「現代日本のネット2001-2016」のために|大澤聡+さやわか+東浩紀

初出:2016年9月9日刊行『ゲンロンβ6』
はてなダイアリーの時代
東浩紀 共同討議でも述べているように、「現代日本の批評」第3回の時代の批評史は、ネットとの関係抜きには語れません。そこで、その関係について3人で補足するミニ座談会を行おうと思うのだけど――まず、今回さやわかさんに作っていただいた年表[★1]を見て印象的だったのは、2001年がいきなり「インパク(インターネット博覧会)」の開催に始まり、「侍魂」「カトゆー家断絶」と懐かしい名前が並んでいること。あのころはたしかに「個人ニュースサイト」の時代だった。
さやわか インパクから2000年代のネット史が始まるのは象徴的ですね。もちろん悪い意味で、ですが(笑)。いまではみな忘れてますけど、インターネットは場所に依存しないことが特徴であるにもかかわらず、それを博覧会会場に見立てるという発想がダサいし、しかも博覧会なんて近代の権化みたいなものですからね。あまりに前時代的だった。個人ニュースサイトも、当時爆発的なページビューを集めていましたが、ほとんど現在のシーンには残っていません。
年表にはネットに関係が深い社会的な事象も入れています。たとえば2001年の「吉野家オフ」はかなり重要です。ネットで呼びかけたひとたちが集まって牛丼を食べるというだけのもので、これはいまでいうフラッシュモブのはしりでした。このときは政治的な意図はないんだけど、翌年の日韓ワールドカップのときに嫌韓ムードと吉野家オフの手法が結びついてしまう。なんでもいいから祭りがしたいという雰囲気と韓国を嫌う感情がオフ会というかたちでつながり、リアルな空間に出てきてしまった。遠くSEALDsなどのネット動員による運動論にも通じている。2001年はその後長く続く流れが準備された年でした。
東 実際、翌2002年の2月に、津田大介の「音楽配信メモ」と宇野常寛の「惑星開発委員会」がともに開設される。2003年には切込隊長こと山本一郎(やまもといちろう)のブログが始まり、前後して「きっこの日記」と「極東ブログ」が開設。ほか、「はてなダイアリー」が盛り上がり始め、速水健朗、栗原裕一郎、仲俣暁生、町山智浩、荻上チキとつぎつぎに日記を開設。ぼくがはてなダイアリーに参入したのもこの時期ですね。
さやわか 他方で政治的なサイトも増えていきます。同じ2003年には、のち在特会の会長となる桜井誠がサイトを開設しています。前年に日韓の自動翻訳掲示板「enjoy korea」ができ、日本人と韓国人が掲示板で直接争うようになっていたんですが、桜井氏はそこに投稿したコメントを、自分のサイトで公開し始める。さきほどのワールドカップも含め、このあたりにいまのネトウヨ勢の萌芽が見られます。
東 2002年から2003年にかけて、急速にいまの「ネット論壇」の主要プレイヤーが出そろってますね。
大澤聡 佐々木俊尚『ブログ論壇の誕生』(2008年)の巻末の「著名ブロガーリスト」には、10頁以上にわたってかなりの数のサイトURLが一覧化されているわけですが、2008年の本であるにもかかわらず、結局のところ2000年代初頭にサイトを開設したひとたちがリストの大半。アーリーアダプターたちがゼロ年代後半に「アルファブロガー」と化していくわけですね。それから、プラットフォームとしては、はてなダイアリーのプレゼンスが圧倒的に高かった。
東 それは当時の実感にあっています。でもまだ人数は少ない。2004年ごろのはてなダイアリーは、たしかアクティブユーザーが3000人くらいだった。でもそのぶん全体が見渡せた。そのため議論や応答がたいへん活発で、ぼく自身ほとんど自分の読者のIDを覚えていた。そこらへんの空気については、この座談会と同じ号で、「はてな村村長」こと加野瀬未友さんにエッセイを書いてもらう予定です。
さやわか 2005年4月号で、『ユリイカ』が「ブログ作法」を特集するんですね。ぼくは当時、編集の一部を担当した栗原裕一郎さんに対して、ブログといってもはてなの内輪ノリの話ばかりじゃないかと批判した記憶があるのだけど、いま振り返れば逆に、はてなが中心で正しい。
はてながコミュニティを維持できなくなってきたときに、ほかの要素がわっと出てきて急速に「ブログ論壇」が壊れていったのがよくわかります。ネトウヨだとか、「きっこの日記」的なものが増える。あるいはケータイ小説や「電車男」が登場し、どんどん商業性を前面化した、現在につながるインターネットに変わっていく。2004年が転機かなという気がします。眞鍋かをりが「ブログの女王」なんて呼ばれ始める。
大澤 キャズムではないけど、ムラ的共同体の閾値がそのあたりで踏み越えられたわけですね。
東 そもそもはてなダイアリーの隆盛には前史があって、日本のネットにはもともと静的HTMLで書かれる日記サイト文化があった。大森望さんなんかはそのころからの古参の書き手です。それが90年代後半で、それを受けて2000年代のはじめに日記を書きやすくするサービスが出てくる。「さるさる日記」や「tDiary」、そしてはてなダイアリーですね。
これは、同時期にカリフォルニアから入ってきた、いわゆる意識の高い「ウェブログ」――ブログツールのMovable Typeを自分でサーバーにインストールして使うもの――とは、外見こそ似ているものの、出自はまったくちがう。初期にはその認識がかなり共有されていて、はてなダイアリーも当初はブログとは言っていなかった。またそこに集まるひとたちも、ネットユーザーというよりも「物書き」のように自分たちをとらえていた。ちなみに余談ですが、濱野智史はそのころ慶應SFCのサーバーでMovable Typeを使った「意識の高い」ほうのウェブログを個人でやっていて、ぼくはそれをきっかけに知り合いました。
さやわか 日本発の日記サイトとカリフォルニア由来のウェブログの差異が顕在化したのが、2002年の「ブログ騒動」ですね。伊藤穰一や武邑光裕が日本の日記サイトを無視してブログ論を展開し、叩かれました。でも結局、2004年から2005年にかけて、日本でも「ココログ」のような商用ブログサービスが出てきて「ブログ」のほうが認知されることになります。そして、これによって日記サイト時代とはぜんぜんちがう層のユーザーが、大量にブログ界に流れ込むことになる。だれもが簡単に文章を投稿し、情報を発信できるようになり、ウェブ2.0と呼ばれる現象が起きる。そのイデオローグとして活躍したのが梅田望夫ですね。書籍としては『ウェブ進化論』(2006年)がベストセラーになる。
この動きは実際にビジネスの成功とも連動し、2000年代のなかばになると、ライブドアやサイバーエージェントのようなブログ運営企業が企業買収をさかんに行うようになり、渋谷がビットバレーと呼ばれたノリになっていきます。堀江貴文が衆院選に出るのが2005年。逮捕されるのが2006年の頭。
大澤 近代文学の拡散期にツールとしての私小説や日記文学がはたした役割を、ネット上でブログサービスが辿り直したと言ってみてもいい。
東 日本のネット史を考えるうえで、HTMLの日記からはてなダイアリーへという部分はあまり強調されない。普通は、「2ちゃんねる」からSNSという感じで、ゴミ溜めだったネットがみなも便利に使う表舞台の場所へと変化してきたというストーリーで語られるのだけれど、そのあいだに、一部の出版人のアジールとして機能していた時期があるんですよね。2003年くらいに、短い「人文系の時代」があった。政治的には小泉政権の前半ですね。
大澤 2002年あたりを下限として、出版ベースでは論争らしい論争が見られなくなっていきます。文学でいえば大塚英志と笙野頼子の「純文学論争」、思想でいえば、高橋哲哉と加藤典洋の「歴史認識論争」の終盤あたり。だけど、もちろん論争それ自体が消滅したわけではなくて、紙からネットへと主戦場が移行したんですね。
『批評メディア論』(2015年)にもすこし書きましたが、討議メディアの発展法則としては、即時性と無媒介性の追求が指摘できます。それに照らすなら、即時的なコメント機能やトラックバック機能の充実によって、ブログ(のちにはSNS)が論争の場となるのは必然でしょう。その先に訪れる変化はふたつ。ひとつは、応酬の短期集中によって議論が深まるまえに事態が収束してしまうということ。もうひとつは、無媒介性の効果として外野や一般からの参入が容易になるため、収拾がつかなくなるということ。そして、もはやそれらは「論争」とは呼ばれない。とくに後者は「炎上」と名指されます。
話を戻すと、論争の炎上化の直前に、人文系の時代があったわけですね。そのあたりまでは、ネットがサービスとして未成熟であるがゆえに参入者もかなり限定されていて、出版文化や物書き意識とも親和性を保っていた。だからこそ、論争らしさもかろうじて成立していたわけです。
東 ぼくは2004年に波状言論の発行するメルマガで、はてな創業者の近藤淳也さんにインタビューを取っています。彼にはisedの議論にも参加してもらっています。当時すでに出版人がはてなダイアリーへ参入していて、ぼくにはそのインパクトは大きいように見えた。だから話をむけたんだけど、近藤さん自身がそのことにまったく興味を抱かなかったんですよね。代わりに彼が関心をむけていたのは「主婦が使うようなサービスを作りたい」だとか、そういう方向だった。
もしあのころ近藤さんが、はてなダイアリーが作った新しい人文系コミュニティに関心をむけていれば、いまのネットの状況もすこしはちがったかもしれない。
大澤 それは佐々木俊尚の「ブログ論壇」論の限界でもありますね。あの議論はアメリカ型のブロゴスフィアの萌芽を時評的に日本のネット空間からピックアップして回るものでしかなかった。それだと、ネット言論の一断面しかとらえられない。本当は、あの時期に日本的言論とネットの、幸福なクロスポイントがあったはずです。とにもかくにも、ネットの批評空間を語るとき、参照可能な文献がいまだに『ブログ論壇の誕生』しかないという状況はちょっとまずい。
東 まったくそのとおりで、伊藤穰一、梅田望夫、佐々木俊尚といったひとたちが理想としたブログ論壇のイメージは日本では虚構でしかなかった。そもそも単純すぎる。けれども、かといって2ちゃんねるがすべてだったわけでもなくて、じつはそのまんなかにはてなダイアリーという人文系に近い世界があった。そこではまさに批評とネットが接点を持ち、貴重なコミュニティが生まれていたのに、ある時期から育たなくなってしまった。それはブログのせいでも2ちゃんねるのせいでもなく、はてなダイアリーというプラットフォームの失敗で、そこにこそ日本のブログ論壇の悲劇があったんだと思う。
大澤 「たけくまメモ」にも残っているはずだけど、竹熊健太郎は一時期、ひろゆきに過度な期待をしていましたね。マスコミなり言論人なりが2ちゃんねるの功罪にばかりとらわれてしまったことが、実際の遠近をゆがめる結果につながったのでしょう。
リアルタイムウェブの影響力
さやわか いずれにせよ、日本ではカリフォルニア・イデオロギーがもともと根づいていなかったので、たんなる起業家がお金を儲ける手段としてのみネットをとらえ、アーキテクチャの構築に乗りだしてしまった。彼らもアメリカ由来の企業理念を語ろうとするわけだけれど、根底にあるべき思想がないから、倫理意識も育たない。はてなダイアリー「以後」は、その貧しさがあきらかになっていく歴史ですね。
大澤 以前、ぼくとの対談のなかで大塚英志が「ウェブ倫理」の立ち上げが必要だと発言していて、そのとおりだと思ったんですが、そのことをいま、ことさらに考えないといけない窮状の遠因もそのあたりにありますね。
東 IT系が論壇の可能性に冷たかったという話になっているけれど、とはいえ当時、本当は紙のひとたちのほうにはるかに問題があって、度し難いほどセンスがなかった。メールアドレスを持っていない編集者すらざらにいたんだから。
大澤 なんと……。その後も出版業界はネット文化に関して奥手であり続けますね。自分たちと対立関係にあるという誤った認識が拭えなかった。
さやわか 2003年から04年にかけて、ブログ発の書き手がたくさん出てきて、旧来のメディアが彼らに注目し、紙に連れてくるという現象が起きた。ところが批評や人文系ではその流れがとても遅かった。荻上チキが『ウェブ炎上』を書くのも2007年になってからですね。それでも衝撃だった。あの「成城トランスカレッジ!」のチキが新書を書くのかと。
東 すこし別の話になるけど、小林よしのりは2000年代に入っていちど存在感がなくなったでしょう。それが最近また復活している。これは要は「BLOGOS」に小林さんのブログが転載されるようになったからだと思うんです。彼は紙からネットへ活動の場を切り替えて、ようやく復活した。これをマンガからブログへと言ってもいい。90年代は『ゴーマニズム宣言』をみんなが読む時代だったけど、いまはブログしか読まない。
大澤 90年代後半に小林と罵倒し合った宮台真司も長年、公式サイトを公開していますね。「ミヤダイオンザウェブ」(のちの「MIYADAI.com」)の開設が1999年。ブログの導入が2003年。サイトの管理人charlieとして鈴木謙介を知ったひとも多いはず。宮台さんの投稿テキストは別の紙媒体で発表したものの転載が大半を占めます。対談記事も自分の発言部分だけを抽出して載せる。こうした用途は一般のブログ的発想からはかなりズレている。
東 宮台さんはネットをアーカイブとして使っている。この使い方の点では、年表には名前がないけど山形浩生さんの存在がじつは重要です。
さやわか 山形さんは90年代から活躍しているので、逆に掲載できなかったんですね。同じ理由で抜け落ちているひとはたくさんいます。
東 彼のサイトはひとつの雛形になっていた。クールでデザインがミニマムでテキストのアーカイブを目的としている。ぼくも最初のサイトを真似て作った。
最近のネットはリアルタイムウェブ、つまり「いまこの瞬間に話題のもの」を世界へ発信するためのメディアになっているでしょう。けれど、SNSの普及まではちがっていて、サイト制作者のおもな目的はむしろ情報のアーカイブにあったんですね。本や雑誌に載せた原稿を蓄積し、公開するストックとしてネットを使っていた。
じつは初期の日記サイトの特徴もそういう「情報のアーカイブ化」にあります。あまり有名じゃないけど、タニグチリウイチさんというライターの方の日記がよい例です。彼はある新聞の記者なんだけど、1996年から20年間、オタク系の業界話をまったく同じフォーマットで書き続けている。日記がずらりと並んでいるのはなかなか壮観で、ぼくの名前も90年代から登場します。過去の日記ページが「縮刷版」と名づけられているのがおもしろい。
大澤 そのタイトルがすべてを物語っていますね。結局、そのあたりのひとたちはネットを使ってはいても、あくまでも紙のアナロジーでとらえていて、ネットの持つストックメディアとしての側面に特化した利用者です。正直にいうとぼくは、フローとして即製され、たまにその場で流れを変えては去っていく言論の可能性にそこまで興味が持てず、無限にストックできる特性のほうを重視してしまうので、宮台さんや山形さんに近い。ことに批評とSNS的なフローとの食い合わせにはかなり懐疑的です。
東 ぼくも同意見ですよ。ネットはもともとストックのメディアだったのが、途中でフローのメディアに変わってしまった。それで見えなくなった可能性がたくさんあると思う。そもそもいまのリアルタイムウェブでは、情報がどれほど残るのか心もとない。
さやわか 2000年代前半がはてなダイアリーの時代だったとすれば、後半はリアルタイムウェブの時代だったといえるでしょうか。その変化では、SNSとは別に動画サービスも見逃せません。「ニコニコ生放送」の開始が2007年。2008年には「東浩紀のゼロアカ道場」でも動画中継ブーム、いわゆる「ザクティ革命」が起こる。そして2009年に「ケツダンポトフ」が始まります。そらのさんが「ダダ漏れ女子」を名乗り、活動し始めた。
東 ザクティ革命はともかく(笑)、ダダ漏れは大事だよね。事業仕分けやオープンガバメントの動きとも関係していた。津田大介も絡んでいた。
さやわか 東さんも対談してますよ。
東 してた! なんか広告代理店の仕切りで高級な店に連れられていった記憶がある……。
さやわか 彼女は当時かなり活発に活動していて、2010年には「朝までダダ漏れ討論会」を主催して、田原総一朗さん、津田大介さん、河野太郎さん、上杉隆さんらが出演しています。これは同時期に東さんがやられていた「ニコ論壇」と絡んで、人文的なものをストックではないところに、つまりフローの場に出そうという試みだったのだけれど、結局彼女はそのあと炎上につぐ炎上によって潰されていく。要は、起こったことがそのままリアルタイムで流れていく現実に、彼女自身が耐えられなくなっていく。
大澤 当初は「よくわからないままやっちゃいました」という素人くささが売りになったし、批評性もあったはずなんだけど、認知度が増すにつれて正当性が求められ、プロ化してしまった。最後はずいぶん規制されたなかでの自己目的化の隘路にはまり込んでいった。
東 ネットに対応できたかどうかのつぎに、リアルタイムウェブに対応できたかどうかというフィルタがあって、そこで言論人はかなり振り落とされる。
大澤 だからこそ、はっきりとそこから距離を取る言論人は少なくない。
さやわか リアルタイムウェブは属人性が高いので、いままでとは桁ちがいにアクセスを稼げる人間がたくさん出てくる。けれどもそのことの意味がわかっていないひとたちが、彼らにわざわざ紙で文章を書かせて玉砕する……というのも繰り返されています。そのせいで紙のメディアが先細った。
本当にしなきゃいけないのは、彼らがウェブで書いているものをどうやってアーカイブ化可能なものに変えていくか、ネットとは別の価値をつけることができるかという話だったのに、ネットの活動をそのまま紙に持ってくるようなことばかりやってきた。それだとフロー的な情報をストックに置き換えるだけだからうまくいかない。だから、たとえばネットでネトウヨが流行っているからといってネトウヨを紙に連れてきても盛り上がるはずがない。2008年に創刊され、3号で終わった『m9』はその典型ですね。
大澤 ネット発の左寄りの言論人としては、津田大介や荻上チキがいるわけですが、彼らはともに出版でもネットでもなく、テレビやラジオに日々の活動の舞台を見出している。これはわかりやすい現象ですね。
東 ネットではマネタイズできない。結局は放送メディアに頼らざるをえない。逆にリアルタイムウェブでの情報拡散と政治活動は、マネタイズなんて必要ないボランティアベースのものへと収斂していく。それが2010年代のなかばになって、反原発デモを経てSEALDsに雪崩れ込むわけです。そこではもはやメッセージはなくて、音楽と身体があればいい、共感が伝わればいいという運動論が強くなって、言説は逆にほとんどなくなってしまう。要するに日本のネットは、リアルタイムウェブにメッセージを乗せることに失敗したんだと思うんです。そういうふうにウェブを使える人材を育ててこなかった。
大澤 まさに左も右もみんなワンフレーズでぶつかり合う。ワンフレーズはツイッターとも相性がいい。しかし、それは対話や討議とはほど遠いでしょう。日本の紙メディアは、マクルーハンの有名なプローブ「メディアはメッセージである」を愚直に体現しています。ウェブのひとを連れてきましたという形式だけがメッセージと化していて、そこになにを盛るかは二の次。
東 リアルタイムウェブはひとを動員する装置でしかないから、その先にコンテンツを持っていないと本当は意味がない。最終的な商品なりメッセージなりがあって、そこへの導線としてリアルタイムウェブは使うべきなんだと思う。リアルタイムウェブそのものが目的になってしまったら、メッセージはなくなるに決まってるんですね。
その点で残念なのは、もしいまでもはてなダイアリーのような言論圏が残っていれば、少なくとも一部はツイッターをその宣伝のために使っていたはずなんですよね。はてなダイアリーへの導線として活用できた。でもいまは導線の先がないから、たんにSNSで「いまここ」でウケるワンフレーズを拡散するだけになってしまった。
さやわか はてなダイアリーのなかで、いま社会へのアプローチができる場所として生き残っているといえるのは、はてな匿名ダイアリーだけですね。今年はそこで「保育園落ちた日本死ね!!!」が書かれ、国会での議論まで引き起こし話題になりました。
東 たしかにあの動きを、いちブロガーの投稿が世の中を動かした、市民から政治家への新しい声の届け方として評価する声もある。けれども実態はいわゆる「炎上」でしかないと思うな。
さやわか 匿名の書き込みですからね。2ちゃんねるとそんなに変わらない。
東 あの問題をいち早く紹介した駒崎弘樹さん自身は、ネットを活用する新しい言論人といえそうだけど。
大澤 そうやって、「言論人」の輪郭というかイメージが組み変わっていくわけですね。
メディアのサステナビリティ
東 日記サイトがあって、2ちゃんねるが出現して、その傍らにはてなダイアリーがあって、ブログ論壇の可能性が生まれて消えて、動画とSNSの時代が来て……とここ15年ほどの歴史を駆け足で見ているのだけど、いまぼくたちが語っているのは、要は、本当ならありえたかもしれない別の世界の可能性なのかなと。別の並行世界でははてなダイアリーが栄えていて、はてな出身の論客も活発に議論していて……。
さやわか 悲しすぎる話ですね(笑)。
大澤 まぁ、種や萌芽はいくつかあったはずなんですけどね。ただ、どれもサステナブルではありえなかった。良質のプラットフォームを立ち上げても続かない。技術的にも感情的にも手軽に立ち上げられるだけに、矜持が持てないんでしょうね。いつ消えるともわからない、だれが読むともわからない、そんな投稿だけが場所を転々としながら飛び交う。
東 そうでなければ山本一郎やイケダハヤト(2009年ブログ開設)のような「炎上系」ブログですよね。いずれにせよ、いまこの瞬間に売ろう、話題にしようと思うと、まず変化が求められる。事業にしてもローンチの際には金が集まるんですよ。注目されるから。けれど継続にはひとが集まらないし注目もされない。そういうものだと思ってやるしかないんだけど、ネットはそういう地味な継続にはたいへんむかない場所です。
さやわか 多くのひとは継続できないですよね。とくに動画サイトは軒並みそういう感じで潰れている。そう考えると、今日は話題にならなかったけれど、2001年に立ち上がり、いままで続いている神保哲生と宮台真司の「マル激トーク・オン・ディマンド」は驚異的です。
東 あれは本当にすごい。そもそも少額課金制での動画配信としては圧倒的に先駆的でしょう。ただそのぶん孤立感はある。
さやわか 他方で、継続していてかつ大きな影響力を持った例というのは、たとえば「チャンネル桜」ですね。2007年、つまりニコニコ動画などネットが動画文化に移行し始めたタイミングですぐにネット配信を開始。やはりいちど経営が傾き、お金をカンパしてくださいという状態になったんだけれど、異常に強い意志があっていまも続いている。そうすると、長く続けているというだけで支持者が寄ってくるし、批判的な者も言及せざるをえなくなる。そういうやり方で在特会につながっていくんです。
大澤 保守は支持者も熱心だし。
東 保守はそもそも保守だから継続性には強い。リベラルはその点ダメですね。以前ゲンロンの経営が傾きかけたとき、数年で崩壊した柄谷行人さんのNAMへの失望が頭をよぎりました。NAMと同じ失敗をぼくが繰り返してはいけない、借金があろうとひとが離れようとなんだろうと、ぎりぎりまで続けなければいけないと。
大澤 歴史的に見ても、続けたひとが最後は勝利するんですよ。あたりまえだけど。
さやわか 言論とはいえないかもしれないけど、宇川直宏さんの「DOMMUNE」はそういう意味ではとても自立した組織ですね。トーク番組も配信している。2010年に始まり、いまも続いています。
東 ああいう意志力を言論人も持てればいいのだけど。ほかは津田さんかな。ツイッターでの知名度獲得を経て、『メディアの現場(津田マガ)』の創刊が2011年。「シノドス」も2007年開始だけど、荻上さんはいまは主戦場はラジオになっている。
さやわか 岡田斗司夫が「オタキングex」を始めるのも2010年ですが、彼もいまは失速しています。彼は自分がコントロールできる範囲でのクローズドなSNSの可能性を探っているように思います。
大澤 ゼロ年代後半の若手批評家たちは文章を書くと同時に、それを編集し流通させることにかなりのリソースを割いていました。東浩紀の例の「営業」発言の延長にあると言ってもいいのかもしれません。宇野常寛にしても荻上チキにしても評論家兼編集者を名乗り続ける。10年代のゲンロンはそれを具体的な場の編集として運営しているわけですが、他方で、批評家自身が場を作ったりシーンを作ったりといったモードが後退しつつあるようにも見えますね。たとえば、國分功一郎でも白井聡でもいいんだけど、彼らがゼロからメディアを作ることはいまは考えにくい。再び分業化に回帰している。
東 むろん、プラットフォーマーが理解のあるひとだったらそれでもいいと思いますよ。でも理解がないところでコンテンツだけ作ろうとしても、結局は彼らの要望に沿ったものしか作れないし、ゼロ年代の問題は本当はそこにあったんじゃないかな。國分さんにせよ白井さんにせよ、あるいは本編の共同討議で言及するはずの古市憲寿や佐々木中にせよ、ほとんど反動的なまでにメディア側の期待を満たしているから活躍できるわけでしょう。だからそれとはちがうことをしたければ、自分でプラットフォームを作るほかない。
大澤 反対に、場の設計に批評性を見出して、それに専念するタイプは出てこないんですかね。IT系プラットフォーマーの倫理性の欠如の問題も踏まえたうえで。
東 場だけを作るといったときに、そのモチベーションはなにか。ぼくがゲンロンを作っているのは、自分のやりたいことをやるために作っているのであって、場を作ることそのものが目的では続かないと思う。
大澤 なぜこんな話をするのかというと、歴史的に見ると、1930年代や50年代にそれを夢見たものの未完に終わったひとたちがいたからなんです。いまは書き手だけど、将来的には場を作ることに徹するようなひとがいてもいいと思う。批評的編集/編集的批評が実現するのはそのときでしょう。
さやわか いまだとシェアハウスがそれに相当するんじゃないですか。ギークハウス(pha)や渋家(齋藤桂太)が誕生したのが2008年ですね。家入一真や坂口恭平なども同じ動きに分類していいでしょう。とりあえずひとを集め、それが結果的にムーブメントを作っていく。ただ、たしかに批評界隈ではそうした動きは例がありません。
東 ぼくからすれば、それを強引にやったのが前出のゼロアカ道場です。実際、ギークハウスや渋家と同じ2008年のことです。けれどうまくいかなかった。祭りの力だけでは批評は立ち上がらなかった。ゲンロンはその失敗のうえで作られていて、伝統的な出版とリアルタイムのツイッターと現実空間のカフェと放送のアーカイブという複数の媒体をミックスさせることで、それぞれの強さを倍加させようとはしています。でもこれが成功するかどうかは、さっぱりわからないですね。
2016年7月13日 ゲンロンオフィス
構成=編集部
昭和から平成の言論史を徹底総括、批評を未来に開く
『ゲンロン4』 2016年11月15日発行 A5判並製 本体370頁 ISBN:978-4-907188-19-1 ゲンロンショップ:物理書籍版 / 電子書籍(ePub)版 Amazon:物理書籍版 / 電子書籍(Kindle)版


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