【書評】気候危機時代の戦争、あるいは資源国家ロシアの運をめぐって──Alexander Etkind『Russia against Modernity』評|平松潤奈
webゲンロン 2023年6月29日配信
ロシアによるウクライナ侵攻は、その開始から1年数ヶ月が経った現在も不可解なものでありつづけており、人々のあいだでも正反対の見解がぶつかりあっている。一般メディアでは、この戦争をプーチンの帝国主義的野心あるいは帝国崩壊の兆候だと見る西欧リベラル派の解釈、あるいはNATOの東方拡大への反発だとするロシア政権側の言い分など、国際関係論的・地政学的な観点が大きくとりあげられてきた。だが、ここで紹介するロシアのリベラル派知識人、アレクサンドル・エトキントによる最新の著作『反近代のロシア』は、この戦争に一風変わった背景──西欧諸国の気候変動対応に対するロシアの反発──を見ている。
本稿では主に前半でこの著作を紹介し、後半ではその議論を踏まえて、グローバル化した世界におけるロシアの立ち位置について付言したい。ロシアを代表する文化史家エトキントは、ペテルブルグのヨーロッパ大学、ケンブリッジ大学などを経て、現在はウィーンの中央ヨーロッパ大学で教鞭をとっている。彼については、『ゲンロン6』のロシア特集に少し紹介があり、『ゲンロン7』には著書『歪んだ喪』の抄訳が掲載されている。また『反近代のロシア』の議論に関係する前著『悪の自然』について、乗松亨平による紹介が『現代思想』2022年1月号に掲載されている。
本稿では主に前半でこの著作を紹介し、後半ではその議論を踏まえて、グローバル化した世界におけるロシアの立ち位置について付言したい。ロシアを代表する文化史家エトキントは、ペテルブルグのヨーロッパ大学、ケンブリッジ大学などを経て、現在はウィーンの中央ヨーロッパ大学で教鞭をとっている。彼については、『ゲンロン6』のロシア特集に少し紹介があり、『ゲンロン7』には著書『歪んだ喪』の抄訳が掲載されている。また『反近代のロシア』の議論に関係する前著『悪の自然』について、乗松亨平による紹介が『現代思想』2022年1月号に掲載されている。
気候変動とポスト・ソヴィエト・ロシア
エトキントによれば、ポスト・ソヴィエト時代(1991-2022)は、気候変動に対してグローバルな危機意識が高まった時期と合致する。この時期、人間の活動が地球環境に影響を及ぼしはじめた地質時代としての「人新世」の概念が提唱され(2000)、温室効果ガス排出規制などをとりきめた地球温暖化防止条約(1992)、京都議定書(1997)、パリ協定(2015)が採択されるなど、脱炭素化に向けた動きが活発化していった。他方、ソ連解体により計画経済から市場経済へと移行したロシアは、こうした流れに逆行するかのように、まさにこの時期、多くの混乱を経て、国家財政の大部分を石油・天然ガス輸出に依存する天然資源国家、世界有数の炭素化推進国家となっていった。つまり、西欧諸国が主導する脱炭素化運動は、天然資源収入によって立つプーチン政権にとっての実存的脅威となり、この脅威への対抗措置として戦争が開始されたというのである。
実際、エトキントが示すように、プーチン政権は西欧諸国の気候変動対策に対して隠し立てもせず侮蔑的発言をしたり、環境運動に反対するヨーロッパの極右政党を援助したりしてきた。また2016年のアメリカ大統領選挙では気候変動否定派のドナルド・トランプを支援、当選したトランプ大統領は、ロシアの石油業界と結びつきの深いエクソンモービルのCEOを国務長官に据えるなどして環境規制緩和を進め、2017年にはパリ協定からの離脱を発表した。
こうした傍証からはたしかに、ロシアの政治エリートたちが、気候変動を否定する「反近代的」な立場を「積極的に」「自由に選びとってきた」経緯が明らかになる(ここでいう「近代」とは、人間が自然利用を無限に拡張してエネルギーを大量消費し、地球汚染を引き起こしてきた帝国主義的な「旧近代」ではなく、「ガイア的近代」──ジェームズ・ラヴロックのガイア理論やブリュノ・ラトゥールの議論をもとにエトキントが作り出した用語で、人間が地球システムの一部としてそれと折衝しながら、エネルギー消費の抑制・脱成長・分権を志向する新しい近代──のことだという)。しかしながら、ウクライナに戦争をしかければ西欧の脱炭素化運動を止められるとプーチンがなぜ考えたのか、という肝心の点は十分論証されておらず、実態としても、西欧諸国の制裁によりロシアの石油・ガス輸出収入が激減していることを考えるならば、エトキントの主張に強い説得力があるとは言えなさそうだ。自国第一主義・国内産業保護を唱えたトランプ政権のアメリカと異なり、資源輸出に頼るロシアが、国際的な気候変動への対応を拒否するのみならず、侵略戦争という極度に反グローバルな行動をとることによって経済的利益を得る見込みは薄いように思われる。
それでも、エトキントにならってトランプ政権とロシアとのつながりに着目し、この戦争を、グローバル化を担ってきたリベラリズムの苦境と反リベラル勢力の台頭というより広い文脈のなかで把握し、環境・資源問題もそうした文脈の一環として考えることはできるかもしれない。いずれにしろエトキントは、この本全体にわたって一貫して気候変動要因から戦争を論じることには成功していない。気候問題を直接扱っているのは第1章だけで、全体としては、戦争開始の条件となったロシア社会のさまざまな側面を論じており、その意味ではややまとまりを欠いているかもしれない。しかし他方で、そうしたさまざまな論点は、エトキントのこれまでの多様かつ洞察にみちた研究──大陸国家ロシアの植民地主義、ポスト・ソヴィエト時代の記憶と喪の問題、資源輸出と政治形態の関係など──に基づくものであり、逆に言えば、彼のこれまでの研究はすでにあらかじめ、この一見不可解な戦争が起こりうる歴史的・文化的条件を、きわめて的確に析出してきたのだと言える。
そのなかでも、彼の資源国家に関する議論──その基本構想は、石油依存と民主主義の負の相関関係を論じるマイケル・ロスやティモシー・ミッチェルの著作による──は、戦争の直接的原因とは言えないまでも、戦争を深く条件づけている問題の解明に資するものだ。以下まず、『反近代のロシア』の資源問題を扱った箇所と、この本の土台となったと思われる彼の2013年の論文「ペトロマッチョ、あるいは資源国家における脱近代化のメカニズム」[★1]に基づき、彼のロシア資源国家論を概略する。
石油マッチョなプーチン政権
エトキントによれば、西欧諸国の脱炭素化運動によりロシアの天然資源収入が減少すると、プーチン政権の権力構造が揺らぐという。なぜならそれは、石油や天然ガスという資源のありかたに規定された権力構造だからだ。石油や天然ガスの採掘事業は、いったん採掘装置やパイプラインを建設してしまえば、あとは人間の労働力をあまり必要としない分野であり、ロシアのGDPの15%、国家予算の半分以上、そして輸出額の3分の2をなす化石燃料の採掘に従事するのは、国の人口のわずか1%にすぎない。この1%に加えて、2-3%が、採掘施設やパイプラインの安全管理、金融関係や財閥の警護にあたる保安関係者である。これらあわせてわずか3-4%が国の経済の大半を支えているのであり、残された全人口は、国家にとって不要な存在になっているという。
大量の天然資源収入(レント収入)が国民の労働を介さず国家に直接入ってくるので、納税と引き換えに得られる政治的代表制の仕組みが機能せず、国民の声は政策に反映されない。こうして富の再分配を享受できないロシア国民は、ぎりぎりの生活を余儀なくされ、彼らの幸福度は著しく下がり、自殺率は高く、出生率は低下している。他方で、資源収入を着服するごく少数の国家エリートたちは、家族を西欧に送り、自国には整備してこなかった高度な教育、福祉、法制度を享受させるなど、国民の大半とはまったく別の経済を生きている。このような資源依存のロシア・エリートを、エトキントは「石油マッチョ」と呼ぶ。彼らエリートの多くが、富と自らの身を警護する保安関係者であり、そのような富と暴力の独占にかかわる職業についた彼らはみな男性だ。
このごくわずかなペトロマッチョが支配する国は、父権的でホモフォビア的傾向が強く、保守伝統的な家族形態を擁護する。皮肉にもこうしたマチスモゆえ、一般住民の実態においては、家庭内暴力が絶えず、離婚率が高く、家庭から排除された男性の寿命は短く、父親不在の不安定な家庭がきわめて多い。そのような父親不在の家庭で、フルタイムで働く母親にかわって子育てを担うのは祖母だが、現役を退いた祖母は現代社会を知らず、規律や従順さなどの古い規範を伝達することによって文化的発展を阻害する存在であり、孫のよきロールモデルにはなれない。こうして父親にかわり私的領域を支配する祖母と、公的領域を支配するペトロマッチョは、相互補完しあいながら反近代的な現代ロシア社会を形作っているのだという。
以上のような(政治的に一部問題のありそうな)解釈にはいろいろと議論の余地があるだろう(たとえば本稿の筆者は、エトキントが『反近代のロシア』で強調するほどまで国民が富の分配から排除されてきたとは考えない。そうであったら、長期にわたる高い政権支持率は説明がつかない)。いずれにせよエトキントによれば、今世紀のグローバルな気候変動対応は、このような反近代的な天然資源国家の政治構造と人口動態のうえに築かれた体制を脅かすものであり、対ウクライナ戦争はそうした脅威に対して起こされたものなのである。そして親子ほどの年齢差があるプーチン政権とゼレンスキー政権との衝突は、民族間対立というよりは、石油にまみれて汚染・腐敗し反近代へと後退していくロシアと、天然資源に拘束されることなく近代化を進めていけるウクライナとの世代間戦争なのである(ウクライナの人々にとっては、このようなエトキントの解釈こそが、ウクライナから民族的主体性を奪う帝国主義的主張であるかもしれない。彼のロシア国内植民地化論[★2]も帝国主義的観点を助長するものだとしてウクライナの学者から批判を受けている)。
ロシアの運とアメリカの能力主義
以上のようなロシア資源国家論を展開するエトキントは、プーチン時代のロシアにおける「運」の支配を批判する。ペトロマッチョ一族は、豊かな天然資源が偶然にもロシア連邦領内に埋蔵していたという幸運、そして偶然にもソ連解体期にその資源を私物化できる国家的地位についていたという幸運に浴し、働かずに途方もない富を享受してきたのだ。『反近代のロシア』にも少し言及があるが、2013年のペトロマッチョ論でとりわけ強く主張されていたのは、こうした運の支配する社会からの脱却、具体的には能力主義の必要性である。運によって富んだペトロマッチョとその家庭に生まれた子弟が貴族階級をなしている不平等な社会構造を解消し、労働し努力して功績をあげた人々が正当に評価される流動的な社会がロシアに到来せねばならないのだ。実際、一度の運によって固定された非民主主義的な構造が、結局、この無謀な戦争開始の決断の一因となったことは否めないであろうから、エトキントの批判はごくまっとうなものだと言えるだろう。
しかし、ロシアのリベラル知識人エトキントがこのような能力主義論を展開してからほどなくして、ロシアの仮想敵たるアメリカでは、それとは正反対の議論──能力主義批判──が大きな支持を得た。日本でも広く読まれているマイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か』(鬼澤忍訳、早川書房、2021年、原著2020年)である。リベラリズムの限界を論じるこの書においてサンデルは、アメリカ社会で能力主義が蔓延し、格差が広がり、能力主義競争で勝った人々の奢りと負けた人々の行き場のない屈辱感が蓄積したがゆえに、トランプ支持のポピュリズムや国の分断が生じたのだと指摘する。この行き詰まりを解消するためにサンデルが唱える一つの処方箋は、運の果たす役割の認識と強化である。能力主義競争で勝ったように見える人の人生にも運(生まれもった才能という資源や裕福な出自など)が働いていることが再確認され、勝者の謙虚さが回復されるべきのみならず、能力主義の最たる事例である大学入試にはくじ引きが導入されるべきだというのだ。
能力主義批判というアメリカのこの新しい動向を考えるならば、ロシアのエトキントによる能力主義奨励は、周回遅れの主張にも映る。近代とは、固定的な身分制が廃止され、機会均等という条件のもとで自由な能力主義競争が行われるべき時代である。そのような能力主義が批判されるようになったアメリカは、近代を通過し去ってポスト近代を生きているのであり、それとは対照的に能力主義を必要とするロシアは、いまだに前近代・反近代的段階にあって、アメリカの周回遅れを走っている、あるいは逆走しているにすぎないのだろうか。
敗北の否認と資源
しかしながらエトキントも触れていたとおり、トランプ陣営とロシア政権の結託が見られるなど、アメリカとロシアは同時代性を大きく共有してもいる。能力主義競争で敗北したトランプ支持の非エリート住民が抱く不満や屈辱感は、ロシアの国家エリートと国民が一体となって西欧諸国全体に抱く不満と酷似している。西欧諸国が国内に敗者を抱えているように、世界はその内部にロシアという敗者国家まるごとを抱えているのである。ロシアは、冷戦終結で完全にグローバル化した世界において能力主義競争に負けた敗者である。
通常、天然資源依存国家は「資源の呪い」や「オランダ病」という言葉で論じられる。天然資源が見つかった国は、その資源の輸出によって自国通貨レートが上昇することで工業製品輸入国となり、その結果、自国の製造業を衰退させてしまう。このオランダ病がロシアに顕著に見られたことはたしかだが、しかしたとえば世界トップクラスの天然資源産出国である中国やアメリカは、製造業でも世界一、二位を占め、オランダ病にかかっていない。つまりロシアに関しては、資源輸出により製造業が衰退する以前に、製造業競争での敗北により資源輸出に依存してしまう、という逆の因果関係があるのだ。
ソ連解体直後の1990年代、アメリカの指導と資金援助のもとで行われた経済体制移行に失敗したロシアでは、製造業が壊滅し、多くの人々が貧困状態に陥り、国が破滅してもおかしくない状況にあった。そうした冷戦の敗者の地位からの脱出方法として、資源輸出国家という生存戦略(それは実は技術的に立ち遅れていたソ連時代からの伝統であったが)がおのずと選びとられていったのであり、この資源国家としての復活により、敗北はなかったことにされた。敗北を否認し、勝者のふりをするメカニズムが、天然資源という幸運によって構築されたのである。この幸運は、エトキントが言うように選民意識に基づくナショナリズムを高め、実際、戦争と制裁が進行する今も、一部の市民は「ロシアは天然資源が豊かな強国だから、それをうらやむ世界中の国々がロシアを弱体化しようとしているのだ」という定型的レトリックによって現状を解釈しようとしている[★3]。
グローバルな能力主義競争において国として勝ちつづけ、過剰な能力主義の支配に至ったアメリカ社会では、運の重要性が唱えられ、他方、能力主義競争で敗北し、運のみに依存するようになったロシア社会では、能力主義の重要性が唱えられる。この両極端の状況を同時に可能にする単一のグローバルな能力主義競争は、一国内の競争よりも無慈悲なものである。価値観を共有するコミュニティなきグローバルな競争に関しては、サンデルがアメリカ国内について提言するように、敗者の社会貢献を承認するシステムをつくろうとか、競争にくじ引きを持ち込もうなどといった発想は起こらないであろう。
もちろん国際援助はつねに行われているし、一部の学者のあいだでは、グローバル正義の名のもと、貧困にあえぐ人々を援助するために、天然資源から得られる利益のグローバルな配当や基金の創設などが構想されている(チャールズ・ベイツ、トマス・ポッゲ、ヒレル・スタイナーなど)。天然資源が幸運な特定の国の特定の支配者の手中におさまっていること、あるいはそうした資源の購入によって先進国がグローバル経済の犠牲者を生み出している状況は不当だからである。さらに気候変動もグローバル正義にかかわる問題であり、天然資源の利益配当は同時に、その資源が引き起こすグローバルな環境汚染の責任の配当にもならねばならない。
こうした構想の良し悪しや実現可能性はここでは措いて、ロシアの置かれた困難な立ち位置に話を絞ると、ロシアはグローバルな能力主義競争の敗者でありながら、運を用いて、国民も含めた国全体として敗北を否認しえたがゆえに、勝者からの援助を受ける敗者や犠牲者にはならず、逆に資源大国という運の勝者として責任を問われる側に立たされ、また自らもその立場に同一化していったのである。
ロシアの脱連邦化
結局そのようなねじれた表面的勝利は自信をもたらさず、鬱屈した敗者の屈辱感は、隣国に侵攻して勝者の立場を得ようという短絡的決断へと暴発してしまった。冷戦敗北から新たな戦争に至るこの一連の経緯に、一定の必然性がなかったとは言い切れない。しかしながらロシアのエリートや彼らを支持した国民にいかなる主体性もなかったとは言いがたい。エトキントによれば、少なくともエリートは、このような道を「積極的に」「自由に選びとってきた」のであり、とりわけ最終的に選びとってしまった不条理な暴力の責任を、外的状況に還元させることはできない。
エトキントは、この戦争という最悪の帰結を受け、痛みを感じながらも、核と石油という不要なゴミの倉庫と化した国は解体されるほかない、というよりも必ず解体されるはずだ、として、『反近代のロシア』の最終章を脱連邦化の議論に割いている。
脱連邦化は、脱植民地化にとどまらず、植民地主義の主体であったモスクワ自体の変容を意味する。この脱連邦化によって、天然資源の富は、ペトロマッチョの拠点たるモスクワではなく、その大部分を産出するハンティ=マンシ自治管区やヤマロ=ネネツ自治管区(両者とも西シベリアのチュメニ州に属する)などに返されねばならないし、こうした少数民族の居住地域がモスクワのゴミ埋立地になってはならない。
本の最終節は、この脱連邦化がすでに起こったことであるかのように、小説風に過去形で書かれている。「新しい生活がはじまった。時間はかかったが、彼らは徐々に暮らしの立てかたや身の守りかたを学んだ。連邦が残したスクラップを売る者もいたが、結局はそれぞれの繁栄のしかたを見つけた。穀物を売る者もいれば、車を売る者もいた。学生に教える者も、観光客を呼び込む者もいた。石油と兵器の複合的な呪いから解放され、美しい国々が生まれた。/連邦解体後の国のありかたを決めたのは、人々なのだ。民族対立が高まった〔……〕新しい国境や諸政府のあいだで争いが生じた。そのために暴力も起こった。だが連邦の暴力ほどひどいものではなかった〔……〕歴史は続き、国際社会も変化を認めた。/平和会議が開かれ〔……〕新しいユーラシア条約が結ばれた〔……〕新しい国々はなににもまして、戦争で連邦を打ち破ってくれた国に感謝した」。ここで同書は終わっている。果たしてそのような美しい国々は現れるだろうか。敗者がそのかたちを変え、承認されるときは来るだろうか。これはあまりに非現実的なビジョンだろうか。だがこの現実とも思われぬ戦争こそが、国のかたちの根源的変容を要請しているのではないだろうか。
★1 Эткинд А. Петромачо, или Механизмы демодернизации в ресурсном государстве // Неприкосновенный запас, №2(88), 2013. С. 156-167. 英語版は以下を参照。Alexander Etkind, “Petromacho, or Mechanisms of De-Modernization in a Resource State,” Russian Politics & Law, vol. 56, nos. 1-2, 2018, pp. 72-85. DOI: 10.1080/10611940.2018.1686921 URL= https://hdl.handle.net/1814/68517
★2 ロシア帝国では、国外ではなく国内の農民が植民地化の主要対象となり(農奴制)、また、植民地化された地続きの国外地域が宗主国の内部に取り込まれていったという議論。
★3 YouTubeチャンネル “1420 by Daniil Orain” のいくつかのロシア人街頭インタビュー、たとえば “Why are we the most sanctioned country in the world?”(2023年5月31日)を参照。URL= https://youtu.be/zNqjsTF-V5Q
平松潤奈
1975年生まれ。金沢大学国際基幹教育院准教授。専門はロシア・ソヴィエト文学。共著に『ユーラシア世界 4 公共圏と親密圏』(東京大学出版会)、『ロシア革命とソ連の世紀 4 人間と文化の革新』(岩波書店)、共訳書にヤンポリスキー『デーモンと迷宮 ダイアグラム・デフォルメ・ミメーシス』、『隠喩・神話・事実性 ミハイル・ヤンポリスキー日本講演集』(いずれも水声社)など。