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    アウトサイダーとして近代に迫る──大澤真幸×山本貴光×吉川浩満「〈われわれの時代〉を読み解く」イベントレポート

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    ゲンロンα 2021年10月12日配信
     2021年の5月と6月に、大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇』が二分冊として刊行された。「〈世界史〉の哲学」は2009年より『群像』で連載されており、これまでに『古代篇』『中世篇』『東洋篇』『イスラーム篇』『近世篇』の5冊の単行本としてまとめられている。本イベントは、4年ぶりの単行本化となる『近代篇』の刊行を記念して行なわれた鼎談である。

     

     イベントが本題に入る前に、『近代篇』2冊だけで1000ページを超える「〈世界史〉の哲学」の大部ぶりがまず話題に上がった。大澤は「『ねじまき鳥クロニクル』と同じようなもので、分量のわりには読みやすいはず」と笑う。たしかに大澤の本は本格的な内容にもかかわらず読みやすい。 

     山本はその理由を次のように分析する。大澤の本では、まず謎が提示され、その後に一見なるほどと思われるような「擬似解答」が与えられる。しかし、すぐに解答への疑義が鋭く差し挟まれ、そのような解答が流通する社会自体が分析の対象となっていく。どんでん返しに次ぐどんでん返しで探求が深められていくから、面白く読めてしまうのだ、と。 

     このイベントはそんな大澤の哲学の、恰好の手引きとなるものだった。「大澤さんの本については、大澤さんの解説が一番わかりやすい」と吉川が指摘するとおり、『近代篇』の核となる言説や概念について、具体例をふんだんに交えながら、大澤自らわかりやすく解説をするものとなっている。 

     なお、『近代篇』の手引きとしては、本イベントに加え、『群像』2021年10月号に掲載されている吉川の書評「後ろ向きの予言書『〈世界史〉の哲学 近代篇』を読む」を読むとより理解が深まる。併読をお薦めしたい。



     
      

     

    近代/資本主義を考える


     それでは具体的に鼎談の模様を見ていこう。このイベントは「〈われわれの時代〉を読み解く」と題されている。では、〈われわれの時代〉とはいったいどの範囲を指すのか──議論はそこから始まった。 

     大澤は、現代社会を構成する主要な要素の大半は近代に登場しており、したがって近代を読み解くことが〈われわれの時代〉を読み解くことに繋がると言う。英語では近代も現代もmodernの一語で表されるように、現代は広い意味での「近代」に含まれる。その意味で『近代篇』は「〈世界史〉の哲学」シリーズの中でも格別な地位にある。 

     それでは、近代とは何か。大澤によれば、それを明らかにするためには、何よりも資本主義について考えなければならない。「近代を考えることと、資本主義を考えることは、車の両輪のようなものだ」と彼は述べる。 

     そして大澤によれば、資本主義の本質を捉えるためには「資本主義は宗教である」という言葉の意味を正確に理解する必要がある。 

     資本と宗教は、一見対極にあるもののように思われるかもしれない。むしろ、資本主義の浸透によって失われた宗教的な精神性を取り戻さなくてはならない、と捉えられることの方が多いだろう。しかし、大澤は、全くもって字義どおりに「資本主義は宗教である」のだと言う。どういうことか。 

     資本主義の精神を如実に体現している人(つまり資本主義社会での成功者)がチャリティー活動を行う場合を考えてみよう。彼の批判者はふつう「彼は崇高なもののために活動しているように見せかけているが、本当の目的は金儲けだ」と考える。しかし、大澤はそれこそが「疑似解答」だと指摘する。ラカン派精神分析の理論によれば、最も隠したい欲望は、じつは最もあからさまなものにこそ宿るからだ。その理論に則れば、彼の真の目的は、むしろ「崇高なもの」の側にある。それはすなわち、神である。資本主義の体現者にとっては、資本そのものが神の域に昇格しているのだ。ここで重要なのは、神が金に成り下がっているのではなく、金が神の域に達しているというベクトルを正しく把握することにある。資本主義とはつまり、資本という神を中心に据える一神教の宗教体系だったのだ。 

     ここでは大幅に端折って紹介したが、実際の議論はウェーバーやベンヤミン、マルクスの言説を発展させながら進んだ。刺激的なその流れを知りたい方は、『近代篇1』の第5章「資本主義の猥雑な精神」をお読みいただきたい。



     
      

     

    アウトサイダーならではの思考法


     現代は近代資本主義がグローバルに浸透した時代であり、その本質は一神教であることがわかった。議論はそこから、日本人が一神教について思考することの意味へと進んだ。それは「アウトサイダー」として思考することにほかならない。 

     そのことにはもちろん不利な点もあるが、逆に有利な点もある。自分のことを自分が一番よくわかっているとは限らないのと同じで、アウトサイダーだからこそ物事がよく見えることが往々にしてあるからだ。 

     そのような思考の実践例として、大澤は自身がイマニュエル・ウォーラーステインの思想に触れたときの経験を紹介する。アウトサイダーであるがゆえに理論をそのまま受け取ることができず、「微妙な読み替え」をせざるを得なかったことが、結果的により深い探求へとつながったと言うのだ。 

     ウォーラーステインによると、世界には歴史上、政治的に統合された「世界帝国」と、政治的統合を伴わない「世界経済」という二種類のシステムが存在してきた。近代以前、世界経済は世界帝国へ変貌するか、そうなる前に消滅するかのいずれかであった。だが近代以降は、帝国に変貌しないまま存続する「近代世界システム」が存在している。これがウォーラーステインの「世界システム論」の大枠である。 

     しかし大澤は、世界システムが二種類あるという前提がおかしいのではと疑問を挟む。つまり、世界システムの標準型は、かつていくらでも存在した世界帝国ただひとつであり、世界経済は近代以降にのみ存在する、例外なのではないか。 

     この「微妙な読み替え」によって、「世界経済というシステムが近代に成立したのはなぜか?」という問いが立ってくる。そしてこの問いから、「金=神」の図式も見えてくる。「このような思考は、近代世界経済システムの周辺にいて、一神教が当たり前でないぼくらだからこそできる」。一見すると不利なアウトサイダーの立場は、哲学の読み替えを行なうためのポジティブな条件でもあるのだ。

    擬似環境の壁を突き破る


     このような大澤の姿勢を山本は、「擬似環境の壁を突き破った裏側の世界を見せてくれる」と表現した。「擬似環境」とは、100年ほど前にアメリカのジャーナリスト、ウォルター・リップマンが書いた『世論』に出てくる言葉だ。人は、複雑かつ時々刻々と変化する世界をそっくり把握することなどできないため、誰もが頭の中に「擬似環境」を持っていて、世界について勝手な解釈をしている。その擬似環境を突き破るような近代の世界の見方を提示するのが、大澤の思考の魅力だと言うのだ。 

     この表現を受けて大澤は、「いまはみんなが信じられる擬似環境が減ってしまい、しかもその代わりにいい擬似環境がたくさんできたわけでもなく、お粗末な擬似環境ばかりが林立している」と現代社会を概括する。学問の世界でもちまちました実証研究が流行りで、包括的・抽象的な理論はなかなか受けない。それでも世界の全体像を捉えようとする理論化の努力を怠ってはいけないという大澤の言葉は、視聴者の胸に響くものだった。 

      

     
     

    キーワードは具体的普遍


     イベントの後半は、吉川が提示した「具体的普遍」というキーワードをめぐり、議論が縦横に展開された。「具体的普遍」とは具体性の中にこそ普遍への契機が含まれているとするヘーゲルの概念で、「〈世界史〉の哲学」全体を貫くキーワードであると同時に、大澤の思考の特性を捉えるキーワードにもなっている。 

     大澤はラッセルのパラドックスを取り上げてこの概念を説明する(と同時にラッセルのパラドックス自体も再解釈している。これについては『群像』2021年10月号掲載の「〈世界史〉の哲学 現代篇11」を参照いただきたい)。 

     ラッセルのパラドックスとは、自分自身を要素に含む集合を定義した瞬間に、集合論自体が破綻してしまうことを示したものだ。X={a, b, … , X} と表せるこの集合では、Xは要素(具体)でもあり、集合全体(普遍)にもなってしまう。 

     実例として挙げられたのが、サッカーにおけるオフサイドだ。ボールを前に運ぶことを目的とするサッカーにおいて、前方へのパスを禁止するオフサイドは、違和感のある反則である。大澤によれば、それはサッカー本来の使命に反したルールであり、サッカーの理念が完全に現実化することを阻んでいる。それに対し、アメフトにはオフサイドがない。言い換えれば、むしろアメフトこそがサッカーの概念を完璧に現実化している。サッカーの理念がゲームの要素のなかに完全に体現されたとき、サッカーというゲーム全体は破綻し、別のゲームへと姿を変えてしまったのだ。 

     このサッカー/アメフトの話は、資本主義的精神の寓話でもある。サッカーにオフサイドのルールがなぜ設けられたのか、そこにどのような精神の反映が見られるのか、また、オフサイドのルールを排したアメフトによって、資本主義がいかに転回されるのか──さらに踏み込んで知りたい方は、ぜひ『近代篇1』の第6章「黙示録的ゲーム」を併せて読んでみてほしい。

    ドストエフスキーから資本主義の終焉まで


     その後話題は、『近代篇2』のメインテーマであるドストエフスキーへ移った。イベントでは時間の都合上駆け足になってしまったが、ここもまた大澤の熱い想いが十分に伝わる内容だった。『近代篇2』でドストエフスキーが論じられているのは、彼がほかでもない、「金」の問題と「神」の問題を扱った作家だからである。そこから近代/資本主義を考えるのが大澤の狙いだ。 

     同書の第4章では、『カラマーゾフの兄弟』の脇筋にある、ジューチカという犬をめぐるエピソードに光が当てられている。飼い主の悪戯により消えてしまったジューチカと、代わって現れたペレズヴォンは果たして同じ犬なのか──『カラマーゾフの兄弟』でこの問題が最大の関心事だという吉川は、その読解こそ『近代篇2』の大きな山のひとつだと紹介する。大澤がこのエピソードを取り上げたのは、この小さな話に小説全体のテーマが凝縮されているからだという。これもまた「具体的普遍」の実例だろう。 

      

     
      

     最後の30分、質疑応答のコーナーでは、コロナ禍の話に始まり、〈われわれの時代〉の終わり、すなわち資本主義の終焉にまで話が及んだ。ここではその全貌を紹介することはできないが、やはり私たちの脳内の「擬似環境」を突き破るような鋭い議論が展開され、どきりとさせられた。 

     最初から最後まで、世界史という人間が考え得る最大の範囲について哲学する、知的興奮に満ちた2時間半だった。山本と吉川が大澤の思考の特殊性を様々な言論人を引き合いに出しながら明らかにしていくところも、本イベントの見どころのひとつだ。「試験では答える能力ばかりが問われるが、本当は問う能力の方が大事だ」と力説する大澤が、どのように問いを立てていくのか。その実践を是非とも堪能してほしい。(谷美里)



      
     シラスでは、2022年3月1日までアーカイブを公開中。ニコニコ生放送では、再放送の機会をお待ちください。
    大澤真幸×山本貴光×吉川浩満「<われわれの時代>を読み解く──『〈世界史〉の哲学 近代篇1』&『近代篇2』刊行記念」 
    (番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20210901/

     

    谷美里

    1984年生。慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程単位取得。ゲンロン佐々木敦批評再生塾第二期・三期修了生。学習塾経営の傍ら文筆活動を行う。旅の批評誌『LOCUST』編集部。
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