「ヒップホップの起源は、モンゴルなんだよ」──島村一平×吉田雅史(司会=福冨渉)「ヒップホップを飼いならす」イベントレポート
社会主義の終わり、ヒップホップの始まり
イベントは、島村の現代モンゴルの概況説明から始まった。
ベルリンの壁崩壊を受けて民主化運動が起こったモンゴルは、1992年に社会主義を放棄したことで、グローバル経済に組み込まれていく。市場経済の導入で失業者は増加し、貧富の差は拡大。石炭やレアアースといった豊富な地下資源を外国資本が握り経済発展を遂げる反面、開発による環境破壊が原因で食い詰めた遊牧民の多くが都市に流入し、ゲル地区と呼ばれるスラム街が形成される。都市のごく一部の人間だけが外資系企業と結びついて豊かになっており、経済格差はいまも広がり続ける。
首都のウランバートルでは世界最悪レベルの大気汚染も問題となっている。モンゴルは真冬になると氷点下30度以下まで冷え込むが、セントラルヒーティングが完備されているのは都市部の高層住宅のみ。ゲル地区の住民はストーブの燃料に石炭や安価な廃タイヤを使って厳寒をしのいでおり、これがCO2やダイオキシンの発生源となっている。「ディストピアレベル」の大気汚染[★1]に市民が苦しむ一方で、政治家や会社経営者は、汚染の少ない山麓に豪邸を構えて暮らしている。
島村によれば、90年代以降のこうした社会状況の中で、モンゴルのヒップホップシーンは誕生した。急速なグローバル化が引き起こした社会問題が、皮肉にもヒップホップが根付くのに打ってつけの土壌をモンゴルに用意したのである。
社会主義の崩壊によって西側諸国のポピュラーミュージックが大量に輸入されはじめ、1995年頃には2Pac(トゥーパック)やノトーリアス・B.I.G.といった、当時北米で活躍していたラッパーたちの楽曲が浸透していった。それらに影響を受けたモンゴルのアーティストたちが、モンゴル・ヒップホップを生み出した。メッセージ性の強い音楽ゆえに、愛を歌う娯楽として、また政治家を批判する武器として、徐々に若者たちに受容されていき、いまやモンゴルでもトップレベルの人気を誇る音楽ジャンルとなっている。
モンゴルは90年代に遊牧国家から鉱業国家へとシフトし、『ヒップホップ・モンゴリア』の舞台であるウランバートルは急速に都市化している。島村は現地で撮影した数多くの写真も紹介してくれた。ヒップホップにつきもののスクール間での派閥争いは、モンゴルでも起きている。裕福な都会派と貧しいゲル地区派が対立するその風景を、ぜひ本編動画で確認してほしい。
ラップの「発展」と「モンゴル化」
ゲル地区を震源地にスタートしたモンゴルのヒップホップ・シーンでは、ラブソング全盛期、ゲル地区派のギャングスタ・ラップの時代、そしてポップス路線への揺り戻しなどを経て、コロナ禍のいまふたたびポリティカルなラッパーたちが注目を集めているという。YouTubeにアップロードされている国内アーティストのMVは、再生回数が数百万回を超えるものも珍しくない。人口330万人ほどの国としては驚くべき数字だ。ラップ熱の高さがうかがえる。
ここで島村は、モンゴルラップのオリジネーター、MCIT(エムシット)を紹介した。MCITはゲル地区派を代表するラッパー、プロデューサーで、社会的なメッセージ性の強いコンシャスラップを発信するダイン・バ・エンヘ(戦争と平和)というクルーを結成した。彼らの代表曲のひとつが、2Pacの影響を受けてMCITが作った「大統領への手紙」(2000年頃)である。
MCITはこの曲で、貧富の格差が拡大するゲル地区で空腹や大気汚染で苦しんでいる市民たちをよそに、自分たちの名誉を守るばかりで何もしない政治家たちを痛烈に批判している。あまりに苛烈なリリックから、放送禁止の処分を受けたほど。90年代後半からゼロ年代初頭のモンゴルの状況を活写した楽曲の訳詩と解説は、本編動画および島村の著書を参照いただきたい。
彼らのライミングに注目すると、句や語の頭で韻を踏んでいることがわかる。すなわち頭韻法だ。ヒップホップ・ミュージックでは本来は脚韻が一般的なのだが、これはモンゴルの口承文芸などに見られる伝統的な技法だ。頭韻文化は記憶術の一種として、ことわざ、早口ことば、けんか歌、英雄叙事詩、シャーマンの召喚歌から現代詩まで、さまざまなところに継承されている。遊牧民の文化圏では、書き残した記録よりも口伝が重視されたからだ。
島村は言う。オリジナルの音楽スタイルを、自分たちの文化にあわせて改変していくのがモンゴル・ヒップホップシーン最大の特徴だと。これは「発展」と「モンゴル化」という二つの概念で整理される。
モンゴルにおける「発展(フグジル)」とは、社会主義時代に目指された自国文化の西洋化のことを意味する。具体的な例として、オーケストラなどの西洋音階の中で演奏できるように馬頭琴が改良されたことや、民族舞踊にバレエの特徴が取り入れられたことがあげられる。モンゴルが旧ソ連の衛星国だった頃の発展史観は、そのまま現在にも影響している。
もうひとつの概念「モンゴル化(モンゴルチロホ)」は、ヒップホップに限らずモンゴル人がよく使う言葉で、外来の技術や文化を改変し、「飼いならそう」とする発想を指す。これはレヴィ゠ストロースのいう、ありあわせのものを用いて必要なものを作る「ブリコラージュ」に近い。MCITがラップソングに頭韻を採用したのも「モンゴル化」と呼べる。だが伝統を取り入れることは必要条件ではなく、あくまで、モンゴル人自身が主体性を発揮していることが重視される。
これを受けて吉田は、ありもののレコードやターンテーブルを使ってアメリカで始まったヒップホップの思想は、モンゴルには受け入れやすいものだったのではないかと指摘した。
こうした「発展」や「モンゴル化」をつきつめたひとつの完成形として、島村はフィメール・ラッパーNMNによる「火花Tsalhilbaa」(2016)を紹介する。馬頭琴などの楽器演奏をウワモノにしたチルなビートの上で、NMNの抑制的なラップが美しく重なる。伝統文化を「発展」させ、「モンゴル化」したヒップホップと組み合わせた、モンゴル人の美学が結実した一曲だ。
「ヒップホップの起源は、モンゴルなんだよ」という、やや挑発的なレポートタイトルは、『ヒップホップ・モンゴリア』の冒頭から引用している[★2]。ヒップホップ発祥の地がアメリカ合衆国ニューヨーク市のサウスブロンクスであることは、誰もが認めるところだ。だがモンゴルのラップの独自性を考えれば、この言葉にもうなずけるところがないだろうか。
日本語ラップの「飼いならし」
では日本のラッパーたちは、USのヒップホップをいかに「飼いならして」きたのだろうか。イベント後半では、吉田がまず、日本のアメリカとの距離をモンゴルのそれと比較して説明した。
モンゴルにとってアメリカとの距離感は大きい。90年代の民主化以前に西側の音楽をカセットテープで密輸入していたのは、ソ連や東ヨーロッパに留学していた人民革命党のエリートたちだった。いまもアメリカに留学できるのは、コネクションをもつ裕福な若者に限られる。ゲル地区派の貧しい若者にとっては、アメリカンカルチャーは端的にあこがれの対象だ。こうした距離の遠さが、西洋化による「発展」や輸入文化の「モンゴル化」をうながし、独自のヒップホップ・カルチャーが築かれた。
一方で、アメリカとの距離が小さい日本のラッパーたちは、アメリカの「51番目の州」として本場のヒップホップを目指そうとする欲望と、日本ならではの表現を開拓したいという欲望の狭間で、日本語ラップを発展させてきたという。ここで吉田は現行の日本語ラップシーンから、アメリカのヒップホップのトレンドを取り込むクルーとしてBAD HOP、日本の歌謡・童謡などの影響から独自の日本語ラップを創作しているラッパーとしてTohjiをあげた。
特に80年代からゼロ年代にかけての日本語ラップ黎明期から定着期のラッパーたちは、USヒップホップを「ホンモノ」として同質化を図った世代だ。そこに「飼いならし」と呼べる改変はあまり見られない。とはいえ日本のラッパーたちは、アメリカのヒップホップの「飼いならし」を放棄してきたわけでもなかった。吉田は日本語ラップの韻律に注目する。
英語やモンゴル語は子音で終わる音節(閉音節)が多く、結果的に一定のリズム内に詰め込まれる言葉の密度が高くなり、スピーディにラップをすることができる。さらに単語の発音に強弱のアクセントがあるため、アクセントを使い分けてラップのリズムをつくることができる。合わせてモンゴルの頭韻文化は、パーカッシブなラップを可能にする。
それに比べて日本語は母音で終わる音節(開音節)がほとんどだ。そのためラップのスピード感を出しにくく、間延びしやすい。また、強弱のアクセントではなく、音の高低のアクセントや文字数で押韻とリズムを形成しなければならない。これらのハンディをいかに脱却するかの過程で、「日本語ラップ語」への改革ともいえる、韻律の変化が起こった。
吉田はLAMP EYE『証言』(1996)のZeebraのヴァースと、SEEDA『Tokyo』(2006)の冒頭部分のヴァース(1小節)を16分割した表を使い、両者の譜割を比較した。
1996年のZeebraのラップは、16分割された小節のなかに、パズルのように1文字ずつマッピングをしている。また一部をのぞいて高低アクセントでシンプルな押韻を形成している。
かたや『証言』から10年後のSEEDAは、英語に寄せた発音や長音アクセントを多用し、US的なラップになお接近している。また、日本語をリエゾンさせることで譜割の効率もいい。こうした韻律の工夫はより近年のBAD HOPなどのアーティストにも受け継がれており、長いスパンをかけて「飼いならし」が行われてきた。
この吉田による分析に対して島村からは「声の出し方」について、ラッパーの紅桜による演歌のようにこぶしの効いたフローも新しいのではないかと意見があがった。日本語ラップシーンにも、韻律や発声、歌詞の観点でまだまだ「飼いならし」の可能性が潤沢にあると感じられる議論となった。
今回のトークはモンゴルのヒップホップシーンと、日本語ラップにおける「飼いならし」の系譜について、多くの発見をもたらしてくれた。90年代以降のモンゴルに長期滞在していた島村の話は、モンゴルのラッパーたちのストーリーを何よりも詳細に伝えてくれ、司会の福冨が交流するタイのラッパーたちとの比較など、次回以降のイベントへの期待も高まる。
吉田も絶賛した島村の『ヒップホップ・モンゴリア』は、USのヒップホップ・カルチャーが世界にばらまいた種の、ひとつの成功例を示すだけではなく、日本語ラップシーンの発展を客観的に見つめなおす資料としても一読の価値がある。同書のブックガイドとしても、本イベントは必見だ。
なお、今回吉田がプレゼンした内容は、現在ゲンロンで書籍化が進んでいる『アンビバレント・ヒップホップ』に収録予定だ。こちらもご期待いただきたい。(宮田翔平)
シラスでは、2022年1月13日までアーカイブを公開中。ニコニコ生放送では、再放送の機会をお待ちください。
島村一平×吉田雅史 司会=福冨渉「ヒップホップを飼いならす――現代モンゴル、ラップの韻とビートと空間」 (番組URL= https://genron-cafe.jp/event/20210716/)