亀山郁夫×岡田暁生「オーケストラと近代市民社会のみた(悪)夢」イベントレポート|井手口彰典

初出:2017年5月26日刊行『ゲンロンβ14』
冒頭から私(報告者)の個人的な話題で恐縮だが、ここ10年ほど趣味で市民オーケストラの指揮者を務めている。そんな活動のなかから、話の枕にエピソードを二つほど。
一つ目はR・シュトラウス[★1]の交響詩《ドン・ファン》[★2]を振ったときのこと。稀代のプレイボーイであるドン・ファンを描いた同作には、かなりあからさまな「音のラブシーン」がある。指揮者としてはタクトをウネウネ動かしながら団員をソノ気にさせていかなければならないわけだが、これが何かの罰ゲームかと思うほどに気恥ずかしい体験であった。こんな時、指揮者は自分の顔も体型も忘れ、ドン・ファンになりきって団員に流し目を送るほかない。
別の機会に指揮したのはショスタコーヴィチ[★3]の弦楽四重奏曲第八番をバルシャイ[★4]が弦楽オーケストラ用に編曲した《室内交響曲》という作品。凄まじい緊張感に貫かれたこの曲では、奏者を徹頭徹尾睨み付け続けるしかなかった。オレに服従しろ、許可なしに息継ぎ一つするんじゃない、ビリビリビリ。終演後、団員各位に嫌われたかもとビクつきながら打ち上げの席に臨み、ビールで乾杯を交わしてもらってようやく肩の荷を下ろす。
何の話やら、とお思いだろうが、そんな過去の体験をあれこれと朧に思い返す機会となったのが、4月14日にゲンロンカフェで開催された亀山郁夫氏と岡田暁生氏のトークイベント「オーケストラと近代市民社会のみた(悪)夢」であった[★5]。交響曲(=公共曲?)の持つパブリックな側面と、本来であればその正反対に位置づけられるべき親密性との関係を、モーツァルトからマーラー[★6] 、そしてショスタコーヴィチへ、という西洋音楽史の流れのなかで考えていこうというものだ。ゲンロンカフェでクラシック音楽をテーマに取り上げるのは初めてとのことだが、会場には40人ほどの熱心なオーディエンスが集まった。
登壇者の亀山氏はドストエフスキーの研究で知られるロシア文学者で、クラシック音楽にも造詣が深い。対する岡田氏はR・シュトラウスのオペラ《薔薇の騎士》の分析を皮切りに西洋音楽を鋭く論じてきた音楽学者。そんな両氏の対談をセッティングしたのはゲンロンサイドだったそうだが、その組み合わせは今回のイベントの意義を最大限に引き出す素晴らしいものであったように思う。というのも、両氏の音楽的な趣味が(どちらもクラシックをベースとしているにもかかわらず)見事なまでに対照的なのだ。
一つ目はR・シュトラウス[★1]の交響詩《ドン・ファン》[★2]を振ったときのこと。稀代のプレイボーイであるドン・ファンを描いた同作には、かなりあからさまな「音のラブシーン」がある。指揮者としてはタクトをウネウネ動かしながら団員をソノ気にさせていかなければならないわけだが、これが何かの罰ゲームかと思うほどに気恥ずかしい体験であった。こんな時、指揮者は自分の顔も体型も忘れ、ドン・ファンになりきって団員に流し目を送るほかない。
別の機会に指揮したのはショスタコーヴィチ[★3]の弦楽四重奏曲第八番をバルシャイ[★4]が弦楽オーケストラ用に編曲した《室内交響曲》という作品。凄まじい緊張感に貫かれたこの曲では、奏者を徹頭徹尾睨み付け続けるしかなかった。オレに服従しろ、許可なしに息継ぎ一つするんじゃない、ビリビリビリ。終演後、団員各位に嫌われたかもとビクつきながら打ち上げの席に臨み、ビールで乾杯を交わしてもらってようやく肩の荷を下ろす。
「個人」の音楽/「マス」の音楽
何の話やら、とお思いだろうが、そんな過去の体験をあれこれと朧に思い返す機会となったのが、4月14日にゲンロンカフェで開催された亀山郁夫氏と岡田暁生氏のトークイベント「オーケストラと近代市民社会のみた(悪)夢」であった[★5]。交響曲(=公共曲?)の持つパブリックな側面と、本来であればその正反対に位置づけられるべき親密性との関係を、モーツァルトからマーラー[★6] 、そしてショスタコーヴィチへ、という西洋音楽史の流れのなかで考えていこうというものだ。ゲンロンカフェでクラシック音楽をテーマに取り上げるのは初めてとのことだが、会場には40人ほどの熱心なオーディエンスが集まった。
登壇者の亀山氏はドストエフスキーの研究で知られるロシア文学者で、クラシック音楽にも造詣が深い。対する岡田氏はR・シュトラウスのオペラ《薔薇の騎士》の分析を皮切りに西洋音楽を鋭く論じてきた音楽学者。そんな両氏の対談をセッティングしたのはゲンロンサイドだったそうだが、その組み合わせは今回のイベントの意義を最大限に引き出す素晴らしいものであったように思う。というのも、両氏の音楽的な趣味が(どちらもクラシックをベースとしているにもかかわらず)見事なまでに対照的なのだ。
岡田氏が愛好するのは、近代的な個人と個人の関係性に基づいた音楽である。サロン、あるいはリビングに集う仲間や家族(とりわけ男女)が睦まじく音を紡いでいくような場面をイメージすればよいだろう。だがそんな近代的個人は、やがて第一次大戦を迎えると巨大な「マス」へと飲み込まれていく。この「マス」というのは抽象的な概念だが、暴力的な全体性、とでも捉えればよいだろうか。ともかくも、そのような時代の音楽からは次第に個人の息づかいが消えていく。それゆえに岡田氏にとって「しっくりくる」のは第一次世界大戦の直前に生涯を終えたマーラーまで、なのだという。また、たとえマーラー以前であっても音楽のなかに個人が投影されず「マス」が表に出てくるような作品、たとえば第九のフィナーレ[★7]などは「大嫌い」だという。
他方、亀山氏はむしろ「マスの時代」における音楽のサディスティックなエネルギーにこそ、時代の反映としての音楽の神髄を感じておられるようだ。音楽は全体的な力で「のしかかってくる」ようなものであってほしいと語る亀山氏は、今回の企画の鍵でもあるショスタコーヴィチの作品に強く惹かれる反面、モーツァルトなどは(一部を除いて)嫌い、という。音楽が個人と個人の関係をどこまで描ききれるのかについては懐疑的であり、そうした人間関係は文学にこそ求めたい、という立場はさすが文学者のそれである。

この日が初対面だという亀山氏(左)と岡田氏
以上に要約した両氏の趣味的な相違の基底にあるのは、概ねモーツァルトからマーラーに至るまでのオーケストラ音楽が、個人同士の関係に基づいた親密圏を一定程度内包するものであった、という前提である。前述した第九のフィナーレのような公共的(あるいは全体主義的)な音楽が確かにある一方、同じ第九の第三楽章がそうであるとおり、人間が自分自身に立ち戻り他者との間に親密な関係を構築しうるような音楽も部分的にしっかり残されている、そんな併存の状況がこの時代の音楽には確かに認められる。
せっかくなので、マーラー以前の音楽におけるそうした親密圏の具体像について、対談のなかで示された例をいくつか紹介しておこう。たとえば録音再生機器が登場する以前の交響曲は、オーケストラ・バージョンで頻繁に聞くことが困難であったため、ピアノ連弾に編曲されてサロンや家庭へと持ち込まれるのが普通であったという。交響曲は大ホールで鳴り響くばかりでなく、ごく親密な空間のなかで男女や親子が肩を寄せ合って演奏するという側面も持ち合わせていたのだ。また特にドイツの場合だが、交響曲の基礎部分は弦楽四重奏曲の形式に落とし込めるのが本来であり、マーラーのような大規模な作品でさえ、煎じ詰めていけば小編成の(つまりは親密な個人の集まりによって担いうる)合奏形態へと還元できるのだそうだ。歌についても同じことが言え、ヴァーグナー[★8]の劇的なアリアも旋律だけを取り出せばドイツリートをその根幹に持っているという。私自身の体験に引き寄せて言えば、かつて赤面しながら指揮したあの《ドン・ファン》のラブシーンも、そんな親密圏のなかの音楽と見なしうるものなのだろう。もしもあの曲をピアノ連弾に編曲して、サロンに集った男女が一緒に演奏、なんてことになると……ああ嬉し恥ずかし。
閑話休題。しかしそうした親密圏の存在を半ば無条件的な前提とするような見立ては、第一次世界大戦後の音楽、とりわけショスタコーヴィチの交響曲には通用しない。そして、そんなショスタコーヴィチをどう評価するかを巡り、亀山・岡田両氏の見解は興味深い対立を見せることになる。議論の概略を追っていこう。
他方、亀山氏はむしろ「マスの時代」における音楽のサディスティックなエネルギーにこそ、時代の反映としての音楽の神髄を感じておられるようだ。音楽は全体的な力で「のしかかってくる」ようなものであってほしいと語る亀山氏は、今回の企画の鍵でもあるショスタコーヴィチの作品に強く惹かれる反面、モーツァルトなどは(一部を除いて)嫌い、という。音楽が個人と個人の関係をどこまで描ききれるのかについては懐疑的であり、そうした人間関係は文学にこそ求めたい、という立場はさすが文学者のそれである。

交響曲における親密圏
以上に要約した両氏の趣味的な相違の基底にあるのは、概ねモーツァルトからマーラーに至るまでのオーケストラ音楽が、個人同士の関係に基づいた親密圏を一定程度内包するものであった、という前提である。前述した第九のフィナーレのような公共的(あるいは全体主義的)な音楽が確かにある一方、同じ第九の第三楽章がそうであるとおり、人間が自分自身に立ち戻り他者との間に親密な関係を構築しうるような音楽も部分的にしっかり残されている、そんな併存の状況がこの時代の音楽には確かに認められる。
せっかくなので、マーラー以前の音楽におけるそうした親密圏の具体像について、対談のなかで示された例をいくつか紹介しておこう。たとえば録音再生機器が登場する以前の交響曲は、オーケストラ・バージョンで頻繁に聞くことが困難であったため、ピアノ連弾に編曲されてサロンや家庭へと持ち込まれるのが普通であったという。交響曲は大ホールで鳴り響くばかりでなく、ごく親密な空間のなかで男女や親子が肩を寄せ合って演奏するという側面も持ち合わせていたのだ。また特にドイツの場合だが、交響曲の基礎部分は弦楽四重奏曲の形式に落とし込めるのが本来であり、マーラーのような大規模な作品でさえ、煎じ詰めていけば小編成の(つまりは親密な個人の集まりによって担いうる)合奏形態へと還元できるのだそうだ。歌についても同じことが言え、ヴァーグナー[★8]の劇的なアリアも旋律だけを取り出せばドイツリートをその根幹に持っているという。私自身の体験に引き寄せて言えば、かつて赤面しながら指揮したあの《ドン・ファン》のラブシーンも、そんな親密圏のなかの音楽と見なしうるものなのだろう。もしもあの曲をピアノ連弾に編曲して、サロンに集った男女が一緒に演奏、なんてことになると……ああ嬉し恥ずかし。
ショスタコーヴィチをどう捉えるか
閑話休題。しかしそうした親密圏の存在を半ば無条件的な前提とするような見立ては、第一次世界大戦後の音楽、とりわけショスタコーヴィチの交響曲には通用しない。そして、そんなショスタコーヴィチをどう評価するかを巡り、亀山・岡田両氏の見解は興味深い対立を見せることになる。議論の概略を追っていこう。
まず、ショスタコーヴィチを「受け付けない」と語る岡田氏は、件の親密圏が彼の交響曲のなかには「ない」とする立場を取る。岡田氏によれば、そもそもショスタコーヴィチが生涯の大半を過ごしたソ連は近代主義社会を介することなく封建制から共産制へと一気に飛躍した国である。したがって交響曲というジャンルが代表する公共性など、本来であれば成立し得ない国なのだ。だが実際問題としてショスタコーヴィチをはじめとするソ連の作曲家らは多くの交響曲を書いた。それはなぜかと尋ねる亀山氏に対し、岡田氏は、本当は存在しない公共性が「ウチにもありますよ」と見せかけるフィクションであったと答える。見せかけの公共性を担保しつつ、しかし個人同士が紡ぐ「愛の対話」のような親密さは持たないショスタコーヴィチの交響曲。では失われた親密圏は何によって穴埋めされるのか。それは「独り言」と「暗号」[★9]だ、というのが岡田氏の見解である。

19世紀のクラシック音楽に聴き取れる「親密圏」を重要視する岡田氏
しかし、と亀山氏。ソ連時代の交響曲が定例化したセレモニーであるのは確かだが、作曲家たちはその条件のなかで自己の創造性を発揮することもできたのではないか。「マス」に供される交響曲のなかに、ごく私的な内面を潜ませるという二枚舌の戦略。その最たる例がショスタコーヴィチの交響曲第四番[★10]だ、と亀山氏は分析する。この曲が書かれた一九三〇年代半ばは一時的にスターリニズムが弱まっていた時期にあたり、それに乗じてショスタコーヴィチは自己の内面を吐露する作品を書いた。ただ、それが非常に危険な行為であることには変わりなく、実際にショスタコーヴィチは初演直前でこの交響曲第四番を取り下げてしまう。だがそんな第四番に代わるものとして用意された交響曲第五番[★11]にしても、親密圏がまったくないというわけではなく、聴衆もこの曲の第三楽章にそれを感じ取ったはずだ、と亀山氏は主張する。

限られた条件の中で創造性を発揮したショスタコーヴィチの私的な内面について語る亀山氏

しかし、と亀山氏。ソ連時代の交響曲が定例化したセレモニーであるのは確かだが、作曲家たちはその条件のなかで自己の創造性を発揮することもできたのではないか。「マス」に供される交響曲のなかに、ごく私的な内面を潜ませるという二枚舌の戦略。その最たる例がショスタコーヴィチの交響曲第四番[★10]だ、と亀山氏は分析する。この曲が書かれた一九三〇年代半ばは一時的にスターリニズムが弱まっていた時期にあたり、それに乗じてショスタコーヴィチは自己の内面を吐露する作品を書いた。ただ、それが非常に危険な行為であることには変わりなく、実際にショスタコーヴィチは初演直前でこの交響曲第四番を取り下げてしまう。だがそんな第四番に代わるものとして用意された交響曲第五番[★11]にしても、親密圏がまったくないというわけではなく、聴衆もこの曲の第三楽章にそれを感じ取ったはずだ、と亀山氏は主張する。

そんな亀山氏に対し、岡田氏は「あえて挑発すると」と前置きしつつ「親密圏」のイメージが違うのではないかと指摘する。亀山氏が言うのは思いを同じくする同志の親密さ、対して自分(岡田氏)が言うそれは男女の間に端的に認められるようなものである、というのだ。その差をもう少し強調するならば、暗号が通じ合う(暗号でしか会話できない)スパイ仲間のような親密さと、背後にエロスを湛えた親密さとの相違、ということになろう。なるほど確かに、私個人の感覚としてもショスタコーヴィチの交響曲にエロスは感じにくい。それどころか、本来であれば交響曲以上に親密な世界の産物であるはずの弦楽四重奏曲でさえ、彼の手にかかれば「相手」の温もりがまるで感じられない冷徹な音楽として鳴り響く。だからこそ、その編曲版を指揮し終えた私も、打ち上げ会場に移動しビールを酌み交わすことでようやく楽団員との親密圏を回復することができた、ということなのだろう。
もう一点、ショスタコーヴィチの音楽が帯びる強力な「マス」性を巡っては、その根底にロシア人の気質が関係しているのではないか、という議論もなされた。岡田氏によれば、西側諸国とロシアとでは人間に対する感覚がそもそも違っており、ロシア人には「人間なんてただの人形」というニヒリズムがあるという。この点については亀山氏も「ソボルノスチ」という概念を引きつつ、ロシア正教には教会に参集した人々が静かに祈りを唱えるなかで初めて個として自立するという考え方があることを紹介し、「全体」なるものに対するロシア人の親和性の高さを指摘した。そうした「全体」志向性は、プロコフィエフはもとより、ロシアを拒否したはずのストラヴィンスキーにさえ認めうるという。
今回の対談では、以上に概観してきたとおり「マス性/親密性」というキーワードが基底音として議論の背後に響いていたわけだが、その他に散発的なテーマもいくつか提示された。たとえば、
・ユダヤ人演奏家とアメリカ音楽
・演奏における「神がかり」
・音楽の視点で読む村上春樹
・教養アイテムとしての音楽
などがそうだ。それら全てについて細述していく余力はないが、ここでは私個人の関心にも引きつけつつ、現代における教養としてのクラシック音楽の存在意義について少しだけ考えておきたい。
対談の終盤、亀山氏は教養という観点から音楽を教える重要性に言及し、大学で学ぶ若者たちに音楽を通じてエンパシー、すなわち他者のなかに入っていく力を涵養すべきだと指摘した。「他者の気配を感じるところに音楽の原点がある」というのが亀山氏の言葉だ。またこれを受けて岡田氏も、他のパフォーマーと「息を合わせる」ためには相手を思いやり、相手の立場に立つことが重要であるとの見解を示した。
そんな両氏の指摘は極めてもっともなのだが、「昨今の若者にエンパシーの力を」という戦略は、かなり慎重に運用しないと、あらぬ誤解や意図せぬ悪影響を彼らに与えてしまう危険性を孕んでいるように思われる。
もう一点、ショスタコーヴィチの音楽が帯びる強力な「マス」性を巡っては、その根底にロシア人の気質が関係しているのではないか、という議論もなされた。岡田氏によれば、西側諸国とロシアとでは人間に対する感覚がそもそも違っており、ロシア人には「人間なんてただの人形」というニヒリズムがあるという。この点については亀山氏も「ソボルノスチ」という概念を引きつつ、ロシア正教には教会に参集した人々が静かに祈りを唱えるなかで初めて個として自立するという考え方があることを紹介し、「全体」なるものに対するロシア人の親和性の高さを指摘した。そうした「全体」志向性は、プロコフィエフはもとより、ロシアを拒否したはずのストラヴィンスキーにさえ認めうるという。
クラシック音楽と現代社会
今回の対談では、以上に概観してきたとおり「マス性/親密性」というキーワードが基底音として議論の背後に響いていたわけだが、その他に散発的なテーマもいくつか提示された。たとえば、
・ユダヤ人演奏家とアメリカ音楽
・演奏における「神がかり」
・音楽の視点で読む村上春樹
・教養アイテムとしての音楽
それというのも、しばしば指摘されるとおり(また大学での私自身の体験からもそうであるように)、昨今の若者たちはかつてないほど仲間に気を配るようになっている。彼らはグループ内の調和を重んじ、自分に与えられた役割を敏感に察知しながらキャラを演じ分けているのだ。つまり〝特定の他者〟とだけ限定的に共鳴するようなエンパシーの力は、むしろ過剰なまでに彼らのなかに備わっていると見て良い。
しかしその一方で、彼らの想像力はそうした親密な仲間の「外部」へとなかなか出ていこうとしない。極端に言えば、全世界が仲間内だけで完結してしまっているかのようなのだ。ひょっとするとそれは、本来巨大であるはずの「マス」が限られた内輪のメンバーによって形成されてしまい、そんな卑近で矮小な「マス」のなかで個が圧殺されるような状況、と見立てることも可能かもしれない。
ならば、音楽を介して彼らが身につけるべき力とは、より具体的にどのようなものであるべきか。第一にそれは、強固に形成されてしまった限定的な親密圏の内部に留まるのではなく、その外部へと積極的に開かれていくものでなければならない。そのことを岡田氏は、「ピアノは夫婦の寝室ではなく居間に置かれる」と表現しておられた。音楽はいたずらに親密なばかりでなく、親密さと社交性とが交わる場所=サロンでこそ鳴り響く、というわけだ。だがその点を若者らに誤解ないよう伝えなければ、せっかく音楽によってエンパシーが喚起されても、それはごく狭い世界のなかで濃縮されていき、ベタベタと絡みつくことで矮小な「マス」ばかりを生みだしかねない。
また第二に、これは今回の対談の内容からは外れた私個人の見解になるのだが、「教養」としての音楽を介して若者らが身につけるべき力には、エンパシーの他にもうひとつ、あえてアンサンブルをしないこと(孤独に演奏し続けること)に対する耐性も含まれるべきではないか。「音楽は人と一緒にやるものであって、ソロは基本的にいびつ」というのは岡田氏の言だが、個人的には必ずしもそうとは思わない。暗闇のなかでひたすら自分自身を問い続けるような音楽。あるいは見えない神と一対一で向き合おうとするような音楽。いま私は、この原稿を書く作業BGMにバッハの《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》[★12]をかけている。たった一挺のヴァイオリンで主旋律はもちろんバス、和声、そして対旋律まで表現し尽くす、まさに「全宇宙のなかに自分ただ一人」といった趣の作品だ。「ぼっち」であることを過敏に恐れる現代の若者らには、モーツァルトの親密さやショスタコーヴィチのマス性と共に、こうした孤高の音楽に親しむ機会もあってよいのではないだろうか。
ともあれ、今回のイベントが多くの参加者にとって、音楽を介して社会や人間関係へと思索を巡らせる貴重な機会となったことは確かだろう。対談のなかで明かされた情報だが、亀山氏は近々ショスタコーヴィチをテーマにした書籍を上梓する予定とのこと。楽しみに待ちたい。
しかしその一方で、彼らの想像力はそうした親密な仲間の「外部」へとなかなか出ていこうとしない。極端に言えば、全世界が仲間内だけで完結してしまっているかのようなのだ。ひょっとするとそれは、本来巨大であるはずの「マス」が限られた内輪のメンバーによって形成されてしまい、そんな卑近で矮小な「マス」のなかで個が圧殺されるような状況、と見立てることも可能かもしれない。
ならば、音楽を介して彼らが身につけるべき力とは、より具体的にどのようなものであるべきか。第一にそれは、強固に形成されてしまった限定的な親密圏の内部に留まるのではなく、その外部へと積極的に開かれていくものでなければならない。そのことを岡田氏は、「ピアノは夫婦の寝室ではなく居間に置かれる」と表現しておられた。音楽はいたずらに親密なばかりでなく、親密さと社交性とが交わる場所=サロンでこそ鳴り響く、というわけだ。だがその点を若者らに誤解ないよう伝えなければ、せっかく音楽によってエンパシーが喚起されても、それはごく狭い世界のなかで濃縮されていき、ベタベタと絡みつくことで矮小な「マス」ばかりを生みだしかねない。
また第二に、これは今回の対談の内容からは外れた私個人の見解になるのだが、「教養」としての音楽を介して若者らが身につけるべき力には、エンパシーの他にもうひとつ、あえてアンサンブルをしないこと(孤独に演奏し続けること)に対する耐性も含まれるべきではないか。「音楽は人と一緒にやるものであって、ソロは基本的にいびつ」というのは岡田氏の言だが、個人的には必ずしもそうとは思わない。暗闇のなかでひたすら自分自身を問い続けるような音楽。あるいは見えない神と一対一で向き合おうとするような音楽。いま私は、この原稿を書く作業BGMにバッハの《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》[★12]をかけている。たった一挺のヴァイオリンで主旋律はもちろんバス、和声、そして対旋律まで表現し尽くす、まさに「全宇宙のなかに自分ただ一人」といった趣の作品だ。「ぼっち」であることを過敏に恐れる現代の若者らには、モーツァルトの親密さやショスタコーヴィチのマス性と共に、こうした孤高の音楽に親しむ機会もあってよいのではないだろうか。
ともあれ、今回のイベントが多くの参加者にとって、音楽を介して社会や人間関係へと思索を巡らせる貴重な機会となったことは確かだろう。対談のなかで明かされた情報だが、亀山氏は近々ショスタコーヴィチをテーマにした書籍を上梓する予定とのこと。楽しみに待ちたい。
★1 リヒャルト・シュトラウス(1864‐1949)、ドイツの作曲家・指揮者。後期ロマン派の作風で、特にオペラ、交響詩、歌曲などのジャンルに多くの作品を残した。
★2 イタリア語では「ドン・ジョバンニ」。
★3 ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906‐1975)、ソ連の作曲家。かつてはソヴィエト共産党の御用作曲家と見られていた時期もあったが、近年では政府からの要求と自己の芸術性との間で苦悩した人物、という評価が一般的である。
★4 ルドルフ・バルシャイ(1924‐2010)、ロシアに生まれイスラエルに亡命した指揮者。
★5 http://genron-cafe.jp/event/20170414/
★6 グスタフ・マーラー(1860‐1911)、ボヘミア出身でおもにウィーンで活躍した作曲家・指揮者。R・シュトラウスと共に後期ロマン派を代表する人物で、規模の大きな交響曲で特に知られる。
★7 ベートーヴェンの交響曲第九番第四楽章。有名な〈歓喜の歌〉の部分では、「全ての人々は兄弟になる」と人類の一体化(マス化?)が高らかに歌われる。
★8 リヒャルト・ヴァーグナー(1813‐1883)、ドイツの作曲家。19世紀における最も著名なオペラ作家の一人で、歌と劇の進行を一体化させた「楽劇」と呼ばれる様式を生みだした。
★9 ショスタコーヴィチの作品の特徴として、既存の作品(自作品も他の作曲家のものも)からの引用が非常に多い、という点が挙げられる。しかしそうした引用は、しばしばそれとはっきり分からない形でなされており、また引用の意味もきちんと説明されていない場合が少なくない。そうした暗号としての引用をどう解釈(解読)するかが、今日ではショスタコーヴィチの楽しみ方の一つになっている。
★10 1936年に完成したが、政府の要求する「社会的リアリズム」の路線にはそぐわない作品であり、後述のとおり公開直前で作曲者本人が発表を中止した。初演はスターリンの死後となる1961年。実際、曲想は先鋭的・思弁的で展開もかなり自由である。また第一楽章には演奏困難な高速のフガート(フーガ風の部分)が登場するなど実験的色彩も強い。マーラーからの影響も指摘されている。
★11 1937年の発表。先の交響曲四番とはうってかわり、「暗から明へ」「闘争を経て勝利へ」という非常に分かりやすいプロットを備えた交響曲。先立つ1936年、党の機関誌『プラウダ』はショスタコーヴィチの前衛的な作風を名指しで批判した。第五番は、そんな当局に対し、その意向を十全に汲む形で作られた作品であると見て良い。日本ではしばしば〈革命〉の副題で呼ばれてきた。
★12 このようにまとめて呼ばれることが多いが、その全体は三曲ずつのソナタとパルティータ(計六曲)から構成されており、さらにそれぞれが複数の楽章を有している。


井手口彰典
1978年生まれ。立教大学社会学部准教授。音楽社会学者。著書に『ネットワーク・ミュージッキング』(勁草書房)、『同人音楽とその周辺』(青弓社)、『童謡の百年』(筑摩選書)。アマチュア指揮者として東広島交響楽団に参加、2016年には新垣隆のピアノ協奏曲〈新生〉で作曲者本人の独奏ピアノと協演。