人工知能民主主義の誕生(抜粋)──『訂正可能性の哲学』より|東浩紀

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webゲンロン 2023年9月22日配信
 2023年9月1日に刊行された東浩紀の新著『訂正可能性の哲学』。おかげさまで好評をいただき、発売直後に増刷が決定いたしました。これを記念して本書の第2部「一般意志再考」から、「人工知能民主主義の誕生」の一部を無料公開いたします。『訂正可能性の哲学』のご購入はこちらから!(編集部)

第2部 一般意志再考



第5章 │ 人工知能民主主義の誕生 

 第2部では、現代世界が直面する民主主義の危機を概観したうえで、それを「訂正可能性」の論理を用いていかに克服するかを論じる。第一部と同じく独立して読める議論になっているが、こんどは2011年に刊行した『一般意志2.0』という著作の主題を引き継いでいる★1。 

 この第2部は2021年の末から2023年の春にかけて断続的に書かれた。それは、新型コロナウイルスが引き起こした混乱が、弱毒性変異株の出現によって徐々に収束し始めた時期にあたる。 

 2020年からほぼ3年間続いたこの混乱を後世がどう総括するのか、現時点では予想がつかない。パンデミックの初期には、これをきっかけに現代文明は大きく変わるといった言説がメディアを席巻していた。とはいえ、なにごとにせよ当事者は事象を過大評価するものである。終わってみれば意外とあっさりした位置づけになるかもしれない。2022年2月に勃発したロシアによるウクライナ侵攻は、すでにコロナ禍の印象を霞ませつつある。 

 ただこの時点でもひとつだけはっきりしていることがある。それは、このパンデミックが、現代世界がパニックに弱いことを示したということである。 

 新型コロナ感染症は、確かに既存の風邪よりも致死率が高く感染力も強い。けれども天然痘やエボラ出血熱のように致死率が高いわけではなく、はしかのように感染力が強いわけでもない。若年層では無症状のまま治癒する例も多く、一瞬で社会が崩壊する類の感染症でなかったことは明らかだ。

 にもかかわらず、世界中で恐怖心を煽る報道が相次ぎ、各国は超法規的な強権発動を繰り返すことになった。科学者や医療従事者の冷静な声も、大衆の恐怖を抑えるためには役に立たなかった。 

 否、この3年のあいだに明らかになったのは、むしろ科学者や医療従事者もパニックに陥るということだった。むろん現代医学の貢献はいくら強調してもしすぎることはない。ECMO(体外式膜型人工肺)の存在は死者の数を大きく抑えたし、ワクチンは感染拡大防止に決定的な役割を果たした。けれどもパンデミックの初期においては、なにが感染防止に効果的なのかだれにもわからず、感染拡大の予測も正確ではなかった。にもかかわらず、一部の専門家は過剰な統制を要求し、それが無批判に採用される傾向にあった。緊急時だからやむをえないとの意見もあるが、国境封鎖や都市封鎖(ロックダウン)、外出禁止といった強力な私権制限が、世界各国で法的根拠や経済的損失がほとんど議論されず導入されたことには大きな問題がある。とくに日本では、科学的とはいえない怪しい政策が「自粛」の名のもと場当たり的に発出され続けてきた。後世から振り返ったとき、このパンデミックでもっとも記憶されるのは、医学の勝利でも人類の叡智でもなく、この「ドタバタ感」ではないだろうか。 

 なぜ人々はかくもドタバタしてしまったのか。医療への過剰な期待、SNSでの無責任な情報拡散、最初の症例報告があった中国への不信感、ハリウッド映画に代表される扇情的な映像文化の影響など、多くの原因を挙げることができる。今後はそちらについても検証が進むことだろう。 

 けれども、その前提のうえで、ぼくがここで出発点として考えてみたいのは、その混乱のもつ思想史的な意味だ。 

 ぼくにはそれは、この四半世紀、情報技術の進歩とともに拡大し続けてきた過剰な人間信仰に対し、強烈な冷や水を浴びせかける経験だったように思われる。そして現代の民主主義の困難は、じつはその信仰と深く関係している。

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 あまり指摘されないのだが、2010年代は思想史的には「大きな物語」が復活した時代だったといえる。 

 ここで「大きな物語」とは、人類史には大きな流れがあり、学問にせよ政治にせよ経済にせよ、その終極=目的(エンド)に奉仕するのが正しいという考えのことである。ひらたくいえば、人類はまっすぐ進歩しており、それについていくのが正しいという考えかただ。20世紀においては共産主義がそんな大きな物語として機能した。それはまさに、人類社会の終極=目的として、資本主義の終焉と共産主義の到来を謳い上げた思想だったからである。 

 けれどもそのような思想のありかたは、1970年代あたりから批判されるようになった。批判のひとつがポストモダニズムと呼ばれる動きだ。 

 そして20世紀が終わるころには、そもそもソ連が崩壊したこともあり、大きな物語のような発想はほとんど支持されなくなった。1971年生まれのぼくは、学生時代にまさに「大きな物語の終わり」を叩き込まれた世代にあたる。人類の歴史にまっすぐな進歩なんてないし、なにが正しくなにがまちがっているかについても単純に判断できるわけがない。それがぼくの世代の本来の常識だ。 

 ところが21世紀に入ると、その大きな物語の発想が新たな装いのもとで復活し始める。ただしこんどの物語の母体は、共産主義のような社会科学ではない。情報産業論や技術論である。支持母体も政治家や文学者ではなく、起業家やエンジニアだ。ひとことでいえば、文系の大きな物語が消えたと思ったら、理工系から新しい物語が台頭してきたわけである。

 たとえば2010年代の流行語に「シンギュラリティ」という言葉がある。辞書どおりに訳せば「特異点」という意味になる英語で、人工知能(AI)が人類の生物学的な知能を超える転換点、あるいはその転換によって生活や文明に大きな変化が起きるという思想を意味する。この数年で日本のマスコミも頻繁に話題にするようになったので、耳にしたことのある読者は多いだろう。最近ではエンジニアやビジネスマンだけでなく、政治家も語っている。 

 しかしこの言葉の使用には注意が必要である。むろん人工知能の普及が生活や産業を大きく変えるのはまちがいない。けれどもシンギュラリティは、けっしてそのような常識的見解だけを意味する言葉ではない。 

 シンギュラリティという言葉が注目されるようになったのは、アメリカの未来学者、レイ・カーツワイルが2005年に出版した『シンギュラリティは近い』という著作がきっかけだといわれている。日本では『ポスト・ヒューマン誕生』という題名で翻訳されている。この訳題が端的に示しているように、そこでカーツワイルは、人工知能は2045年には人類の知性を超えると予言している。この予言はよく引用される。2045年といえばわずか四半世紀後である。今年生まれた子どもが大人になるころには機械が人間を超えるといわれれば、だれでもたいへんなことだと感じる。 

 けれどもカーツワイルの本を実際に読んでみると、その根拠はかなり単純なものであることに気がつく。彼の未来予測を支えているのは、情報技術の進歩は速度を増しており、同じ傾向はこれからも続く、したがってあと40年もすれば驚くほどコンピュータの力は増しているはずだ、というそれだけの直感にすぎない。 

 確かに集積回路の開発史には「ムーアの法則」と呼ばれる有名な経験則がある。この半世紀、コンピュータの計算速度は指数関数的に上昇し続け、メモリの価格も指数関数的に低下し続けてきた。それは事実である。 

 けれども集積回路の縮小には量子論的な限界がある。加えてそもそも知性と呼ばれるものが、いまのコンピュータのかたち(フォンノイマン型アーキテクチャ)を維持したまま計算量の拡大だけで再現できるかどうかも、理論的に未知数である。けれどもカーツワイルはそのような問題をまったく考慮せず、すべての問題は計算力の増加が解決すると仮定している。そして2030年代には脳の完全なスキャンとデジタル化が可能になり、2040年代には人間の知性を生物学的な限界を超えて拡張することが可能になると主張するのである。 

 ぼくにはそれは、かつて1960年代や1970年代にカーツワイルと同じように「未来学」を喧伝していた人々が犯した誤りを、無自覚なまま繰り返しているように思われる。当時は、ライト兄弟の初飛行からわずか半世紀強で人工衛星が打ち上げられ、アインシュタインが相対性理論を発見してからわずか40年で原爆ができたという事実がよく言及されていた。その進歩の速度は破壊的で、だとすれば21世紀にはスペースコロニーが浮かんでいるに違いないし、核融合もすぐに実現するに違いないと、みながまことしやかに語っていたのである。技術はいままでこれだけの速度で進歩してきた、したがってこれからも同じように進歩するに違いないといった成長曲線の外挿の発想は、基本的にたいへん怪しい。

 このように記すと、いやいや、情報技術の指数関数的成長の本質はまさにそのような常識を超えるところにあるのだ、だから懐疑には意味がないのだと反論するかたがいるかもしれない。ビジネス書にはしばしばそのようなことが大まじめに書かれている。常識を捨てて信じるのが大事だといわれれば、なにも返す言葉はない。 

 とはいえ、たとえカーツワイルの予測のいくつかが正しかったと認めたとしても、彼がたいへん夢想的な人物であることは否定できない。彼の著作を読み通せばわかるように、カーツワイルはシンギュラリティの到来を、身体を脱ぎ捨てた超知性が太陽系を超え光速を超えて広がり、やがては宇宙全体を覚醒させるといったおそろしく壮大な歴史のなかに位置づけている★2。人工知能が人間の脳を超えるのは、知性の宇宙的進化の第一歩にすぎないというのだ。これはどう考えても政治やビジネスの指針となる話ではない。 

 カーツワイルの著作は神秘思想として読まれるべきものである。思想史的には、19世紀ロシアのニコライ・フョードロフや20世紀フランスのピエール・テイヤール・ド・シャルダンに連なるような、宇宙主義的哲学の復活として位置づけられるべきものだろう。にもかかわらず、そのような主張があたかも堅実な未来予測のようにして政治家や経営者によって議論されている。そこに問題がある。 

 2010年代には、カーツワイルに続くかたちで多数の空想的な議論が現れた。たとえばニック・ボストロムという哲学者は、かりにシンギュラリティが到来して人工知能が意識を獲得したのだとすると、彼らは圧倒的な知性をもって自己保存に邁進するはずで、それゆえ結果として地球全体の資源を独占し人類を絶滅させてしまう可能性がある、だとすれば人類はいまから対抗策を考えておくべきだと警鐘を鳴らし一部メディアの注目を集めた★3。これなどはSFそのものである。にもかかわらず、ビル・ゲイツやイーロン・マスクといった名だたる人々が、真に受けて声明を発していた。 

 日本の例も挙げておこう。2010年代に強い影響力をもった思想家に落合陽一がいる。(『訂正可能性の哲学』に続く)

 


★1 東浩紀『一般意志2・0』、講談社、2011年。講談社文庫、2015年。以下参照は文庫版から行う。 
★2 レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生』、井上健監訳、NHK出版、2007年、457頁以下。別の箇所ではカーツワイルはつぎのような文章も記している。「人類の文明は、われわれが遭遇する物言わぬ物質とエネルギーを、崇高でインテリジェントな──すなわち、超越的な──物質とエネルギーに転換しながら、外へ外へと拡張していくだろう。それゆえある意味、特異点は最終的に宇宙を魂で満たす、と言うこともできるのだ。[……]進化は、神のような極致に達することはできないとしても、神の概念に向かって厳然と進んでいるのだ。したがって、人間の思考をその生物としての制約から解放することは、本質的にスピリチュアルな事業であるとも言える」(520─521頁)。ここでカーツワイルは、彼の議論が宗教的な情熱に支えられていること、というよりも、神学そのものであることをいっさい隠していない。 
★3 ニック・ボストロム『スーパーインテリジェンス』、倉骨彰訳、日本経済新聞出版社、2017年。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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