【書評】トラウマとイデオロギー──マルレーヌ・ラリュエル『ファシズムとロシア』評|乗松亨平
本書にとっては厳しいタイミングでの出版となった。だがこの厳しいタイミングだからこそ、読まれるべき本である。
本書の原題は「ロシアはファシストか」である。これは修辞疑問であって、現代ロシアの政治体制をファシズムとは呼べないというのが著者の主張だ。欧米(やロシア)では絶対悪に等しい「ファシスト」というラベリングによって思考停止に陥ることを諫め、ロシアを西側と連続した反リベラリズムの潮流のなかで捉えるように説く。
著者はロシアの右派研究の世界的第一人者であり、時代の先端を捉える詳細かつ旺盛なそのリサーチは、評者もつねづね参照してきた。その視野が現代だけでなく過去にも広がっていることは、『ゲンロン7』に訳出された、ユーラシア主義とロシア宇宙主義の交錯の歴史を見渡す論文「運命としての空間」からも明らかであろう。本書は著者が積みあげてきたリサーチを凝縮したいわば「ベスト盤」となっており、ロシアの現体制を支えるイデオロギーや社会運動について、類書の追随を許さない情報量が詰め込まれている。ロシアがファシストだろうがそうでなかろうが、絶対悪であることに疑問は挟みえないような現況だからこそ、本書の冷静なスタンスは貴重である。
ファシズムをめぐる言説の活況は、冷戦終結後に生じた、第二次世界大戦の記憶をめぐる争いに起因する。ソ連は連合国の一員としてファシズムと戦い、多大な犠牲を払ってヨーロッパを救ったという従来の歴史観が、ソ連はナチ・ドイツと入れ替わりの侵略者であったという中東欧諸国からの新たな歴史観によって挑戦された。EUがこの歴史観を受け入れたことはロシアとEUのあいだに大きな亀裂を走らせ、ロシアは従来の歴史観の強化に走る。ロシアがウクライナの現体制をナチやファシスト呼ばわりするのも、こうした経緯と関わっている。一方、新たな歴史観を代表する歴史家のティモシー・スナイダーは、『自由なき世界』(慶應義塾大学出版会)において、ロシアの現体制をファシズムとして糾弾する。相手を絶対悪とみなすことで亀裂を広げるばかりのこの争いを、本書は沈静化しようと試みる──その試みは報いられなかったが。
ファシストではないといっても、本書がロシアの政治体制を擁護するわけでは微塵もない。ソ連以来のロシアでは、ファシズムを支持する運動やその再来とみなせるような現象は一貫してマージナルであったことを本書は論証するが、この論証を通じてロシアの右派のさまざまな動きが詳述される。現体制のイデオロギーは大統領府、軍産複合体、正教界の3つのアクターによって形成されるという分析から始まり、ジリノフスキーら極右に分類される政治家、ドゥーギンのような思想家、スキンヘッドやバイカー集団「夜の狼」、あるいは総合格闘技サンボ(評者の世代には懐かしいエメリヤーネンコ・ヒョードルも登場する)といった大衆組織まで、社会の全域に及ぶ右派の分厚さには目のくらむ思いだ。しかし実際、目がくらんで呆然としている場合ではなかったわけである。
ロシアのウクライナ侵攻は、ロシアをめぐる私たちの視野を大きく変えてしまった。本書もこの変わってしまった視野から読まれるほかない。ロシアの現体制を動かしているのはソ連崩壊というトラウマであり、本来あるべき「常態」とみなされるソ連/ヤルタ秩序への回帰が宿願なのだという本書の見立ては、現下の状況に照らして説得力をもっている。
その一方で著者は、このトラウマの治癒が進み、「ロシア世論、特に若い世代は徐々に、回復期の終わりへと近付いている」(294頁)とも述べており、ロシアがこんな破滅的なしかたで「常態」の復活へ向かうとは、(評者を含む多くの研究者と同様に)予測していなかったようにみえる。「プーチンはプラグマティストだ。新しいタイプの近代国家のユートピア的ヴィジョンなど持たない、『現実政治』の達人である」(265-266頁)という歴史家のロジャー・グリフィンの言葉に、著者は賛意を示す。多くの研究者が共有していただろうこうしたプーチン評は、ウクライナ侵攻を受けて修正されざるをえまい。
また、ロシアの現体制の関心は国家の生き残り(つまり「現実政治」)にあり、イデオロギーについては反リベラリズムと総称できる雑多なものから場当たり的に採用しているだけだという見方、あるいは、「主流派はイデオロギーを市場ベースの論理で考えている」(289頁)のであり、リベラリズムすら都合のよい面はとりいれるシニシズムがあるという見方も、同様に見直される必要があろう。こうしたシニシズムは、プーチン政権のイデオロギーやメディア戦略を長く担当したウラジスラフ・スルコフとしばしば結びつけられ、ポストモダン的などとも評されてきた。このような理解はおそらくある時点まで妥当性をもっていたし、ひょっとするとプーチン自身は、いまもって自分をプラグマティストとみなしているかもしれない。しかし、論文や演説で述べられる現実離れしたイデオロギーが字義どおりに実行されてしまうという事態は、そんな理解を大きく逸脱している。
この逸脱がどうやって生じたのかを考えなければならない。ひとつの論点として、トラウマや生き残りといった動機と、イデオロギーとの関係があるだろう。著者は前者を「一連の慣習、信条、感情」(165頁)と呼び、場当たり的で道具的に使われるイデオロギーとは別箇の、より根源的なものとみなしているようだ。この分離は果たして妥当なのか。
それに関連するのが、イワン・イリインとアレクサンドル・ドゥーギンの影響力をめぐる議論である。ロシアの政権に影響を与えているとスナイダーが喧伝し、ファシズムとも関連づけられるこの二人の思想家に関して、著者は政権への影響力を強く否定する。評者もこの判断は基本的に正しく、ドゥーギンをプーチンのブレーンや教師とみなすような評価は不正確であると考えている。しかし、著者はロシアの政治体制とファシズムを切り離そうとするあまり、「影響」をいくぶん狭量に捉えてしまっているのではないか。プーチンが彼らを読んでいるとかいないとかいうことは別にして(ただしそのレベルでも、イリインは体制内でかなり読まれている)、ロシアの体制の「慣習、信条、感情」の醸成に、イリインやドゥーギンが関係ないとは断言できない。彼らの著作がその「慣習、信条、感情」を醸成したとはいわないまでも、彼らの著作にその表出がみられるとはいいうるのではないか。そして重要なのは、彼らの思想がまさにロシアのトラウマや生き残りのイデオロギーであり、著者が分離する、「慣習、信条、感情」とイデオロギーという二つのレベルをつなぐものであることだ。
ソ連崩壊後のロシアの現実を底の抜けた「無底」と呼ぶ、ドゥーギンの一節を引いておこう。「無底の存在を痛感し、その恐怖に満たされた者だけが、今日ロシア人とみなされうる」、「銅の時代〔現代〕のロシアのロゴスは、『ロシア的無底』のうちに探さねばならない──過去へのノスタルジーでもなく、未来への臆病な希望でもなく、恐ろしく完全に空虚な現在のただなかに」(『知の戦争 境界文明』)。
私たちに古馴染みの言葉でいえば、「ネタ」と化した道具的イデオロギーに対し、「慣習、信条、感情」は「ベタ」である。この二つの分離は貫徹されえないことを、私たちはあらためて、最悪のかたちで目にしている。
乗松亨平