト構造主義的な視点で批判的に捉えなおした著作だっただけに、「大きな物語」崩壊後の韓国において非常に有効な思想的補助線として機能した。たとえば、この本が翻訳されてから、韓国近代文学における「内面の告白」「風景」「近代的エクリチュール」をテーマとした研究が登場するが、いうまでもなくこれらは柄谷が日本近代文学について論じたテーマである。ゼロ年代に柄谷行人が韓国の人文学界隈で圧倒的な支持を得るようになったのは、このような経緯からである
[★3]。
東氏の『存在論的、郵便的』との出会いに話を戻そう。2002年に『存在論的、郵便的』を読んで強い印象を受けた私は、その後、兵役を終えてから少しばかり日本の青森で仕事をして、勉強をやりなおすために東京のある大学の大学院に入った。久しぶりに大学院生に戻り、研究テーマ以外の本を読む時間的余裕もあったので、時間があるときは東氏の本を優先的に読んだ。個人的には学部の専攻が政治学だったこともあり、書籍として刊行されていなかった東氏の連載「情報自由論」(『中央公論』2002年7月号―2003年10月号)がとくに面白く、大学図書館で「情報自由論」が掲載された『中央公論』をテーブルに積み上げて読みつづけたのを記憶している。雑誌のバックナンバーは三巻綴りで製本しなおして書庫に保管するような図書館だったので、積み上げておいて読む必要があったのである。
ところで、まったくの無名の大学院生だった私が少しずつ原稿の依頼を受けるようになったのはツイッターがきっかけだった。2009年からツイッターを始め、韓国語と日本語で自分が読んだ本などについてつぶやき、また「これは面白い」と思ったほかの人たちのツイートを(もとが韓国語の場合は日本語に、もとが日本語の場合は韓国語に)翻訳してリツイートしたりしていたところ、2011年に韓国のある出版社からウェブマガジンに連載を書いてみないかという提案を受け、「柄谷行人と現代日本」という連載を担当することになった
[★4]。
連載のテーマは自由ということで何を書いてもよかったが、当時私が取り組んでいた研究テーマが「『他者』概念の系譜――江藤淳と柄谷行人を中心に」というものだったので、1970年代から90年代までの柄谷行人の著作を時系列に沿って読み解きながら、ときにはほかのテーマも取り上げることになった。そして、もとから東氏の著作に関心をもちつづけ、とくに「情報自由論」のような議論が重要だと思っていた私は2011年に東氏の『一般意志2・0』を読んで、前記のウェブマガジンの七回目の連載を全面的に『一般意志2・0』の紹介にあてた。
2012年には、そのウェブマガジンの連載を読んだ韓国のほかの出版社から『一般意志2・0』の韓国語版を出したいので翻訳をしてみないかという依頼を受け、韓国語版の準備段階で「せっかくだから可能であれば著者インタビューも載せたい」という話にまでなる。趣旨の説明とともに東氏にインタビューを申し込んだところ、東氏が快く引き受けてくれたおかげで、この『哲学の誤配』の前半が出来上がった。その後も東氏との縁は続き、『弱いつながり』(韓国語版は2016年刊行)と『ゲンロン0 観光客の哲学』(韓国語版は2020年刊行予定)の翻訳も担当している。
『一般意志2・0』のインタビューで取り上げたのは、当然ながら2011年までの東氏の著作である。2011年以後の東氏の活動についてインタビューを行い、最初のインタビューの内容と合わせてひとつの書物にまとめ、彼の著作と考え方の全体像の概要を韓国の読者に紹介する――この企画を提案してくれたのは、『弱いつながり』の韓国語版を刊行した出版社ブックノマドの代表、
尹棟熙氏である。尹氏は、最近の私とのやり取りで、これからも積極的に東氏の思想を韓国に紹介すると意欲を見せていた。私も引きつづき可能なかぎり、東氏をはじめとした日本の最近の人文系の成果を韓国に紹介する仕事に携わっていきたいと強く思っている。
いまの韓国社会は、左右対立が行き過ぎ、社会的な問題に関する生産的な議論が成り立ちにくい状況になりつつある。もう何年も前から韓国で使われるようになった言葉として「陣営論理」や「フレームをかぶせる」という言葉がある。「陣営論理」とは相手の主張や考え方そのものではなく、相手が敵か味方かという要素だけでその相手のすべてを判断してしまうことを指す。また「フレームをかぶせる」は英語の「frame on ~」(ぬれぎぬを着せる)とも深い関係にある新しい言葉だが、英語の意味とは若干異なる使われ方をしていて、ある人について特定の思考や判断の枠(とくに友敵関係に還元させる枠組み)をむりやり適用して強引に非難することをいう。
これらは世の中を敵か味方かだけを判断軸にして認識することの負の側面をいい表す言葉であり、こういった言葉が使われるのは、さまざまな事象を友敵に単純化してしまう傾向が韓国でエスカレートしているからではないか。東氏の著作は、このような状況から少し身を引いて対象を、そして自分を柔軟に捉えなおす契機になる思考を提供してくれるはずで、その意味で東氏が韓国で読まれることの意義はさらに高まっている。自分の価値観や考えを研ぎ澄まし強化するためだけに思想や哲学があるのではない。いま必要なのはその逆だ。思想や哲学は、既存の価値観では見えていなかった未知の対象、異質なものに光をあて、自らの殻を破るような変化を促すものでなければならない。
東氏の書籍をはじめて読んだのは2002年だが、生身の東氏にはじめて出会ったのは2010年くらいで、それはまったくの偶然であった。ツイッターの知り合いに「横須賀美術館の今回の企画展がすごくいいので、お子さんと是非一度行ってみてください」と勧められ、ある休日、生まれてはじめて横須賀に足を運んだ。すると美術館の入り口の前にいる東氏が目に入り、咄嗟に声をかけた。私にとっては静かでありながら劇的な瞬間で、その美術館で撮った子どもの写真を見るたびに東氏との出会いも思い出す。
2020年2月1日
★3 戦後韓国の思想的変遷については『しそちず! #8』(2011年)の拙コラム「『父性』で見た韓国と日本」、および『ゲンロン1』(2015年)の拙コラム「今日と同じ明日--韓国社会の新局面」でもう少し詳しく論じている。
★4 そういえば、『ゲンロン』の源流である『しそちず!』の連載をスタートしたのも2011年だった。
誤配とは自由のことである──
ゲンロン叢書|007
『哲学の誤配』
東浩紀 著
¥1,980(税込)|四六判・並製|本体208頁|2020/5/1刊行