演劇とは「半々」である──『ブルーシート』と虚構の想像力(前篇)|飴屋法水+佐々木敦
2016年06月10日刊行『ゲンロンβ3』
本稿は飴屋法水さんと佐々木敦さんの対談「演劇とは『半々』である──『ブルーシート』と虚構の想像力」から、一部を抜粋して掲載するものです。対談「演劇とは『半々』である」は、今年4月にゲンロンカフェにて開催されたトークイベント、「ニッポンの演劇 #3 なにが演劇なのか──パフォーマンスの『正体』をめぐって」[★1]をもとに構成されたものであり、対談の全文は、2017年6月に刊行された『ゲンロン5』演劇特集「幽霊的身体」に掲載されております。ぜひこちらもご覧ください。(編集部)
佐々木敦 ぼくはゲンロンカフェで「ニッポンの演劇」というシリーズを担当しています。現在、日本の演劇シーンでは、70年代から2010年代まで、長い年月のあいだに登場した演劇人たちが群雄割拠状態でしのぎを削っているかに見えます。このシリーズでは、ニッポンの演劇の独自性はどこにあるのか、その可能性と抱える問題はいかなるものなのか。毎回キーパーソンをお迎えしてお話をうかがっています。1回目はチェルフィッチュの岡田利規さん、2回目はハイバイの岩井秀人さんをお迎えしました。3回目の今日は飴屋法水さんにお話をうかがいます。
飴屋法水さんは1961年生まれ、演劇を始めたのは唐十郎の状況劇場に参加した17歳のときです。その後、劇団「東京グランギニョル」を立ち上げ、オブジェと身体、血糊を駆使したスペクタクルな作品を発表します。劇団は2年で解散、飴屋さんは活動の場を現代美術に移し、レントゲン藝術研究所を中心に、希望者に精子を提供してもらって展示し、観客とのあいだで人工授精を募る『パブリックザーメン/公衆精子』など、非常に過激な作品を作られています。その後、ペットショップ「動物堂」の運営などを経て、飴屋さんが演劇に戻ってくるのは2007年。SPACの宮城聰さんのプロデュースで行われた平田オリザさんの戯曲『転校生』の上演でのことでした。新しい演劇のかたちを世に問い続ける飴屋さんの作品は高い注目を集め、2014年にはいわきの高校生たちと作った作品『ブルーシート』が岸田國士戯曲賞を受賞しています。
長く豊かな、そして魅惑的に錯綜したキャリアをお持ちの飴屋さんですが、その表現を貫いているのは「演劇」だと思います。実際、飴屋さんご自身が何度となく、自分のやっていることは、ほとんどそう見えないかもしれないものも含めてなにもかもが「演劇」なのだ、と発言しています。
では、そもそも「演劇」とはいったいなんなのか。今日はあらためて飴屋さんにこの原理的かつアクチュアルな問いをぶつけてみたいと思っています。
佐々木 まずは『ブルーシート』についてお聞きします。『ブルーシート』は飴屋さんが2013年に福島県立いわき総合高校の生徒たちと作って、翌年の岸田國士戯曲賞を受賞した作品です。いわき総合高校では授業に演劇が取り入れられていて、さまざまな演劇人が招聘されて高校生と作品を作っている。この作品もそのひとつでした。それが昨年のフェスティバル/トーキョー[★2]で、2年前の初演とほぼ同じキャストで再演されました。ぼくは台本は以前から読んでいたのですが、初演には行くことができなくて、再演ではじめて見ました。
この作品の制作プロセスは、どのようなものだったのでしょう。この時期にいわきの高校生とやるということで、3.11の問題は避けて通ることができなかっただろうと思います。なにが作品の始まりにあり、どのように作業が進んだのか。
飴屋法水 具体的なきっかけは、平田オリザさんからお話をいただいたことです。「この時期空いてる?」って言われて、「空いてます」って答えたら「じゃあいわきでやんなよ」と。10年くらいまえに久しぶりに演出の仕事をしたのが、さきほど佐々木さんからご紹介があったように平田さんの『転校生』でした。『転校生』は静岡の高校生たちとやった作品で、平田さんはそれを覚えていてくださった。ぼくがいわきで作品を作る動機は、そうやって外から発生したものです。
それで現地に行ったら、この子たちとやってくださいと生徒10人を紹介された。演出を頼まれていたので「なにを演出しましょうか」と言ったら、「いやいや飴屋さん書くんですよ」って言われて、「えーっ」と(笑)。だから、そもそもぼくが書くということも決まっていたわけじゃないんです。
佐々木 平田さんの『転校生』も、いわき総合高校の同じプログラムの枠で2005年に上演されたそうですね。しかし『転校生』は80年代の作品で、戯曲が先にあった。飴屋さんの場合は、戯曲もなかったんですね。
飴屋 いっしょに作るとはどういうことかと尋ねてみると、10人全員を役者として舞台に出すことだと言うんです。でも演劇は役者だけのものじゃない。照明や音響などのスタッフワークもありますね。けれどもこの場合は、舞台に立ちながらなにかを学習することが演劇とされていた。はじめて学校に行ったときは、まだ引っかかりを覚えていました。
そんなとき、演劇の練習にあてられた部屋のとなりが理科室で、廊下に人体模型があるのを見つけた。あっと思って、これも出していいですか、と。コロコロコロって持ってきて、11人目の出演者にしました。のち「神経くん」と呼ばれることになる、神経とか血管とかが見える模型です。この子も役者として使うという条件で、11人でやるってことならいいですよと答えたんです。それで自分のなかでなにかが腑に落ちた。ここがスタートだったと思います。
佐々木 そして、10人と模型と飴屋さんの12人で作っていった。戯曲ではいまの高校生の言葉が使われていますが、これはオリザさんの現代口語演劇を意識したんでしょうか。
飴屋 ぼくは自分のメソッドだと説明できるようなものはとくに持ってないし、演劇としての新しい方法論という意識もぜんぜんない。戯曲を書くにしても、ひとが舞台の上でなにかは喋ってます、っていう、それくらいの大雑把なことしかない。そこで、舞台にだれが立つことになるのか、それをひとつの条件として、このひとはなにか言ったりするんだろうな、動くんだろうなと考える。それだけです。そのときに、あるヴィジョンというか、絵柄が訪れはする。
『ブルーシート』では、「ヒッチーくん」という、当時髪をおかっぱにしていた男の子がいました。ぼくは彼のことをしばらく女の子だと思っていたんですが、あるとき「あ、男だったんだ」という体験があった。そこで、彼が周りにおまえ男か女かはっきりしろと責められて、いや自分はそれ以前だと答えるという絵柄が突然浮かんだ。では「それ以前」というのはどういうことなんだろうと考えて、言葉が連なっていく。そういうことの繰り返しです。ある絵が突然浮かぶというのは、夢を見ることに近い。夢というのは見ようとは思わないでも見ちゃうものですよね。事故みたいな感じです。
佐々木 それは映像として浮かぶのですか? 舞台の一部として。
飴屋 ちゃんとしたシーンとして浮かんでるわけじゃないけど、まあそうです。で、見ちゃったからには、夢に出てきちゃったからにはしょうがないという考え方をしています。
飴屋法水さんは1961年生まれ、演劇を始めたのは唐十郎の状況劇場に参加した17歳のときです。その後、劇団「東京グランギニョル」を立ち上げ、オブジェと身体、血糊を駆使したスペクタクルな作品を発表します。劇団は2年で解散、飴屋さんは活動の場を現代美術に移し、レントゲン藝術研究所を中心に、希望者に精子を提供してもらって展示し、観客とのあいだで人工授精を募る『パブリックザーメン/公衆精子』など、非常に過激な作品を作られています。その後、ペットショップ「動物堂」の運営などを経て、飴屋さんが演劇に戻ってくるのは2007年。SPACの宮城聰さんのプロデュースで行われた平田オリザさんの戯曲『転校生』の上演でのことでした。新しい演劇のかたちを世に問い続ける飴屋さんの作品は高い注目を集め、2014年にはいわきの高校生たちと作った作品『ブルーシート』が岸田國士戯曲賞を受賞しています。
長く豊かな、そして魅惑的に錯綜したキャリアをお持ちの飴屋さんですが、その表現を貫いているのは「演劇」だと思います。実際、飴屋さんご自身が何度となく、自分のやっていることは、ほとんどそう見えないかもしれないものも含めてなにもかもが「演劇」なのだ、と発言しています。
では、そもそも「演劇」とはいったいなんなのか。今日はあらためて飴屋さんにこの原理的かつアクチュアルな問いをぶつけてみたいと思っています。
出会ってしまうこと
佐々木 まずは『ブルーシート』についてお聞きします。『ブルーシート』は飴屋さんが2013年に福島県立いわき総合高校の生徒たちと作って、翌年の岸田國士戯曲賞を受賞した作品です。いわき総合高校では授業に演劇が取り入れられていて、さまざまな演劇人が招聘されて高校生と作品を作っている。この作品もそのひとつでした。それが昨年のフェスティバル/トーキョー[★2]で、2年前の初演とほぼ同じキャストで再演されました。ぼくは台本は以前から読んでいたのですが、初演には行くことができなくて、再演ではじめて見ました。
この作品の制作プロセスは、どのようなものだったのでしょう。この時期にいわきの高校生とやるということで、3.11の問題は避けて通ることができなかっただろうと思います。なにが作品の始まりにあり、どのように作業が進んだのか。
飴屋法水 具体的なきっかけは、平田オリザさんからお話をいただいたことです。「この時期空いてる?」って言われて、「空いてます」って答えたら「じゃあいわきでやんなよ」と。10年くらいまえに久しぶりに演出の仕事をしたのが、さきほど佐々木さんからご紹介があったように平田さんの『転校生』でした。『転校生』は静岡の高校生たちとやった作品で、平田さんはそれを覚えていてくださった。ぼくがいわきで作品を作る動機は、そうやって外から発生したものです。
それで現地に行ったら、この子たちとやってくださいと生徒10人を紹介された。演出を頼まれていたので「なにを演出しましょうか」と言ったら、「いやいや飴屋さん書くんですよ」って言われて、「えーっ」と(笑)。だから、そもそもぼくが書くということも決まっていたわけじゃないんです。
佐々木 平田さんの『転校生』も、いわき総合高校の同じプログラムの枠で2005年に上演されたそうですね。しかし『転校生』は80年代の作品で、戯曲が先にあった。飴屋さんの場合は、戯曲もなかったんですね。
飴屋 いっしょに作るとはどういうことかと尋ねてみると、10人全員を役者として舞台に出すことだと言うんです。でも演劇は役者だけのものじゃない。照明や音響などのスタッフワークもありますね。けれどもこの場合は、舞台に立ちながらなにかを学習することが演劇とされていた。はじめて学校に行ったときは、まだ引っかかりを覚えていました。
そんなとき、演劇の練習にあてられた部屋のとなりが理科室で、廊下に人体模型があるのを見つけた。あっと思って、これも出していいですか、と。コロコロコロって持ってきて、11人目の出演者にしました。のち「神経くん」と呼ばれることになる、神経とか血管とかが見える模型です。この子も役者として使うという条件で、11人でやるってことならいいですよと答えたんです。それで自分のなかでなにかが腑に落ちた。ここがスタートだったと思います。
佐々木 そして、10人と模型と飴屋さんの12人で作っていった。戯曲ではいまの高校生の言葉が使われていますが、これはオリザさんの現代口語演劇を意識したんでしょうか。
飴屋 ぼくは自分のメソッドだと説明できるようなものはとくに持ってないし、演劇としての新しい方法論という意識もぜんぜんない。戯曲を書くにしても、ひとが舞台の上でなにかは喋ってます、っていう、それくらいの大雑把なことしかない。そこで、舞台にだれが立つことになるのか、それをひとつの条件として、このひとはなにか言ったりするんだろうな、動くんだろうなと考える。それだけです。そのときに、あるヴィジョンというか、絵柄が訪れはする。
『ブルーシート』では、「ヒッチーくん」という、当時髪をおかっぱにしていた男の子がいました。ぼくは彼のことをしばらく女の子だと思っていたんですが、あるとき「あ、男だったんだ」という体験があった。そこで、彼が周りにおまえ男か女かはっきりしろと責められて、いや自分はそれ以前だと答えるという絵柄が突然浮かんだ。では「それ以前」というのはどういうことなんだろうと考えて、言葉が連なっていく。そういうことの繰り返しです。ある絵が突然浮かぶというのは、夢を見ることに近い。夢というのは見ようとは思わないでも見ちゃうものですよね。事故みたいな感じです。
佐々木 それは映像として浮かぶのですか? 舞台の一部として。
飴屋 ちゃんとしたシーンとして浮かんでるわけじゃないけど、まあそうです。で、見ちゃったからには、夢に出てきちゃったからにはしょうがないという考え方をしています。
待つこと
佐々木 どんな公演でも、初日を◯月◯日に迎えるということは決まっているわけですよね。初日を迎えたときには作品はできている。むこうからシーンがやってくるのを待つというやり方に終始していると、状況が見えなくなりませんか。
飴屋 なります。いまのところ、最終的には作れている。けれど怖いのは怖い。初日まではあがいている。1週間前の段階では、たいてい、いくつかのシーンはあっても、まだ全体としての演劇はできていない状態です。そこから演劇になるのに1週間かかる。自分のなかで、これでいちおう演劇になったという基準のようなものはあるけれど、そこに到達するのはじつは初日であることが多い。『ブルーシート』のラストシーンの台詞をどうするかが決まったのも、初日の午前中だったと思います。なにか歯車がガチャンと合って、ついにゴーできるという感じかな。もう40年近くやってきたから、無意識に時間感覚が身についているのかもしれない。
佐々木 焦るということはない?
飴屋 焦りはしませんね。今日のトークにしても、若いころならきっとバリバリに緊張してただろうけど、いまはそういうことはない。いまさら、ひとにどう思われたいとかいう感覚はないわけです。最後の歯車の「ガチャン」の感覚、なんだかいちおう演劇になったという瞬間が訪れるのがおもしろくて、それを求めている。話は飛ぶようだけれど、それは動物相手にいろいろやってたからだと思う。動物が相手だと、焦ってもしょうがないんだよね。
佐々木 飴屋さんはかつて東中野で「動物堂」という珍獣専門のペットショップを経営していらっしゃった[★3]。そのときの経験は『キミは珍獣と暮らせるか?』という著書にもまとめられています。
飴屋 ぼくもはじめはケージで飼ってた。それがやがて放し飼いになり、どうやったら部屋でほかの動物と同居できるのかを考え、そのうちに、それがエスカレートして、部屋を出て外に行くことになる。風切り羽も切ってないし、ひもも一切つけてない、飛んだらバッと逃げられる鳥が、どうやったら外でぼくと関係を持ち続けてくれるのか。ひたすらトライしていました。庭に放した鳥が、いまぱあっと森に逃げちゃったとして、庭に餌を置いていたらはたして戻ってきてくれるのか。何日でもひたすら待つんです。もしかしたら、3日目くらいに、お腹が空いてここを選んでくれるかもしれない。脱走みたいなかたちで鳥が街に行っちゃったとして、その鳥が止まった電柱の下に行ったらはたして降りてくるのだろうかとか。そんなことばかりしていたから、演劇でも待つし、焦ることはない。
佐々木 それは、いつかは戻ってきてくれるという確信があるわけではなく、ただ待つという経験なんですね。
飴屋 失敗するときもある。行動学的に戻ってくるかどうかというだけの話ではなくて、死なせてしまうこともある。たとえば見知らぬ国のダンゴムシやミミズがいたとして、このダンゴムシが生きているという現実に対して挑戦をするわけです。どんな餌をやったら生きてるのかなとか。でもね、けっこう失敗する。すごい数の動物を死なせてしまいました。もちろん、生きていて欲しい。そういうイメージは持っているけれど、ひたすら結果を受け入れるしかないんですね。
2016年4月13日 東京、ゲンロンカフェ
構成=山崎健太+編集部
★1 飴屋法水×佐々木敦「ニッポンの演劇 #3 なにが演劇なのか──パフォーマンスの『正体』をめぐって」 http://genron-cafe.jp/event/20160413/
★2 2009年から東京都で開催されている国際演劇祭。通称F/T。初年度の2009年のみ春と秋の2回行われ、以後は年1回秋に開催されている。1988年から2008年まで開催されていた「東京国際芸術祭」を前身とする。初回から2013年まではアートプロデューサーの相馬千秋がディレクターに起用され、演劇のジャンルを揺るがすような実験的な作品が多く上演された。2014年からは、東京国際芸術祭のディレクターであった市村作知雄が相馬の後を引き継いだ。運営母体となっているのはNPO法人アートネットワーク・ジャパン。飴屋法水は『転校生』(2009年春)、『4.48 サイコシス』(2009年秋)、『わたしのすがた』(2010年)、『宮澤賢治/夢の島から』(2011年、ロメオ・カステルッチとの共同制作)、『ブルーシート』(2015年)でF/Tに参加している。
★3 飴屋法水が1995年に東中野で始めたペットショップ。世界から集めた珍獣を飼育・販売していた。非売品も多く、また、世話をする気のない買い手には販売しなかった。単なるペットショップというよりは、動物と生きることを追求する実験場といった意味もあり、その経験はのちに飴屋の著書『キミは珍獣(ケダモノ)と暮らせるか?』(文春文庫PLUS、2007年)にまとめられた。動物堂はのちにフクロウに特化するようになった。現在は営業していない。
すべてが記号に覆われた現代社会で身体になにができるのか? 利賀村で開催された3日間のシンポジウムを完全記録
『ゲンロン5』 2017年6月8日発行 A5判並製 本体324頁 ISBN:978-4-907188-21-4 ゲンロンショップ:物理書籍版 / 電子書籍(ePub)版 Amazon:物理書籍版 / 電子書籍(Kindle)版飴屋法水
1961年生まれ。演出家・劇作家。1978年、唐十郎の「状況劇場」に参加。1983年「東京グランギニョル」結成、演出家として独立。その後、発表をレントゲン藝術研究所など美術の場に移す。1995年にアニマルストア「動物堂」を開業、動物の飼育と販売に従事しながら、「日本ゼロ年」展(1999年)などに参加。2007年、平田オリザ作「転校生」の演出で演劇に復帰。2014年、『ブルーシート』で岸田國士戯曲賞受賞。著書に『彼の娘』(2017年)など。
佐々木敦
1964年生まれ。思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。芸術文化のさまざまな分野で活動。著書に『成熟の喪失』(朝日新書)、『「教授」と呼ばれた男』(筑摩書房)、『増補新版 ニッポンの思想』(ちくま文庫)、『増補・決定版 ニッポンの音楽』(扶桑社文庫)、『ニッポンの文学』(講談社現代新書)、『未知との遭遇【完全版】』(星海社新書)、『批評王』(工作舎)、『新しい小説のために』『それを小説と呼ぶ』(いずれも講談社)、『あなたは今、この文章を読んでいる。』(慶應義塾大学出版会)、小説『半睡』(書肆侃侃房)など多数。撮影=新津保建秀