「保守」と「リベラル」、どこから来て、どこへ向かう?──宇野重規×上田洋子「保守とリベラルは本当に対立しないのか」イベントレポート

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webゲンロン 2023年6月26日配信
 ウクライナ戦争が起きた世界で、これからの政治のあり方をどう考えればよいのだろうか。2022年5月13日、『日本の保守とリベラル──思考の座標軸を立て直す』(中公選書、2023年)を刊行した政治学者の宇野重規と、ゲンロン代表でロシア文学者の上田洋子が対談した。イベントでは「保守」と「リベラル」という言葉を軸に話が展開された。ふたりはまず、その本質と歴史的背景を易しくひも解いた。そして、ふたつの思想が日本とロシアで独自の発展を遂げたことを語った。 
 現代の政治的対立を理解し、それを乗り越えるためのヒントを得られる4時間半。後半に東浩紀が飛び入り参加するなど、柔軟で活発な議論がおこなわれた。ゲンロンカフェならではの魅力がつまったイベントの模様をレポートする。(ゲンロン編集部) 
  
宇野重規×上田洋子「保守とリベラルは本当に対立しないのか──ウクライナ戦争を踏まえてあらためて問う」 
URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20230426

保守とリベラル


 イベントは、いまSNS上でいわゆる「保守」と「リベラル」の分断が進み、お互いを相容れない状況になっているという話題から始まった。宇野は自身の政治的立場として、まず保守と呼ばれることに違和感があると語る。ただその一方で、いまの日本や世界の文脈のなかで自分をリベラルと表現するのもしっくりこないと感じるそうだ。 

 宇野は、「保守とリベラルはそもそも対立する思想なのだろうか?」と問いかけ、ふたつの立場の来歴を語り起こすところから始める。 

 宇野いわく、保守とは、歴史や伝統を尊重し、社会の急激な変化に抵抗する思想である。よって、本来その対になるのは、社会を根底から作り替えようとする「革新」や「急進」である。一方、リベラルとは多様性を擁護し、個人の自由な生き方を肯定する思想である。この対になるのは、多様な生き方や個人の自由を尊重しない「不寛容」や「権威主義」である。このように、保守とリベラルはもともと異なる対立項を持つ概念だ。そのため、ふたつの立場を両立することも可能なはずだと宇野は説明した。 

 では、本来は対立しないはずの保守とリベラルが、いまなぜセットで語られるのか? そこには、「自由の国」アメリカの影響があると宇野は言う。ざっくり言ってしまえば、「保守」と「リベラル」の対立とは、アメリカの二大政党である共和党と民主党の対立の言い換えなのである。 

 宇野によれば、この前提には「自由について根本的な対立がない」というアメリカの特性がある。アメリカには建国当初から国王や貴族の制度がなく、社会主義も育たなかった。つまり、自由主義は当たり前のものだった。そのうえで、「個人の自由を守るために政府は小さいほうがいい」と考えるのが古典的な自由主義=「保守」であり、20世紀に生まれた「個人が自由であるためには政府のより積極的な役割が重要だ」と考える立場が「リベラル」となったのだ。 

 日本は、アメリカと大きく異なる政治の経緯をたどった国である。したがって、「保守」と「リベラル」という対立は本来そこに当てはまらない。しかし、それをあえて近現代の日本に当てはめてみることで、その歴史をダイナミックに捉えること。さらには日本の保守とリベラルがこれから目指すべきあり方を模索すること。宇野はこの2つを目的として『日本の保守とリベラル』を執筆したという。  

 

保守はバークから始まる


 保守主義の提唱者は、イギリスの政治家・思想家のエドマンド・バークとされる。このことは広く知られており、安倍元首相も国会で言及したことがある。意外なことに、バークは当初リベラルな急進派として知られていた。彼はアイルランド出身で、トーリー党(のちの保守党)と対立するホイッグ党(のちの自由党)の幹部を務めた。そのなかで、アメリカ独立運動の際にはイギリス王政を批判し、運動への支持を表明した。しかし、晩年にフランス革命が起こるとバークは反対の声を上げた。彼のリベラルな立場を知る人々はその反応に驚いたという。なぜバークはフランス革命に反対したのだろうか? 

 宇野はこう説明する。バークは、社会を突然解体し、ある理念にもとづいて根底から作り直そうとする試みは、むしろ多くの害を生むという信念をもっていた。社会の習慣には非合理に見えるものもあるが、じつはそれなりの理由や意味があることも多い。たとえば、盆暮れに贈り物を送り合うという一見無駄な行為も、人々が旧友とのつながりを保つきっかけになる。社会はこうした習慣が積み重なって成り立っている。そのような観点から、人間が理性だけで社会を設計しようとするとかえってうまくいかないとバークは主張した。そして、伝統を完全に捨ててしまうのではなく、少しずつ修正していくことの重要性を説いた。 

 バークの思想は説得的である。しかし一方で、宇野はそれがどんな国にも適応可能かどうかには疑問もあると述べた。イギリスには、議会が機能して王の権力を抑制するというよき伝統があった。だからこそ、その伝統を守りながら少しずつ修正するという思想でうまくいく。他方で、世の中にはそれではうまくいかず、まず独裁者を倒さないと前に進めない国もあるのではないか。宇野はそう問う。 

 上田はこれに同意し、革命には大きなコストがかかるため、ときに理想を外れた悲劇を招く可能性があると指摘した。革命が大きな被害をもたらした例として上田が挙げたのが、ロシア革命後にたびたび起きた飢饉である。そのうち、スターリン政権による強引な農業集団化が引き起こした1932-33年の大飢餓が「ホロドモール」と呼ばれ、現在ではウクライナとロシアの間での政治問題となっている。この飢饉ではウクライナのほか、カザフスタンやロシアの各地で何百万人もの犠牲者を生んだ。 

 
 

 では、日本の保守はどういう存在だろうか。宇野は、それが政治的には強大である一方で、何を守るべき伝統と考えるかについて統一的な視点に欠けていると指摘した。近代をさかいに、日本の政治体制は明治維新と敗戦によって二度壊れた。そのため、守るべきよき伝統とは何なのかが曖昧になっているというのである。「保守」を自認する人のなかにも、たとえば憲法を明治憲法に戻すべきと主張する人もいれば、聖徳太子など古の時代を理想とする人もいる。なかには、リベラル的と言われる平成の天皇像にただ反感を持つ人さえいる。つまり、保守したいものが皆バラバラになっているのだ。

リベラルはギリシャから始まる


 他方、リベラルの源流をたどると、古代ギリシャの「自由」の概念に行きつく。それが意味していたのは、「奴隷ではないこと」、つまり他人の意思に従属しなくていい状態のことだった。転じて、自立した人間として振る舞うために十分な能力や教養がある人を指すようになる。他人も自立することを許すという発想から、人の自由を尊重する、つまり寛容であり宗教などの違いを認める考えにつながっていった。 

 日本のリベラルは、1990年前後から政治勢力としての存在感を持つようになる。それまで、戦後日本において保守と対立していたのは革新だった。しかしソ連崩壊とともに影響力を失い、左派陣営が新しいラベルとして「リベラル」を用い始める。当事者の間でもこの言葉の理解は十分に浸透していなかった。今日でもリベラルという言葉を巡る議論は混乱したままだ。 

 宇野は日本のリベラルを考えるにあたって、出発点として福沢諭吉を設定した。 

 日本において自由は、「何不自由なく」という言葉が示すように「妨げるものがないこと」と捉えられている。一方、ギリシャを源流とする自由の根本にあるのは「自分の意思にしたがうこと」である。 

 宇野によれば、福沢はその違いを意識しており、ギリシャ的な自由の価値を伝えようとしていた。福沢は合理主義者というイメージに反して、「人間はやせ我慢が必要だ」という考えを持っていたという。「やせ我慢」とは、たとえ非合理な選択をすることになっても信念を保ち続けることを意味する。 

 福沢は、幕府の下で育てられ、幕臣になった。明治維新後は、新政府に迎合した元幕臣たちを批判し、慶應義塾を設立するなど民間で活動した。「やせ我慢」の精神には、非合理であれ自分なりの筋を通し、権力にしたがうことを嫌った福沢のリベラルな姿勢があらわれているのだ。 

 

ロシアのリベラルの不幸


 イベントでは、続いて上田がロシアにおけるリベラルの現状について説明した。ロシアでは、ウクライナ戦争前からリベラルが苦境に立たされ続けている。2015年には野党指導者のネムツォフが暗殺された。2021年3月には、プーチン政権の汚職を取材してきた政治家のナヴァリヌイが禁固9年の判決を受けた。 

 今回の戦争に対してロシア国内で反対の立場を取るのも主にリベラルで、こちらも逮捕者が続出している。また、毎週のように、反体制的なジャーナリストや政治家、さらにはミュージシャンが外国エージェント(資金提供を受けるなど、国外の組織や人と何らかのつながりを持つ要注意人物)認定されている。リベラルは「アメリカのスパイ」として非難されることもあると上田は言う。 

 上田は、そこからロシアにおけるリベラリズムの歴史的背景を掘り下げた。1991年のソ連崩壊後、ロシアでは経済の急速な自由化が進んだ。自由化はロシア語で「リベラリザーツィヤ」と呼ばれた。しかしその過程でインフレが進行し、人々の貯蓄が失われた。こうして「リベラリザーツィヤ」への幻滅が広まり、「リベラル」という存在全体への負のイメージを生み出してしまった。 

 その後、ある程度リベラルの土壌が育ったのは、都市部で中産階級が増加したためだった。ナヴァリヌィを支持したのもこの層で、グローバル社会と結びついてビジネスを行う者も少なくなかったと上田は言う。しかし、ウクライナ戦争による経済制裁や外資系企業の撤退が彼らの経済的基盤を弱めてしまった。こうして国内の支持層が弱体化したロシアのリベラルは、ますます厳しい状況に置かれている。 

 

リベラルの可能性


 上田は、リベラルが支持を集めるためには工夫が必要だと主張する。ただ自分たちの正しさを主張するだけでは人は集まらない。それを受け入れてもらいやすいよう、うまく保守の要素を取り込んだりする柔軟さも必要ということだ。 

 宇野は、合理主義者や西洋主義者として知られていた丸山眞男が、晩年になって「忠誠」の問題にこだわったことを重要視する。丸山が注目したのは、『葉隠』だった。その一節に、臣下は自分の信念を持ち、たとえ相手が君主であってもやっていることがおかしいと思えば戦うという心構えが記されているからだ。そこでの戦いは、あくまで自分自身や自分が信じるものを守るためのものであり、抽象的な理想のためではないと丸山は考えた。 

 福沢の「やせ我慢」との共通点としてみられるのは、単なる合理主義者は自由主義者になるのが難しく、信じるもののために権力に向き合おうとする人間の方が、真にリベラルでいられるという思想である。 

 ここでイベントに飛び入り参加した東は、どのようにヨーロッパ中心主義から距離を置き、日本におけるリベラルの伝統を作り出すのかという問いを投げかけた。福沢諭吉や鎌倉新仏教のような歴史上の人物や哲学的概念を再解釈し、日本的リベラリズムの新しい物語を作る可能性について熱のこもった議論が行われた。 

 そのほかにも、トクヴィルと私的な集まりの重要性、リベラルと訂正可能性など活発な対話が繰り広げられた。これらの問題は、こののち5月25日に開催された宇野重規×青山直篤×東浩紀「トクヴィルから問う民主主義とアメリカ」でも存分に語られた。ぜひそちらもあわせて視聴していただきたい。 

 

八王子の革命


 イベント終盤の質問コーナーでは、宇野の思考のルーツが垣間見える一幕もあった。かつての同級生が挙手し、ある出来事について語ったのである。 

 宇野は八王子の農村にできた住宅地で暮らし、公立中学校に通っていた。教師は威圧的で体罰をふるっていた。しかし、ある日生徒が「急進」化し、抑圧に対し蜂起した。体育館に教師を集め「反省しろ」と過去の罪を糾弾した。中学校の旧体制が崩れた瞬間だった。そんな「革命」が起きた日、質問者は帰りの下駄箱で「どうだった?」と宇野に尋ねたという。すると、宇野は何も答えずにスタスタと帰っていった。今回のイベントで40年越しにその返答をもらった気がすると質問者は話した。 

 その後、荒れに荒れた中学校には翌年新たな校長が赴任し、管理体制化が進んだという。一方で、宇野は高校・大学とリベラルな環境に進学し、地に足ついて自由を語るために根っことなるものを探し求めた。八王子とリベラルな世界、その両方を経験したことが自分の原点だと宇野は語った。 

 この話が象徴するように、イベントはリベラルと保守を考え直すことで両者をつなごうとするものだった。ともすれば硬直しがちな政治の話が、笑いを交えたなごやかな雰囲気で語られたことも特筆しておきたい。ヨーロッパとアメリカの違い、文学と政治の関係、「1979年」論などここには書き切れなかった論点も数多くある。ぜひアーカイブ動画をみて政治を考えるきっかけにしてほしい。(林寛太)

 

宇野重規×上田洋子「保守とリベラルは本当に対立しないのか──ウクライナ戦争を踏まえてあらためて問う」 
URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20230426

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