アラブの春10年、喧噪のカイロより(3)政変はひとを幸せにしたか──モスクワ、そしてカイロ|真野森作

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ゲンロンα 2021年11月12日配信
第1回
第2回
 
 春のエジプトで繰り広げられた二つのイベント、国家の威信を賭けたスエズ運河の再開とミイラのパレードでシシ大統領が主役を張った。重要な脇役はエジプト軍だった。戦略的要所であるスエズ運河は海軍の強い影響下にあり、運河庁の幹部はほとんど軍出身者らしい。また、ミイラのパレードでも特別輸送車は軍のトラックを改造したもので、礼砲も打ち鳴らされた。軍の存在感がしっかりと感じられた。

 私はふと、モスクワ特派員だった数年前に見たロシアの軍事パレードを思い出した。こちらもパレードを見守るプーチン大統領が主役だった。エジプトだろうがロシアだろうが、国民に選ばれた国家指導者=大統領が前面に出るのは当たり前という見方もあるだろう。ただ、特にエジプトの場合、「アラブの春」からの経緯を考えると、そうやすやす「民選のトップ」と言い切れないのが現実だ。ロシアとも共通する権威主義的な政権のあり方や、軍の影響力の大きさといったエジプトの姿が、二つのイベントに反映されていたように私には思えた。

 



「アラブの春」についてもう少し触れておきたい。2011年に中東各国で起きた民主化要求運動のことだ。小国チュニジアを皮切りに、リビア、エジプト、シリアと飛び火し、圧政に不満を抱く若者たちのデモが独裁政権を次々倒していった。あれから丸10年がたった。シリアのアサド政権だけはイランとロシアの支えを得て生き残っている。

 ここエジプトはやや複雑な経緯をたどった。ムバラク独裁政権が倒されたのち、草の根の支持基盤を誇るイスラム組織「ムスリム同胞団」出身のモルシ氏が12年の大統領選挙で当選した。ところが、宗教勢力による支配を嫌う都市部リベラル層などの反発を招き、再び13年に大規模デモが始まる。その動きに乗じて、軍による事実上のクーデターが起きた。こうして国防相だった軍出身のシシ政権が誕生し、今に至る。エジプトの毎日はおおむね平穏だ。お上に逆らわない限りは。同胞団は「テロ組織」扱いされるようになり、今でも関係者の摘発は続く。

 率直に言って、私が担当する中東・北アフリカ諸国に欧米基準の「民主主義国」はほぼ存在しない。「アラブの春」を経験した国々は英仏列強の植民地支配を経て、20世紀に独立した。その後、数十年にわたって独裁政権が続き、歴史上一度も民主的な社会を経験してこなかった。そして起きた「アラブの春」は、独裁政権の圧政と腐敗、高学歴でも適職に恵まれない若年層の不満など、やむにやまれぬ状況下における自然発生的なものだった。それゆえに、独裁を倒した後の展望は明確ではなく、混乱に陥った。
 イスラムという宗教が根付いたこの地域の風土に民主制は合わないのか、それとも単に経験が浅いだけなのか。国によっては宗派や部族という断層がより政治を難しくしている。古代ローマ時代に誕生した独裁は善政となる可能性はある。ただ、悪政になったときに容易に指導者をすげ替えられないのが最大の欠点だ。

「アラブの春」10年の取材では、エジプトでのデモに大学生として参加した30歳の女性ヌーランさんに話を聞いた。彼女は「私は大きな夢を抱くのはやめました」と失望を打ち明ける一方、「地方自治レベルの政治を民主的にしていくことで、政治を少しずつ変えていけるのではないか」と話した。歴史を急転換させることは難しいし、危険でもあるだろう。大規模デモの時代がいったんエジプトを去った今、地道な方法の模索が大切なのだろう。小さな苗に水をやるように。

 
街頭に掲げられたエジプト下院選立候補者の横断幕=カイロで2020年10月1日撮影

 
温暖な気候で成長した巨大な街路樹=カイロで2021年2月5日撮影

 
◇   ◇   ◇
 
「ところでね、私はエジプト人ではないんですよ」。今年8月のある日、行きつけとなった近所の「ハバナ理髪店」で散髪中、はさみを握った理髪師の男性がさりげない口調でそう言った。いつも派手な黒系のアロハシャツを着て、口ひげと顎ひげを整え、黒髪をびしっとオールバックに決めている。穏やかな笑顔が印象的だ。確かに言われてみると、平均的なエジプト人より顔の彫りが深い。「私はシリア人。故郷はダマスカスです」。カイロへはいつから? 「17年のことです。向こうは状況が悪くてとても帰れない」。調髪が仕上がったのでそれ以上深い話はしなかったが、内戦のシリアから来てこの店に落ち着くまでには相当の苦労があったろう。「アラブの春」をきっかけに始まったシリア内戦では、アサド政権が首都を含む国土の大部分で支配を回復させている。帰れないのは彼なりの事情があるに違いない。

 



 カイロはある意味でモスクワに似ている。それは周辺各国の人々が数多く住んでいるという点だ。モスクワの場合は、ちょうど30年前に崩壊したソビエト連邦の首都だった歴史がある。傘下15共和国にとっての首都だったため、旧ソ連構成国の人々が今でもモスクワには少なからずいる。これは自然な話だ。中でも多く見かけるのは中央アジア諸国から出稼ぎに来た男性たちだ。建設工事現場や路上清掃などいわゆる「3K」仕事を担っている。駐在する外国人にとってありがたいのは、旧ソ連諸国の料理店もモスクワには数多いことだった。ロシア料理も悪くないが、スパイスが効いた中央アジア料理やジョージア(グルジア)料理は日本人の口に合う味だ。

 カイロの場合はもちろん、ソ連の首都だったモスクワとは事情が異なる。それでも、エジプトは人口1億人を擁するアラブ随一の大国。いかにサウジアラビアなど湾岸アラブ諸国が資源エネルギーの富できらびやかになろうとも、エジプトにはそれに負けない蓄積がある。その一つは、名門カイロ大学をはじめとする高等教育機関の多さだ。特に有名なのが、イスラム教スンニ派の最高権威機関「アズハル」とその付属大学である。イスラム法などを研究するため、スンニ派の各国留学生たちがやって来る。中東諸国のみならず、アフガニスタンや東南アジア、さらには中国からの学生も少なからずいるようだ。そのため、大学方面には本格中華料理店が集中するエリアもある。カイロ中心部ではちょっと食べられない、手打ち麺と澄んだスープの牛肉ラーメンには舌鼓を打った。誠にありがたい。

 



 カイロは長らくアラブ圏の中心都市として栄えてきたからだろう、各国出身者が集住するエリアが複数ある。そこには当該国の料理店が多い。例えばイエメン料理店がいくつも並ぶ地区などが思い当たる。移住の理由はさまざまなようだ。出稼ぎ目的の人もいるし、こうして同胞が暮らす地域にはそれを頼って本国から逃れてきた人々もいる。

 私はこれまでに、カイロで暮らすイエメン人とアフガニスタン人に話を聞いた。いずれも本国には帰る見通しが立たない、事実上の難民だ。アラビア半島南部のイエメンはかつて「幸福のアラビア」と呼ばれた。豊かな農地と交易港がそろい、3000メートル級の高い山々もそびえる。紀元前にはシバ王国が栄えた。その国が今、長引く内戦に苦しんでいる。こちらもきっかけは「アラブの春」だった。

 インタビューをお願いして支局へ来てくれたイエメン人の元記者の男性ハムダン・ナセルさん(39)は民族衣装に身を包んでいた。白い詰め襟の長衣、肩にかけた茶色のストール、装飾が施された腰帯の正面には「ジャンビア」という太い短剣を差している。日常用はプラスチック製のいわば竹光だが、祭りの際などには真剣を帯びるそうだ。民族性と誇りの象徴という。首都サヌアなど広域を支配する親イラン武装勢力「フーシ派」の迫害から逃れた際、この衣装一式も忘れず持ち出した。なぜ? 「子供に自分の文化を教えるためです」。

 口を開くとお国自慢が次々飛び出した。「文明は水のあるところに生まれると言います。イエメンでは古代からダムに水をためていた。アラビア語発祥の地との説もあります」。シバの古代遺跡、サヌア旧市街に林立する中世の高層建築、名物の羊料理やモカ・コーヒー豆、変わった形の木が生えるソコトラ島、そして生まれ故郷の山──。スマートフォンの写真アルバムから山岳地帯の絶景を見せてくれた。カイロへ移って3年がたち、三人娘と妻との暮らしは一応安定した。けれど、「故郷の人も市場も気候も、土ぼこりさえもが恋しい。いつか戦争が終わったら帰りたい」と静かに言った。

 砂ぼこり舞うカイロで、故郷の土ぼこりを恋しく思う人たちがいる。(了)

 
国を逃れたイエメン人の元記者、ハムダン・ナセルさん。民族衣装を身につけている=カイロで2021年3月15日撮影

 
イエメン料理店で出された名物の羊料理=カイロで2021年1月24日撮影

 
撮影=真野森作
 

真野森作

1979年、東京都生まれ。毎日新聞外信部・副部長。一橋大学法学部卒業。2001年、毎日新聞入社。北海道報道部、東京社会部、外信部、ロシア語学留学を経て、13-17年にモスクワ特派員。大阪経済部記者などを経て、20年4月-23年3月にカイロ特派員。単著に『ルポ プーチンの戦争──「皇帝」はなぜウクライナを狙ったのか』(筑摩選書、18年)、『ポスト・プーチン論序説 「チェチェン化」するロシア』(東洋書店新社、21年)、『ルポ プーチンの破滅戦争──ロシアによるウクライナ侵略の記録』(ちくま新書、23年)がある。
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