「ロシアのないウクライナ」は可能か 祖国か、神か──戦争がウクライナの正教徒に強いる選択(2)|高橋沙奈美

シェア
webゲンロン 2023年3月24日配信
第2回

中立は許されない


 ロシア軍によるウクライナへの全面侵攻は、ウクライナ正教会を前代未聞の苦境に陥れた。その詳細に入る前に、私自身の立ち位置を明らかにしておきたい。この戦争はウクライナとロシアの二項対立のどちらに立つのか、という問いを突きつけるからだ。

 私はロシア地域研究を志す過程で、キリスト教東方正教の宗教文化に関心を持った。その後、ウクライナの正教文化にも研究テーマを広げていった。私がウクライナの地方都市での調査をスムーズに始められたのはロシアでの調査・研究を通じて知り合った研究仲間のおかげだったし、初めて訪れた場所ですぐに新しい友人や研究仲間を見つけることができたのは、ロシア語という共通言語があったからだ。

 同時に、今回の戦争が始まって、私が「ロシアから」ウクライナを見ていたことも痛感した。正教会ひとつとっても、ウクライナにはロシアとは異なる歴史があり、精神文化があり、聖堂の建築様式やイコンの製作技法に至るまで独自の世界がある。

 2014年に始まったドンバスでの紛争以後、ウクライナ政府は政治や経済のみならず、文化や社会においてもロシア(そしてソ連)に関わるものを排除しようとしている。その中でロシア語の公的な使用が制限されたり、記念碑が撤去されたりするのみならず、芸術や文化面でのボイコットも起きている。あたかも「ロシアのないウクライナ」を一刻も早く打ち立てようとしているかのようだ。

 しかし、ウクライナの歴史や社会がポーランドやベラルーシ、トルコなどの隣国と繋がっているように、ロシアとも繋がってきたことは否定しがたい事実である。しかも、17世紀後半からソ連解体の1991年まで、現在のウクライナの大部分とロシアは同じ政治体制下に置かれていた。ウクライナの地がロシア帝国に組み込まれて以来、ウクライナの正教徒たちもロシア正教会の信者であるとみなされてきた。1991年のソ連解体と前後して、ロシアとは別の教会組織を望む声が高まり、自治権を認められたのが、現在のウクライナ正教会だ。
 両国の関係が極めて深く、複雑であることは言を俟たない。現在行われている「ロシアのないウクライナ」をつくる試みは、ウクライナ自体を切り刻み、そぎ落とす行為のように私には思われる。ウクライナの豊かさは、その多声性にある。ウクライナ独自のものとロシアという外来のものを峻別し、後者を根絶しようとする努力より、ウクライナの地に根付いたものをそのまま育む懐の深さが、豊かで多様なウクライナをつくってきたのではなかったか。

 ウクライナ正教会の存在はそのようなウクライナの象徴であるように思われる。ウクライナ正教会はキーウから始まり、リトアニア・ポーランドの影響を受け、ロシアに影響を与え、ロシアと歴史の経験をともにし、それでいてウクライナ独自の存在である。しかし今、ウクライナ政府はウクライナ正教会を宗教団体として法的に解体することを視野に入れている。それはウクライナの多声性を否定することであり、ウクライナが本来目指しているはずの人権の尊重や自由、公正などの理想に反することであり、ウクライナ社会を分断することに他ならない、というのが私の立場である。

全面侵攻の開始とウクライナ正教会の対応


 ロシア軍によるウクライナへの全面攻撃に対するウクライナ正教会の反応は迅速だった。攻撃が開始された2022年2月24日、ウクライナ正教会の首座主教(最高権威)であるキーウ府主教オヌフリーは即座に反応した。オヌフリー府主教は、ウクライナ正教会が祖国ウクライナとともにあることを宣言した。そしてキリル総主教に対して、戦争反対の声を上げるよう、またプーチン大統領に攻撃中止を呼びかけるよう促すメッセージを発したのだ★1

 この時、オヌフリー府主教はロシアによるウクライナ攻撃を、「カインの罪」であると諌めた。「カインの罪」とは、聖書によれば、人類が犯した最初の罪である。アダムとエヴァの間にはカインとアベルという兄弟が生まれた。神は弟のアベルのほうを目にかけた。これを妬んだカインがアベルを殺してしまうのである。オヌフリーはこの「兄弟殺し」の戦争をすぐにでも止めなければならないと訴えた。

 なぜ「兄弟殺し」なのか。歴史を振り返って検討してみよう。現在のウクライナ正教会は、1990年までロシア正教会の一部であった。ペレストロイカによって、ウクライナで教会独立の動きが活発になると、ロシア正教会はウクライナに対して高度な自治権を与え、自治教会(autonomous church)として「ウクライナ正教会」を名乗ることを認めたのであった。新しく選出された首座主教はモスクワ総主教の承認を必要とする、などの一部の留保を除いて、ウクライナ正教会は自らの教会を独自に運営する権利を手に入れたのである。
 自治権を持つとはいえ、ウクライナ正教会はロシア正教会を通じて、世界の正教会と繋がっている。また、自主管理教会となった後も、ウクライナの高位聖職者たちは、ロシア正教会のシノド(教会の最高意思決定機関)や公会(教会会議)に参加してきた。ロシア正教会はウクライナ正教会の「母教会」であり、ロシア正教会の首座主教キリル総主教はウクライナの正教徒たちにとっても権威ある庇護者のはずだった。

 しかしながら、全面侵攻が始まっても、キリル総主教からウクライナの信徒たちをおもんばかる発言はなかった。それどころか、キリル総主教はこの戦争への直接的な言及を避けた。そして3月13日になって、国内軍組織の国家親衛隊にイコンを送ったのを皮切りに、ロシア軍を支持する言動を繰り返したのである★2。ウクライナでは、これはロシア正教会による「戦争支持」であるとしてメディアでも繰り返し取り上げられた。

 ただし、ロシア正教会の側では、この戦争を侵略戦争ではなく「防衛戦争」と位置づけ、教会は自らを犠牲にしても「祖国防衛」に従事する将兵を祝福しているのだと主張していることには注意が必要だ。ロシア正教会にとって、キーウはロシア、ウクライナ、ベラルーシの東スラヴ民族が東方正教を受け入れた始まりの地であり、ウクライナ正教会を手放すわけにはいかない。ウクライナを西側の影響から解放するこの「防衛戦」を戦い抜くことが、独自の価値観を持った東スラヴ民族の文明圏たる「ロシア世界」を守ることになる。これがキリル総主教のロジックなのである。

 こうしたキリル総主教の態度が明らかになると、ウクライナ正教会の司祭たちの中には、聖職者としての良心がキリルの名前を祈祷の中で出すことを許さない、キリル総主教のための祈祷を中止すると宣言する者が続出した。正教会では、聖堂での祈祷(典礼)の中で、自分たちの教会の高位聖職者の名を挙げて彼らを記憶する「連祷」と呼ばれる祈りがある。キリル総主教に対しては「大いなる君、われらが父、至聖なる総主教キリル聖下[……]のために主に祈らん」と司祭が呼びかけ、信者が「主、憐れめよ」と応える。この部分の祈祷中止を決めた聖職者たちが、自分の名前と顔を公表して、自らの思いとともに「私たちはあなたのことを父だと思っていたが、継父よりもひどかった。神の裁きを」と訴える動画が3月、YouTubeに投稿された。この動画は聖職者たちの悲しみと静かな怒りをよく伝えている★3。この祈祷中止の決定は個別の教区に留まらず、それらを管轄する主教区全体の動きにまで拡大した[図1]。ウクライナ正教会は53の主教区に分かれているが、そのうち20以上の教区が祈祷の中止を決定した。

 
図1 地方教会の組織と聖職者のヒエラルキ

 
 さらに、ドニプロ市の一司祭であるアンドリー・ピンチュク神父は、キリル総主教を東方正教会全体の教会裁判にかけるべきであるという公開アピールを出した★4。このアピールには400名以上の聖職者が賛同し、名を連ねた。ウクライナ正教会には1万名を越える聖職者がいることを考えると、署名者の数はあまりに少ないかもしれない。しかし、聖職者の中から、キリル総主教の言動を批判し、ロシアの首座主教としての地位を問う声が出たことのインパクトは大きかった。

 高位聖職者の間でも、批判の声を上げるものがあった。ウクライナ正教会における最高齢の主教の一人で、親ロシア的な言動で有名であったオデーサ府主教アガファンゲルである。彼は2023年3月6日の説教を、「私は信者たちの前に、歴史の前に、そして神の前に責任を感じます。それゆえ、私は主教としての良心に従って、皆さんにお話ししようと思います」という語りかけで始めた★5。その中で「今日、残念ながら私たちの共通の文化は砲弾の爆発と銃撃の轟音によって破壊されており、私たちの共通の洗礼盤はドニプロの灰色の水の中で踏みつけられています」と、「ロシア世界」の終焉について述べたのである。

 このように、ウクライナ正教会内部からもロシア正教会に対する批判の声はさまざまな形で上げられた。それにもかかわらず、ウクライナ正教会をロシアの手先とみなす人々の影響力が、2月24日の戦争開始直後から再び高まっていった。ドンバス戦争の開始後、ウクライナ正教会の司祭や修道士らが親露派部隊に協力しているという報道が繰り返されていたが、今回、そうした話題が再燃した。

 ウクライナ正教会の内部から敵に内通する協力者(コラボレーター)が出たことは事実である。問題はそれが過度に強調され、ウクライナ正教会全体に対するバッシングへと発展したことだ。2019年にポロシェンコ大統領の肝いりによって新正教会(Orthodox Church of Ukraine、以下「新正教会」と表記)が創設されたときと同様、ウクライナ正教会の教区教会を差し押さえたり、その活動を制限したりするような事例が再び目立ち始めた。

 3月28日、インナ・ソヴスン議員は、ウクライナ正教会を禁止する法案を最高議会に提出した★6。その際、議員はSNS上で、コラボレーターとして告発されたウクライナ正教会の聖職者たちの名をあげ、「ロシア正教会の中にはプーチンのために働く諜報員・破壊工作員」が多数いると指摘。そして「ロシア正教会、くたばれ」と投稿した★7。わかりにくいのだが、ここでソヴスン議員が「ロシア正教会」としているのは、ウクライナ正教会のことである。ウクライナ正教会と新正教会が並立する状況は、ウクライナ人にとっても非常に紛らわしい。第1回で述べたように、2018年に制定された法に基づいて、ウクライナ正教会の名称を「ロシア正教会」あるいは「ウクライナのロシア正教会(Russian Orthodox Church in Ukraine)」とするべきだという主張が右派の論客やメディアの間で広まっている。ドンバス戦争後から「ウクライナ正教会」が「モスクワ総主教座」であることは繰り返し強調されていたが、全面戦争開始後、「ウクライナ正教会」の名称は政府系メディアでは消滅しかけているといって過言ではない。

玉虫色の「独立」宣言


 そもそもウクライナ正教会は広範な自治権を認められた「自治教会」である。このことは、1990年10月、当時のモスクワ総主教アレクシー二世が発行した正式な文書によって認められていた。それに基づいたウクライナ正教会の規約によれば、ウクライナ正教会の運営は独立したものであるとされているが、しかし次の点でロシア正教会から制限を受けていた★8


① トップの承認:ウクライナ正教会によって新たに首座主教であるキーウ府主教が選出された際には、モスクワ総主教の承認を必要とする
② 共同決議:ウクライナ正教会の高位聖職者は、ロシア正教会の地方公会および高位聖職者会議に加わり、その決議に従う(ただし、決議の内容は独立性を考慮したうえで適応される)
③ 教会外交の制約:ウクライナ正教会はロシア正教会を通じて、他の地方教会とつながりを有する
 2022年3月以降、ブチャの虐殺事件をはじめとして、ロシア軍による民間人への攻撃や住宅やインフラの破壊が次々と明らかになった。さらに、マリウポリでの激戦が報じられ、民間人に対する攻撃や、殺されたウクライナ人の集団墓地の存在も報じられた。内外からの批判に加え、こうした戦況がウクライナ正教会内部の「親ロシア的」な高位聖職者に与えた影響は少なくなかったはずである。  キーウ府主教オヌフリーは、モスクワのセルギエフ大修道院で長らく過ごした経歴があり、ロシアからの教会独立に関して、かつて否定的な見解を持っていたことが知られている。ただし、すでに見たように、オヌフリー府主教は開戦後ただちにロシア非難のメッセージを発するなど、教会を守るためにウクライナ愛国主義の立場を鮮明にすることの重要性をよく理解していた。ウクライナ正教会に対する外部からの批判に加え、内部からもロシア正教会との関係見直しを求める声が高まり、5月12日、教会指導部は公会(教会会議)を招集して「いかなる分裂も新たに生じさせない、教会法に基づく議論」を行うと発表した★9。  5月27日、一般信徒から高位聖職者までの代表者を集めてウクライナ正教会の公会が開催された。オヌフリー府主教はキリル総主教とプーチン大統領を批判するメッセージを改めて述べた後、全体会議として各人に対し自由に意見を述べるように求めた。その後、高位聖職者会議がウクライナ正教会の地位を変更する文書を採択し、再度全体会議が招集されてこれを「全会一致」で承認した。こうして、戦争反対、即時停戦、キリル総主教の戦争支持の立場に反対、ウクライナ正教会の「完全な独立と自律性を証する規約に追加と修正を認める」ことを定めた10箇条の宣言を公表した★10。これをもって、ウクライナ正教会はロシア正教会から完全に独立したというのが、教会指導部の主張であった。
 しかし、公会の決定を額面通りに受け止めない人々はかなり多かった。第1に、ウクライナ正教会と対立する新正教会やウクライナ政府は、これを単なる「くだらない演出」であると評した★11。その理由として、「完全な独立と自律性を証する規約」の修正が具体的にどのようなものなのか、その内容が即時発表されなかったこと、また教会独立を意味する「autocephaly」(ギリシア語由来で自分自身がかしらであることを意味する)の語が用いられていなかったこと、そしてこの決定に対し、ロシア正教会側が一定の「理解」を示したことなどが挙げられる★12。実際に公開された宣言の中では、ロシア正教会の規約に定められた語を用いて「独立 самостійність і незалежність」が強調されており、教会法上の正式な「独立 autocephaly」の語の使用が避けられていることは明らかであった。そのため、公会の決定は、内部の独立派の機運の高まりに対する蒸気弁に過ぎず、ウクライナ正教会の本部がキーウにあると強調して宗教団体名の改称を迫る法律の適用を逃れようとする方策だと批判されたのである。

 一方、ウクライナ正教会の側としては、ロシアからの「独立」について、慎重な対応を取らざるを得なかった。というのも、ウクライナで唯一の正統な正教会であることが、この教会のアイデンティティの中核となっていたからである。これはつまり、ウクライナ正教会がロシア正教会を通じて使徒継承性(キリストの直弟子の教えを引き継ぐ教会であることの証)を認められていることを意味する。

 ソ連解体前後のウクライナでは、ソ連時代に何度も独立を試みてきたウクライナ独立教会(UAOC)およびキーウ府主教座が、ロシア正教会からの独立(autocephaly)を宣言したという歴史がある[図2]。ウクライナ正教会はこれらの教会を「分離派」と非難し、その使徒継承性を認めてこなかった。それゆえに、今になって自分たちが独立(autocephaly)を宣言することは、自らの正統性を放棄し、「分離派」に連なることに等しいのである。使徒継承性の維持を至上命題とする以上、「分離派」と同様の独立宣言を行うことは、ウクライナ正教会にとって不可能なのである。

 
図2 ロシア正教会からの独立を宣言した教会とその他の教会の関係

 
第2に、東部を拠点とする親ロシア的な主教たちは、この決定に大いに不服であった。ウクライナ正教会の高位聖職者の態度はロシア正教会との関係に関して、大きく3つに分かれていた。第1が、西部と中央部の一部の教区に多く見られるもので、モスクワからの完全な独立を望むグループである。第2は中央部、北部、そしてザカルパッチャの教区の多くに支持されるもので、大幅な自治権を許された現状の地位におおむね満足というものである。第3が東部、南部の教区を中心に、ロシア正教会との一体性を強調する態度で、極端な場合には(ウクライナはロシア正教会の一部であるという考えに基づき)ウクライナが独自の自治教会を持つこと自体を疑問視する立場さえあった★13

この公会が開催された時、ロシア軍占領下に置かれていた東部(ドネツィク、ルハンシク、へルソン、クリミア。それぞれ以下の図3内の15、25、42、3+4+5にあたる)の12名の主教たちはオンラインで公会に参加した。そのうちの一人、ドネツィク州のホルリフカ府主教ミトロファン(ニキーチン)によれば、オンライン参加の主教たちは高位聖職者会議に加わることができなかった★14。そして、まさに高位聖職者会議の場で、ロシア正教会とのつながりに言及する言葉がウクライナ正教会の規約から削除されることが決まったのだという。全体会議では東部の主教たちはこの規約の変更に反対票を投じたそうだ。つまり、公会の決定は全会一致ではなかった、というのが彼らの主張である。

 
図3 ウクライナ正教会の教区地図

 
 異論を持つ高位聖職者たちの分裂を避けるために、公会は、本来であればキーウ府主教座が決定すべき「教区生活にかかわる諸問題」について、各主教区の高位聖職者が決定する権限を認めた★15。早速、5月31日に、ロシアに編入されているクリミアの3つの主教区は、公会の決定に従わず、これからもロシア正教会の庇護下にあることを宣言した★16。これは「教区生活にかかわる諸問題」の範疇と考えられ、クリミアの主教区がウクライナ正教会から分裂する事態にはならなかった。

 ロシア正教会は公会の決定に対し、「分離派(新正教会を指す)、地方当局、メディア、極右、ナショナリスト」から「かつてない圧力を受けているウクライナ正教会」に対し全面的な支持と理解を表明した★17。つまり、ロシア正教会はこの公会の決定をもって、ウクライナ正教会が独立したとは認めなかったといえよう。加えて、クリミア府主教区の状況に鑑みて、これをロシア正教会の直接の管理下に置くことを宣言した★18

 公会の決定に一定の満足の意を示したのは、西部を中心とした第一のカテゴリーに属する独立志向の強い聖職者・信者たちであった。彼らは早い段階から、ロシアからの断絶を宣言するための公会の開催を要求していた。西ウクライナの中心都市リヴィウの府主教フィラレート(クチェロフ)は、規約に加えられた変更を具体的に示しつつ、これが完全な教会独立に至る確実な一歩であると強調した★19。教会独立のプロセスは平時でも複雑である。歴史的に見ても、ある地方教会が独立を自ら宣言し、その既成事実が確定した後、母教会が独立を認めるということはしばしば起こった。ロシア正教会も16世紀にそのような形で独立を獲得した経緯がある。そうした文脈を念頭において、フィラレート府主教は、この公会での宣言を完全な教会独立に向けてのプロセスの中に位置づけることができると主張したのであった★20

 西部諸州は、ドンバス紛争以降、ウクライナ正教会に対する政治的抑圧が最も苛烈だった地域である。自らの意思で新正教会に移管を決定したウクライナ正教会の教区もあったが、強制的・暴力的な移管も少なくなかった。こうした抑圧は、2022年の春以降一挙に加速し、過激化した。奉神礼を行っている最中の神父に向かって緑の液体をかける★21、聖堂の壁に「プーチンの家」などと落書きをするなど、過激な活動家による事件が頻発し、市町村レベルのいくつかの自治体では、ウクライナ正教会の活動が禁止される事態となった。しかし、これらの事件を一部の過激派によるものと片付けることはできない。ウクライナ保安庁、警察、地方当局のすべてが、ウクライナ正教会に対する弾圧に関わっているのだ★22。このような弾圧の激しい地域でウクライナ正教会に留まり続ける聖職者・信者たちにとっては、公会によってロシアとの断絶を公に宣言することが、生き残るための唯一の方法であった。

 一方で、ロシア占領下の地域で生きるウクライナ正教会の信者・聖職者にとっては、ロシアとのつながり、あるいは一体感さえ強調することは、文字通り死活問題である。占領者たちはロシアと一体となったウクライナを求めているのであって、両者の断絶などもってのほかであるからだ。他方、西部のウクライナ正教会の信者・聖職者にとっては、ロシアとの断絶を鮮明にすることが死活問題であった。5月27日のウクライナ正教会の宣言は、この両極端のグループのどちらをも分離させず、信者・聖職者を最大限守ることを考えたために、玉虫色のものとならざるを得なかったのである。

「黒衣のコラボレーター」


 しかし、5月27日の公会は、ウクライナ正教会を救うことにならなかった。ウクライナ正教会に敵対的な人々は、この玉虫色の宣言を「ロシア正教会からの独立(断絶)」とは受け止めなかった。ウクライナ正教会の聖職者たちをロシアの「コラボレーター」とみなす動きは止まらず、同教会に対する攻勢はこの後むしろ強まったのである。

 西部諸州では、ウクライナ正教会から新正教会への教区教会の移管がさらに進められた。リヴィウの南に位置するイヴァノ・フランキウシクもそうした州のひとつで、6月26日、市内に残されていた最後のウクライナ正教会の教区が新正教会に移管されたことが市長によって発表された★23。ウクライナ正教会側は、この移管が地方当局の介入によって強引に行われたと司法の場に訴え出た★24。この後、イヴァノ・フランキウシク府主教セラフィム(ザリズニツキー)は、モスクワで行われる宗教的祭典に参加するという名目で、7月22日にロシアへ出国したと報道されている★25

 高位聖職者のロシアへの出国については、このほかにもいくつもの例がある。しかし彼らの出国を、仮面をはがされた「コラボレーター」がロシアに逃亡した、と単純に考えない方がいい。それぞれの事例ごとに各方面からの圧力があったことは間違いない。そうした圧力にはウクライナから「逃亡」のほかに、ロシアへの「追放」、あるいはロシアによる「強制連行」などさまざまな可能性がある。戦時下の出国の経緯は非常に複雑なはずである。

 暴力をも辞さない強制的な教区教会の新正教会への移管に対して、政府筋から反対の声がなかったわけではない。九月、ウクライナ国家保安庁キーウ州副本部長のユーリー・パラニュークは、こうした移管がウクライナ社会の分断を引き起こすと指摘し、地方行政が教区教会の移管に関わることを禁止する文書を出した。ところがこれは利敵行為として告発された★26。そして、この報道がなされた翌日、パラニュークは更迭された★27
 公開された文書から判断する限り、パラニュークはウクライナ正教会を擁護しているとはいいがたい。彼は、ウクライナ正教会に対する地方当局の対応が違法行為であり、そのような行為は社会統一に寄与せず、むしろ地方社会を不安定化させる、と指摘しただけである。パラニュークに対する処分は、公的機関の職員である以上、ウクライナ正教会に対する攻撃に加担することは義務であり、それをしないことは、失脚を意味するという当局のメッセージであった。これ以降、国家保安庁によるウクライナ正教会に対する捜査が各地で強行されることになる。

 おりしも9月30日にプーチン大統領が編入を宣言した東部諸州では、ルハンシク府主教パンテレイモン(ポヴォロズニューク)、ザポリッジャ州メリトポリ市の修道院長イオアン(プロコペンコ)★28、ヘルソン市内の首座聖堂の主任司祭であるオレクシー(フョードロフ)★29らがロシアとの併合を祝うクレムリンの式典に参加していることが報じられた。一方で、これらの占領地域において、前線で戦い、ウクライナ社会のために貢献したその他多くの信者・聖職者の活動が報じられることはなかった。

 こうした状況下、国家保安庁の強制捜査が各地で行われ、ウクライナ正教会の聖職者たちの「スキャンダル」が続々と明るみに出された。10月11日には、中部ヴィーニッツァ州のトゥルチン府主教イオナファン(エレツキフ)の家宅捜索が行われ、ロシアによるウクライナ侵攻を正当化し、宗教的憎悪を扇動する文書が発見されたと報じられた。イオナファン府主教がロシアのパスポートを所持している疑惑も報道されたが、ウクライナでは二重国籍は禁じられている。イオナファン府主教はこの疑惑を否定した★30

 西部チェルニウツィ主教区では、保安庁の職員が、朝7時に府主教区の建物に強制捜査に入ったところ、大主教ニキータ(ストロジューク)と聖歌隊の17歳の少年の同性愛現場らしきものに遭遇した、というスキャンダルが上がった。府主教区の施設の建物からはさらに、ロシアのパスポートや「ロシア世界」をプロパガンダする文書などが発見されたと報じられた。10月31日には、中部キロヴォフラド府主教区の捜査で、ロシアで印刷された「反ウクライナ」プロパガンダの印刷物が発見された★31
 さらに11月22日にはキーウ府主教座が置かれているペチェルシク大修道院に対する強制捜査が行われた。捜査に先立つ一週間前には、修道院内でロシアを称賛する聖歌が歌われていると告発する動画★32が公表されており★33、今回の捜査は「『ロシア世界』の細胞として大修道院が利用されるのを防ぎ、破壊的な諜報グループや外国人をかくまったり、武器を保管したりするためにウクライナ正教会が利用されているというデータを調べ、挑発行為やテロ行為から住民を守る」ことを目的として行われた★34。ペチェルシク大修道院での捜査をウクライナ市民が歓迎していることが報道され、捜査を受ける修道院長パーヴェル(レベジ)の写真に風刺的な一言を添えたネットミームが登場した。例えば「小僧ども、探したって無駄なこと。神はここにはおられぬ」とか、「キーウ・ペチェルシク大修道院では早朝より、偉大で聖なる奉仕スルージバが始まった」(教会の祈祷スルージバ国家保安庁スルージバ・ベズオパスノスチの両方をかけたもの)などである★35

 大修道院での強制捜査の翌日、ウクライナ正教会の指導部は声明を発表して、現在行われている非難には何の根拠もないことを主張し、個別の告発に対しては客観的な捜査が行われるべきであることを訴えた★36。そして、キロヴォフラド府主教イオアサフ(フーベン)、ロムニ(スームィ州)府主教イオシフ(マスレニコフ)、イヴァノ・フランキウシク府主教セラフィム(ザリズニツキー)、イジューム(ハルキウ州)府主教エリセイ(イヴァノフ)の解任を決定した★37。前者2名は、強制捜査の結果、刑法に違反する疑いがあるとして調査が継続されており(イオシフ府主教についてはこの後、12月にウクライナ国籍のはく奪が決定された)、後者2名はすでにロシアへ出国していた。つまり、ウクライナ正教会の指導部が内部の親露派分子を粛清したと考えられる。(第3回へつづく)

 


★1 Звернення Блаженнішого Митрополита Київського і всієї України Онуфрія до вірних та до громадян України// Українська Православна Церква. 24. Лютого 2022. https://news.church.ua/2022/02/24/zvernennya-blazhennishogo-mitropolita-kijivskogo-vsijeji-ukrajini-onufriya-virnix-ta-gromadyan-ukrajini/
★2 キリル総主教による開戦後の説教については、次を参照。高橋沙奈美「割れた洗礼盤」、『現代思想 総特集ウクライナから問う歴史・政治・文化』2022年6月号、67-80頁。
★3 Обращение священников УПЦ к Патриарху Кириллу и Блаженнейшему Онуфрию// Київський Єрусалим. 01 березня 2022. https://www.youtube.com/watch?v=lFcqAvuI9Vs
★4 2022年4月11日のアンドリー・ピンチュクによるFacebook投稿(URL=https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=5012948892114452&id=100001981718431)。
★5 Архипастырское обращение// Одесская епархия. オデーサ主教区のFacebook公式ページ上に発表されたアガファンゲル府主教の2022年3月6日付メッセージ(URL=https://www.facebook.com/Odesskaja.eparhija/posts/5155790081130378)。
★6 Проект Закону про внесення змін до Податкового кодексу України щодо обмеження надання статусу неприбуткових організацій, № 7403 від 24. 05. 2022. https://itd.rada.gov.ua/billInfo/Bills/Card/39653
★7 2022年3 月18日のインナ・ソヴスンによるFacebook投稿(URL=https://www.facebook.com/sovsun.inna/posts/392733936012692)。
★8 1990年10月27日付のアレクシー二世の詔勅は以下(URL=http://www.patriarchia.ru/db/text/525408.html)。2022年5月27日の改定以前のウクライナ正教会の規約について(URL=https://www.unifr.ch/orthodoxia/de/assets/public/files/Dokumentation/Synodality/Moscow_Ukraine_Statutes.pdf)。また、2017年に改訂されたロシア正教会の規約におけるウクライナ正教会の地位について(URL= http://www.patriarchia.ru/db/text/5082273.html)。
★9 Заява Священного Синоду Української Православної Церкви від 12 травня 2022 року// Українська Православні Церква. https://news.church.ua/2022/05/12/zayava-svyashhennogo-sinodu-ukrajinskoji-pravoslavnoji-cerkvi-vid-12-travnya-2022-roku/
★10 Постанова Собору Української Православної Церкви від 27 травня 2022 року// Українська Православна Церква. https://news.church.ua/2022/05/27/postanova-soboru-ukrajinskoji-pravoslavnoji-cerkvi-vid-27-travnya-2022-roku/. なお、2022年5月27日に採択された規約については、7月に入ってからウクライナ宗教情報局のサイト(URL= https://risu.ua/statut-pro-upravlinnya-ukrayinskoyi-pravoslavnoyi-cerkvi-z-dopovnennyami-i-zminami-vid-27052022_n130894)で公表された。ウクライナ正教会の公式サイトでは2023年3月現在もこの規約は掲載されていない。
★11 Кошкина С. Церковна революція: версія 2022. Далі буде// LB.ua. https://lb.ua/society/2022/12/30/540855_tserkovna_revolyutsiya_versiya_2022.html
★12 Мельник В. УПЦ (МП?) як Церква Шредингера: не/ існуючий статут// RISU. 19. 12. 2022. https://risu.ua/upc-mp-yak-cerkva-shredingera-ne-isnuyuchij-statut_n134954
★13 Mitrokhin, “Was There an Alternative? Metropolitan Bishop Onuphrius and His First Steps,” in Wanner C. ed., Euxeinos: Governance and Culture in the Black Sea Region 17 (2015), p. 14.
★14 ミトロファン府主教は親ロシア的な見解を持つ高位聖職者で、その発言は以下のロシア正教会司祭ゲオルギー・マクシーモフのYouTubeチャンネルから視聴が可能(URL=https://www.youtube.com/watch?v=KEIqOcQkbzw)。
★15 こうした前例となる勅令を、十月革命後のモスクワ総主教チーホン(ベラビン)が下している。この勅令に基づいて、国外に亡命した高位聖職者が「在外ロシア正教会」を結成し、ロシア正教会とは別個の教会運営を亡命ロシア人社会で展開した。在外ロシア正教会は、2007年にロシア正教会と再合同を果たした。
★16 Заявление Пресс-службы Симферопольской и Крымской Епархии// Крымская Митрополия. 31 мая 2022. https://crimea-eparhia.ru/59-events/23179-8965094657687890
★17 Журнал Священного синода от 29 мая 2022 года. (Журнал № 56) // Официальный сайт Московского патриархата. http://www.patriarchia.ru/db/text/5931468.html
★18 ただし、クリミアの主教区がウクライナ正教会に属することを否定するものではない。Журнал Священного синода от 7 июня 2022 года. (Журнал № 59)// Официальный сайт Московского патриархата. http://www.patriarchia.ru/db/text/5934527.html
★19 Митрополит Фіралет (Кучеров): «В Україні більше немає УПЦ Московського патріархату»// Духовна велич Львова. 3 червня 2022. https://velychlviv.com/mytropolyt-filaret-kucherov-v-ukrayini-bilshe-nemaye-upts-moskovskogo-patriarhatu/
★20 Що відбулося із УПЦ МП? Інтерв’ю з митрополитом Філаретом// Твоє Місто https://tvoemisto.tv/exclusive/tse_ne_gra_sliv_my_rozirvaly_z_moskvoyu_rozmova_z_mytropolytom_filaretom_upts_lvivskym_i_galytskym_133159.html
★21 У м. Стрий священика Львівської єпархії УПЦ облили зеленкою під час Литургії/// Українська Православні Церква. 22. травня 2022. https://news.church.ua/2022/05/22/u-m-strij-svyashhenika-lvivskoji-jeparxiji-upc-oblili-zelenkoyu-pid-chas-liturgiji/
★22 リヴィウ府主教フィラレートは、ウクライナ正教会に対する違法行為の数々について、これらの機関に対して2022年5月6日に公開書簡を発表している(URL=https://www.facebook.com/metropolitanfilaret/posts/432304742233592)。
★23 У Франківську останній храм Московського Патріархату перейшов до ПЦУ// RISU. 26 червня 2022. https://risu.ua/u-frankivsku-ostannij-hram-moskovskogo-patriarhatu-perejshov-do-pcu_n130428
★24 Громада УПЦ МП вимагає притягти до відповідальності голову Івано-Франківської ОВА і міського очільника Марцінківа// RISU. 2 липня 2022 https://risu.ua/gromada-upc-mp-vimagaye-prityagti-do-vidpovidalnosti-golovu-ivano-frankivskoyi-ova-i-miskogo-ochilnika-marcinkiva_n130584
★25 Митрополит УПЦ МП із Франківська поїхав у Москву молитися з Патріархом Кирилом // RISU. 23. 07. 2022.
★26 Хто проти ПЦУ? СБУ та РПЦ! Разом // LB.ua. 15. 09. 2022. https://lb.ua/blog/sonya_koshkina/529549_hto_proti_ptsu_sbu_rpts_razom.html
★27 Заместителя главы СБУ Киевщины отстранили за вмешательство в процесс перехода общины в ПЦУ// УКРИНФОРМ. 16. 09. 2022. https://www.ukrinform.ru/rubric-society/3573215-zamestitela-glavy-sbu-kievsiny-otstranili-za-vmesatelstvo-v-process-perehoda-obsin-v-pcu-smi.html
★28 Митрополит УПЦ МП із Франківська поїхав у Москву молитися з Патріархом Кирилом // RISU. 23 липня 2022. https://risu.ua/mitropolit-upc-mp-iz-frankivska-poyihiv-u-moskvi-molivsya-z-patriarhom-kirilom_n131082
★29 https://lb.ua/society/2022/10/01/531207_pid_chas_ogoloshennya_nezakonnoi.html
★30 イオナファン府主教の反論(URL=https://tulchin-eparchia.org.ua/oproverzhenie-mitropolita-tulchinskogo-i-braczlavskogo-ionafana-eleczkih-upravlyayushhego-tulchinskoj-eparhii-upcz-publikaczij-v-smi-kasayushhihsya-obyskov-po-fakticheskomu-mestu-moego-prozhivaniy/)。
★31 Хто проти ПЦУ? СБУ та РПЦ! Разом // LB.ua. 15 вересня 2022. https://lb.ua/blog/sonya_koshkina/529549_hto_proti_ptsu_sbu_rpts_razom.html
★32 動画は新正教会の聖職者がFacebookに投稿したもので、会衆は「鐘の音が響き渡る、響き渡るロシアの上に。母なるルーシが目覚めんとす」と歌っている。ただし、これは合成であるという主張もあり、その真偽については慎重な検討を要する。最初の投稿動画は削除されているが、ニュースサイトなど(例えば★33)で閲覧可能である。
★33 В поисках «ячейки русского мира». СБУ пришла с обысками в Киево-Печерскую лавру. // BBC news. 22. ноября 2022. https://www.bbc.com/russian/news-63715838
★34 В поисках «ячейки русского мира». СБУ пришла с обысками в Киево-Печерскую лавру. // BBC news, 22. 11. 2022. https://www.bbc.com/russian/news-63715838
★35 «Бога не виявлено»: як українці реагують на обшук СБУ у Києво-Печерський Лаврі// Життя. Українська правда. 22 листопада 2022. https://life.pravda.com.ua/society/2022/11/22/251452/
★36 Заява священного Синоду УПЦ від 23 листопада 2022 року// Українська Православна Церква. https://news.church.ua/2022/11/23/zayava-svyashhennogo-sinodu-ukrajinskoji-pravoslavnoji-cerkvi-vid-23-listopada-2022-roku/
★37 Підсумки Священного Синоду УПЦ від 23 листопада 2022 року// Українська Православна Церква. https://news.church.ua/2022/11/23/pidsumki-svyashhennogo-sinodu-ukrajinskoji-pravoslavnoji-cerkvi-vid-23-listopada-2022-roku-video/
 
第2回

高橋沙奈美

九州大学人間環境学研究院。主な専門は、第二次世界大戦後のロシア・ウクライナの正教。宗教的景観の保護、宗教文化財と博物館、聖人崇敬、正教会の国際関係、最近ではウクライナの教会独立問題など、正教会に関わる文化的事象に広く関心を持つ。著書に『ソヴィエト・ロシアの聖なる景観 社会主義体制下の宗教文化財、ツーリズム、ナショナリズム』(北海道出版会)、共著に『ロシア正教古儀式派の歴史と文化』(明石書店)、『ユーラシア地域大国の文化表象』(ミネルヴァ書房)など。
    コメントを残すにはログインしてください。