ふたつの庭、あるいは碁(抜粋)──『ゲンロン16』より|大澤聡
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三木清はひとり、ガーデニングをつづけていた。
春がまた来れば、ボケ、エニシダ、マンリョウ、カエデ、ハナズオウ、ツツジ、アネモネ、マーガレット、ぺチュニア、ヤグルマソウ……といったぐあいに、植えたり、植えさせたり、植えかえたり、植えかえさせたりを突発的にくりかえしている。
たまたま家の前をとおりかかった花売りのリヤカーから何株か買ってやる。娘の洋子を連れて立ちよった縁日の露店から気まぐれに持ち帰ることもあった。
ずいぶん無計画な作庭だ。行きあたりばったりの。
なりゆきを偶然にゆだねて、自生的な秩序がそのつどかたちをなす。
植物は一定のサイクルをもっている。
残念ながら中途で枯死してしまうのや、もともと一年草のものもあるが、それなりに手入れをしてやれば、季節がめぐりめぐってふたたび花を見せてくれる。そのときにたまたま居あわせた植物どうしでコラボレーションを演じて、また新しい庭が誕生する。
ゼロから庭をつくりはじめた2年前の春を三木は想う。昭和11年、1936年のあの春を──。
拙稿「ガーデニング、1936」(『群像』2022年7月号)で触れたとおり、二・二六事件の帝都混乱のさなか、左寄りの言論人とされた三木清は最悪の事態を想定して、妻の喜美子の実家のある三重県一志郡豊地村井之上にひとり身をよせた。
5日間の滞在からもどったつぎの、そのまたつぎの日曜日、3月15日は一時雨になりかけはしたものの、ひさしぶりにまずまずあたたかな一日で、三木は庭掃除を買って出た。あと4日ほどするとさらにぐんとあたたかくなる。国内の情勢は最悪だった。それでも春は来る。このときの庭掃除を引き金にして、彼のガーデニングはにわかに本格化してゆく。
東京市杉並区高円寺4丁目539番地。自宅は前の年の九月に転居したばかりで、すぐ寒い季節に入ったこともあり、庭はしばらく手つかずのままだった。前の住人の気配が残っていた。所有者は自分だが、どこかまだ完全には自分のものになっていない。
論壇に文壇にと、いまやほうぼうの座敷をかけもちする、ジャーナリズムの寵児だ。多忙をきわめていた。それでも、あるいはそうだからこそというべきか、締め切りの間隙を縫うように、庭へおりては土いじりにいそしむ。
前に住んだ阿佐ヶ谷のボロ屋とちがって庭がずいぶんおおきい。それを喜んだ妻は、夫の先手を打って花壇をつくりかえた。ちょっとした野菜の栽培まではじめている。
なんとなく、草花は妻、庭木は夫の担当。ことこまかに相談するでもなしに、ふたりそれぞれの手によってすこしずつ庭がかたちになってゆく。口数が極端にすくなく、家庭らしい家庭の雰囲気を欠いた夫婦にとってそれは、結婚8年目にしてほとんどはじめてといってよい共同作業だった。
かがんで雑草を毟ったり、こまめに剪定したり、落葉を掃いたりしている哲学者の後ろ姿には、逼迫の度合いをいや増しに増す1930年代なかばの社会情勢にあって、せめて手元の日常や生活だけでも着実に立ててゆきたいという健気な意志が貼りついている。もっとも、つぎからつぎへと押しよせる原稿からのたんなる逃避癖だったともいえるが。
あのとき隣にいた妻がいなくなって、これで2度目の春である。数えで42歳、厄年。大厄だ。
昭和13(1938)年の4月14日、三木は日記帖(つきあいのある出版社が年の暮れにくれるやつだ)にこう書きつける──「曇り日、暖か。庭の海棠の花がきれいに咲く」。
薄紅色の花をきれいに咲かせているそのカイドウ(海棠)は、2年前の4月18日、まだ妻がいたころに植樹したものだ。
あの日、三木は朝から庭の片隅にカイドウを植えた。そのあと、妻と娘を連れて上野の動物園へ行く。桜にはもう遅かったが、5歳の娘はカンガルーにはしゃいだ。帰りに3人そろって精養軒で食事をした。めずらしく原稿は書かなかった。
それから2年後のカイドウの姿をひとり記録する三木の生活ぶりはといえば、あいかわらずだった。あわただしい。
この日、最新回にとりかかった『思想』の連載「構想力の論理に就いて」は開始からちょうど1年になる。日記のことばをそのまま借りれば、「もう一、二回で技術の項が片付くから、さうすれば纏めて「構想力の論理」第一巻として本にしたいと思ふ」という段階。この日たずねてきた内田克己という男は『文學界』の編集部員で、彼とは1ヵ月後に立ちあげることになる連載「人生論ノート」のスケジュールをつめたと思われる。
1年ほど前、三木は乞われて『文學界』の同人に名を連ねた。たいした貢献はまだできていない。
2年前とかわらずいそがしい。それでも、書き手としてのポジションや、言論をとりまく環境はまちがいなく変化している。
母のない娘は昨年、学校へあがった。
変化──。
ここから6、7年ののち、疎開先の埼玉県南埼玉郡鷲宮町上内2007番地にある寂れた農家の2階で、書きかけのまま絶筆におわる『親鸞』の断片的な草稿の、さらにメモ書きのなかに、こんなくだりが見える。
無常は単なる変化と同じではない。私が庭前に見る花は純粋に客観的に見る場合にも変化する。しかしかやうに見る場合、私はその変化において何ら無常を感じないであらう。どのやうな生滅変化も、単に客観的な自然必然的な過程として把握される限り、無常観を惹き起すものではない。庭前の花は単なる花としてではなく、愛らしい花、驕れる花、淋しい花として、要するに生の関心によつて性格づけられた花として、その散りゆくのを見て我々は無常を感じるのである。
変化しただけでは「無常」とはいわない。耽美主義だとかロマン主義だとか、そういった対象へのなにかしらの「性格づけ」となる感傷的な自己投影をともなってはじめて、わたしたちは無常をおぼえる。「無常感はそのものとしては宗教的であるよりも美的である」。ようするに、それはある種の美的態度なのだと三木はいう。
仏教において無常はキーワードのひとつになっている。しかし、親鸞は無常を語らない。むしろ無常にまどろむことを否定した。これは三木の発見といっていい。親鸞はよりプラグマティックに、「実践的」に仏教をとらえていた。無常観では救済できない。「美的」ではなく、どこまでも「宗教的」に行く。現世に踏みとどまったうえで。
西洋の先端的な哲学を手ぎわよく日本へ移入するブリリアントな書き手にして、唯物論者でもあったはずの三木清が戦争末期(それは結果的に彼の晩年を意味する)に親鸞や仏教へむかった軌跡は、ときとして奇異な選択や理論的な後退といわれもする。戦時下の典型的な日本回帰コースではないか、と。
ところが、日常の「実践」に重きをおきつづけたというこの、たとえば徹底したロマン主義批判という文脈において、それまでの彼の思想とのあいだにすくなくとも矛盾はない。
そもそもデビュー作『パスカルに於ける人間の研究』(岩波書店、1926年)を書いたときから彼は、「同じやうな方法で親鸞の宗教について書いてみること」を夢想していたのだったし(「我が青春」『読書と人生』小山書店、1942年)、昭和5年にはじめて豊多摩刑務所に拘留されたときに提出した手記では、自分がいかに「宗教的傾向をもつた人間」であるかを力説し、「偉大なる宗教家」として親鸞をあげていた。かねてより枕頭の書は『歎異抄』で、その痕跡は彼の文章のそこここに顔をのぞかせる。
ところが……とさらにもう一回ひっくりかえして、ここで確認してみたいのは、文章ではそういっているにもかかわらず、目の前の花を「単なる花」ではなしに、やっぱり「愛らしい花」「淋しい花」としてとらえずにはいられない、三木清という人間の性格や生活のほうなのだ。(『ゲンロン16』へ続く)
大澤聡