からだにきくことばにふれる──伊藤亜紗×宮地尚子「『触れる』にふれる」イベントレポート
伊藤は学部生時代に文転した経歴を持ち、美学を専門とする現在もさまざまなフィールドワークをとおして身体について研究している。宮地は精神科医として診療活動を行いながら医療人類学を研究し、社会学系の大学院で教えている。「学問のクレオール」(宮地)を生きるなかでともに触覚と身体の問題に立ち返ったふたり。対談でとくに印象的だったのは、意外にもお互いがそれぞれの著書における「ことば」のありかたにふれるシーンだった。触覚はどのようにして他者や心と関係するのか、そしてそのなかでことばの占める位置とは──。(ゲンロン編集部)
動詞の吟味から始まる探求
ふたりはお互いの本を読んで、まずその類似性に驚いたという。共通点は触覚や身体がテーマになっていることだけではない。本の冒頭で触覚にまつわる動詞がならぶところまで似ているのだ。
伊藤の『手の倫理』は、「①さわる/②ふれる」(3頁)の対比を考えることからはじまる。「さわる」のもつニュアンスは「一方的/もの的」であり、「ふれる」には「相互的/人間的」なニュアンスがある。
宮地の『トラウマにふれる』は冒頭で「ふれる」ということばのもつ多義的なニュアンスを味わうことからはじまる。「トラウマにふれる。触れる。振れる。震れる。降れる。狂れる。/触れる。ふれる。ゆれる。ぶれる。ずれる。」(ⅲ頁)と、宮地はことばをならべてゆく。
『手の倫理』で「ふれる」的なコミュニケーションの可能性を示すものとして挙げられるのは、視覚障害者の伴走だ。視覚に障害をもつひとは長距離走などを走るさい、輪っか状にしたロープを介して目が見える伴走者と手をつないで一緒に走る。それを追体験するために目隠しをして伴走者とともに走ったとき、伊藤はこれまでに味わったことのない快感を覚えたという。それは、最初の恐怖の数分間をへて伴走者に自分の身体の安全をゆだねる快感である。そして、相手に自らの身体をあずけるときにこそ、相手の心身の情報もこちらに入ってくる。他者の行動の不確実性を自覚しつつもそれに賭ける「信頼」には、不確実性を管理することで生まれる「安心」にはない人間関係の可能性がひろがっている。
しかし一方で、伊藤は「ふれる」をただ礼賛したいわけではないともいう。「さわる」(管理)や「ふれる」(出会い)の先に、事故=自らの想像を超えるものとの深い接触としての「さわる」があるのではないか(その事例についてはぜひ、イベント動画を確認してほしい)。このような「さわる/ふれる」のダイナミズムから、個別具体的な悩みや迷いとして立ち現れる「倫理」(≠一般論としての「道徳」)について考えたのが『手の倫理』だと伊藤はいう。
『トラウマにふれる』は、宮地がここ20年ほどのあいだに書いた論文やエッセイの集成だ。性暴力、DV、薬物依存、被災者女性の性産業従事、摂食障害、男性の性被害といった重いテーマがトラウマとの関係で論じられるなかで、この著作を貫いているのは身体への注目である。全体への序論としても読める第Ⅰ部では、触覚が全身に遍在する感覚であることの重要性や、味覚や嗅覚もトラウマと深くかかわることが論じられる。
トラウマは比喩的に「心の傷」にたとえられるが、じっさいの身体にもおおきな影響を与え、痕跡を残す。トラウマ記憶のトリガーが身体感覚のなかに刻まれることも多い。たとえば、震災の被災者のトラウマはしばしば振動覚で記憶される。そのため、乗っている車が大きくゆれたときにフラッシュバックが起こるというケースもある。身体への注目は、現在のトラウマ治療の潮流のなかでも高まってきていると宮地はいう。
からだにきくことば
伊藤は、宮地の文体がもつ「ドキッとさせる」ちからに注目する。例として挙げられたのは、宮地が2007年に上梓した『環状島=トラウマの地政学』のなかの文章だ。
補足しておくと、「環状島」とは、トラウマについて語ることのむずかしさを宮地が形象化したモデルのことだ(新著でも薬物依存を扱った章などで言及されている)。トラウマは、被害が重ければ重いほどそれについて語ることができなくなるという中空構造をもつ。つまり、被害の中心には語りの不在=「内海」がひろがっている。だからこそ、そこからなんとか生き延びて「波打ち際」にたどり着いたひとや比較的被害の軽いひと、その周囲の支援者などが問題について語らなければならない。だが、その語りにはつねに「自分より大変なひとがいるのに」という自責の念がまとわりつくことになる。
伊藤が引用するのは、そんなトラウマ支援・研究の困難について書かれたある段落だ。
語れば語るほど「唇寒し」という思いに襲われる。周りからの批判が気になって、言葉を控える。批判を予測して防衛的になる。煩わしくなって支援活動から離れる。もっと気楽に扱えるトピックに研究テーマを替える。ストレスが少なくて、時間のかからない領域を自分の専門に選ぶ。そんなことがしばしば起きてしまう。あちこちで実際に起きている。(『環状島=トラウマの地政学』、4頁)
ここでの「ドキッとする」ポイントは、最後の「あちこちで実際に起きている」の文だ。そこまでは一般論が述べられている。しかし最後の文で、宮地はあきらかに具体的な顔を思い浮かべている。
この箇所で伊藤は具体的な人間の体温を感じ、さらにそのことで自分のいまここにある身体も呼び覚まされるように感じたという。それは支援をめぐる厳しい現状を突きつけられる文章体験であると同時に、「頭ではなく自分のからだで読んでいいんだ」と思わされる解放の体験でもある。このような箇所が宮地の文章には随所にあると伊藤はいう。
他方、宮地は伊藤の文章を「過不足がなく美しい」と評する。抽象的な哲学ではなく、身体の実感がこもったことばがそこにはある。宮地が『手の倫理』の印象的な箇所として挙げたのは、伊藤が聞き手となって引き出したある視覚障害者の女性のことばだ(伊藤の公式ホームページに掲載されている対談でも読むことができる)。
目の見えない彼女は、街なかで声をかけてくれるひとや介助を申し出てくれるひとにその場その場で頼ることが多い。介助を親に頼り切るのではなく、依存先を分散し自立して生きるために必要なことだ。彼女はその瞬間ごとの心情についてこう語っている。
声をかけてくれる人に委ねるときには、だまされる覚悟で委ねるんです。お金とられるかもしれないし、変なところに連れていかれるかもしれないし、晒されるかもしれない、そういうことを全部置いて信じるんだけど、そうなったとて自分が責任だと思ってやるから、ちっちゃなちっちゃなおおごとなんです。(『手の倫理』、104頁)
生きてゆくため、彼女はリスクを自覚したうえで見知らぬひとを刹那的に「信頼」(≠「安心」)する。上述の伴走体験とも響き合うような恐怖から信頼への思い切ったジャンプがそこにはある。
さらに、この話には続きがある。彼女が身につけた刹那的な信頼によるコミュニケーションは、ある副作用を生み出すことになってしまう。こんどは逆に、本来は依存してもよい相手である夫とのあいだに、長期的で深い信頼関係を築くのがむずかしくなってしまったというのだ。その困難をなんとか乗り越えてゆくまでの切なさ、弱さと強さの複雑な関係を伊藤が優しくギリギリのところで書いた文章に、宮地は感銘を受けたのだという。
伊藤と宮地がお互いのことばに共鳴するのは、ふたりがことばによってめざすものが近いからだろう。ふたりはともに、既存の哲学的な身体論に不満を感じた経験をもつという。伊藤が身体論のゴールとして念頭におくのは、言語的な体系を構築することではなく、からだになんらかの効果をもたらすことばの探索だ。宮地は、他者のことばによって自身が「耕される」という体験や、ふと浮かんだメタファーに導かれて「書かされる」体験について語った。
みなさんのからだは、ここまでに引かれたふたりの文章やことばにどう反応しただろうか? ここで紹介することができたのは対談で語られたことのほんの一部である。それでもここになにか感じるものがあれば、イベント動画全体やふたりの著書に直接あたって自らの「からだにきく」ことばを探してみてほしい。
もちろん対談では、ことばについてだけでなく、ストレートな身体論としても多くのことが語られた(接触を「学ぶ」ということ、ひとがいかに視覚にだまされて生きているか、「声」のもつちからなど)。それについても、詳細はぜひ動画で確認していただきたい。(住本賢一)
シラスでは、2021年6月10日までアーカイブを公開中(税込880円)。ニコニコ生放送では、今後の再放送の機会をお待ちください。