実存主義的ゲームにむけて──『Detroit: Become Human』の問い|デヴィッド・ケイジ 聞き手=東浩紀
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初出:2018年05月25日刊行『ゲンロンβ25』
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アンドロイドから人間を見る
東 つぎに、アンドロイドを登場させた意味について質問させてください。なぜ人間ではなく、アンドロイドを主人公にしたのでしょうか。 ケイジ 本作の脚本の出発点は、わたしたちが二〇一二年に発表した『Kara』という短い動画作品にあります[★2]。3Dでさまざまな表情をテストするために作成した、いわばテクニカルデモです。そこでわたしは短い脚本を書きました。カーラというアンドロイドが、視聴者の目の前で、生産ラインで組み立てられるというものです。彼女は部品を組み合わせて作られるのですが、感情をもっていました。 この動画がたいへん成功して、何百万回も再生されました。そこでわたしが驚き、また関心を抱いたのは、人々がなぜカーラをここまで愛したかということです。彼女はただのロボットでアンドロイドです。そして目の前で組み立てられている。それなのに人々は感情を感じた。わたしはこのことについて考えたいと思いました。本作の企画が始まりアンドロイドの物語を作りたいと言うと、アンドロイドの物語はいままでもたくさんある、それなのにどうしてあらたに作るのかといった反応が返されました。けれども、自分の物語は過去の作品とはちがうと感じたのです。たしかに、アンドロイドや人工知能が悪者になり、人間がそれらと戦うといった物語はたくさんある。けれども、わたしが語りたいのはそういう物語ではありません。わたしが語りたいのは、アンドロイドが新しい知的な種となり、新しい目をもって世界を発見し、わたしたち人間のほうが古い種になっていく物語です。そこでは、わたしたちのほうが、自己中心的で、テクノロジーに依存し、そして存続するには古すぎる種になっていく。わたしは、わたしたち人間が彼らの視点からどのように見えるかに関心がある。だから視点人物はアンドロイドにしたのですね。 東 むしろアンドロイドのほうに、人間の可能性を見たということでしょうか。 ケイジ そうですね。重要なのは、『デトロイト』は、人工知能についてというよりもわたしたちについての作品だということです。それは人間についての作品であり、社会についての作品であり、わたしたちがなにになるのか、なにであることを受け入れるかについての作品です。わたしはたしかにアンドロイドを使いました。でも実際はわたしたち人間についての話なのです。![](https://d1whc2skjypxbq.cloudfront.net/uploads/2020/01/GB025_cage03.jpg)
★1 「自由への行進」とは、人種分離法のもと依然として差別を受けていたアフリカ系アメリカ人などが、白人と平等な市民権の獲得と差別解消を求めた「公民権運動」のデモ行進を指す。デトロイトから二ヶ月後の八月、「I have a dream」の演説で有名なワシントン大行進が行われた。
★2 URL = https://www.youtube.com/watch?v=8wWHxIfwS1k
東 現在、人工知能が人間の労働力を脅かすときが来るという議論、いわゆる「シンギュラリティ」の議論が、哲学者や経済学者、エンジニアのあいだでさかんに行われています。この作品の制作において、そのような議論は参照されたのでしょうか。
ケイジ レイ・カーツワイルの『シンギュラリティは近い』の影響は受けました。あの書物はじつに魅力的です。カーツワイルによれば、人間の脳の力は、過去一万年のあいだほとんど変わっていない。けれども、機械の力は指数曲線にしたがって上昇しており、近い将来ふたつの線は交わる。そのとき機械はわたしたちよりも知的になるというわけです。
わたしは『デトロイト』で、人間であるとはほんとうはどういうことなのか、それは自己意識や感情のことなのか、あるいは共感のことなのか、それとも脳の計算にすぎないのかという疑問を投げかけています。もしも人間が計算にすぎないなら、機械はわたしたちよりも強力になるでしょう。機械もまた自己意識や感情を発達させるかもしれない。しかし、もし人間であることは、魂をもつことだとすれば、それはけっして機械が得られない「なにか」であるはずです。わたしたちはスーパーコンピュータにすぎないのか、それともなにかほかのものなのか。
そしてもうひとつ、『デトロイト』が投げかける問題はつぎのようなものです。もしいつの日か人間が別種の知性の創造に成功するとしたら、わたしたちは「彼ら」にどのように反応するのか。軽蔑し敵視するのか。尊重し対等に扱うのか。わたしに答えはありませんが、じつに興味深い問題だと思います。
東 いまのお答えを聞いて思ったのですが、異星人との接触を扱ったSF、いわゆるファースト・コンタクトものにも関心がおありですか。
ケイジ もちろんです。ただちがうのは、ここで問題になっているのは、相手がわたしたちの作ったものだということです。それは、わたしたちとわたしたちの創造物の関係です。人工知能はいったいどの時点で「生きている種」になるのか、どの時点まではコンピュータで実行されているただのプログラムだと見なされるのか。昨年(二〇一七年)夏、Facebook人工知能研究所の実験で、ふたつのAIが独自言語を開発し、おたがいに話し始めたというニュースが流れましたね[★3]。それは生命なのでしょうか。自分の創造物を見て、彼らが生きているかどうかを判断するのはとてもむずかしいと思います。
東 ケイジさんは、人間であることをどう定義しているのでしょうか。
ケイジ むずかしい質問ですね(笑)。
東 それこそが本作の核心だと思います。
ケイジ そうですね。人間であることは、共感を感じることではないかと思います。自分よりもほかのだれかを愛すること。それはきわめてむずかしいことで、そしてもっとも深く人間的なことです。子どもがいるひとは、自分よりも子どものほうを愛します。生命をもたない機械にこれができるかどうかはわかりません。けれども機械も、知的になり、自己意識と感覚までも発達させるなら、共感も抱くのかもしれない。わたしにとっては、共感こそが人間の定義のひとつです。
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分岐型ゲームの困難と魅力
東 ケイジさんの作る作品は、とても物語性が強いことが特徴です。物語をつくるにあたり、ゲームという形式を選んでいる理由を教えてください。 ケイジ ゲームには特別な性質があります。ゲームは、最終的な経験が、作者とプレイヤーの共同作業の結果である唯一の媒体なのです。観客が映画を見るとき、映画はすでにつくられています。見ることはできますが、変更することはできません。けれども、ゲーム、すなわちインタラクティブな物語は、作者とプレイヤーが一緒につくるものです。プレイヤーの物語がどんなものになるか作者にはわからない。それはプレイヤーの選択に基づいているからです。たしかに、わたしたち作者は「なにか」をつくりだします。けれども、わたしたちはそれをもとに、何千人、何百万人もの人々、わたしは彼らを知らないし彼らもわたしを知らない、そのような人々とともになにかをつくりだし、共有する。これはじつに驚くべきことです。見ず知らずの何百万人とともに、ひとつのものを創造すること。それはゲームという媒体だけが提供できることです。 また、ゲームにおいては体験をつくりだすことができるのも魅力的ですね。ゲームの体験はいわば感情のシミュレーターです。ゲームをプレイし、感情を感じる。それはジェットコースターに似ています。プレイヤーは笑顔になり、怖がって、不快に感じ、また笑顔になる。プレイヤーはこれらすべての感情を通り抜ける。それが、わたしがゲームというメディアを愛する理由です。★3 「ボブ」「アリス」と名づけられた二体の人工知能が「複数の帽子、ボール、本の交換」のための交渉を行う実験において、文法的に破綻した英単語の羅列で会話を続けた。この実験結果は、「会話は理解可能な英語で行う」というプログラムが抜けていたためと考えられているが、人工知能の「独自言語」の発達という観点から多くの注目を集めた。
東 日本にもインタラクティブな物語を扱ったゲームはたくさんあります。ただしそれらの多くでは、ある問いに対して「Yes」か「No」か、つぎにどこに行くかを、プレイヤーが明示的に選ぶ形式になっています。けれども、ケイジさんの作品では、必ずしも選択肢は明示的に提示されるわけではありません。選択肢の設定について、独自に工夫しているところはありますか。
ケイジ もっとも興味深い選択肢というものは、そもそも黒か白かという選択肢ではないと思います。それは灰色の影のなかに隠れている。
わたしたちは、本作のプレイヤーに、もしこれがわたしに起こっていたらどうするのだろう、なにを考えるのだろうと、つねに自分に問いかけてほしいと思っています。答えははっきりしないかもしれないし、わからないかもしれない。選択肢についてじっくり考えるために、コンソールのスイッチを切るプレイヤーもいるかもしれない。そのような選択肢が好ましいと思います。ゲームの選択肢においては、プレイヤーの個人的な価値観が問われます。それは道徳的な決断でもあります。作品はそこで、あなたは何者なのかと問いかけている。だからわたしは、本作のなかの選択肢は、黒か白かを選ぶ単純なものではなく、プレイヤーと人間的に共鳴し、そこで下された決断が意味のあるものになるような、そういうものにすることを心がけました。
ところでわたしたちは『デトロイト』で、かつてなく分岐したゲームの制作に挑戦しています。本作の分岐は過去の作品のどれよりも多く、システムが追跡している変数や条件は約六万にものぼります。分岐のツリー構造はたいへん巨大で、物語には多くのバージョンやバリエーションがある。プレイヤーが一度のプレイでは見ることのない物語分岐もたくさんあり、ある分岐では数分のあいだ現れるだけだけれども、別の分岐では物語の最後まで行動をともにするような登場人物もいる。選択の結果がひとつの場面のなかで生じることもあれば、ゲームの後半になってようやく現れることもある。それは信じられないほど複雑ですが、全体を貫くアイデアは、プレイヤーが、意志決定を通じて自分自身の物語を語るようにするということでした。
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ゲームというメディアは、いかに21世紀の生と認識を規定しているのか。
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デヴィッド・ケイジ
1969年生まれ。ゲームクリエイター。ゲーム開発スタジオ Quantic Dream の創業者でありCEOを務める。これまで手掛けた作品にPS3Ⓡ/PS4Ⓡ/PC用ソフト『HEAVY RAIN 心の軋むとき』、『BEYOND: Two Souls』、PS4Ⓡ/PC用ソフト『Detroit: Become Human』 などがある。
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東浩紀
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。