反復性と追体験──触視的メディアとしてのゲーム/アニメーション(前篇)|土居伸彰+吉田寛+東浩紀

初出:2018年12月28日刊行『ゲンロンβ32』
「メタゲーム」の諸相
東浩紀 本日はアニメーション研究者で配給会社ニューディアー代表でもある土居伸彰さん、ゲーム研究者の吉田寛さんをお迎えし、「ゲーム的リアリズムとアニメーション」をテーマにお話をうかがいます。先日刊行した『ゲンロン8 ゲームの時代』を補完し、発展させるような議論ができればと思っています。まずはおふたりにプレゼンテーションをしていただいたのち、それをもとに討議を行っていきたいと思います。さっそく、吉田さんの発表から始めていただきましょう。
吉田寛 よろしくお願いいたします。今回のプレゼンテーションでは『ゲンロン8』に寄稿した「メタゲーム的リアリズム――批評的プラットフォームとしてのデジタルゲーム」をベースとしながら、そこで書き残したことを扱います。
その論考でわたしは「ゲームはつねにメタ化する」と主張しました[★1]。ゲームにはメタレベルの要素、ゲームというジャンルそのものに対する批評的視点がしばしば見られます。論考では取り上げませんでしたが、その発想の出発点はアラン・ケイの「メタメディア」というアイデアにありました。彼は一九七七年の論文「パーソナル・ダイナミック・メディア」でコンピュータを「メタメディア」と呼びました。コンピュータは既存のすべてのメディアを代替できる、つまり本にもレコードにもテレビにもなりうる、という意味です。これは逆に言えば、コンピュータ以降、あらたなメディアは登場しない、ということをも含意しますが、それについては賛否が分かれます。
わたしは、このケイの主張がデジタルゲームを理解するうえでたいへん重要だと感じており、ゲームに現れるさまざまなメタ化を網羅的に考察しようとした動機も、そこにありました。ちなみに、東さんも『ゲンロンβ』の連載「観光客の哲学の余白に」で「触視的平面」の議論を展開するなかで、ケイの思想に触れていますね。注目している点はわたしとはちがいますが、興味深い偶然の一致だと思いました。今日はその話もできたらと思います。

さて、ゲームにおけるメタ化の話の導入として、まずはわたしが最近興味を持っている「エミュレーション」と「ゲーム内ゲーム」というふたつの事例を紹介します。
ひとつ目のエミュレーションとは、あるハードウェア(コンピュータやコンソール)のために開発されたソフトウェアを別のハードウェアで動かす技術です。通常は、新しいハードウェアで、古いソフトウェアを動かすことを指します。Windowsの上でPC-8801のプログラムを動かしたり、Wiiの上でファミコンのゲームを動かしたりするのに、エミュレーションの技術が用いられます。また、エミュレーションと似たものに、リプログラミングがあります。昔のソフトウェアを最新のハードウェアで再現するために、一からプログラミングし直す手法です。単にリメイクと呼ばれたりもします。
このように、エミュレーションもリメイクも、新しいハードウェアで古いゲームを遊ぶための技術です。ソフトウェアの資産を次世代に継承しようとするのは、自然な発想です。ところが、ここ数年、「ディメイク」という、一見すると奇妙な現象が起きています。リメイクが、古いソフトウェアを新しいハードウェアのためにアップグレードすることであるのに対して、ディメイクは、新しいハードウェア用のソフトウェアをまるで古いハードウェアで動いているかのように、わざわざローテクを使って、いわばダウングレードさせることを指します。
具体的な事例に『タイニーゼビウスmkⅡ』(電波新聞社/ナムコ、一九八四年)があります。『タイニーゼビウスmkⅡ』とは、アーケードゲームの『ゼビウス』(ナムコ、一九八三年)を、家庭でもプレイできるように、PC-6001mkⅡという当時普及していたパーソナルコンピュータに移植したものです。いまでは想像できませんが、当時のパソコンには共通のOSといったものはなく、機種ごとにそれぞれちがうコードでプログラムが組まれていました。『ゼビウス』はたいへん人気があったゲームなので、ほとんどのパソコンに移植されており、見かけも内容もすこしずつ異なる『ゼビウス』が、一〇種類以上も出ていたのです。もちろん、「本物」――アーケード版――にはとても及びませんが、できるだけそれに近づけるように、プログラマーは工夫をこらしていました。その結果『ゼビウス』は、各パソコンの性能を示し、他機種と比較するための、ベンチマークソフトのような機能すら果たしていました。『タイニーゼビウスmkⅡ』もそのひとつでした。
さて『タイニーゼビウスmkⅡ』は、『ゼビウス』の移植版というより、限られたスペック内で、なんとか「ゼビウスっぽいもの」を実現しようとした、今日から見れば、きわめて精度の低いリメイクです。ところが、それから三〇年近く経ったあとに、ニンテンドーDSの『プチコン』(スマイルブーム、二〇一一年)というベーシックでプログラムが組めるソフトを使って、この『タイニーゼビウスmkⅡ』をそっくりそのまま再現するユーザーが現れました。『タイニーゼビウスmkⅡ』のプログラムは、ベーシックではなく機械語で作られていましたが、ニンテンドーDS版『プチコン』という、いわば最新の開発環境が、それをベーシックでリプログラミングすることを可能にしたわけです。
この事例には、リメイクとディメイクが入り混じっています。アーケードゲームの『ゼビウス』を「不完全にリメイク」したパソコンゲーム『タイニーゼビウスmkⅡ』を、三〇年後に、ニンテンドーDS上でベーシックを使って「ほぼ完璧にリプログラミング」する。メディアによる別のメディアの模倣が、錯綜した入れ子構造をなしています。ここには、ゲームの技術やメディアに対するすぐれて批評的な態度があるとわたしは感じています。デジタルゲームの文化は今日、こうした現象まで生み出しているのです。
もうひとつの関心は「ゲーム内ゲーム」、つまり「ゲームのなかでゲームをする」とはどういうことか、という問題です。これに関してはおふたりに、「アニメーションのなかでアニメーションを見ることが可能か」という論点として、あとでもういちどお聞きしたいと思いますが、ゲームのなかで別のゲームをすることはふつうに見られます。たとえば『どうぶつの森』(任天堂、二〇〇一年)では、ゲーム内で「ファミコン家具」というアイテムを入手すると、じっさいに八〇年代当時の画面でファミコンのゲームがプレイできる。これは、さきほど述べたエミュレーションの技術で実現されています。ゲームのなかで別のゲームがプレイできる。NINTENDO64でファミコンがふつうに遊べるわけです。おもしろいですよね。お得なかんじもします。メタな現象であるはずのエミュレーションが、ゲームの世界のなかに、ごく自然に取り込まれて、ふつうに遊ばれているわけです。
こうした「ゲーム内ゲーム」の初期の例に、『シェンムー 一章 横須賀』(セガ、一九九九年)があります。このゲームの世界内には「ゲームセンター」があり、プレイヤーはそこで『スペースハリアー』(一九八五年)というセガの往年の名作を遊ぶことができる。こうした「ゲーム内ゲームセンター」の源流は『さんまの名探偵』(ナムコ、一九八七年)にあります。このゲーム内のゲームセンターでは「ギャラクシガニ」というゲームが遊べますが、これは同じナムコの『ギャラクシアン』(一九七九年)のパロディーです。ゲームのなかで過去のゲームをパロディー化してプレイヤーに遊ばせる。これは、デジタルゲームの文化ならではの批評的実践と言えるでしょう。
わたしは、こうした「エミュレーション」や「ゲーム内ゲーム」を、ジェイ・デイヴィッド・ボルターとリチャード・グルーシンが「リメディエーション」――「あるメディアを別のメディアの中に表象すること」と定義されます――と呼んだ現象[★2]の、特殊な形態として捉えています。ボルターとグルーシンは、異なるメディア間のリメディエーションを考察しましたが、いまわれわれが見ている事例は、デジタルゲームという同一のメディア内で生起しているリメディエーションです。デジタルゲームは、つねにそれ自体の過去をリメディエイト(再媒介)しながら発展している、それを可能にしているのがコンピュータというメタメディアである、というのがわたしの捉え方です。また、デジタルか否かを問わず、あらゆるゲームはその周囲に「メタゲーム」を生み出す、というわたしが論考で提起した観点も、ここに重なってきます。わたしの関心はそうしたメタ化するゲームの創造性や批評性にあります。
触視的平面とゲーム
吉田 このような話題を前提として、ここからは、「反復」と、東さんが提起されている「触視的平面」のふたつの論点に入っていきたいと思います。
ゲームが反復と深く結びついているのはよく言われてきたことです。なんども繰り返し遊ぶからこそ、いわゆるアディクションといわれるゲーム依存も生じます。東さんが『ゲーム的リアリズムの誕生』で論じた「メタ物語性」も、「何度も死を繰り返す」という反復によって可能になっています。井上明人さんも、繰り返しながら次第に上達することにゲームの快楽や可能性の核心を見る学習説を唱えていますし、ケイティ・サレンとエリック・ジマーマンの『ルールズ・オブ・プレイ』は、ルールや構造は同じでもプレイするたびに毎回ちがった結果と経験が得られるゲームの特性を、「同じだが違う性 same-but-differentness」と表現しています。そして、それこそがゲームの遊びを促す原動力であるとして、ゲームにおける反復をポジティブに捉えています。
逆に、反復不可能なゲームを考える思考実験もあります。ゴンサロ・フラスカは二〇〇〇年の論文「一回限りのゲーム」で、それをOSGON(one-session game of narration)と呼びました。彼は「可逆性」こそがデジタルゲームの最大の特性であり、そのためそこには運命や悲劇が入り込む余地がなく、死すらもてあそばれる事態が生じると言っています。アウシュビッツのような悲劇は、ゲームのような反復可能なメディアでは描けない、というわけです。だが「一回限りのゲーム」であるOSGONでは、死を描くことができる。シリアスなゲームが存在しない理由は一般に、ゲームクリエイターの志の低さやどうせ作っても売れないというマーケットの事情に帰されてきましたが、フラスカはそれを、デジタルゲームのメディアの特性に求めたのです。二〇〇〇年の時点で、この認識は斬新でした。
またフラスカによれば、いちどしかプレイできないOSGONは、批評が困難です。批評家はいちどかぎりの個人的経験を評価しなくてはならないからです。しかし、ここで考えてみなくてはならないのは、反復可能な通常のゲームもまた、別の意味で、批評が困難ではないのか、ということです。いうまでもなく、事物や経験が、批評や考察の対象となるためには、誰にとっても同じように「共有可能」であることが必要です。ところが、ゲームの反復可能性はそれをつねにずらしてしまいます。じつはわれわれは「異なるプレイ経験」をベースにして「同じゲーム」について語っています。プレイヤーごとに、そしてひとりのプレイヤーでもプレイするたびに異なる経験を得ているはずなのに、それを「同じゲーム」として語ることが可能だし、他人からもそれで理解されてしまう。よく考えると、たいへんふしぎな現象です。そうしたゲームの反復性について、のちほど議論できればと思います。
さらにもうひとつ、コンピュータのGUIに代表される「触視的平面」についても議論をしたいと思います。東さんは一九九〇年代にお書きになった「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」では、ポストモダン的主体はシンボルとイメージというばらばらなふたつの記号体系をひとつの世界のなかで知覚する、という知覚の二重化の議論をされていました。いま『ゲンロンβ』の連載で展開されている「触視」論は、そのふたつの記号体系をあらためて一本化するような試みですが、そのメリットとデメリットをお聞きしたい。
というのも、わたしは記号論に関する論文で、東さんの議論からも着想を得て、知覚の二重化を論じたことがあるからです[★3]。わたしはその論文で、チャールズ・W・モリスの記号論[★4]を援用しながら、ゲームプレイヤーの知覚はアイコンとオブジェクトに二重化している、と主張しました。
アイコンとは「スクリーンの外部の事物を指示する記号」で、他方オブジェクトとは「スクリーン上で操作される対象」です。スクリーン上に映し出されるイメージ(画像)は、一方でアイコンとして、現実の人間やアニメのキャラクターなどの存在と結びつき、他方でオブジェクトとして、ゲームのアルゴリズム(たとえば当たり判定)に従属しています。ゲームのプレイヤーがスクリーン上のイメージを見るとき、その二種類の記号が同時に知覚されている、というのがわたしの理論です。たとえばゲームのスクリーン上で、ひとのかたちをしたイメージを見るとき、われわれはそれを「ひとを表象する記号」として知覚すると同時に、ゲームのアルゴリズムに従って「操作する対象」としても知覚している。それがわたしの考える「アイコンとオブジェクトの二重性」です。
この二重性は、触視的平面を考えるうえでも重要だろうと思います。じっさい、コンピュータインターフェイスとコンピュータゲームは、かなり密接に関連して発展してきた歴史を持ちます。ブレンダ・ローレルやドナルド・ノーマン、クリス・クロフォードら[★5]の理論がその傍証となります。ところが、東さんの「触視的平面」の議論では、かつて問題にされていたシンボルとイメージの二重性――わたしの言葉ではアイコンとオブジェクトの二重性――が持つ重要性が消えてしまうように感じています。
その点はどうお考えでしょうか。
東 ぼくが「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」で語っていた二重性は、感覚で分類すれば、視覚と聴覚の二重性だったと言えると思います。イメージは視覚に属し、シンボルの代表は言語なので、そのかぎりで聴覚に属するものと考えられるからです。けれども、いま行っている「触視的平面」の議論では、その二重性を視覚と触覚の二重性として捉え直そうとしています。その点では問題意識は変わっています。
なぜそのように問題意識を変えたかというと、いまのメディアの変革の重要性は、触覚の導入にあると思っているからです。これまでのメディアは、おもに視覚や聴覚など遠隔的な能力の拡大に注力してきた。テレビやラジオがそうです。それに対して現在のSNSにおいては、「RT」や「いいね」を押すというかたちで、本来は遠隔化不可能な触覚までが拡張されつつあるとぼくは捉えている。だから、視覚と聴覚よりも、より基底的な触覚の問題から新しいメディアを考えたいと思ったんですね。

吉田 直接的接触である触覚にすべてを一元化しようという路線も、視覚・聴覚・触覚を統合した複合感覚にすべてを一元化しようとする路線も、どちらも凡庸だと思いますが、東さんの理論はそのどちらでもなく、視覚と触覚を並行的に捉えるということでしょうか。
東 視覚と触覚は、「遠さ」という観点からすれば対立するものです。視覚は無限の遠方まで知覚できる。何光年もさきの星も見える。けれども触覚は距離がゼロにならないと機能しない。そういう対立があります。
けれども、ぼくたちはいま、そのふたつをふしぎなかたちで共存させるようなメディア装置を発明しつつある。それがタッチパネルです。『ゲンロンβ』の連載では、そのふしぎな特徴を「イメージが触れるようになったこと」として表現しています。イメージとはそもそも、プラトンの有名な洞窟の比喩に象徴されるように、映されたものにすぎない虚構で、触ることができないもののはずです。壁になにかを投影したとしても、触ることができるのは壁です。ところがタッチパネルの出現によって、イメージ自体がわたしたちの触覚によって動くようになった。ほんとうはなにも触っていないにもかかわらず、イメージに触れているかのように錯覚できるようになった。ぼくたちは、そういう偽の触覚がメディアによって増幅され、倍加される世界にいます。
吉田 イメージが身体性を伴うようになったということですね。
東 そうも言えますね。いずれにせよ、それは、ぼくたちの世界感覚を根底的に再編する可能性を持つ発明だと思います。GUIの本質はアラン・ケイが作りましたが、彼がその着想をしたときに、すでに「触れる」粘土のメタファーを使っている。彼はタッチパネルを発明したわけではありませんが、手のアイコンがファイルをつかんでごみ箱に入れるという動作をディスプレイ上で作り出し、いかにもファイルに触っているかのような幻想を可能にした。彼はそれを「イリュージョン」と呼んでいます。ケイはインターフェイスを、ユーザーにそのような触覚的な錯覚を持たせるように、デザインするべきだと考えていたんです。それがGUIの本質です。
そしてぼくたちの時代では、そのようなケイの発想を、タッチパネルが技術的に実装しつつある。それはもはやイリュージョンではなくなりつつある。複製技術や遠隔化技術と触覚の関係というのはいままでのメディア論では扱ってこなかった問題で、ここから二一世紀のメディア論は出てくると考えています。たとえばそれは、SNSでの情報の拡散などを考えるうえで、鍵になるのかもしれない。
吉田 なるほど。タッチパネルが社会に与えるインパクトについては、またのちほどうかがいたいと思います。わたしからの論点の提出はひとまず以上です。
東 ありがとうございます。土居さんはここまでの議論を受けて、質問などありますでしょうか。
土居伸彰 いまの触覚についての議論を聞きながら、ぼくは新海誠のことを考えていました。本来は届かないはずのものが遠隔的に届くようになるという話は、まさに新海がずっと描いてきたモチーフです。
東 『君の名は。』(二〇一六年)の重要なシーンでも主人公ふたりの手が触れていました。あれは、ほんとうは触れるはずのない手が触れているんですよね。ふたりは別の時間にいるのに、新海のカメラだけがそれを接触させている。
土居 そうです。同じモチーフは『ほしのこえ』(二〇〇二年)から一貫していますが、『ほしのこえ』では結局は相手に届かなかったメッセージが、『君の名は。』では届くようになっている。それはいろいろな意味で危ないなと思っています。そういう点でこれからは、触覚の倫理性が問われてくるのかもしれません。ぼくの発表はそうした「新海以後」にも触れることになると思います。
アニメーションからインディ・ゲームへ
東 それでは、つぎに土居さんの発表をお聞きしたいと思います。
土居 ぼくは、『ゲンロン9』に寄稿した論考の内容を中心にお話しします。個人制作を中心としたアニメーションの研究をしているぼくが、なぜインディ・ゲームについて書くことになったのか。
きっかけは、いま、ある種のアニメーション作家がゲームにフィールドを移しつつあることです。その例が、個人CGアニメーションの美学を作ったデイヴィット・オライリーや、『プラグ&プレイ』(二〇一三年)というアニメーションを作ったミヒャエル・フライです。彼らを筆頭に、最近は個人作家がゲームに活動拠点を移行する例が急に増えてきています。そういったアニメーション映画出身の作家たちによるゲームは、フェスティバルでも賞をもらうなど、ゲーム業界のなかでも大きな影響力を持つようになっています。

ではなぜ、短編アニメーション作家たちがインディ・ゲームに移行しているのか。端的に言えばお金の問題があります。短編アニメーションは現在確たるマーケットを持っておらず、それだけ作っていても食べていけない。また、デジタル表現の制作者が増えたという要因もあります。手描きや人形アニメーションというアナログな手法ではなく、CGなどのデジタル技法でアニメーションを作っている人々にとって、ゲームに移行することはそこまでむずかしくない。自分たちの表現でサバイバルする手段を選んだ結果、短編アニメーションに比べれば市場が確立していると言えるインディ・ゲームが浮かび上がってくるのは必然的なことです。
しかしぼくは、それ以外の理由も考えてみたいと思ったわけです。アニメーション作家がゲームというフォーマットに移行することによって、どのような可能性が開けているのか。それを考えたのが『ゲンロン9』の論考です。
問題への足がかりとして、オライリーが記した「アニメーション基礎美学」という文章があります[★6]。これは非常に重要なテキストです。そこで彼は、「その作品世界が信じうるものとなるか否か、それは、どれだけの一貫性があるかということだけにかかっている」と書いている。たとえばディズニーやピクサーは、作品内の一貫性を、現実世界と見紛うような写実性に求めます。けれどもオライリーは、アニメーションではそうではないかたちの一貫性を構築することができるはずだと言っています。じっさい彼は、解像度という点では粗く写実性はないけれども、しかし独特の一貫性が存在するCG画面を追求することによって、個人作家に対し、個人によるCGアニメーション表現の門戸を開いたわけです。
これはゲームにもつながる話です。オライリーはゲームのおもしろさについて、システムを通じて「世界の記述を可能にすること」にあると言っています。アニメーション作家は、作品のなかで個人的かつ独特な世界を描写しますが、ゲームではさらにその世界を司るシステム自体をすべて作り、なおかつそれを観客に味わわせることができます。作家にとって、じつはアニメーション映画よりもゲームのほうが理想的な表現媒体だと言えるのかもしれません。
マイエクササイズ
土居 もちろん短編アニメーションとインディ・ゲームにはちがいもあります。ぼくはニューディアーという会社を作り、作家が産業的にうまく立ち回れるシステムを作る試みをしていますが、その視座から見ると非常に大きなちがいがある。短編アニメーションでは難解と受け止められてしまう表現が、ゲームになると楽しむための装置になる可能性があるんです。
たとえばフライの『プラグ&プレイ』は、アニメーション映画の時点では、わかるひとにしかわからない作品でした。タブレットで描いたぼこぼこの線で、マイナスとプラスのプラグが頭についた人間がそれを抜き差しするなど、意味のないやり取りが起こるだけの作品です。しかしゲーム化してみると、ひとを選ぶ表現であることは変わらないものの、アニメーション映画としてリリースされただけでは絶対に起こらない、大きな反響があった。そのヒットの要因は、なんとユーチューバーの力でした。フライの映像のナンセンスなところをユーチューバーたちが誇張して伝えた結果、ゲーム版の『プラグ&プレイ』(二〇一五年)はバズったんです。「わけのわからなさ」が、奇妙な表現を探すユーチューバーたちの助けを借りて、マーケットを作り出したわけです。ぼく自身この状況にはビジネスチャンスを感じていて、じつはアニメーション作家の和田淳さんと組んで『マイエクササイズ』というゲームを作っています。今日は、その開発中のものを、東さんに遊んでいただこうと思って持ってきました。

東 え、ほんとうですか。
土居 はい。これです。スペースキーを押すと男の子が腹筋をします。そして正面にいる犬のお腹に、顔がもふっと当たる。押しつづけないと男の子は溶け出してしまうので(笑)、あるていどのタイミングでスペースキーを押さないといけません。
東 どれどれ……。おお、何度か押すと女の子がやってきました。
土居 何回か腹筋を続けると、少年の周りにキャラクターが集まりはじめます。そこにゲーム性があって、二〇分くらいで遊びきれます。腹筋の部分だけツイッターで上げたら、一五〇〇〇RTを記録しました。
東 ほんとうだ、いろんなキャラが出てきた! これはおもしろいですね。課金してしまいそうです(笑)。
土居 ありがとうございます。このゲームは、二〇一九年初頭のリリースを予定しています。
追体験性のメディアとしてのゲーム
土居 それでは、発表に戻りたいと思います。いまの例でなにより重要なのは、作家の世界観を変えないままでも、ゲーム化するとかなりのひとに伝わるということです。『マイエクササイズ』であれば、和田さんの世界観が、ゲームというかたちで一般化します。
ぼくはじつはそこに、自分がかつて研究していたアニメーション作家のユーリー・ノルシュテインが言う「追体験」の可能性を見ているんです[★7]。それは観客が、芸術作品を通じて、作品の持つ奇妙な一貫性や異質な世界観と、強制的に関係性を持たされてしまうことを通じて、他者の生を生きることを意味しています。
追体験というキーワードから現代のゲームを眺めてみると、たとえば、「ウォーキング・シミュレーター」と呼ばれる、操作キャラクターの一人称視点で探索を行うタイプのゲームが顕著であると言えます。たとえば『フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと』(Giant Sparrow、二〇一七年)という作品は、奇妙な死を遂げた一家の生き残りの視点で、家族が亡くなったときの状況に入り込んでいくゲームになっています。あるいは『Everybody’s Gone to Rapture‐幸福な消失‐』(The Chinese Room、二〇一五年)は、住民が全員消えたイギリスの田舎町が舞台で、残留記憶のようなものを調べ、彼らが消えるまえになにがあったのかを追体験する作品になっています。
ぼくはこれらのゲームに大きな衝撃を受けました。シームレスに他人の世界へ入っていくこれらのゲームは、まさに追体験的だったからです。しかも、アニメーションを見るときよりも、より強烈なかたちで経験されることに。ゲームをプレイすることが、イコール「自分とは異なる存在になること」として、なんの留保もなく達成されている。その衝撃を踏まえ、『マイエクササイズ』も、和田さんが持つ触覚性へのこだわりを、ボタンを押すことで追体験できるようにと考えながら作りました。
ぼくはこの追体験性に、東さんの触視的平面と近いものを感じています。かなりポジティブなかたちで、です。コントローラーに触るという触覚性によって、プレイヤーにいままでになかった視点を与えることができるのではないか。その可能性に賭けている。
ぼくは短編アニメーションの魅力の根底には、自分が知っているものとはまったく異なる法則性で動く、異質な世界との出会いがあったと思います。二〇〇〇年代には短編アニメーションを見るブームがあったわけですが、しかしここ一〇年くらい、それが衰えてきている。複数の短編アニメーションをまとめて上映するような機会に、ひとが来なくなってきているのです。それは、知らないものと出会う感覚を忌避する傾向であるとも言えるかもしれない。
あるいはまた、『君の名は。』のような現実改変を描いた長編アニメーションがヒットしましたが、あの作品は、ディズニー的なハッピーエンドの法則を宇宙単位で実現し、自分が宇宙の中心と同質であるという感覚を与えるものだったと思います。アリ・フォルマンの映画『コングレス未来学会議』(二〇一三年)は、パーソナライズされた映画が死ぬまで再生されつづける未来世界を描いた作品でしたが、『君の名は。』はまさにそこに描かれた未来世界の映画のようなかんじがしました。しかし、はたしてそれはほんとうに正しいのだろうか。ぼくはこの状況に、危機感を覚えています。
だからぼくは逆に、オライリーのような作家がインディ・ゲームというメディアに挑むことが持つ可能性に賭けています。作品という異物とのあいだになにかしらの摩擦を経験することで、自分が自分ではないものになっていく。かつて短編アニメーションを見たときのその感覚を、どうやってもういちど作るのか。それを考えるうえで、ゲームの持つ追体験的な感覚が非常に重要な役割を果たすと考えています。
個人的な体験を言えば、ぼくはトビー・フォックスの『UNDERTALE』(二〇一五年)にも大きな影響を受けています。このゲームには、RPGでありながら「みのがす」という戦闘コマンドがあります。つまり、モンスターと正しく交渉すると相手の戦意が喪失され、モンスターを殺さずに済むんです。そのシステムはゲームの冒頭で説明されますが、多くのプレイヤーは、一回ぐらいは見逃しても、たいていはモンスターを殺すと思います。ふつうのRPGにおいてモンスターを倒すことに慣れているし、すべてのモンスターを見逃すのは非常に面倒だからです。しかし、その果てに待っているのは、地獄としか言いようがないラスボス戦です。
プレイヤーは二周目において、見逃したり見逃さなかったりする中途半端な選択肢ではなく、全員殺す「ジェノサイドルート」か全員見逃す「パシフィストルート」かの決断を迫られます。
どちらのルートもクリアするのはたいへんなのですが、しかし、人気ゲームである『UNDERTALE』には攻略サイトがたくさんあります。ひとがなぜ攻略サイトを作るのかといえば、とりわけ人気ゲームのそれを作るのかといえば、アクセス数を稼ぐという市場の論理のようなものがあるわけですよね。しかし、それらのサイトがなんのために存在するのかといえば、異種であるモンスターと和解し、「パシフィスト」となるためなんですよね。(逆に、「ジェノサイド」をするためとでも言えるわけですが…)それらのサイトを読むとき、みんなと許しあうルートを達成するために苦労してきた先人の存在を「追体験」できます。別のプレイヤーの痕跡を自分のなかに宿すという事態もまた、ゲームのおもしろいところだと思いました。これもまた、オライリーが言う、システムを通じて自分とはちがう存在を感じることのひとつのかたちなのではないか。
オライリーは、ゲームにおいて「パターンと対称性」が重要だと言っています。「パターン」とは自分とはちがうシステムで動いている異種のパターンのことであり、「対称性」とは異種なるもののなかに発見される共通性のことです。『UNDERTALE』はモンスターという異種なるものの「パターン」を解析することによって、自分と同じような存在として「対称性」を見出し、彼らと和解していく作品です。そういうところに、ぼくが短編アニメーションに見出していた感覚を、インディ・ゲームで達成できるかもしれないという可能性を見ています。ゲームが本来持っているメディアとしての性質によって追体験性が創出されることに、短編アニメーションからインディ・ゲームへという移行のアクチュアリティがあると思っています。
東 ありがとうございました。土居さんが『個人的なハーモニー』でノルシュテインに見ていた問題意識が、ゲームという別のメディアに移動しながらも受け継がれていることがわかりました。とてもよいお話が聴けたと思います。
ここからさきは、おふたりの発表を踏まえたディスカッションに移りたいと思います。
2018年9月11日 東京、ゲンロンカフェ
構成・注・撮影=編集部
本対談は、2018年9月11日に、ゲンロンカフェで行われた「ゲーム的リアリズムとアニメーション――『ゲンロン8 ゲームの時代』刊行記念イベント2」を編集・改稿したものである。
★1 吉田寛「メタゲーム的リアリズム――批評的プラットフォームとしてのデジタルゲーム」、東浩紀編『ゲンロン8 ゲームの時代』、ゲンロン、二〇一八年、七六−九八頁。この論考で吉田は、ゲームプレイにおける「メタレプシス」(語りの境界侵犯)の分析や「ゲームの自己否定」である「ノットゲーム」の紹介を通して、ゲームプレイやゲームそのものが本質的に持つメタ化の機能=「メタゲーム」の機能を考察している。
★2 Jay David Bolter, Richard Grusin. Remediation: Understanding New Media. The MIT Press, 1999.
★3 吉田「ビデオゲームの記号論的分析――〈スクリーンの二重化〉をめぐって」、日本記号学会編『ゲーム化する世界――コンピュータゲームの記号論』、新曜社、二〇一三年、五四−七〇頁、とりわけ五八頁以降を参照。
★4 アメリカの記号学者チャールズ・W・モリス(一九〇三−一九七九)は、その『記号理論の基礎』において記号過程の次元を「意味論的」、「語用論的」 、「統語論的」 の三つに分け、それぞれを記号論の異なる分野として区別した。意味論的次元は記号とその対象の関係性に、統語論的次元は記号とほかの諸記号の関係性に、語用論的次元は記号とその解釈者の関係性に関与する。吉田は前掲論文のなかで、東のサイバースペース論におけるイメージとシンボルの二重性という論点をビデオゲームのアイコンとオブジェクトの関係性に応用しつつ、アイコンをモリスの言う意味論的次元に、オブジェクトを統語論的次元に位置づけている。
★5 ブレンダ・ローレル(一九五〇-)はアメリカの研究者、ゲームデザイナー。アタリやアップルでの勤務にくわえ、カリフォルニア美術大学教授などを歴任。女性向けビデオゲームのデベロッパーである「パープルムーン」の共同出資者で、VRのデザインに関する先駆的な取り組みでも知られる。おもな編著書に『劇場としてのコンピュータ』、『ヒューマンインターフェースの発想と展開』など。 ドナルド・ノーマン(一九三五-)はアメリカの認知科学者、心理学者。カリフォルニア大学サンディエゴ校名誉教授。いわゆる「ユーザー中心設計(UCD)」を提唱し、主著 『誰のためのデザイン?』はベストセラーとなった。ほかの著書に『エモーショナル・デザイン』、『未来のモノのデザイン』など。 クリス・クロフォード(一九五〇-)はアメリカのゲームデザイナー。アタリでの勤務をへてフリーランス。〝Eastern Front〟 や 〝Balance of Power〟などのヒット作を生み出した。主著の『クロフォードのゲームデザイン論』はパブリックドメインとして邦訳されており、全文が以下のウェブサイトから閲覧できる。URL = https://upppi.com/ug/sc/item/14205/
★6 この文章の全文はオライリーのウェブサイトにて公開されており、同ページのリンクからは土居による日本語訳もダウンロードできる。URL= http://www.davidoreilly.com/downloads/
★7 土居は『個人的なハーモニー』において、ロシアのアニメーション作家ユーリー・ノルシュテイン(一九四一−)の諸作品を手掛かりとして、アニメーションが描く「観客とのあいだに共有すべき接点がない」ような「個人的」な世界と想像力が、人々とのあいだに持ちうる関係性について論じている。そこで土居は「追体験」というノルシュテインの言葉を導入し、人々が鑑賞を通して「作品が作られたその時代・その地域において、人々がいかなる関係性を世界に対して持っていたのか」を自分のものとして理解し体験するためには、その作品が観客に意図的な「読み取り」を喚起させるような、異質で「個人的」なものである必要があると述べている。


土居伸彰
1981年東京生まれ。株式会社ニューディアー代表、ひろしまアニメーションシーズン(ひろしま国際平和文化祭 メディア芸術部門)プロデューサー。アニメーションに関する研究、執筆、配給、イベント企画運営、プロデュースおよび制作に携わる。国際アニメーション映画祭での日本アニメーション特集キュレーターや審査員経験多数。著書に『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』、『21世紀のアニメーションがわかる本』(いずれもフィルムアート社)、『私たちにはわかってる。アニメーションが世界で最も重要だって』(青土社)、『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』(集英社新書、2022年10月発売)。2023年7月より企画・プロデュースするTVシリーズ『いきものさん』(和田淳監督)が、MBS/TBS系 全国28局で放送。

東浩紀
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。

吉田寛
1973年生まれ。専門は感性学、ゲーム研究。東京大学大学院人文社会系研究科准教授。著書に『絶対音楽の美学と分裂する〈ドイツ〉』(青弓社、第37回サントリー学芸賞受賞、2015年度日本ドイツ学会奨励賞受賞)、共著に『ゲーム化する世界コンピュータゲームの記号論』(新曜社)など。