『世界は五反田から始まった』の一年後|星野博美

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webゲンロン 2023年7月19日配信
 星野博美さんの『世界は五反田から始まった』が刊行されて、1年が経ちました。大佛次郎賞を受賞し、講演会が各地で行われるなど大きな反響をいただいた同書。なにより、読者のみなさまから数多くのご感想をいただいています。
 それらの反響を受けて、星野さんに1周年を記念するエッセイを寄せていただきました。戸越と外房という星野さんのふたつの地元から、『世界は五反田から始まった』で描かれた土地と家族のその後が見えてきます。(ゲンロン編集部)
『世界は五反田から始まった』を刊行してから、ちょうど1年がたった。ありがたいことに、これまでたくさんの書評が様々なメディアに掲載され、2022年末には大佛次郎賞も頂いた。読者からのお便りも、これまで出した本とは比べものにならないほど多い。これはまったく想定していなかったことで、正直言って驚いた。

 だって、テーマが五反田である。連載を始めた時の心情を思い出す。私が偏愛する五反田という、マイナーな存在を舞台に書くのだから、多くの人には共感してもらえないだろう。だったら偏愛を貫き、思いっきり好き勝手に書かせてもらおう。そう開きなおり、書き始めたのだ。ところが蓋を開けてみれば、多くの人が「共感した」と言い、しかも五反田に来たことのない人までが「行ってみたい」と言う。つまり「私の」ものだったはずの五反田が普遍化され、別の存在になったということだ。

 何かを書く時、私はよく言う。延々と自分や家族の話しかしませんが、それをたたき台にして、自身の家族や土地の歴史に思いを馳せてほしい、と。その意図が、今回の本ではとりわけ伝わったようだ。それが伝わったからこそ、語りたい物語を心に秘めた、多くの人を刺激したのではないだろうか。

時代による過大評価


 書くものは時代や、偶然起きた出来事に大きな影響を受ける。また同時に、時代によって、自分の想像を超えた読み方をされることもある。拙著がある意味、過大な評価を受けたのは、時代によるところが大きい、と冷静に受け止めている。

 ちょうど百年前、世界中で「スペイン風邪」が猛威を奮った時、私の祖父は劣悪な環境で働いたことで肺を悪くし、千葉で長期療養を余儀なくされた。そんな時代のことを書いた時点では、まさかもうじき、同じ状況が自分たちの身にも降りかかることなど想像すらしなかった。2年半にわたった連載の、半分以上がコロナ禍において書かれたのは、実に奇妙なめぐりあわせだった。

 コロナ禍だから遠くへ出かけられず、なかなか人にも会えない。私事ではあるが、パンデミックの開始とほぼ同時に、高齢両親の入退院が重なり、実質的な介護生活が始まった。家からあまり離れられない。徒歩で移動できる場所で、一人でできることをするしかない、と開きなおった結果、活動範囲はほぼ大五反田圏内に限定された。おのずと、そこで一生の大半を過ごした祖父の人生に思いを馳せる時間が長くなり、かつて戦争が日常だった時代にますます拘泥していった。

 連載が終了し、そろそろ本作りに向けて動き出しましょう、と編集を担当してくれた上田洋子さんと話したのが、2021年の暮れも押し迫った頃だった。年が明け、自分の誕生日(2月4日)の日付で「あとがき」を書いた。ようやく、この原稿が自分の手を離れて形になっていく。一区切りがつき、解放された気持ちの中、ちょうど私の誕生日から北京で始まった冬季五輪を、来る日も来る日も眺めていた。

 そして冬季五輪が終わり、パラリンピックが始まる前の2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻を始めた。

 世界から戦争がなくなったことは、多分一日もない。いつでもどこでも、戦争は起きている。しかし私たちは無意識のうちに、「関心のある戦争」と「関心のない戦争」を取捨選択している。独裁者が牛耳る「東」に蹂躙される、「西」の民主主義、という構図で語られる傾向が強いこの軍事侵攻は、多くの人にとって「関心のある戦争」だったようだ。ウクライナの人々が強いられた「戦争のある日常」の映像が、いきなり大量に流れてきたことで、自分にも起きるかもしれない未来として受け止めた人が多かったのではないかと推察する。

 自分の筆力が及ばない要素が重なったことで、本書は少し過大に評価されたと私は思っている。

カコちゃんと電柱


 2022年7月から、私が暮らす戸越銀座に、拙著『世界は五反田から始まった』の看板広告が貼られた電柱が2本立っている。

 この、いわゆる「世界五反田電柱」は、五反田、目黒、戸越銀座、不動前といった「大五反田」圏内に、現時点で計7本存在する。これは拙著が刊行される際、ゲンロンが宣伝の一環として出してくれたもので、その英断には心から感謝している。

 戸越銀座地域のどの電柱に広告を出すかという選択には、私も関与した。ゲンロン編集部から候補の電柱マップが送られてくると、その日のうちに私は全電柱を回り、人通りの多さや見やすさ、立ち止まる確率の高さなどを、自分を実験台にして確認した。人通りは多いが立ち止まりにくい、立ち止まりやすいが人通りが少なすぎる、といった条件で取捨選択した結果、東急池上線戸越銀座駅裏踏切前と、都営浅草線戸越駅出口脇の2か所に決定したのだった。

 戸越銀座駅裏にある踏切は、私が勝手に「バイバイ踏切」と呼ぶ、大変思い入れのある場所だ。

 わが家に来客があると──うちは大変来客の多い家だった──、お客さんを見送るため、幼い私は戸越銀座駅までついて行ったものだった。そして荏原中延方面から五反田行き電車が近づいて来ると、お客さんと和菓子の亀屋万年堂の前で別れ、駅裏にあるもう一つの踏切まで全速力で走る。電車がホームに停車している間に駅裏の踏切へ到着し、電車が動き出すのを待つ。そして踏切から、車内にいるお客さんに向かって「バイバーイ!」と手を振りながら、線路沿いを走って見送るのだった。

 当時見送られた人の心中を想像すると、なんともいえないおかしみを感じてしまう。故郷を離れて遠くの都会へ上京するわけでもなし、まして、これから出征するわけでもなし、たかだが2駅先の五反田に行くだけである。それなのにこの子はなんと大袈裟な、とクスクス笑ったのではないだろうか。しかし当時の私は真剣そのものだった。五反田へ行く3両編成の電車は、世界の中心へ向かうのである。世界の中心へ向かう人に対する羨望と、自分だけが周縁に取り残される寂しさが入り交じった「バイバイ」だった。小っちゃな女の子からこんな見送られ方をしたら、胸がキュンと締めつけられ、また来ざるを得ない心境に陥ったのではないか、と想像する。
 この「バイバイ踏切」の前に立つ電柱に、2022年11月のある日、迷い猫の貼り紙が出現した。「カコちゃん」という、「約10歳」の「臆病」なメス猫が行方不明になっていて、飼い主が探している。私もかつて飼っていた猫が行方不明になり、チラシを作ってあちこちに貼った経験が何度かあるので、迷い猫を探す飼い主の居てもたってもいられない気持ちは痛いほどよくわかった。

 カコちゃんの写真を見た時、どこかで見たことがあるような気がした。そしてある時掃除をしていたら、クリアファイルの中から、カコちゃんの写真が載ったチラシが出てきた。なんとカコちゃんは2020年にも行方不明になっていて、飼い主がチラシを作り、界隈の家々の郵便受けに投函していたのだ。

 カコちゃんのチラシは、界隈のあちこちの電柱に貼られたが、時間がたつにつれて剥がれていき、世界五反田電柱に貼られたチラシもいつの間にかなくなった。カコちゃんが見つかったのかどうかはわからないまま、時間が過ぎていった。

 それから半年がたった2023年5月、再びカコちゃんのチラシが世界五反田電柱に出現した。カコちゃんはまだ戻らず、飼い主も諦めていなかったのだ。そしてほぼ時を同じくして、その隣に今度は、迷い小鳥を探す貼り紙が出現した。その行方不明のセキセイインコの名前が、あろうことか、またもや「カコちゃん」だった。カコという名前を付けられた小動物は、自由を求めて世界へ飛び出してしまう傾向にあるのだろうか。

 そんな奇妙な縁があり、猫と小鳥のカコちゃんの行方に、私は責任のようなものを感じるようになった。世界五反田電柱がいつの間にか、界隈の小動物の行方を見守る、伝言板へ昇格したように感じられたのである。世界は五反田から始まり、カコちゃんたちは世界へ飛び出していった。なんとか大五反田圏内にとどまり、いつか飼い主の元へ戻ってきてほしいと切に願っている。

いすみ市で目にしたもの


 さて、私は2023年6月24日、千葉県いすみ市で講演会を行ってきた。いすみ市在住のゲンロン友の会会員のYさんが立ちあげて下さった企画だ。聞き手としてゲンロン代表、かつ拙著の担当もしてくれた上田洋子さんが登壇し、さらにゲンロンの人々、そして同じ日に祖父の家が焼けたゲンロン会員Oさんや、大阪在住のゲンロン会員Hさんが駆けつけてくれ、アウェーの地であるにもかかわらず、ホームの雰囲気の中で講演を行うことができた。

 いすみ市岬町は、外房の海に面した、母の故郷である。そしていすみ市の隣は、『世界は五反田から始まった』に頻繁に登場した父方の祖父、量太郎と、祖母、きよの故郷である御宿町だ。

 幼い頃、私たち姉妹は毎年夏を、いすみの伯母の家で過ごした。その伯母と伯父が相次いで亡くなってすでに7年がたち、すっかり足が遠のいていた。母は今年で88になり、足がずいぶんおぼつかなくなった。この機会を逃したら、二度と故郷へ帰れないかもしれない。この講演会の機会を借り、両親をいすみへ連れて行こうと、早くから決めていた。ホテルは、幼い私たちがかつて磯遊びや宝探しやスイカ割りをした、三軒家の浜に確保した。戸越銀座から岬町までの最短ルートを確認するため、3月末には予行演習で、豪雨の中を車で往復した。

 個人的に、この講演会には期するところがあった。

『世界は五反田から始まった』で書きつづった、戦争のあった東京の日常といすみ市は、一見、何の関係もない。しかし、1944年末から1945年にかけ、「空襲定期便」と呼ばれるほど、東京は頻繁に空襲に見舞われたが、米軍の爆撃機集団は多くの場合、太平洋の彼方から飛んできて、いすみや御宿の真上を通って東京へ向かった。B29軍団は、いすみで暮らす母の頭上を通り、戸越銀座で暮らす父の頭上に焼夷弾を降らせたのである。太平洋に面した外房は、有事の際には国境線となることを、講演では訴えようと考えていた。

 会場となった岬公民館から母の実家まで、車で10分もかからない。講演会にはたくさんの知り合いが来てくれた。母方のいとことその家族、義理のいとこ(母の姉の夫の姪)、伯父と伯母の教え子、父のいとこ、父のはとことその家族、そして私の会社員時代の元上司……。およそ2割が親戚縁者だったことになる。これほど多くの親戚を前にして講演を行ったのは、初めてだった。
 講演会は盛況のうちに終わった。私はゲンロン関係の人々を乗せて車で打ち上げに向かい、両親と付き添いの姉は一足先にホテルへ戻る。タクシーを呼ぼうとしたところ、千葉市から駆けつけれてくれたいとこが「俺たちが送るから」と申し出てくれた。

 それからが、おもしろかった。

 いとこたちは、いすみ市から一人、千葉市から二人、もう一家族も千葉市から、計3台の車で来ていた。そのどれでホテルへ送って行くか。両親の歩行器を乗せるためには、トランクにけっこうなスペースが必要だ。それに、彼らが講演会のために贈ってくれた、大きなお花も持って帰らなければならない。

 公民館から10分の場所に住むいとこの車が最適に思われた。しかし人間3人は乗せられるが、コンパクトカーなので、2台の歩行器が入らない。千葉市に住むいとこの息子の車が一番大きかったが、壁紙や建材品など、けっこうな量の荷物がトランクに積まれていて、それ以上の荷物は積めそうにない。いとこたちはせっせせっせと荷物を他の2台に分散させ始めた。子どもと同じくらいのこらえ性しかない父はちょこまか動き回り、姉から「動かないで!」と声を上げて叱られ、母はいとこの妻と話しこみ、作業の邪魔に励んでいる。

 タクシーを呼んだほうが早いのでは? 何度もそう言いかけた。しかしこの、一見面倒臭そうな営みを、邪魔してはいけないような気がして、口出しするのをやめた。合理主義に立って、親戚の厚意をむげにしてはいけないのだ。

 10分以上がたち、ようやく荷物の分配が終わり、歩行器とお花が無事に収まった。ふう。しかし面倒な作業はこれで終わりではない。3台の車の持ち主は一緒に暮らしているわけではないため、両親たちをホテルで降ろしたあと、また荷物を再分配しなおさなければならないのだ。結局、3台ともいったんホテルへ向かうことで話がまとまった。
 ほっとしたのも束の間、千葉市のいとこが重大な問題に気がついてしまった。

「お花をどうやって戸越まで持って帰るんだ?」

 そうだった……ホテルまでは運べたとしても、東京に帰る際、この大きなお花が私の車には入りきらない。彼らがお金を出しあって贈ってくれた大切なお花だ。これを私が「諦めます」とは、口が裂けても言えなかった。何か妙案はないのか。私たちは顔を見合わせた。するといとこの妻が口を開いた。

「あなた、明日、戸越まで車で持って行ってあげて。それしかないよ」

 名指しされたいとこの表情が一瞬凍りついた。しかし「わるいね」「そうしてもらえると助かる」「お願いできる?」「たまには寄りなさいよ」という声にかき消され、またたく間に合意事項として押し切られた。
 不謹慎だが、私はクスクス笑ってしまった。映画を見ているようだった。

 このあつくるしく、温かい感じ。これぞ故郷だ。私は久しぶりに、故郷を体験しているのだった。

 幼い私が戸越銀座の家で見ていた光景は、まさにこれだった。誰だかよくわからないけど、いつも家にはおじいさんやおばあさんがいっぱいいて、ちょっとしたことについて、ああでもない、こうでもないと、延々と話し合い、何かが決まったり、先送りされたりしていた。

 もうほとんど消えかかっているけれど、私にはまだ、かろうじて、故郷がある。そう思えた。この懐かしい光景を見られただけでも、いすみ市で講演会を行った甲斐があった。

 私たちが東京へ戻った翌日、約束通り、いとこはわざわざ千葉市から、車で花を届けてくれた。そして2週間後の週末、今度は夫婦でわが家へ遊びに来ることになった。

『世界は五反田から始まった』が、親戚付き合いを再開させてくれたことが、心から嬉しかった。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後

ゲンロン叢書|011
『世界は五反田から始まった』
星野博美 著

¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行

星野博美

1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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