【書評】それでも理想は語らなければならない──曽田長人『スパルタを夢見た第三帝国』評|辻田真佐憲
「歴史上、最も明らかな人種国家であるスパルタは、こうした(新生児から虚弱な子供を除くという)人種法則を計画的に遂行した。我々ドイツでは、反対のことが計画的に行われている」。ヒトラーは1929年、演説でこのように述べ、同時代の障害者保護を痛罵した(127頁)。
古代ギリシアの都市国家スパルタは、全体主義的な軍事国家としてよく知られる。そのため、ナチ時代のドイツでは、ワイマール共和国と重なる民主制のアテナイではなく、スパルタが盛んに持ち上げられ参照された。
曽田長人『スパルタを夢見た第三帝国』は、さまざまな幹部の発言から、当時のスパルタへのあこがれを描き出していく。
教育大臣のルストは1936年、自己犠牲を厭わないスパルタ式で若者を教育しなければならないと説いた。プラハ大の人種衛生学教授のシュルツは1942年、スパルタの身分制(スパルタ市民/ペリオイコイ/ヘイロータイ)を下敷きに、ドイツ人による異民族支配を主張した。
極め付きに、空軍大臣のゲーリングは1943年1月、スターリングラードの戦局が不利に陥るや、(映画『300』で有名な)テルモピュライの戦いを引き合いに出して、ドイツ兵もスパルタ人のように徹底的に戦い、玉砕するだろうと叫んだのである。
ドイツでは、18世紀後半から19世紀にかけて、古代ギリシア・ローマが理想とされ、古典を通じた人格陶冶や国民形成が図られた。これをルネサンスに次ぐ意で新人文主義という。中世的秩序からの脱出が図られるなかで、とくに人間中心でリベラルなアテナイが輝かしく見えたのだ。ちょうどナポレオン戦争が起こり、ドイツが統一国家の形成へと向かい、ゲーテやフンボルトが活躍した時代のことである。
かかる伝統を有するドイツの人文主義者たちは、スパルタを賛美するナチにきっと批判的だったと思うかもしれない。ところが、現実は逆だった。
「一九三三年三月いわゆる授権法が成立し、ナチ党のヒトラーによる独裁政権が誕生した。人文主義者の多くは、ナチ党の粗野なあり方に不安を抱きつつも、この出来事を歓迎した」(36頁)。かれらは、ナチ党歌「ホルスト・ヴェッセルの歌」をわざわざラテン語に翻訳し、歓迎の意さえ示したのだ。
なぜそんなことになったのか。本書の大きなテーマのひとつだが、あえて一言でいえば、人文主義者が「古典語教育・古典研究の周縁化から脱出する機会を、ナチ政権の成立に期待したからである」(上同)。
これにはいささか説明を要する。
そもそもヘロドトスやプラトンなどのテキストは、そのままパピルスや羊皮紙などで全文残されていたわけではない。多くのばあい、それらは戦争や天災で被害を受けながら、かろうじて書き写され、引用されたものであり、どうしても断片的にならざるをえなかった。異文も少なくなかった。
古典を重んじる新人文主義にとって、これはなんとも不都合だった。そこで、「この部分は動詞の使い方が新しいので、後世の創作ではないか」「この部分は複数の文献で引用されているので原文に近いのではないか」などの校訂を行い、真正のテキストを得ようとする学問が発展した。これを古典文献学という。
いわば、理想を示す「規範性」(〜べき)と、事実を究める「実証性」(〜である)を両立させる試み。19世紀初期の新人文主義者フリードリヒ・アウグスト・ヴォルフが思い描いたこのような夢は、しかし、やがて思わぬ結果を招いてしまう。実証研究が進むほど、古代人も現代人と同じく多くの問題を抱えており、かならずしも理想像になりえないことが明らかになってしまったのだ。
なんという皮肉だろう。こうして20世紀に入ると、栄光ある人文主義は目標を見失い、古典文献学は訓詁学的な註釈に堕落し、たんなる一学問にすぎなくなり、授業時間の減少に悩まされるようになった。本書が記す「古典語教育・古典研究の周縁化」とはすなわち、このことをいうのである。
このような危機のなかで生まれたのが、「第三の人文主義」だった。ドイツの人文主義者たちは、第一次世界大戦後で混迷をきわめる1920年代、いまいちど古代ギリシアに「規範」を見出すことで、諸学問への優位性を取り戻そうと図ったのだ。
不幸なのは、これがまさに第三帝国の成立せんとする時期にあたったことだった。そのため、人文主義者たちは危ない橋を渡らざるをえなかった。
ベルリン大学教授のヴェルナー・イェーガーは、主著『パイデイア』第一分冊で、「民主主義によって土台を築かれたペリクレス(前四九〇頃―前四二九年)の指導者としての立場とディオニュシオス(一世)(前四三〇頃―前三六七年)による純粋に軍事によって支えられた単独支配の間を貫く新たな道を見出すことが、新時代の総統国家の目的となるであろう」と述べて、古代ギリシアが第三帝国の模範になると訴えた(39頁)。
イェーガーは結局、ナチのイデオローグに受け入れられず、妻がユダヤ人だったこともあり、1936年渡米。以後、傍観者に徹したが、その弟子、キール大学教授のリヒャルト・ハルダーはナチとの協調にのめり込み、「人間性よりもむしろ人種主義との関連の下に」プラトン研究をおこなった(65-66頁)。また、ミュンヘン大学に赴任するとともに、インドゲルマン精神史研究所に勤務。ドイツ軍占領下のギリシアで、スパルタの発掘調査に従事して、「北方人種」の影響を裏付けようとした。
こうした振る舞いにより、「第三の人文主義」は当然ながら、第二次世界大戦の敗北とともに命脈を絶たれてしまう。
もっとも、すべての人文主義者がナチに近づいたわけではない。ロストック大学員外教授のクルト・フォン・フリッツは、「総統への忠誠宣誓」を「真理の教授が妨げられない限りにおいて」という条件付きで行おうとして、1935年に罷免された。その背景には、フリッツが実証主義者であり、主流の「第三の人文主義」に批判的だったことと関係しているという。
曽田はここに、ドイツ人文主義の二側面、すなわち「規範の立ち上げ」と「歴史学的-実証的な研究」の分裂を見る。
新人文主義者ヴォルフのプログラムに孕まれていた、一方で古代ギリシア(・ローマ)の規範の立ち上げ、他方で歴史学的・実証的な研究という両面から、「第三の人文主義」は前者、フリッツは後者を発展的に継承した。したがって二〇世紀のドイツの人文主義はナチズムとの関わりを経て、ある意味で独立した思想としての弱さ、折衷的な性格を露呈したと言えるのではないか。(239頁)
ただし、「実証」が「規範」に優越すると単純に結論づけることはできない。「忠誠宣誓」拒否で罷免されたドイツの大学教員は、たったふたりにすぎなかった(しかももうひとりはスイス人)のだから。
むしろ評者は、「実証」と「規範」の相克に注目したい。大きな目標があるからこそ、新しい分野が立ち上がる。しかし、研究が進むとテーマの細分化が起こり、当初の目標も見失われる。すると、こんどは研究自体の存在意義が問われるので、また大きな目標を志向する──。
いいかえれば、「大きな見取り図」と「精密化」との相克。これは、ドイツ人文主義のみならず、広く見られる現象ではないか。「規範」なき「実証」は自己否定であり、根無し草とならざるをえず、果てしない細分化のはてに権威主義に走り、世の中から役立たずの烙印を押される。批判されるべきなのは、ナチズムへの協力なのであって、「規範」への志向ではないはずだ。
ここで「歴史が生に奉仕する限りにおいてのみ、われわれは歴史に奉仕することを欲する」(『反時代的考察』、小倉志祥訳)と述べたニーチェを思い出さずにはおれない。
あまり知られていないが、20世紀を目前にして亡くなったかれは、もともと優秀な古典文献学者だった。ところが訓詁学的な研究に飽き足らず、同時代の作曲家リヒャルト・ヴァーグナーのなかにギリシア精神の復活を見出す、大胆不敵な著作『悲劇の誕生』を発表。結果的にアカデミズムから放逐されてしまうものの、在野の哲学者として歴史に偉大な名前を残した。
ようするに「規範」派は、イェーガーやハルダーだけではなく、ニーチェもまた生んだのである。本書では彼にあまり触れられていないが、評者はここに希望を見出す。
いかに実証が讃えられようとも、「それだけでいいのか」という声はけっしてなくならない。ドイツ人文主義より影響を受け、独自の教養主義を育んだ日本でも、それが当てはまる。大きな全体像を語る「知の巨人」は、いかに大雑把で素人語りと批判されようと、求められないではおれない。逆に、「規範」なき「実証」に予算とポストが際限なく供給される(ツイッターに蝟集する人文学者がしばしば夢想するような)未来は、永遠に到来しないだろう。
「規範」と「実証」はめぐる。であるならば、「規範」への志向をいかに適切に位置づけるのかを考えるべきではないだろうか。本邦でそれはおもに、総合知(大きな見取り図)を担う評論家の役割だったが、専門知を担う専門家も参与しても構わない。いやむしろ、世の中から役立たずの烙印を押されつつある人文学こそ、「実証」に自閉せず、積極的に参与するべきだ。
理想は語り続けなければならない。いわば不適切に「規範」を求めてしまった「第三の人文主義」の試みは、それゆえ、けっして時代の徒花とのみ切って捨てることはできないのである。
辻田真佐憲