観光客はテロリストの夢を見るか──ブリュッセル紀行 はみだしアカデミア(1)|青山俊之
2023年7月、ベルギーの首都ブリュッセルに行ってきた。国際学会に参加するためである。学会の開催地がブリュッセルだと聞いたとき、静かに興奮したのを覚えている。大学は国際系の学部に進学し、入学当初にはヨーロッパへの留学を考えたこともあった。ぼくにとってヨーロッパは、漠然とした憧れを持ったままそのイメージが更新されない場所だった。
ブリュッセルは「EUの首都」と呼ばれる、EUやNATOなど国際機関の本部が置かれる都市である。ベルギー自体も「ヨーロッパの縮図」と呼ばれる。ヨーロッパの良いところも悪いところも凝縮されているという意味だけでなく、隣国のフランスやドイツがわからなければベルギーの歴史はわからない、という警句でもあるらしい。交易の拠点として複雑な歴史を持つベルギーでは、地域によって公用語も異なる。その「言語問題」によって、一時期は国が分裂するのではないかとささやかれたほどだ。
参加したのは国際語用論学会(IPrA International Pragmatics Association)である。語用とはコミュニケーションのことで、言語学の主要分野の一角をなしている。IPrAは語用論のなかで最も権威ある国際学会として知られており、今回はぼくにとってはじめての大きな国際学会だった。でも正直なところ、内心ではIPrAそのものよりも、観光を第一の楽しみにしていた。語学は得意ではないし、ぼくの研究にとっても語用論の研究業界においても昨今は大きな進展があるようにも思えなかったためだ(実際に参加するとそれなりに有意義だったが、内容は専門的になるのでここでは書かない[★1])。
観光を楽しむと決めたものの、滞在期間は5日間で、到着するのは夕方、帰路は午前便だったため、実質動けるのは3日しかない。そのうちの1日は学会発表でつぶれる。本当に自由に行動できるのはたったの2日に限られていた。出発前には研究と仕事に追われ、観光地を調べる時間もほとんどないまま、現地に飛んだ。
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「なんか普通だな」──ブリュッセル空港に降り立った第一印象はそれだった。かつて抱いた華やかなヨーロッパのイメージとは少し違う。通路の天井が低く、照明が全体的に暗いのが気になった。到着したのは18時ごろ。夕方を過ぎた時間の到着だったため、暗くなる前にはホテルに着きたいと思っていた。
宿泊先は、EU本部が立地するシューマン駅の近くのホテルだった。シューマン駅は空港から直通の電車も通り、中心市街にも近く、観光にも大変便利な場所だったからだ。
19時を過ぎたころ、宿泊部屋に着いたタイミングで、この旅で最大の失敗に気づく。電源プラグの変換器を忘れてしまったのだ。おまけに、部屋のWi-Fiにつないでも回線が遅過ぎて使えない。スマホの充電もなくなりそうだし、バッテリーを買いに出かけようにも電波がないのでお店を調べることもできない。勘弁してくれよと思いながら外を歩いていると、EU本部のWi-Fiが認証もいらずに使えることに気づいた。それでいいのかEUよと思いつつ、ネットにつなぐことができた。
ようやく次の日の立ち回りを考えることができたので、夕食をとることにした。時刻はすでに20時を過ぎていた。イタリアン、タイ料理、ハンバーガーなど国際色豊かなレストランが並ぶ通りを横目に、悩んだ挙句、妙に繁盛していた日本風のラーメン屋に入った。唐揚げ入りのとんこつマー油ラーメンがどうしても気になったのである。頼んでみたところ、マー油の香ばしさが唐揚げを引き立てており、スープも麺も悪くない。キリンビールを片手に、緯度が高く21時を過ぎてもまだ日が沈まない夏のテラス席で、日本ではありえないトッピングのラーメンを食べながら、ようやく異国情緒を味わいはじめていた。
次の日の朝、依然として宿泊先のネットが使えないため、朝食も兼ねてスタバに立ち寄った。店のWi-Fiに繋ぎ、地下鉄で20分ほどの距離にApple Storeがあることを確認し、そこで充電器を購入。またWi-Fiを求めて、お昼は近くのマクドナルドに入った。
わざわざヨーロッパに来たのに、日本でもできることばかりだ──そう思いながらも、これも「フラット化」する世界を味わう機会だと自分に言い聞かせた。かつて「マクドナルドがある国同士では戦争は起きない」と言われたが、ロシアのウクライナ侵攻によってその神話は崩れた。いまやマクドナルドが「平和」の象徴だなんて言えるのだろうかとぼんやり考えた。
平和について思考をめぐらしてしまったのは、この後ぼくが向う先が「テロの温床」とも呼ばれる地区だったためである。そのような悪名が広まるきっかけとなったのが、2015年11月、死傷者が300人以上にも及んだパリ同時多発テロ事件だった。実行犯のアブデスラム兄弟はベルギー人で、ブリュッセルでカフェを経営していた。さらに、その直後の2016年3月、ブリュッセル空港とEU本部に隣接する地下鉄駅にて連続爆破テロ事件が起きている。両事件とも、テロ組織「イスラム国」の戦闘員と見られるジハーディストによる犯行だった。
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なぜベルギーのテロに関心を持ったのか。そこにはぼくの研究が深く関係している。そもそもぼくは、2015年1月に起きたイスラム国日本人人質事件がきっかけで研究の道に進んだのだ。大学入学直後は戦争について学ぼうとも考えていた。けれども、ぼくが大学3年生だった2015年、ちょうどゼミで研究テーマを選ぶ時期にイスラム国による人質事件が起きたのだった。
イスラム国日本人人質事件とは、民間人の湯川陽菜さんとフリージャーナリストの後藤健二さんがシリアにわたり、イスラム国に人質として捉われた末に殺害された事件である。当時、シリア・イラクの国境周辺はテロ組織であるイスラム国の勢力下にあり、外務省による渡航制限地域に指定されていた(後藤さんには事前に渡航を自粛する要請がなされていた)。にもかかわらず現地に渡航し人質となったことで、彼らの責任を問う「自己責任論」が巻きおこったのだ。
だが、その「自己責任」の内実は文脈によってバラバラであった。「人質らの勝手な行動だから自業自得だ」という声も、親やジャーナリストとしての責任を追求する声も、「国内外の人々を巻き込み迷惑をかけて国民として恥ずかしい、個人の責任の域を超えている」という声も、「自己責任」という言葉の下で語られたのである。
「自己責任論」には微妙に相異なる解釈と主張が交叉している。なぜ・どのようにして自己責任論は語られるのか。この問いを引っ提げ、ぼくは自己責任論の研究を言語コミュニケーションの観点から行ってきた[★2]。兼ねてからことばにもメディアにも関心を持っていたぼくにとって、人質事件とそれに伴う自己責任論の盛り上がりはまさにドンピシャのテーマになった。結果として、大学院にまで持ち越して研究をすることになった。
ただ、人々が無数に語る自己責任を調査し、関連する研究を追い、自身の研究の立ち位置を定めることは非常に骨の折れるものだった。研究と生活が落ち着いてから、もともとの自分の関心であった戦争やテロリズムをはじめとした事例を調べよう──そう考えていたぼくにとって、国際学会がブリュッセルで開催されたことは、まさに一石二鳥の機会だった。
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マクドナルドをあとにしたぼくは、当初の目的地であったシント゠ヤンス゠モレンベーク地区へ向かう電車に乗った。モレンベーク地区は、ブリュッセルを構成する19の基礎自治体のひとつで、中心市街のすぐ西に隣接する。ヨーロッパで初めての旅客鉄道路線が建設された場所としても知られる。そしてイスラム系住民が多い。彼らが移住するようになった背景には、戦後に炭鉱業で栄えたベルギーの労働力不足を補うためにアフリカ諸国から移民を受け入れたことがあった[★3]。
「テロの温床」とされるモレンベーク地区には、先に触れたパリのテロ事件の実行犯、アブデスラム兄弟が経営していたカフェ「レ・ベギーヌ」の跡地がある。兄のイブラヒム・アブデスラムは複数のカフェやバーを襲撃したのちに現場で自爆した。弟のサラ・アブデスラムは、襲撃犯の自動車や銃器を用意し、事件から4ヶ月後の2016年3月にブリュッセルで警察に拘束された。サラは後に、殺人と殺人未遂の罪で有罪判決を受けている。この判決のすぐ後に起きたのが、ブリュッセルの連続テロ事件であった。一説では、潜伏する関係者が検挙される前にテロが実行されたのではとも言われている[★4]。
レ・ベギーヌの最寄りのオッセゲム駅に近づくにつれ、スカーフやヴェールを身につける女性が車両に増えていることに気づいた。電車を降り10分ほど歩くとレ・ベギーヌに着く。「テロの温床」とも呼ばれる地域と聞いていたが、物騒な気配は感じない。目的地に向かう間も、子ども連れで買い物をするムスリムの方々を多く見かけた。
レ・ベギーヌは事件後すぐに売却され、現在は青少年センターとなっている。ぼくが訪れたのは平日の昼過ぎで、センターのなかには誰もおらず、付近は閑散としていた。
印象としてはとにかく「普通」だった。付近に事件の記録を残すものも見当たらない。レ・ベギーヌ跡地を訪れた後も、近くのモレンベーク墓地や周囲を散策したがやはり「普通」だった。モレンベーク地区からは外れるが、付近にはカトリックの国立大聖堂もあり、その距離の近さにむしろベルギーの多文化性を感じた。
あとで調べてわかったのは、この多文化性こそが「テロの温床」を生み出した背景にあったことだった。歴史的にベルギーは多様なアイデンティティを受容してきた。ベルギーが独立した1830年、憲法によって信仰の自由が確立された。1870年にはカトリック、プロテスタント、ユダヤ教の教会活動が公的なものとして認められ、財政支援が行われた。さらに大戦後、先述したイスラム系移民の増加を受けて、1974年にはイスラム教も同じく公認宗教となる。しかしその前後に起きた二度の石油危機でベルギー経済は低迷し、モレンベークの失業率は30〜40%にも昇ったという[★5]。パリ同時多発テロ事件前には、2014年10月のユーロ危機による財政難に対応するため、貧困対策が縮小されていた。
テロを実行したモレンベークの若者たちは、小さい頃からモスクに通っていたのではなかったという。宗教的なネットワークがつくられたのは、シリアでの武勇伝を披露する人物や軽犯罪を犯した者との出会いによってだった。その影響を受けて、多くの若者がシリアに向かった。パリ同時多発テロ事件を起こした首謀者のアブデルハミド・アバウド──彼もまたモレンベークの出身だ──は「観光テロリスト」を自称していたという[★6]。要するに、彼らの多くは「普通の人」であった。イスラム国は、貧困と治安悪化が進む地域に住む彼ら若者たちになんらかの帰属意識をもたらしたのだ。
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ぼくがここで思い出したのは、イスラム国が行った広報戦略だった。イスラム国は、戦闘行為だけではなく、残虐な拷問や殺害映像から、ラジオの多言語放送や子ども用のアプリ開発まで、多数のメディアを駆使してプロパガンダを行ってきた[★7]。そのなかでも特に残虐さが際立ったのが、ヨルダン国のカサスベ中尉の焼殺映像である[★8]。そこでは、中尉も加わった連合軍によるイスラム国への空爆について中尉自身が説明する動画に、空爆で亡くなった人々と瓦礫のなかを歩く中尉の映像が重ね合わせられている。つまり、焼殺映像には映画のような編集がなされていた。
イスラム国がもたらした映像戦略の厄介さを東浩紀は次のように分析している[★9]。イスラム国は、ハリウッドばりの壮大さで映像を編集し、プロパガンダを世界中に垂れ流す。かつて湾岸戦争や9.11でスクリーンに映し出された「嘘のような現実」とは異なり、「嘘は嘘でいい」と割り切ってアジテーションし、ネット上で拡散されるイスラム国の映像は、現実と虚構の境界そのものを壊してしまう。だからこそ、現実と虚構の境界をもういちど引き直さなければならない。これが東の問題提起だ。
イスラム国は無数のプロパガンダをインターネット上に撒き散らした。世界中でそれらを受容した人々も「虚構」と戯れ、自らの「現実」を埋め合わせたのだろう。たとえばブリュッセルのモレンベーク地区に住む、貧困など弱い立場にある若者たちには、イスラム国による見栄を張った「虚構」の数々が彼らの自尊心を強くくすぐったのではないだろうか。先ほども述べたように、モレンベーク地区は、ショッピングモールや高層ビルが立ち並ぶ中心市街と隣接している。ブリュッセルのなかでどのような非対称的な社会関係が人々に意識されているのか、ぼくにはまだよくわからない。ただ、現地に赴くことで「普通の人」が生きる格差のある「現実」とそれを埋め合わせたイスラム国による「虚構」のリアリティが肌で少し感じられた。こうして現実と虚構のズレやネジレを透かしてみることが、その境界を引き直すひとつの手立てなのかもしれない。
それにしても、つい考えてしまったのは、ベルギーの言語的な対立やブリュッセルのテロリズムの問題は、多文化を許容したからこそ起きてしまったのではないかということである。ぼくが携わってきたコミュニケーション研究では、多文化は「共生」といったことばとともにポジティブに語られてきた。だが、往々にして現実は複雑で、ことばで描く理想と現実はかけ離れるものである。
これは決して他人事ではない。ヨーロッパはもちろん、ニューヨークにも大量の移民が押し寄せているし、日本もまた多くの「外国人」が暮らす社会となっている。今回の観光を通じて、自己責任研究に関連した自治への関心もより身近な問題として捉えるようになった。人間も情報も物もうじゃうじゃとあふれ、絶え間なく移動するグローバルな社会においては、移民と自治は象徴的な問題のひとつのはずだからだ。一見、「普通」に思えることも、よくよく関係をたどってみれば不可思議な出来事へとつながる。昨今の移民問題とベルギーのテロリズムの実態も、多様であるからこそ生まれる厄介な現実を教えてくれる好例なのだろう。
モナンベーク地区で頭をはたらかせながら歩き回った疲れを感じつつ、次に「アトミウム」を訪れた。第二次世界大戦後に初めて実施された1958年のブリュッセル万博にて、“Atomos for Peace”をテーマに建造されたオブジェである[★10]。展示されたプレートによると、東京からは9467km離れているらしい。平日午後であったにもかかわらず、多くの観光客で賑わい、併設された万博と平和に関する展示物を熱心に閲覧する人も目にした。鉄の結晶構造を1650億倍しただけといえばだけのシンプルな建造物だといえばそれまでだが、ただデカくそびえて「平和」のメッセージを伝えるアトミウムにたくましさが宿っているように思えた。だがその平和の象徴の足元には、「テロの温床」が広がっている──その現実の複雑さを、9467km隔たった東京に戻って考えた。
★1 興味がある方は、研究発表の内容はごく簡単に次の記事で報告しているのでぜひ参照されたい。「“Fractal meanings and cultural logics”と題した口頭発表をしました(IPrA in ブリュッセル)」、T LABO、2023年7月28日。URL= https://www.turetiru.com/entry/ipra2023/
★2 青山俊之「自己責任ディスコースの詩的連鎖―ISIS日本人人質事件におけるブログ記事に着目して―」、社会言語科学 23(2)、2021年、19-34頁。URL= https://www.jstage.jst.go.jp/article/jajls/23/2/23_19/_article/-char/ja/
★3 松尾秀哉『ベルギーの歴史を知るための50章』、明石書店、2022年、269頁。
★4 「(時時刻刻)テロ拠点、首都に点在 ベルギー」、朝日新聞朝刊、2016年3月24日。
★5 松尾秀哉『ベルギーの歴史を知るための50章』、明石書店、2022年、272頁。
★6 「【パリ同時多発テロ】実行犯4人が育ったベルギーの街の現実」Reuters、2015年11月25日。URL= https://www.huffingtonpost.jp/2015/11/25/belgium_n_8645474.html
★7 「『イスラム国』のネット・プロパガンダ、量が激減」、BBC NEWS JAPAN 、2018年2月5日。URL= https://www.bbc.com/japanese/video-42943744
★8 カサスベ中尉の殺害はイスラム国日本人人質事件とも関わっている。事件では、人質の交換条件にヨルダン国に収監中の死刑囚の解放が要求された。一方、約1ヶ月前にカサスベ中尉がイスラム国により拘束されており、ヨルダン国としては日本の人質よりも自国の兵士を救出したいと考えたはずだった。事態は膠着するなか、2015年2月1日には後藤さんの殺害映像が、2月4日にはカサスベ中尉の焼殺映像がインターネット上で公開された。だが、カサスベ中尉の焼殺映像は、通常、作成には2, 3週間ほどはかかるものと推定され、実際、中尉は1月3日の時点で火あぶりにされていたことが判明した。つまり、イスラム国は日本政府もヨルダン政府も騙して交渉を仕掛けていたことになる。
★9 東浩紀「イスラム国はなにを奪うか」、『テーマパーク化する地球』、ゲンロン、2019年、69-74頁。
★10 ブリュッセル万博が開催された1958年、広島の復興大博覧会にて平和と技術を象徴する原子核モデルの展示物が大衆動員のために用いられている。
青山俊之
4 コメント
- georg2024/03/14 10:29
いろいろなことを考えさせてくれるエッセイでした。 「ブリュッセルのテロリズムの問題は、多文化を許容したからこそ起きてしまったのではないか」。そうだとすれば、多文化共生とは、多文化を多文化として意識せずに済むときに成立するものなのではないかと思った。 アイデンティティ(私は〇〇人です、△△教徒です)がコンスタティブに(「普通」に)受け取られず、突如としてパフォーマティブな意味を帯びるようになるときがある。自己愛と結びついていたはずのアイデンティティが、「お前は何者か」と問いただし、敵/友を判別するための標識へと転化する。多文化社会が常にそういう危険性を孕んでいることは確かだと思う。たとえは、ユーゴスラビア紛争がそうだったという(cf. 米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』)。 しかし、本当は多文化でない社会は存在しない(もちろん程度の差はあるだろうが)。社会とは本質的に多様なものであるはずだ。多文化共生とは、目指されるものというよりも、すでに私たちがそれを生きているところのものだと思う。そう感じないとすればそれは、先程言ったように、それを感じさせずに済ませてくれているより大きな物語なりイデオロギーなり幻想があるからだろう。 それが悪いということではない。むしろ、そういう幻想をどうやったら保つことができるのか、あるいは何がその幻想を解いてしまうのかに、私は興味がある。アイデンティティが常に問われる社会というのはしんどいし、持続可能ではないだろうと思う。 ムスリムとしてのアイデンティティは彼らに自尊心を芽生えさせたかもしれないが、同時に心地よい幻想から覚めたときの悲しさ・虚しさもあったのではないだろうか。
- rankeigoo2024/03/21 14:05
ベルギーは「ヨーロッパの縮図」が、今後は「フラット化した地球の縮図」になるのでしょうか。海に囲まれていることが大きな要因だったと思いますが、日本はこれまでは民族や文化の単一性を訴えやすくまた認められやすい立場にあったとおもいます。しかし、急激な少子化により日本語話者は今後は大幅に減る傾向にあり、日本語以外の言葉を話す人たちの割合はだんだん増えていきそうです、この大島国においては。「多文化共生」とそれを目指さなくてはならない社会になったから起きるであろう事故・事件、その積み重ねが生む根深い確執。想像すると不安になる記事でした。一方、やはりラーメンを食べたのかとニヤニヤさせて頂きながら感じる、そこにラーメンがあるフラット化した社会の肯定的な前向きな新たな良好な関係も成立させうるという希望。そちらもあわせて感じました。
- TM2024/03/21 14:05
ベルギーに思いを馳せたことはこれまでほとんどありませんでした。ましてテロとベルギーの関係なんて全く知りませんでした。アンテナを張って世界のニュースを拾っていたら違ったのかもしれませんが。 青山さんの普通という言葉が読み終えて印象に残ります。 普通の若者、普通の街。 多様性へと舵を切ったことがそんな普通をテロと結びつけたならその間をつないだのはなんなんでしょう。 表面的な多様性の拡大が普通の若者に鬱屈したものを押し付けたのでしょうか? 青山さんがモレンベークで想像したのと同じ想像が自分も浮かんだ。 見せかけの多様性が実は雇用や教育の不均衡を維持するためのものだったりしたのでは? そしてその鬱屈したものが過激にその見えない壁を壊す力に映ってしまったのではないか。 国内ニュースで流れるクルド人の方々の報道はこうした図式が日本にもあることを伝えている。テロや犯罪の被害者を救済し、新たな被害者が出ないようにするのが第一であるのは大前提として、そこだけを強調して事態の根幹を見ないのはまずいのではないか? なぜ普通の若者がテロに結びついたのか。 それも同時に考えるべきことではないか。 そして若者たちの背景を考えると、私も自己責任という言葉に思考が向く。 自己責任が成立するには自由意志が成立しないといけない。がちがちに鬱屈するしかない環境にはめ込まれた人の自由意志って何なんだろうと、ずっと考えている。 そこには自由意志はないという気がしてしまうが、そう考えると責任の所在が迷子になってしまう。 ないかもしれない自由意志を想像して引き受ける。 そう仮定しないと私自身迷子になってしまう。
- aike888g2024/03/21 14:05
面白かったです。さらっと読めるけど中身が詰まっており、webゲンロンはこういう記事があるからいいなあと思わせてくれるようなものでした。 青山さんが現在の研究分野に進むきっかけが2015年のイスラム国の件だった、というのは初めて知った気がします。同年11月にはパリでの同時多発テロ。2015年当時の自分は受験生で、社会で何が起きているのかなんて全く鈍感でしたが、それでも一定数の知人がFacebookのプロフィール写真をトリコロール仕様にしていたのは覚えています。SNS空間が全世界的に殺伐と、混沌とし始めた時期だったように思います。 注★2にリンクが貼ってあった研究論文を少し拝読しました。みながいい加減に使っている言葉を、混沌とした厄介な現代に対峙するためにあえて切り分けていく研究だと思いました。引き続き楽しみにしております。