亀山郁夫×岡田暁生「オーケストラと近代市民社会のみた(悪)夢」イベントレポート|井手口彰典

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初出:2017年5月26日刊行『ゲンロンβ14』

 冒頭から私(報告者)の個人的な話題で恐縮だが、ここ10年ほど趣味で市民オーケストラの指揮者を務めている。そんな活動のなかから、話の枕にエピソードを二つほど。

 一つ目はR・シュトラウス★1の交響詩《ドン・ファン》★2を振ったときのこと。稀代のプレイボーイであるドン・ファンを描いた同作には、かなりあからさまな「音のラブシーン」がある。指揮者としてはタクトをウネウネ動かしながら団員をソノ気にさせていかなければならないわけだが、これが何かの罰ゲームかと思うほどに気恥ずかしい体験であった。こんな時、指揮者は自分の顔も体型も忘れ、ドン・ファンになりきって団員に流し目を送るほかない。

 別の機会に指揮したのはショスタコーヴィチ★3の弦楽四重奏曲第八番をバルシャイ★4が弦楽オーケストラ用に編曲した《室内交響曲》という作品。凄まじい緊張感に貫かれたこの曲では、奏者を徹頭徹尾睨み付け続けるしかなかった。オレに服従しろ、許可なしに息継ぎ一つするんじゃない、ビリビリビリ。終演後、団員各位に嫌われたかもとビクつきながら打ち上げの席に臨み、ビールで乾杯を交わしてもらってようやく肩の荷を下ろす。

「個人」の音楽/「マス」の音楽


 何の話やら、とお思いだろうが、そんな過去の体験をあれこれと朧に思い返す機会となったのが、4月14日にゲンロンカフェで開催された亀山郁夫氏と岡田暁生氏のトークイベント「オーケストラと近代市民社会のみた(悪)夢」であった★5。交響曲(=公共曲?)の持つパブリックな側面と、本来であればその正反対に位置づけられるべき親密性との関係を、モーツァルトからマーラー★6 、そしてショスタコーヴィチへ、という西洋音楽史の流れのなかで考えていこうというものだ。ゲンロンカフェでクラシック音楽をテーマに取り上げるのは初めてとのことだが、会場には40人ほどの熱心なオーディエンスが集まった。

 登壇者の亀山氏はドストエフスキーの研究で知られるロシア文学者で、クラシック音楽にも造詣が深い。対する岡田氏はR・シュトラウスのオペラ《薔薇の騎士》の分析を皮切りに西洋音楽を鋭く論じてきた音楽学者。そんな両氏の対談をセッティングしたのはゲンロンサイドだったそうだが、その組み合わせは今回のイベントの意義を最大限に引き出す素晴らしいものであったように思う。というのも、両氏の音楽的な趣味が(どちらもクラシックをベースとしているにもかかわらず)見事なまでに対照的なのだ。

 岡田氏が愛好するのは、近代的な個人と個人の関係性に基づいた音楽である。サロン、あるいはリビングに集う仲間や家族(とりわけ男女)が睦まじく音を紡いでいくような場面をイメージすればよいだろう。だがそんな近代的個人は、やがて第一次大戦を迎えると巨大な「マス」へと飲み込まれていく。この「マス」というのは抽象的な概念だが、暴力的な全体性、とでも捉えればよいだろうか。ともかくも、そのような時代の音楽からは次第に個人の息づかいが消えていく。それゆえに岡田氏にとって「しっくりくる」のは第一次世界大戦の直前に生涯を終えたマーラーまで、なのだという。また、たとえマーラー以前であっても音楽のなかに個人が投影されず「マス」が表に出てくるような作品、たとえば第九のフィナーレ★7などは「大嫌い」だという。

 他方、亀山氏はむしろ「マスの時代」における音楽のサディスティックなエネルギーにこそ、時代の反映としての音楽の神髄を感じておられるようだ。音楽は全体的な力で「のしかかってくる」ようなものであってほしいと語る亀山氏は、今回の企画の鍵でもあるショスタコーヴィチの作品に強く惹かれる反面、モーツァルトなどは(一部を除いて)嫌い、という。音楽が個人と個人の関係をどこまで描ききれるのかについては懐疑的であり、そうした人間関係は文学にこそ求めたい、という立場はさすが文学者のそれである。

この日が初対面だという亀山氏(左)と岡田氏


交響曲における親密圏


 以上に要約した両氏の趣味的な相違の基底にあるのは、概ねモーツァルトからマーラーに至るまでのオーケストラ音楽が、個人同士の関係に基づいた親密圏を一定程度内包するものであった、という前提である。前述した第九のフィナーレのような公共的(あるいは全体主義的)な音楽が確かにある一方、同じ第九の第三楽章がそうであるとおり、人間が自分自身に立ち戻り他者との間に親密な関係を構築しうるような音楽も部分的にしっかり残されている、そんな併存の状況がこの時代の音楽には確かに認められる。

 せっかくなので、マーラー以前の音楽におけるそうした親密圏の具体像について、対談のなかで示された例をいくつか紹介しておこう。たとえば録音再生機器が登場する以前の交響曲は、オーケストラ・バージョンで頻繁に聞くことが困難であったため、ピアノ連弾に編曲されてサロンや家庭へと持ち込まれるのが普通であったという。交響曲は大ホールで鳴り響くばかりでなく、ごく親密な空間のなかで男女や親子が肩を寄せ合って演奏するという側面も持ち合わせていたのだ。また特にドイツの場合だが、交響曲の基礎部分は弦楽四重奏曲の形式に落とし込めるのが本来であり、マーラーのような大規模な作品でさえ、煎じ詰めていけば小編成の(つまりは親密な個人の集まりによって担いうる)合奏形態へと還元できるのだそうだ。歌についても同じことが言え、ヴァーグナー★8の劇的なアリアも旋律だけを取り出せばドイツリートをその根幹に持っているという。私自身の体験に引き寄せて言えば、かつて赤面しながら指揮したあの《ドン・ファン》のラブシーンも、そんな親密圏のなかの音楽と見なしうるものなのだろう。もしもあの曲をピアノ連弾に編曲して、サロンに集った男女が一緒に演奏、なんてことになると……ああ嬉し恥ずかし。

ショスタコーヴィチをどう捉えるか


 閑話休題。しかしそうした親密圏の存在を半ば無条件的な前提とするような見立ては、第一次世界大戦後の音楽、とりわけショスタコーヴィチの交響曲には通用しない。そして、そんなショスタコーヴィチをどう評価するかを巡り、亀山・岡田両氏の見解は興味深い対立を見せることになる。議論の概略を追っていこう。

井手口彰典

1978年生まれ。立教大学社会学部准教授。音楽社会学者。著書に『ネットワーク・ミュージッキング』(勁草書房)、『同人音楽とその周辺』(青弓社)、『童謡の百年』(筑摩選書)。アマチュア指揮者として東広島交響楽団に参加、2016年には新垣隆のピアノ協奏曲〈新生〉で作曲者本人の独奏ピアノと協演。
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