なぜ妻は病院に行きたがるのか(1)|大脇幸志郎

本記事には『鬼滅の刃』のネタバレが含まれています。未読の方はご注意ください。(編集部)
劇場版『鬼滅の刃 無限城編 第一章』を見に行った。少年漫画原作の子供向けアニメということになっているので、場内には小学校低学年くらいの子供の姿も多かった。このうち何人が5年前に空前のヒットを記録した劇場版『無限列車編』を見ただろうか。あるいはその少し前に連載完結していた原作漫画を。小学生にとって、5年という時間はほとんど別の人生のような隔たりだ。一続きの物語を見ているとしても、5年前といまとではまったく違った体験になっているだろう。
ぼくにとっても、2020年の記憶は遠い。当時はそもそも映画館に行くだけで多少の勇気が要った。今回の映画では、100人あまりの部屋の中でマスクをつけている人は2人しか見つけられず、どちらも大人だった。
コロナは『鬼滅』にとっては追い風だったはずだ。緊急事態宣言とか自粛とかのせいで、娯楽の選択肢が極端に狭まり、新作映画の公開数も少なかった。『鬼滅』の中身がおもしろいのはもちろんだが、あまり指摘されないこととして、トレンディなスタイルを備えてもいた。
病院で使われるような用語、論理、観察方法が『鬼滅』には頻出する。敵も味方もずっと血とか毒とか心拍数の話をしているし、主人公は当然のように心肺蘇生法を使えるし、「肺に血が入ってゴロゴロ音がしてる」といったセリフにはぼくが医師として勤務中の会話を思い出させられる。なぜかオノマトペまで現実の病棟の会話と似ているのだ[★1]。
病院の言葉を使うことで、作中人物たちは真剣そうに、かつ頭が良さそうに見える。読者に与えるその効果がかつてなく高まった2020年に――志村けんの訃報が感染症の脅威を知らしめ、医療従事者に感謝しようとベランダから拍手する人々がニュースになり、ブルーインパルスが飛んだあの時期に――『鬼滅』の原作漫画は終盤を迎えた。そこで描かれ、また来るべき劇場版完結編で描かれるであろう最後の敵との戦いは、病院のギミックの力がなければまったく意味がわからないものになってしまう。
最後の敵・鬼舞辻無惨はヒーローたち(鬼殺隊)の攻撃からほとんどダメージを受けない。切り落とされた手足はあっという間にまた生えてくる。唯一の弱点が太陽の光だ。そこで鬼殺隊の作戦は、「夜明けまでこの化け物を日の差す場に拘束」するというものになる。この作戦は最初から明言されていたし[★2]、以後も繰り返し確認されている。あたかも俗流日本人論で言われるように、ヒーローたちは戦っているように見えて、実際のところ嵐が過ぎ去るのをただ待っている。
さらに最後の最後でダメ押しがある。無惨がついに太陽の光を浴びて崩れ去ったところで、その直前に無惨の血と細胞を流し込まれた主人公の炭治郎が鬼に変身する。そして炭治郎は太陽を克服した鬼として、仲間たちに襲い掛かる。ヒーローたちはやはり何もできない。それを解決するのが免疫と薬なのだ。
無惨は人を鬼に変えることができる。炭治郎の妹の禰󠄀豆子が鬼にされたことで物語が始まったのだった。最終的に禰󠄀豆子はある薬によって人間に戻るが、じつはこのとき禰󠄀豆子の体に抗体ができていた。無惨に乗り移られた炭治郎は、禰󠄀豆子に食いついて意図せず抗体を取り込み、加えて鬼を人に戻す薬を注射されたことで、人間に戻る。これをもって無惨は完全に消滅し物語が完結する。
最後の敵を倒すのにヒーローが時間稼ぎの役にしか立たず、免疫と薬が勝負を決める。これはこれまでのヒーローものの伝統からはあまりに逸脱している。『鬼滅』は病院のギミックを取り込んだだけでなく、完全に主役の座を病院に譲り渡しているのだ。そして決定的な仕事をしているのはみな女性だ。禰󠄀豆子は女性。薬を作った2人も女性。炭治郎に薬を注射するのも女性だ。鬼殺隊の大多数が男性なのに。
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現実に、病院は女性の世界だ。医師34万人のうち76%は男性だが[★3]、看護師131万人のうち91%が女性だ[★4]。この偏りは、歴史的に男性医師が権威と高賃金を独占して実務は女性看護師に押し付けてきた、そして労働市場から排除されてきた女性にとって数少ない参入の機会が看護師(と教師)だったため、医師よりも低い賃金に妥協することを余儀なくされたと言い表せる。「産む性」から「ケアする性」にシフトすることで、女性は家庭から脱出できたことになる。
病院には女性が多い。このことは患者となる立場の女性にとって、病院が好きになる要素かもしれないが、逆は考えにくい。
本稿は表題のとおり、病院と性差の関係を考える。題名は三宅香帆が集英社プラスで連載中の「なぜ夫は病院に行かないのか」[★5]を反転したものだ。三宅はその連載で、「女友達の飲み会において」「なぜ夫は病院に行かないのか!?」で盛り上がるというエピソードを入口に、『SLAM DUNK』や「半沢直樹シリーズ」といったフィクションを分析し、その理由を「病院よりも会社の仕事を優先させる」からだと暫定的に結論付けている。
だが、病院に行くか行かないかという個人の判断を社会現象として語ろうとすることには、つねにある種の飛躍がある。フェミニズム系の議論でつねに言われるとおり、多くのことについて、仮に統計的な性差があったとしても、それは性を度外視した個人差より小さいであろう。しかも三宅は明確に、病院に行かないのは悪いことだという価値判断を加えている。だから男性であるぼくが「偏見はやめてくれ」と言い返す権利はあるはずだ。妻から見て夫が病院に行くことがあまりに少ないなら、同じ性差を夫から見たときに、妻があまりに多く病院に行っていると語られてよいはずだ。
そしてその統計的な差は、個人について見ればバラバラな理由で、それもかなりの部分が性差とはいっけん関係なさそうな理由で現れた差を、集団として足し合わせたときにはじめて見えてくる。つまり個人を理解するのと同じように集団を理解することはできない。これが以下の議論のルールになる。
では、病院に行かないのは、あるいは行くのは、良いことだろうか、悪いことだろうか。ぼく自身は医師なので、そこに価値判断を加えられる立場にない。だが三宅はなぜか、「病院に行くのは良いことだ」と仮定しているようだ。ここには医師としてもう少し複雑な事実を指摘しておきたい。
たとえば三宅の連載第1回には「風邪ひいて病院へ行く選択肢がすっぽり抜け落ちている。」とあるが、事実として風邪に効く薬はないのだから、病院に行ったほうが早く治るわけではない(最近日本維新の会が主張しているOTC類似薬〈市販薬と成分・効果が変わらない医薬品〉の保険外しという論点は、要するにそういう状況を想定しているようだ)。また「病院へ行かない夫の健康をケアするのはたいがい妻の役割である」とも言うが、風邪に効く薬はないのだから、病院が提供できるのは、自宅のベッドに寝かせてパンと水を渡すよりも良いことではない。妻が単にケアしなければよいのである。
だからたとえばイギリスのNHSとかアメリカのCDCといった公共機関が提供している一般向けの健康情報サイトでは、「よく休んで水を飲め」といった常識的なアドバイスのあとに「どんな場合に医師に見せるべきか」というセクションを設けている[★6]。言い換えれば、風邪は医師に見せないのが当たり前であり、医師に見せるのは特別な場合なのだ。
いや、イギリスでは順番待ちがひどいから、アメリカでは国民皆保険になっていないから、行きたくても行けないのだ、という反論があるかもしれない。しかしそれも、こと若い人の風邪のような状況に関しては、病院に行ったとしても明確な利益があるわけではない。だから三宅が連載第2回で「男性、日ごろから病院へ行った方がいいのではないか」と言うのは言い過ぎだ。ぼくにはこれが被害者非難にしか見えない。OECDがまとめている国別の受診回数(年間1人あたり)[★7]と国別の平均寿命をプロットしてみよう。

受診回数は3.1(スウェーデン)から17.8(韓国)まで実に6倍近い開きがあるが、平均寿命とはほとんど関係ないように見える。国によらず、人は命に関わりそうなことなら医師に見せるので、受診回数の差異を作っているのは主に放っておいても変わらないようなことなのだろう。そういう部分を過剰医療と呼ぶ人もいる。なお日本の受診回数は12.1と、韓国・オーストリアに次いで多い。
医師として率直な感想を言えば、病院に行っても無駄、むしろ逆効果かもしれないという可能性が「すっぽり抜け落ちている」のは男でも女でもなく、三宅だけだ。
まして、三宅が性差として提示するものはごく小さい。「なぜ夫は病院に行かないのか」の第2回に引用された外来受療率で、三宅は「男2668人、女4358人」という数値を取り出している(40~44歳)。この性差が年齢階級によって違うことにも言及があるのだが、わかりやすくするためにグラフで表現してみよう。

たしかに若干の性差があるようだ。だが、年齢による変動のほうが大きい。50代の男性は20代の女性よりも多く病院に行っている。女も男も大局としては加齢という自然に従って病院に行っているのであって、社会的要素は全体の傾向を修飾しているとしても、相対的には小さいことだ。だから入院数の多寡を議論しようとするならまずは入院理由となった病気の統計を見なければ話にならないのであって、「外来に行く回数が少ないから」と決めつけるのは暴論だ。
こうした当たり前の態度を三宅が唯一示しているのは「妊娠出産の影響」に言及した点だ。だが病院に行く理由が無数にある中で生殖だけを取り上げ、病気を持つ女性についての考察を省いたことはバランスを欠いている。そして病気にも性差がある。たとえば心血管疾患や肺癌は男性に多いから、男性の入院数を押し上げる要因にもなるだろう。
三宅は実際にはわずかでしかない受療行動の性差を強調し、実際に存在する病気の性差を無視し、男性の入院は自業自得だと言い、女性の通院は生殖のためだから仕方ないと言っているのである。
早合点しないでほしいのだが、ぼくは三宅の議論には聞くべきところがあると思っている。だから本稿を書いている。三宅の論理に欠けたものがあるとしても、前著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』に引き続いて提示された問題意識は正しい。日本の古いタイプの企業、いわゆるJTC(Japanese Traditional Company)が男社会であって、社員の調子が悪くても休むことを許さず、全身全霊での貢献を求める、その皺寄せを食うのが妻だ、と言われればうなずく人は多いだろう。と言うかそれは、たとえばナンシー・フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』の翻訳がちくま新書から出ているとおり、国際的にも日本の中でもすでに一般向けの言葉で流通している物語である。では三宅の問題はどこにあるのか。
第一に、集団と個人を混同していることだ。三宅自身や身近な人々の体験が何かの共通点を持っていたとしても、それは統計においてははるかに多様な事例と混ぜ合わされ、因果的な解釈を許さないものになる。三宅がフィクションの登場人物の発言から動機を掘り下げようとする手法は、どこまで行っても、特定の人格類型についての議論にしかならない。それがいかに現実と一致しているかを人気によって類推しようとしても、現実はもっと複雑だとしか言いようがない。そのような手法では、「なぜ『私の』夫は病院に行かないのか」なら考察できるかもしれないが、夫一般というものは想像できずに終わる。時代を読み解くとは、そのように個人に帰することのできない、しかし絶えず再生産される、統計的にしか姿を現さない規範を読み解くことだ。
第二に指摘したいのが、休むことと病院に行くことを同一視したことだ。「夫は病院に行かない」ではなく、ストレートに「夫は仕事を休まない」と言っておけば、病院に行けば風邪が治るとか、長いこと消えない傷が消えるといった事実に反する想定をする必要もなく、上の批判の多くは無用となったはずだ。
最後にもうひとつの問題は、受療行動の規範性に自覚がないことだ。すでに見てきた連載第2回で、三宅は男性の会社への忠誠心についてあれこれ想像しているが、女性の病院への忠誠心に言及がないのは一方的ではないか。
社会学者のタルコット・パーソンズが「病人役割」と呼んだとおり、病院に行くことで利益が合理的に期待できるかどうかにかかわらず、病気があれば病院に行くという行動様式は規範として定着している。その規範は社会的に構築されたものである。しかも、性役割と結びついた形で構築されている。つまり、病院に行くか行かないかに性差があるのは、そのようにつねに誘導される環境ができているからだ。女はケアする性であって、病院に行く性だということになっているからだ。
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冒頭に戻ろう。『鬼滅』は妹を救うために兄が戦うという基本的な設定から始まり、「俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった」[★8]というセリフほか多くの場面で、古めかしい家族観を肯定的に語っている。前述のとおり数人の戦闘美少女たちはケアする性の役割を手放していないし、比較的病院の言葉を使わない甘露寺蜜璃は「添い遂げる殿方を見つけるため」に戦うと明言して憚らない[★9]。恋せよ乙女、さもなくばケアせよ、というわけだ。
これは舞台が大正時代であることが口実になっているようだ。そもそも登場人物が殺し合う話について政治的正しさを気にすることが滑稽かもしれない。しかし家族についてこれほど多くのことが言われる(と同時に、言ってはいけないとされる)現代にあって、大正時代のものとされた家族観が大規模に再生産されている事実は注目に値する。
私事だが、ぼくはいま幼児2人を育てている。子育てもまた女性の世界だ。幼児向け(ということは同時に、その親向け)の製品とかコンテンツの多くが保守的な性役割を再生産している。「ママ」には盛んに共感や励ましの言葉が寄せられる一方、「パパ」はおおむね添え物扱いだ。現実には男性の育児参加が進んできているのだが、そこに障害は多く、女性からは「むしろいないほうがいい」「イクメン嫌い」といった冷たい評価が下されている[★10]。とすれば商業にとってはやはり「子育てはママの仕事」という設定を採用したほうが得策だろう。
そんなわけで、ぼくの子供たちもそのうちスーパー戦隊シリーズか『プリキュア』シリーズを愛好するようになるはずだが、そこには現実が見え隠れする。最近のスーパー戦隊の女性隊員を見てみよう。「ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー」(2025-)の角乃は家族を養うために仲間にも隠してアルバイトをしている。「爆上戦隊ブンブンジャー」(2024-2025)の未来は複数のアルバイトを掛け持ちしている。「王様戦隊キングオージャー」(2023-2024)のランは医師だ。『プリキュア』は「女の子だって暴れたい」とのコンセプトがあり、従来の女児向けアニメからのシフトを試みているが[★11]、だからこそ、プリティであることとキュアすることは手放さない。繰り返すが、医療従事者の多数を女性が占めているのは現実であって、これらのコンテンツはその現実と強め合う関係にある。
女の子は幼少からケアする役割を教えられる。そして大人になると、いみじくも三宅自身が実践しているとおり、お気に入りのコスメを話題にする[★12]のと同じくらいの気軽さで、お気に入りの常備薬を話題にする[★13]。「そんなことはない」という苦情があれば三宅に言ってほしい。
ケア労働はいまもなお、職業を求める女性の重要な選択肢である。厚生労働省の議事録にも明示的に「医療、介護、福祉というのは重要な雇用先創出の分野」とした発言が見つかる[★14]。それは「エッセンシャルワーク」と呼ばれるが、実態は低賃金での酷使である。

図は令和6年賃金構造基本統計調査による[★15]。医師は男性が多く高賃金であり、看護・介護は女性が多く低賃金であることが読み取れる。ぼくはこの格差が妥当なものだとは思わないが、これを受け入れなければ家計を支えられない女性が相当な人数でいるということだ。
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よく言われるように、女性の社会進出という美名のもとで、ケアする役割は温存されたまま、相対的に安い賃金で働く負担が加わったことは、女性をさらに苦しめる要因に違いない。そこから数十年遅れて、今度は男性が稼ぎ手の役割を温存されたまま育児や介護に、そして今度は健康管理という意外な仕事に参加を求められ、役に立たないと責められている。
なぜか男女ともに負担が増える一方なのは、日本が貧しくなったからなのだが、より細かく言えば1978年に『厚生白書』が高齢者の同居家族を「福祉における含み資産」と位置付けたとおり、家庭内の不払い労働を搾取することで、不況にあっても公共の財源や企業の負荷をやわらげつつ福祉水準を維持する体制が長年温存されてきたからだ。
にもかかわらず、ケアに求められる水準は急速に高まり続けている。
本稿のテーマである病院に絞って言うなら、医療費の増大は高齢化と同じかそれ以上に、医療の「高度化」が引き起こしていると語られる。しかしこの「高度化」とは単に費用が高くなったという意味であって、そのぶん飛躍的に治療効果が高まったわけではない。生命表によれば、平均寿命の伸びが近年になって加速したという事実はない[★16]。国民医療費[★17]とともにこれもグラフにしてみよう。

むしろ国民医療費が高騰を続けるにつれて、その追加分の効果は弱まり続けているように見える。それでも費用対効果の悪い医療を省くのは難しい。まさに三宅が風邪で病院に行くことをやめられないことからもそれがわかる。だが図からも読み取れるとおり、『無限列車編』の2020年には奇跡が起こった。かつてない幅で医療費が減ったにもかかわらず平均寿命は延びたのだ。みんなが病院に行かなくなったからだ。
効果が検証されていないとき、しばしば「何かすること」が自己目的化する。嘘だと思うなら2020年のコロナ関連のニュースをなんでもいいから読み直してほしい。コロナは病院そのものが感染源だという物語によって受診控えをもたらしたが、そんな転倒を起こし得るのは本当に恐れられているものだけだ。コロナ前には「少しでも理由があれば病院に行かなければならない」と信じられていたし、その信念はたやすく復活した。そしてその信念をより強く教えられているのが、女性なのだ。
問題は夫がセルフケアしないことではない。現状は夫も妻もケアしすぎなのである。ケアが妻の仕事だとみなされることこそが問題だ。だから解決は、妻がもっと病院に行かなくなり、病院に行かない夫を気にも留めない(ケアしない)でいることだ。そのためには賃金格差を減らすとか知識を普及するといった物質的なアプローチも欠かせない(中でもおそらくもっとも本質的かつ難しいのが、女性を歓迎するような成長産業を作り出すことだ)が、それでも変わらない規範意識にアプローチすることは三宅のように文学を事とする者にしかできないはずだ。
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以上がひとまずの結論だが、この分野に勘のある読者なら、話はここで止まらないことがわかるだろう。「ケアは女の仕事」という通念の残酷さを過小評価してはならない。なぜなら妻は夫と子だけでなく、自分の親と夫の親、さらに加えて自分と夫の祖父母たちをもケアすることを期待されてしまうからだ。2022年の国民生活基礎調査[★18]によると、要介護者等の主な介護者は同居なら68.9%、別居の家族等では71.1%が女性であり、続柄で見ると配偶者(つまり夫の介護をする妻)45.7%、子(親の介護をする娘)18.5%、子の配偶者(夫の両親を介護する嫁)8.1%、その他の親族2.3%がそれにあたる。またこの数字には表れないが、高齢者診療をしていると複数の要介護者、たとえば自分の両親とか親とその親を同時に介護する娘/孫娘にもよく出会う。対して夫である介護者は15.7%、息子は8.1%、婿は0.2%と大きな性差があり、その働きぶりにもかなりの違いがある。女性を家庭から解放するはずだったケアというものが、今度は女性をふたたび家庭に縛り付けている。
だが、脱線がすぎたようだ。介護について語るのは稿を改めることにして、本稿はここで終える。
(つづく)
★1 吾峠呼世晴『鬼滅の刃』16巻、集英社、181ページ。
★2 同書、112-113ページ。
★3 令和4(2022)年医師・歯科医師・薬剤師統計の概況
URL= https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/ishi/22/index.html
★4 令和4年衛生行政報告例(就業医療関係者)の概況
URL= https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/eisei/22/
★5 URL= https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/cc/nazekyo_nazehata_2
★6 URL= https://www.nhs.uk/conditions/common-cold/
★7 それぞれ以下を参照。
URL= https://www.cdc.gov/common-cold/treatment/index.html
URL= https://data-explorer.oecd.org/vis?lc=en&df[ds]=dsDisseminateFinalDMZ&df[id]=DSD_HEALTH_PROC%40DF_CONSULT&df[ag]=OECD.ELS.HD&df[vs]=1.1&dq=.................&pd=2010%2C&to[TIME_PERIOD]=false&vw=tb
★8 『鬼滅の刃』3巻、162ページ。
★9 『鬼滅の刃』12巻、81ページ。
★10 平野翔大『ポストイクメンの男性育児』、中公新書ラクレ、2023年。
★11 「男女に差なんて、ない プリキュア生みの親、秘めた信念」、朝日新聞、2018年2月28日。
URL= https://www.asahi.com/articles/ASL2W65XCL2WUTIL04V.html
★12 三宅香帆「メディア出演時にセルフメイク多めの文芸評論家が語る、愛用ベストコスメ2025」、note、2025年4月14日。
URL= https://note.com/nyake/n/n4034d94e092d
★13 三宅香帆「風邪予防のために自分が使っているアイテム」、note、2025年3月25日。
URL= https://note.com/nyake/n/ne8697a0f46d7
★14 「2040年に向けたサービス提供体制等のあり方」検討会(第1回)議事録
URL= https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_51768.html
★15 URL= https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00450091&tstat=000001011429&cycle=0&tclass1=000001224440&tclass2=000001225782&tclass3=000001225788&tclass4val=0
なお用語をわかりやすく言い換えているが、正確には「月給」は「きまって支給する現金給与額」、「介護職員」は「介護職員(医療・福祉施設等)」、「人数」は「労働者数」を採用している。また10人以上の企業についての統計であるため、より小さい企業の実態は反映されていないし、人数はよく知られた職種ごとの総数よりかなり少ない。
★16 URL= https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&toukei=00450032&tstat=000001020931
★17 URL= https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&toukei=00450012&tstat=000001031336
★18 URL= https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa22/index.html


大脇幸志郎



